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「チガウという」私はチガウと言うチガウ チガウ ソウジャナイ と何がチガウのか何でもいいのさ何が何であれそれはチガウのだこの世が欲する正しさがチガウと 私は云っている私たちが呼吸する大気は何だ私たちが踏みしめる大地は何だ私たちの空想は何だ誰が真実を知っているのか自分だけが真実を知っているのか神か 仏か 先祖か 宇宙か彼らなら真実を知っているのか私はチガウと云うこの蒼天の輝きは 一体なんだ私の心耳に...
50歳からは、好きに生きられる (PHP文庫) [ 枡野 俊明 ] 価格:836円(税込、送料無料) (2025/2/16時点) 楽天で購入 https://www.amazon.co.jp/50%E6%AD%B
どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもこれもゆきづまる。どの方向へ向いて行ってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為の閑道人である。とは興道禅師。出づるとも入るとも月を思わねば心にかかる山の端もなしとは無窓国師。閑道人
男女のご縁、因縁においても、身口意(行動、言葉、心)の行いが原因となり、それに応じた結果を引き寄せる。
このお話しは、唐の時代の中国で、元和12年、第14代憲宗皇帝の時で、今からおよそ1,200年前の出来事として、言い伝えられている昔話です。唐(中国)のとある町に、信仰心が薄く、神仏を一切信じない人達ばかりが住んでいる町がありました。 その町に、毎朝、一人の美しい女性がたくさんの魚を入れた籠を手にして現われ、魚を売り歩いていました。その土地の青年達は、競い合ってその女性に近づき、籠の中の魚は、いつも、あっと...
下着を放る。という意味ではありません。禅にある用語です。生きながら生きることの意味というそれ「自体」としては現実でないことを考える。そんなわたしも放下着。放下着
食事の偏りが多くある人程、偏った心身が形成され、心身の不健康、不調、ひいては病気を招く。
五観の偈(ごかんのげ) 一(ひと)つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。 二(ふた)つには己(おの)れが徳行(とくぎょう)の全欠(ぜっけつ)を計(はか)って供(く)に応(おう)ず。 三(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過(とが)を離(はな)るるは貧等(とんとう)を宗(しゅう)とす。 四(よ)つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とする...
真の安心、安楽という心の平安、幸福は、手に入れるものではなく、心からそのように感じる事。
同じ寺院で長い間修行を積んだ二人の僧侶がいて、二人は親友でした。 二人は、二、三ヶ月のうちに相次いでこの世を去りましたが、一方は極楽浄土に生まれ変わり、もう一方は虫となって糞の中に生まれました。極楽浄土に生まれた方は、ありとあらゆる無上の喜びを味わい、至福の時間を過ごしていました。けれど彼は、「友はいったいどこへ行ったのだろう。」と考えはじめました。そこで極楽浄土をくまなく探しましたが、友は見付か...
劉鐵磨と溈山の応酬は間髪を入れない。そこに躊躇や疑義を挟めば、精神は死ぬ。彼らの応酬に意味があるのか。普通に考えたら、合理的な意味を持ち、目的を達するための有意な会話ではない。だが、禅は「意味」も越えねばならない。意味がなくても行為し行動しなければならない。
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その3)
禅が目指すのはもちろん、「妙峯孤頂」の境地であるが、そこはどのような世界なのか。存在は存在として、独露している。相対的な差別相の世界を超越しているのだから、目、耳、鼻、舌、身体の感覚も手掛かりを失い、冷熱、物質といった物理法則も及ばない。しかも、禅はその「妙峯孤頂」にとどまることも忌む。「妙峯孤頂」を常に超えていくことを求める。
屁ひとつだって人に貸し借りできんやないか、人人はみんな「自己」を生きねばならない。興道さんの語録には好きなのがたくさんあるが、そのうちでも私のお気に入りをもう二つ。「われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさせた人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を産み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ」。「自分はもう一生ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれと言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものを惜しがらぬ。食わしてくれれば食う、食わねば食わぬ。生きられるだけ生きる。死なんならんときは死ぬと心がハッキリ決ま...宿なし興道さん
坐禅の実施こそが、この宇宙に自分自身の全てを捧げ尽くす、最高、最上の善行。
大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)、歴然(れきねん)として私(わたくし)なし 造悪(ぞうあく)の者(もの)は堕(お)ち、修善(しゅぜん)の者(もの)は陞(のぼ)る 毫釐(ごうり)も忒(たが)わざるなり (修証義 道元禅師) 「修証義」とは、曹洞宗の開祖、道元禅師様が、宋(中国)での修行を終えられ、日本に帰国してから晩年までの約20年間を費やして書き残された、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう...
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その2)
山や自然の境は対すれば、おのずから静寂・静謐の雰囲気が迫ってくる。だが、そこにとどまるを良しとしないのが禅だ。常にとどまらず、流動し、生き生きと変化する。停滞やなずみは「死」として退ける。
禅の公案に「主人公」というものがある。今朝、朝刊を読んでいたら、ふとこれがあの「主人公」ではないか、また「唯我独尊」という公案もこれに類するものではないかと想うことがあった。向谷地生良氏の「当事者研究」といものについての記事であったが、「苦労」は「反省」から「研究」へと発想を変えることで自らを自らの手に取り戻すことができる。そのことを氏は「自分の苦労の主人公になる」と言う言葉で表現されているように思えた。借金苦、病苦、生活苦・・当事者自身がじぶんの苦情を理解することで救われる苦労もあるというものだ。ちなみに以下、記事を一部抜粋してみる。「当事者研究」をご存じだろうか。幻覚や幻聴、摂食障害、リストカット、統合失調症といった「苦労」を抱える当事者が、自身の症状が起こるパターンやプロセス、構造を「研究」する取り...主人公
銀閣寺(慈照寺)の見どころ完全ガイド|京都旅行のおすすめ観光スポット
京都の銀閣寺(慈照寺)の見どころを完全ガイド。美しい庭園や歴史的な建築、訪問時のポイントを詳しく解説。静けさと文化を体感し、心に残る旅をお楽しみください。
2/23(日)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」(夜間開催)
***** Rubin’s work 東京ワーク開催日時のお知らせです。 ◆2/23(日) 18:30~22:00 (夜間のみ)⇒ メルマガ登録はこちらから場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。 【基礎】・一瞬で集中に入る軸と姿勢・どこにも居座らない座法・呼吸の秘伝的ライン・丹田のポイントと集中の奥義・対象のない祈り・内部の目へのシフト【実践】・タントラとマザー意識・魔を看破する触覚知・定点と座標...
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その1)
物は試練によって本性を表す。人も試練によって本物になっていく。禅ではどうやって人を試すのか。やはり言葉が触発の大きな契機になる。
禅における言葉、言句の問題。教えや理論を解いた言葉には拘泥しないが、「わかる」を触発する機は、言句なのだ。その言句である「公案」を思考する。だが、「わかる」には、その言句を突き抜けねばならぬ。
修行にやってきた僧たちに趙州が言う、「喫茶去」と、院主に言う「喫茶去」とでは何が違うのか。院主は、趙州に名を呼ばれ意識が覚醒しようとしている。そこに、「喫茶去」という言葉が降りてくる。院主が、その意味を分かり・体感するにはほんの一瞬の機転の間しかない。
たとえ無茶苦茶な坐禅でも、コツコツ継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。
正しい坐禅の実行によって、深く深く集中力を練り上げ、真実の命、今ここ、に成り切っていくには、坐禅の正しい作法、姿勢が大変重要になってきます。それでも、発心寺27世住職 原田祖岳老大師様は、「たとえ無茶苦茶な坐禅であっても、熱心な坐禅の実行をコツコツと継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。」「坐禅の効果は無形で分かりにくいが、坐禅を始める前と継続後とでは、精神上、人格上の変化、効果が...
#存在の覚醒 #ゼロポイント 【1/18(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
1/18(土)東京にてワーク開催しました。【存在の覚醒】今回のワークは、存在の覚醒がテーマとなりました。いちおう毎回ワーク募集時にテーマを仮に決めるのですが、当日の参加者さんの状態によりその場でテーマが組み変わります。今回はリピーターさんばかりだったので核心に直接迫っていく回となりました。3次元の身体の「存在の座」は丹田の中心からほんの少し下、肉体とイメージの境界線を入ったところにあるのですが(境界線...
「掃除とは人生を整える事、自分の為に心地よく清めるのです。」
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし) (正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 道元禅師) 威儀(身なり、姿、恰好、姿勢)を整え、正す事が、仏道を行じる事であり、修行であり、仏様のお教えそのものであり、歩むべき道である。 作法(立ち振る舞い、所作、礼儀、態度)を整え、正す事が、仏道の実践、仏様の体現そのものであり、宗旨(曹洞宗の教えの根本)であり、私達曹洞宗においては、一日の全...
煩悩への執着を手放せば、この世界のあらゆる悩みや苦しみから解放される。
色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき) (摩訶般若波羅蜜多心経、まかはんにゃはらみったしんぎょう)この世界の全ての色(物質的なもの、存在)は、全てが空である。 この世界の全ての色(物質的なもの、存在)には、本性、本質、実体、永劫不変に変化しない、終わらない、普遍的なものは何一つ無い。しかし、空であり、本性、本質、実体、永劫不変に変化しない、終わらない、普遍的なものは何一つ無いが、様...
人生で一番大切な事は、自分を愛する事、幸せにする事、自分らしく生きる事。
「人生で一番大切な事は、自分を愛する事」 (世界でいちばん自分を愛して 中野裕弓著) この言葉は、「愛のコーヒーカップ理論」を提唱されている、中野裕弓さんの本に書かれていた言葉です。私はある時に坐禅をして、まさに同じように、 「人生で一番大事な事は、自分を幸せにする事。」 そのように、大きな気付きを得ました。「そうだ。そうだ。まさにこれだ。これしか無い。ついに分かった。大発見だ。」と気が付いてから...
不幸、災難、悲劇、困難な状況、ショッキングな事も、美しく大きな花を咲かせる必要不可欠な事。
死ねば浮かぶ。 逆境に立って、全ての欲(欲望)とこだわり(執着)を捨てた時、人は思わぬ力を発揮できる。 (インスタントラーメン発明王 安藤百福著) この言葉は、日清食品の創業者であり、「チキンラーメン」「カップヌードル」といったインスタントラーメンの開発者、安藤百福さんのお言葉です。今の令和の時代では、決して想像もつかないような戦前戦後の激動の時代において、何度となく理不尽で大変な目に遭われますが...
曹洞宗の坐禅の極意、ただひたすらに座る「只管打坐(しかんたざ)」
「いわゆる坐禅(ざぜん)とは習禅(しゅうぜん)にはあらず。唯(ただ)これ安楽(あんらく)の法門(ほうもん)なり」 (普勧坐禅儀 道元禅師) この言葉は、小浜市の発心寺30世住職 原田雪溪老師が、摂心会(一週間の座禅修行)の提唱でよく説明されていた道元禅師様のお言葉です。 「坐禅とは、将来の為に習う、もしくは、修するものではなく、今にもっともっと成り切り、今だけにクローズアップしていくもの。」なのだそ...
ネガティブ思考はネガティブな出来事を呼び、ポジティブ思考はポジティブな出来事を引き寄せる。
今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず、業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知(し)らず、善悪(ぜんあく)を弁(わき)まえざる、邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には郡(ぐん)すべからず。大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)歴然(れきねん)として私(わたくし)なし。 (修証義 道元禅師) 今現在の、この世の中、この世界においては、今までの自分自身の身口意(行動と言葉と心)...
今までとは違う見方や考え方が得られると、もっと自由に、楽しく、幸せに、生きやすくなる。
好雪片片不落別處 好雪(こうせつ)片々(へんぺん)、別処(べっしょ)に落(お)ちず (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、宋(中国)の時代の仏教書物「碧巌録(へきがんろく)」の中の一文です。 「碧巌録」は、禅宗の様々な名言集、語録集、公案(禅問答)集で、日本の禅文化にも大きな影響を与えた、最高峰の禅の教科書と言われています。「日日是好日」「喫茶去」といった...
あるがままを受け止めて行く事ができれば、海の如く広大無辺の福が集まる。
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 (妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈) 観音様(観世音菩薩様)は、一切の功徳を具えておられ、衆生(私達を含む、あらゆる生きとし生けるもの)に対して、常に常に、とても優しく思いやりの深い、慈悲の眼を向けておられます。その福徳は、どこまでも広く深い海のように、無量、無辺で広大である。 それ故に、私達は観音様を心から敬い、礼拝すべきなのです。 前述のお経の一文は...
父と母のご恩程、海より深く、山より高く、広大無辺で、果てしないご恩は無い
父に慈恩あり、母に悲恩あり (父母恩重経) 父は、我が子の喜びを自分自身の事として共に喜び、母は、我が子の悲しみ、苦しみを、自分自身の事として共に悲しみ、苦しみます。父母の両親は、そんな海のように広く深い、優しい心、思いやりの心、慈しみの心を持って、我が子を産み育てています。私達は、父から受けた強くたくましい慈恩と、母から受けた温かくやわらかい悲恩を受けて、その両親の情愛を心でしっかりと受け止めた...
存在がそのままにゅっと現れる。その存在は生死を突き動かす。死ぬか生きるか、その生死の境目での禅匠の雪峰の存在感を示したもの。
禅は言葉を重んじるものの、その言葉がその人本人の経験や見地、境地を反映した独自のものであることが大切だ。本当に自分の中から出た言葉だけが本物なのだ。
公案は言葉だ。その公案の言葉についてさんざん考える。だが、その言葉に捉えられず、跡形(あとかた)を消し去って、何にもとらわれない
水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の...水月の関係
霊雲の公案は、ブッダ出現の前後で主観と客観が大きく分かれてしまった前でも後でも、存在は存在として堅固にそこにあるということ。その存在が露わとなって迫ってくるとき、物・境界の方が露わとなって自分に迫ってくるとき、それをそのまま受け止めるということ。
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もともと静寂な境地があった。だが、そこに問いを立てる。するとそこから波紋が広がり静寂は乱される。そうなると、世界は主観と客観に分かれ、「われ」と「なんじ」が対立する。
蓮の花は水中で葉のなかにあって開く準備をし、水中より上がってきたときに開花する。だが智門は一種の逆転の発想で、水中にある時が蓮の花で、水中より出た時が蓮の葉だという。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その6)
禅は精神が生き生きとしていることを重んじ、停滞しているところを死地、流動して停滞のないところを生地とする。だから、ブッダの教えに泥む(なずむ)ことさえ否定する。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その3)
禅では、躊躇すること、言い淀むこと、精神の働きが停滞することを嫌う。力をため込まれたばねが弾けるように、雷が一瞬ひらめくように、精神を働かせて言葉を返すか、さっと体を動かし行動することを重んじる。
1/8(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」(夜間開催)
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#Mercy #Shakti 【Monologue by Awakening 8】
We make up for the limitations of eyeballs' range of motion with fantasy or illusion.Image and matter are not in conflict but cooperate, so they can pull together. If they only pull on each other, we cannot be aware of how that pulling.To notice that, we need another vector; the
#タントラとマザー意識 #瞬間定の極意 【12/14(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
12/14(土)東京にてワーク開催しました。満月前日で流星群のピーク、帰り道で大きな流れ星を見ました。【二元性とタントリックな道】今回のワークの前半は、期せずして二元性のマトリックスにおける創造の仕組みについての話がメインになりました。ワーク直前までまったく予定していなかったので「期せずして」という感じでしたが、今思えば「満を持して」といわざるを得ないタイミングでした。これまでワークでは心身の構造や認...
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その5)
一つのことを徹底することが、千のところ万のところに通じ徹底すると考えるのが禅である。ゆえに禅は、いま、そこを、足下を徹底的に掘り下げよというのである。
月桂冠大倉記念館京都・伏見、お酒の史料館「月桂冠大倉記念館」の見所をご紹介。www.gekkeikan.co.jp こんばんはひやしあめです 月桂冠大倉記…
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その4)
俱胝が童子の指を断じる。いささか乱暴のようではあるが、禅ではこれがよくある。なぜかと言えば、生死を超えるには、生死のぎりぎりのところに立ち、身命を惜しんではいられないからだ。
『スマナサーラ長老が 道元禅師を読む』 アルボムッレ・スマナサーラ
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『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その3)
禅では、言葉を「葛藤」、わずらわしいものとして忌避し、「そのもの」をずばり指し示したり、「そのもの」に直に到達することを重んじる一方で、俱胝和尚と実際尼僧との逸話のように、電光石火の如くそこで言い得ることも重んじる。