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ローカル線と行っても廃線問題で槍玉に上る鉄道ではなく、蒸気鉄道のローカル線は幹線へと旅客と貨物輸送をつなぐ大切な役割を担っていました。拠点間大量輸送の幹線に対して、全国の輸送体系に面の広がりを持たせたのがローカル線でした。 C56が貨物ホームに積車となった貨車を引取りに来ています。貨物ホームには丸太が山と積まれ山間の小駅にも地域産品が集められていた様子が分かります。駅を起点とした地域物流への貢献が蒸気鉄道の大きな役割であり、今は失われた鉄道輸送本来の姿でもありました。ゆったりと敷かれた駅構内の待避線や側線の数からも、地域輸送に対する鉄道の重要性が伝わります。 時は夏、高原野菜の出荷時期になりま…
気仙沼線を前谷地で分岐、石巻では石巻臨港線を分岐、女川駅から更に奥の女川臨港線ヘと、石巻線の貨物列車の運行はとても変化に富んでいました。鉄道輸送は面白いです。 小牛田駅を出発して田園地帯を進むC11牽引の貨物列車。小牛田駅出発時点では、気仙沼線の三陸方面と、石巻港、女川港方面の3方向への貨車が併結されて、C11としては目一杯の長編成です。シンガリの車掌車の中では、車掌さんが各駅での入換指図書を作るのに大忙しだったことでしょう。 陸前稲井は石巻から女川方面の最初の停車です。ここまで平野を抜けて来た列車は、山をトンネルで抜け、いよいよ海岸へと向います。 汽車の駅は子どもたちの遊び場でもありました。…
日豊本線ではC57が最後の活躍をしていました。九州の蒸気機関車は、良く磨かれていて、美しい機関車が多かったのでした。 乙線と区分された軸重14トン台の線区に向けて、C51型から改良を重ね、決定版として登場したC57型です。D51型のボイラーよりも1気圧昇圧した16気圧の高圧ボイラーを持ち、登場の頃は、高性能機C53の独占状態であった東海道本線、山陽本線でも活躍しました。このC57は1次型と呼ばれる初期製造タイプで、日中戦争に始まる日本国内の資材統制の影響を受けずに製造された高品質の機関車でした。 大日本帝国は鉄道は兵器!と勇ましいスローガンで戦時輸送の準備を鼓舞しましたが、高品質の鋼板を機関車…
日本3大操車場と言われた新鶴見操車場では1970年までD51が使われました。大都会の片隅で貨物輸送に活躍したD51の姿を御覧ください。 横浜港方面からの貨物を受取り、新鶴見操車場へと向かうD51。 操車場とは、貨車1両を荷主が借り切った車扱いと呼ばれた貨車を、輸送の拠点で行先別に仕分けする広大な車両基地を意味します。 新鶴見操車場は関東最大の貨車の仕分け基地で、勤務する鉄道員の数は1000人を超え、新鶴見駅長の地位は、東京駅駅長と同格以上と言われる程の重要な施設でした。 東海道線の電車とすれ違うD51。東海道本線の貨物専用線の設置は早く、D51の通る線路は横浜港へのポートトレインが廃止されてか…