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こんにちは、田中ななです。 今日、5月9日はトリッキーな日で 次女だけ幼稚園お休み、長女は学校あり夫は会社あり、 そして5月12日月曜日はみーんなお休…
現在は廃寺となった「ワット コークプラヤー」はアユタヤ王国初期のラーメースワン王の治世に建てられた後、アユタヤ王族の処刑地として使用されました。地図王族の処刑地となる1369年にアユタヤ王国2代として即位したラーメースワン王ですが、王族であるパグワにより1370年に退位させられます。そしてアユタヤ王国代3代として即位したパグワは1388年に崩御し息子であるトーンチャンが王位に就きます。しかし、トーンチャン王の即位7日後にラーメースワンがクーデターに成功し自らアユタヤ王国第4代(在位1388年ー1395年)に即位しました。そして退位させられたトーンチャン王は「ワット コークプラヤー」にて処刑されました。アユタヤ王国の歴史は王族による権力闘争の歴史と言っても過言ではなくトーンチャン王の後に多くの王族が「ワット コークプラヤー」で処刑されています。そのように内部での権力闘争のため国は衰退し、1569年にビルマの属国となり1590年にナレースワン王によりアユタヤ王国は復活し東南アジアでの重要な貿易拠点となったにもかかわらず、、、王族の権力闘争のために国が衰退し1767年にビルマの侵攻を受けアユ
アユタヤにある「ワット ハッダーワート」は1549年のビルマとの戦争で休戦交渉が行われたお寺です。地図境内の様子歴史的に重要な役目が行われたお寺ですが、そのような歴史は関係なく境内は牛が草を食む牧歌的な光景ですが、、、子牛に追いかけられ慌てて壁によじ登りました(-_-;)休戦交渉が行われるシースリヨータイ妃を失った1548年のビルマとの戦争で反撃に成功したアユタヤ軍に対しビルマ軍は捕虜とした2人の王子を返すことで退路の安全保障をする交渉が「ワット ハッダーワート」で行われました。その後、アユタヤ王国17代チャクラパット王はビルマの侵攻に備えるために戦象を増やすために象狩りを行い7頭の白象を得ました。白象戦争が始まる1550年にバインナウンがビルマ王に即位するとアユタヤ王国に2頭の白象を要求しました。チャクラパット王はこの要求を拒否したことから1563年に戦争が始まりましたが、アユタヤは敗北したことから白象4頭引き渡しチャクラパット王は退位しビルマの地で出家しました。ビルマの属国へ1568年、巡礼のためにアユタヤに戻ったチャクラパットは再び王位に就きビルマとの戦争を始めました。しかし、ビ
アユタヤ王国18代チャクラパット王(在位1548年ー1569年)の妃であり戦場で王を守るため命を落としたシースリヨータイ妃は現在でもタイ人に尊敬され続けています。そのためアユタヤにはシースリヨータイ妃を称えるシースリヨータイ王妃像が祀られている公園があります。シースリヨータイ王妃 地図また他の場所にはシースリヨータイ妃の遺骸の墓所として仏塔が建てられた「シー・スリヨータイ・パゴダ」があります。シー・スリヨータイ・パゴダ 地図しかしシースリヨータイ妃の記述に疑いがあることから、シースリヨータイ妃の存在を疑う説や、伝記は事実性が低く後世に書かれたと考える一部の学者もいます。ビルマとの戦争が始まる夫である国王を毒殺し息子まで処刑をして寵愛した小姓を王位に就けたシースダーチャン妃のためアユタヤ王国は政治的混乱となりました。この混乱を収めべくチャクラパットはシースダーチャン妃を処刑し1548年にアユタヤ王国18代国王に即位しました。しかしシースダーチャン妃が起こした政治的混乱をビルマは見逃すことはなく1548年にアユタヤへ侵攻を開始しました。そのためチャクラパット王はビルマ軍を迎え撃つべく戦場へ
ワットレーンにはアユタヤの悪女とされるシースダーチャンを処刑し葬った場所で、祠の奥にある処刑されたとされる場所にはガジュマルに包まれた古い壁が残されています。タイではシースダーチャンは夫や息子を殺し王宮を乗っ取った悪女とされ、何度も映画やドラマ化されています。この日もシースダーチャンに関するドラマが放送されたばかりでたくさんの人が弔いに訪れいました。地図シースダーチャン妃とはシースダーチャン(1534年ー1548年)はアユタヤ王国14代チャイヤラーチャーティラート王の妃です。このシースダーチャンが現在でも悪女と言われるのは王妃でありながらクメール人で小姓のブンシーと密通していたことから夫のチャイヤラーチャーティラート王を毒殺しブンシーを軍の最高指揮官の地位に就けました。夫の殺害後にシースダーチャンは1547年に実子で11歳のヨートファーを王位に就けました。しかしヨートファー王はブンシーとシースダーチャンが通じていることを知ったためにブンシーの排除を計画しましたが、、、この計画は実行前に漏れていたことからヨートファー王は実母であるシースダーチャンにより処刑されました。ヨートファー王を排除
鶏の足の土鍋スープ:クイッティアオガイ チック クンコンプラノン
世界遺産としで多くの観光客が訪れる古都アユタヤで24年営業を続ける「クイッティアオガイ チック クンコンプラノン」で美味しいと評判の鶏の足の土鍋スープを堪能してきました。地図営業時間:朝8時から夕方4時定休日:月曜日、火曜日(時間変更があります)お店の雰囲気アユタヤでも有名店であることからほぼ満席の状態でした。また気になるこの赤い看板はアユタヤでのミシュランガイドに選出されています。メニューこちらはお店の看板メニューの鶏の足の土鍋スープがありタイ焼きそばのパッタイもあり鶏肉のつみれのルークチンもありこちらはドリンクメニューになります。この日も朝から暑いため食事も前にドリンクを注文し私は甘酸っぱいナームクラチアップを注文し値段は25バーツ妻は梅の甘酸っぱさが美味しいナームファランチェーポエを注文しました。値段は45バーツメニューを見ていたら美味しそうだったので鶏肉のつみれのルークチンガイピンを注文しました。鶏肉を甘辛のタレが絶妙の組み合わせで美味しかったです値段は50バーツ妻は見た目は辛そうですが、味はマイルドで裂いた鶏肉の麺が絡んで美味しいクイッティアオガイチークセンレックを注文し値段
古都アユタヤにある「ワット チューンター」がいつの時代に建てられたか詳細はありませんが、アユタヤ王国時代にこの地に住んでいた大富豪が土地を寄進したことにより建てられました。地図拝観時間:朝7時から夕方5時まで(時間変更があります)娘は戻ってこなかったアユタヤ王国の頃、この地に住んでいた大富豪に娘がいました。しかし、その娘は恋人を共に家出をしてしまい消息がわからなくなってしまいました。大富豪は娘が戻ってきたときにために家を建て幾日も待ちました。しかし、娘が家に戻ってくることはありませんでした。娘が家に帰ってくるのを諦めた大富豪は娘のために建てた家をお寺に寄進しました。娘はどこに行ってしまったのでしょうか?アユタヤ王族による改修その後「ワット チューンター」はアユタヤ王国30代ナーラーイ王(在位1656年ー1688年)の治世に王族のチャオプラヤーコーサパンにより改修されました。このチャオプラヤーコーサパンはアユタヤ王国の外交官として1684年に渡仏しルイ14世に謁見したことがあります。そのフランスからの帰国後に「ワット チューンター」は大規模な改修が行われました。またアユタヤ王国34代ボー
アユタヤの「ワット トゥク」はアユタヤ王国29代スリエーンタラーティボーディー王が1697年から1703年に自身の宮殿内に建てられたお寺です。地図境内の様子この場所はスリエーンタラーティボーディー王の宮殿でしたが、神秘的な力を信じたためにお寺に建て替えられました。そのため境内には涅槃像や多くの仏像が祀られています。また、この井戸が神秘的な力の源とされていることから参拝客はお賽銭を入れてお祈りを捧げていました。「ワット トゥク」を建てたスリエーンタラーティボーディー王(在位1703年ー1709年)は気性が荒くそのような気性の荒さから虎を意味するスア(เสือ)王(日本語では虎王の意味)とよばれています。この「ワット トゥク」も1767年のアユタヤ国王崩壊にビルマ軍の破壊を免れることができずに廃寺となりました。その後ラーマ5世(在位1868年ー1910年)の治世に「ワット トゥク」は修復され現在に至っています。武闘派のアユタヤ国王アユタヤ王国の歴史は常にビルマとの戦いを繰り返してきたこともあり、歴代のアユタヤ国王で武芸に秀でた王も多いです。特に1569年からビルマの属国とされていたアユタヤ
アユタヤにあるお寺「ワット ナープラメーン」には戦火から逃れた強運にあやかろうとたくさんの参拝客が礼拝に訪れています。
バンコク旅行3日目、いよいよ夕飯の時間です。今回のアユタヤへのツアーは アユタヤ遺跡ライトアップ鑑賞ディナー付きプラン にしました。朝早くからメークロン鉄道市場、水上マーケット、そしてアユタヤではライトアップ鑑賞ディナー、まで。丸一日、遊びまくる贅沢ツアーです。アユタヤでのディナーはチャオプラヤー川沿いにある 「サラ・アユタヤ」 というホテル。そのレストランにはチャオプラヤー川を眺めながら食事がで...
バンコク旅行3日目、アユタヤ観光。ワット・プラシーサンペットを出て公園の脇を歩いていると、、、ゾウも歩いてます。ここでガイドさんが炉端で売っていたお菓子を買ってきてくれました。この時はもうすぐ夕飯だったので食べずにホテルに帰ってから食べました。アユタヤ名物の 「ロティ・サイマイ」 というお菓子。細い糸状になった飴をクレープのようなもので巻いて食べます。これ、すっごくおいしかったです!!さて、アユタ...
バンコク旅行3日目のアユタヤ観光。3つ目の遺跡はワット・プラシーサンペット。ここにはアユタヤ王朝第9代から第11代までの3人の王の遺骨を納めた塔が3基建っています。ここもビルマとの戦争で建物も、黄金の仏像も破壊されてしまいました。リス。ランキングに参加しています。 1日1クリックが有効です。 「ゲッコー(トカゲ)」のバナーをそれぞれポチッポチっとご協力お願いします。にほんブログ村写真ランキング...
バンコク旅行3日目、アユタヤ観光、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの次に訪れたのが ワット・マハタート。アユタヤで有名な 木の根でおおわれた仏頭のある遺跡です。入り口を入るとすぐにその仏頭です。アユタヤはビルマとの戦争で破壊され、崩れ落ち土台だけになったレンガの壁、頭が切り落とされ胴体だけになった仏像が並ぶ風景は歴史の悲惨さを物語っています。この仏頭はビルマ軍に切り落とされていたものがそこにあった菩...
バンコク旅行3日目、ツアーでいよいよアユタヤ遺跡見学です。アユタヤ王朝は日本で言えば室町時代から江戸時代に栄えた王朝です。四方を川に囲まれた中州になっています。たくさんの遺跡がありますがまずは一つ目、ワット・ヤイ・チャイ・モンコン。この寺院は1357年に、初代ウートン王がセイロン(現スリランカ)に留学中の修行僧たちの瞑想のために建てられました。真っ白な涅槃仏。ちょうどオレンジ色の袈裟を奉納されているとこ...
バンコク旅行、バンコクでランチを食べた後アユタヤへ向かいます。アユタヤに入り前を通っただけでしたが 「日本人村」 というところがありました。 「16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが日本人村を築き、最盛期には2,000~3,000人以上もの日本人がアユタヤに住んでいました」 (タイ国政府観光庁HPより)今は博物館になっています。当時、この場所で日本人が生活していたのですね。タイ人のガイドの方から日本人...
午後6時を過ぎたのに,まだ日の入り前で西日がとても暑い。とは言え,日中よりはだいぶん凌ぎやすくはなってきて,風があるので日陰はわりと心地よい。「ワット・プラ・シーサンペット」の3つの塔をゆっくり見学し,時間を潰した。塔以外にとくに見るべきものはなく,かと言って隣接する「ウィハーン・プラモンコンボピット寺院」を見学する時間的余裕もなく,カメラで写真を撮って画像加工で遊んでいた。アユタヤはどうしても寺...
アユタヤ 美しき廃墟を彷徨う <トラキチ旅のエッセイ>第30話
アユタヤの歴史遺産は、そのほぼすべてが廃墟といっていい。 おびただしい数にのぼる寺院跡は、どれもがすさまじい破壊のあとであり、収奪の終わったのちに残された荒々しい残骸となる。 アユタヤを破壊したのは、ビルマだった(現ミャンマー)。 1752年のこと。ビルマの地に新たな王朝が生まれた。コンバウン朝という。翌19世紀末まで続き、ビルマに巨大な版図をもたらしつつも、最後はイギリスに降ることとなる王朝である。 コンバウン朝は、誕生後またたく間に国内の諸民族を切り従え、平定を終えたが、次に牙をむいた先が、豊かな隣国アユタヤだった。 アユタヤは、まことに豊かだった。 際限なく収穫される米。無尽蔵に湧く林産…
アユタヤ 輝きの大航海時代 <トラキチ旅のエッセイ>第29話
東アジアをゆるがした豊臣秀吉の朝鮮侵攻―――文禄・慶長の役(1592~1598)。 このとき、応戦に忙しい中国・明に対し、遠いインドシナの地から、 「われらに賊どもを迎え撃つ用意あり―――」 名乗り出た国があることをご存知だろうか。 その名を「アユタヤ」という。多くの諸外国はシャムと呼んだ。今のタイ王国につながる国である。 世界が海のみちでひとつに結ばれた大航海時代。 日本、中国、琉球、ベトナム―――アジアからも、さまざまな国や地域がこの巨大なうねりに身を投じ、歴史に参加した。 なかでも、その主役の一人としてひときわ輝きを放ったのが、アユタヤだった。 16世紀を迎える頃、アユタヤは、まるで中国…
バンコクHISの「午後からアユタヤツアー」で最後に訪れたお寺は「ワット・プラ・シーサンペット」だ。入口付近にはソンテウが停まっていた。バンコクのものより小さく,軽三輪車の改造車だ。色は赤,緑など遠くからでも目立つようになっていた。「ワット・プラ・シーサンペット」遺跡に到着した。この遺跡は1491年に建立されたが,1767年のビルマ軍による第2次アユタヤ侵攻で,寺院や仏像はほとんどが破壊され、戦後になって修復...
④どうでも日記 スタッフとの日帰り旅アユタヤ(お参り&海鮮ディナー)編。
ルークナムのブログにお寄り頂きましたみなさま、こんばんは。偶然来ちゃった方も、いつも来て頂いているルークナムマニアの方も、ご縁に有難うです。 楽しくて、パワー…
③どうでも日記 スタッフとの日帰り旅アユタヤ(お参り&カフェ)編。
ルークナムのブログにお寄り頂きましたみなさま、こんばんは。偶然来ちゃった方も、いつも来て頂いているルークナムマニアの方も、ご縁に有難うです。 昨日からの続きで…
②どうでも日記 スタッフとの日帰り旅アユタヤ(お参り&ランチ)編。
ルークナムのブログにお寄り頂きましたみなさま、こんばんは。偶然来ちゃった方も、いつも来て頂いているルークナムマニアの方も、ご縁に有難うです。 昨日からの続きで…
①どうでも日記 スタッフとの日帰り旅アユタヤ(タイ衣装で遺跡写真)編。
ルークナムのブログにお寄り頂きましたみなさま、こんばんは。偶然来ちゃった方も、いつも来て頂いているルークナムマニアの方も、ご縁に有難うです。 ずーっとずーっと…
修復中でした、ここは初めて来ましたスコータイ様式のチェディワット・ロカヤ・スターラームここも前に1回来ました、懐かしい全長28mの涅槃仏ワット・プラ・シー・サ…
アユタヤに向かいました、また2時間くらいかかりました🚙途中トイレ休憩🚻タイにはセブンがいっぱいありました😆暑くて喉が渇く😆タイにしかない飲み物を頼んでみました…
ルークナムのブログの数少ない読者の皆さま、こんばんは。ルークナムです。いつも読んで頂いて有難うございます。ルークナムのブログは、マニアな皆さまのご支援で成り立…
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Kung Phuean Praew|アユタヤ名物エビセンターでエビを堪能
こんにちは、タイ赴任に帯同中のEmmaです。 先日義理家族がタイに旅行に来てくれた際、アユタヤ観光ではエビセンターでランチをいただいてきました。 アユタヤのエビセンターは美味しいエビがリーズナブルにお腹いっぱい食べられると評判でずっと行って
観光していたら帰れないリスク!Klookのツアーを使って効率よくタイ観光!
Klookのツアーを使って効率よくタイ観光! 今回紹介するのは、Klookのツアーを使って交通の便が悪いタイを…
今日からタイ北部を目指して本格的な旅が始まる。ので旅1日目ということでスタートです。移動と観光と酒飲みを繰り返す日々の幕開けだ。宿泊していたホテルをチェックアウトし列車でアユタヤへ行くために駅へと向かうのでとりあえず地下鉄に乗る。そして降り
アユタヤで予約しておいた宿にチェックインできる時間になったので向かった。部屋はこんな感じで殺風景で窓もなくシャワー・トイレは共同のゲストハウスだった。しかし廊下の窓からの景色は素晴らしく濁った川の流れを見ながらまったりとできる。まだまったり
The Summer House Ayutthaya|川沿いのアユタヤカフェ
こんにちは、タイ赴任に帯同中のEmmaです。今回ご紹介したいのはアユタヤにある【The Summer House Ayutthaya(サマーハウスアユタヤ)】というカフェ。アユタヤ観光の遺跡群からも程近く、チャオプラヤ川沿いに位置しており時
The Station|日本人好みのアユタヤおすすめのカフェレストラン
こんにちは、タイ赴任に帯同中のEmmaです。アユタヤ観光でおすすめのカフェレストランを見つけたのでご紹介します。ご紹介するお店は【The Station】という店名通り、鉄道のアユタヤ駅直結のカフェレストランです。日本から両親がタイに遊びに
こんにちは、タイ赴任に帯同中のEmmaです。突然ですが、タイといえば象を思い浮かべる方も多いと思います。うちの両親も例に漏れず、タイに遊びにきた時には象に乗りたいとリクエストがありましたので、アユタヤ観光でエレファントキャンプに寄って、象に
電車でアユタヤに行きました。 可愛い駅 旧バンスー駅から電車に乗りました。 駅広過ぎて、走りました💦 アユタヤへ行く電車は、1番ホームで、端っこでした。 扇風機車両で、20バーツ。 切符の切り込みが❤️で可愛い。 アユタヤから帰りの時刻表 帰りの電車の時間をチェックしてから遺跡に行きました。 見学したかったのは、1ヶ所だけだったので、トゥクトゥクのチャーターはしませんでした。チャーター代は、1時間1人300バーツですが、ディスカウントしてくれると言っていました。 この遺跡だけ見学して駅に戻りました。 遺跡からアユタヤ駅までは、grabで73バーツでした。
古都アユタヤにあるカフェ「バーンカーオノム」の店内では美味しいコーヒーやアイスクリームを楽しめるだけでなくたくさんの種類のタイのお菓子が売られています。 地図 営業時間:火曜日ー金曜日 朝8時ー夕方5時 土曜日ー日曜日 朝9時ー夜6時 定休日:月曜日 (時間変更があります) 店内 ユネスコ世界遺産に登録された街だけあって店内も古い建物の雰囲気でデザインされています。 またお店の裏にはテラス席があります。 店内ではたくさんのタイのお菓子が売られています。 ナームマトゥムというミカン系の果物を干したジュースがあります。 屋台やローカルのお店でも売っていますが味はかなり甘いです。 メニュー メニューはコーヒーや お茶や このお店独自のドリンクがあり ソーダや アイスフロートなどがあります。 またおいしそうなアイスクリームのメニューもあります。 といぅことで私はアイスモカ、妻はブルー抹茶を注文しました。 左にあるのがアイスモカで値段は70バーツ いい香りのアイスモカでした。 青いのがブルー抹茶で値段は95バーツです。 濃厚な味のブルー抹茶でした。 私はヤーイ―のアイスクリームを注文しました。
1590年に即位したアユタヤ王国ソンタム王は日本の戦国時代に主を失い海を越えて来た600人ほどの浪人を傭兵として雇ったことからこの地に日本人村が形成されました。 地図 営業時間:朝9時半から夕方5時まで (時間変更があります) 入場料:50バーツ 入口の左側にチケットカウンターがあります。 また浴衣のレンタルや園内ではカフェが併設しています。 園内には博物館があり当時の生活などを説明しています。 園内にはもう一か所博物館があります。 アユタヤ日本人村の歴史 アユタヤ王国の歴史は常にビルマとの戦争が続きアユタヤ王国ソンサム王(在位1590年ー1628年)は外国人傭兵でビルマとの戦争に対抗していました。 当初は鉄砲の扱いに慣れたポルトガル人傭兵を雇いましたが、ビルマもポルトガル人傭兵を使ったとこから双方が同士討ちを嫌ったために役に立ちません。 そこで戦国時代が終わり戦に慣れていた浪人を日本人傭兵として雇い、最盛期には南北570mで230mの日本人村には1500人ほどが住んでいました。 また鎖国以前の江戸幕府による貿易では傭兵以外に日本人貿易商や日本を追われたキリシタン、また現地のタイ人と結
14世紀から18世紀のアユタヤ王国は常にビルマ(現ミャンマー)との戦争の歴史でした。 そんな歴史の中で「ワット パナンチューン」はビルマ軍から破壊を免れた縁起のいいお寺として多くの参拝客で賑わっています。 地図 拝観時間:朝7時から夜6時まで (時間変更があります) 入場料:20バーツとの情報ですが、チケットの受付がなく無料でした。 ワット パナンチューンの歴史 「ワット パナンチューン」は1324年に建てられたとされ、これはアユタヤ王国初代ウートン王がアユタヤを都と定めた27年前のことでした。 本堂には中国の仏像が祀られています。 これは建設当初「ワット パナンチューン」の地域には中国の宗王朝時代に200人ほどの中国人が住んでいたとされています。 涙の流した大仏 本堂には1334年につくられた高さ19mの金色の大仏が祀られています。 1767年アユタヤ王国滅亡し都が破壊される直前に大仏から「聖なる目から聖なる臍へ涙が流れた」との伝説があります。 その後1854年、お寺の修復が終えた後にラーマ4世がこの仏像に「プラ プッタ トライ ラタナ ナーヨック」と名付けました。 大仏が祀られてい
世界遺産の街アユタヤは18世紀まで都であったために運河による交通や物流が盛んでした。 そんな船の中で手軽に食べられていたのがボートヌードル(タイ語でクイッティアオ ルア)です。 そのようなことからアユタヤにはボートヌードルのお店がたくさんありますが、人気店「メイチュア ボートヌードル」ではたくさんお客さんがボートヌードルをすすっています。 地図 アユタヤ駅から車で3分 営業時間:朝8時から夕方5時まで (時間変更があります) 店内 オープンスペースの店内はローカル感があります。 メニュー メニューにはボートヌードル以外にもご飯ものやチャーハンなどがあります。 ということで豚肉のボートヌードルを注文しました。 値段は25バーツです。 もともとボートヌードルと言うように船の中で小さい丼で食べられていましたので量は少ないです。 私は米麺を選びましたが妻は春雨をにしました。 このスープの材料は黒醤油や各種の香辛料とともに牛や豚の血を加えます。 そのためスープはレバーのような濃厚の味です。 キアオトムを注文しました。 値段は50バーツ エビと豚肉たっぷりのシュウマイのような味でおいしかったです。
アユタヤにある「ワット プラドゥーソンタム」アユタヤ王国時代に2つのお寺「ワット プラドゥー」と「ワット ロンタン」を合併したお寺です。 地図 アユタヤ駅から車で約6分 ソンサム王と日本人傭兵 アユタヤ王国24代ソンサム王(在位1590年ー1628年)の治世にオランダや日本などの貿易を始め鉄砲の扱いに慣れたポルトガル人傭兵を雇いました。 しかし、ビルマとの戦いにポルトガル人傭兵が役に立たないことから、日本では戦国期が終わり浪人した侍を傭兵として雇い、この時期に山田長政などが海を渡りアユタヤ王国で活躍しました。 日本人傭兵部隊の反乱 多くの日本人がアユタヤ王国に渡ってきたことから日本人町が形成され日本との貿易が盛んになりました、 しかし同じころ中国もアユタヤ王国との貿易を行っておりタイにいる華僑は増加する日本の貿易に脅威を感じていました。 そのような状況でアユタヤの役人による不公平を訴えた日本人貿易商はソンサム王を暗殺を計画をし、1610年に日本人傭兵500名が反乱を起こし王宮に乗り込みました。 反乱から逃れたソンサム王は「ワット プラドゥーソンタム」の僧侶に匿われました。 「ワット プ
アユタヤにある「ワット ピチャイソンクラーム」はタイの歴史の中で重要な転換点となった古いお寺です。 地図 ワット ピチャイソンクラームの歴史 「ワット ピチャイソンクラーム」は1357年頃に建てられ当初はワット ピチャイとよばれていました。 1765年、アユタヤ王国はビルマとの戦争が始まり、各地で敗北を続けたアユタヤ軍はついに都のアユタヤがビルマ軍により包囲されました。 その包囲の中、外壁にあるワット ピチャイにて武将タークシンがビルマ軍へ激しい抵抗を行っていました。 敵中突破せよ 1766年1月、ビルマ軍の包囲を破るためワット ピチャイから出撃した武将タークシンですがアユタヤ軍は大敗しました。 大敗を喫したアユタヤ軍ですが、武将タークシンはビルマ軍の分厚い包囲を突破に成功しタイ東部のチャンタブリーに落ち延びました。 アユタヤ王国滅亡 野戦では勝利したビルマ軍ですが、アユタヤの街は分厚く囲まれた城壁で防備が硬いために攻めあぐねていました。 そのためビルマ軍は城壁の下にトンネルを掘る作戦を行い、1767年4月にトンネルを使い城壁の破壊に成功し突入したビルマ軍により都アユタヤは破壊尽くされ