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移動する列車内からゼブラ塗装の古豪9600型が見えた。この区間の移動は全て蒸気機関車が牽引する列車だった(贅沢!)。1973年8月 OLYMPUS 35DC(二枚とも)にほんブログ村↑↑↓↓お気に召したらポチポチっとお願いします。...
パシフィックのC55、C57。ハドソンのC60、C61。それぞれの機関車の製造から運用までの流れを考えると、鉄道輸送に対する、戦争の影を色濃く感じざるを得ません、人間社会に何よりも大切なのは、平和です。 小荷物を乗せた台車を吊り下げて、線路を跨いでプラットフォームに送るテルハ・クレーン付近に停車中のC55。 右隣には、長距離輸送中に、車内で郵便物の分別をする郵便車が止まり、大幹線の風情が漂います。 C57に比較して、性能の劣るC55が、国鉄の無煙化が始まるまで、全機健在で残っていたのは、戦前の鉄道全盛期に製造された作りの良さがあったからです。C55以降の蒸気機関車は、戦争の影響に無縁ではいられ…
日豊本線ではC57が最後の活躍をしていました。九州の蒸気機関車は、良く磨かれていて、美しい機関車が多かったのでした。 乙線と区分された軸重14トン台の線区に向けて、C51型から改良を重ね、決定版として登場したC57型です。D51型のボイラーよりも1気圧昇圧した16気圧の高圧ボイラーを持ち、登場の頃は、高性能機C53の独占状態であった東海道本線、山陽本線でも活躍しました。このC57は1次型と呼ばれる初期製造タイプで、日中戦争に始まる日本国内の資材統制の影響を受けずに製造された高品質の機関車でした。 大日本帝国は鉄道は兵器!と勇ましいスローガンで戦時輸送の準備を鼓舞しましたが、高品質の鋼板を機関車…
山中のローカル線が生き残り、北海道のかつての大動脈が廃線の危機にあります。 深い谷をトラス橋で渡り山あいを更に奥へと進むC11。 新潟県小出まで延伸し、県境の分水嶺をトンネルで抜ける事で、豪雪地帯である地域の冬の足として存続の価値を見出した只見線。 秋口には日本有数の紅葉の名所として、全国どころか、世界から観光客を集め、廃線の危機を乗り越えられそうなのは嬉しく思います。 D51が飼料用のホッパー車を連ねて力走する室蘭本線。千歳線との合流点である沼ノ端駅も近い。 ローカル線ながら、存続の為の要件を集める只見線に対して、室蘭本線は岩見沢から沼ノ端までの通しの貨物列車は1日に1本だけになり、沼ノ端駅…
50年前の夏_Part6(室蘭本線C57104、C57149)
次から次にやってくる蒸気機関車。D51はあまりにも多くやって来るので、撮影しないことも・・・。同じようなカットに飽きたので、そろそろ撤収。1973年8月 OLYMPUS 35DC(二枚とも)にほんブログ村↑↑↓↓お気に召したらポチポチっとお願いします。...
北海道開拓使に始まる北海道の開発は苦難の連続でしたが、そんな時代を蒸気機関車は走り抜き、消えて行ったのでした。 疾駆するC57。C51の改良型として決定版となったC57型は、太平洋戦争後にも新製された程の旅客用の傑作機関車でした。写真のC57はドーム後に重油タンクを装備して、更にパワーアップされています。キャブはドアが追加された寒冷地仕様改造で、北海道型と呼ばれていました。戦後政府の財政難から、C57の戦後型、4次型は20両で生産中止され、C57型4次型の仕掛り部品を活用して生産されたのがC61型でした。C61型の33両という中途半端な製造数は、C57の仕掛り部品の在庫量から来ています。 突き…
岩見沢から沼ノ端を経て室蘭港までは、北海道産の石炭の大動脈で、室蘭港は道内産石炭の6割を積み出す重要港でした。 疾走するD51。平坦な線路が続く区間では長大な貨物列車をD51が単機で牽引していました。 明治維新以降、開発された石狩炭田から産出される石炭は、函館本線で小樽へ、室蘭本線で室蘭へと運ばれました。 製鉄用に使用するコークスの原料として適していたので、室蘭製鉄所でも昭和30年代までは使用されていました。 車掌車の後ろに木材チップ積みのトラがつながれています。室蘭は製鉄所と共に製紙工場街でもありました。室蘭本線で蒸気機関車が最後の活躍をしていた頃は、道内の炭鉱は多くが閉山し、エネルギーは石…
50年前の夏_Part5(室蘭本線C57144、C57135)
線路端に写っているのは、同行した相棒。鉄道博物館に展示されているカマの現役時代の姿。1973年8月 OLYMPUS 35DC(二枚とも)にほんブログ村↑↑↓↓お気に召したらポチポチっとお願いします。...
C57を作る フロントデッキに電線管を付け、残りの標識灯とつかみ棒を付けました。
電線管はφ0.3で電線管つなぎ箱を付けています。 電線管つなぎ箱はケチって0....
寒風をついて北へ北へとひた走るC55の中には流線型改造機も居たのでした。 屋根が深く、前妻板がフラット、出入り口ドア周りの斜めのラインなどが流線型改造機の特徴のひとつでした。昭和10年代の流行に合わせて登場した流線型C55は、通常の機関車にカバーを被せたような異様な姿でしたが、太平洋戦争に突入すると、整備に不便なカバーは次々に取り外され、終戦後、ご覧いただく姿に改装されました。流行を追った流線型という発想に、蒸気鉄道が時代の最先端輸送手段であった事が偲ばれます。 C55の特徴のひとつ、直径1750ミリのスポーク動輪です。大正時代の傑作機・C51の発展型として開発されたC55では、C51型で発生…
会津若松機関区は只見線の立役者C11を完璧に整備する頼もしい施設でした。 ターンテーブルに乗るC11を見守る構内作業員。会津若松にはD51も乗る大型の下路式ターンテーブルが設置されていました。ただしターンテーブルと周囲のレールとの段差は、通常のレールジョイントの平滑さとは比較にならないほどでしたので、静々と慎重に乗り入れるのでした。只見線のC11は線区が長く、勾配もあったので炭庫を屋根高さまで嵩上げした重々しいリアビューをしています。このターンテーブルは電動式で、中央に櫓が立ち、そのてっぺんに回転式の受電装置が見えます。近くにはトランスを乗せた頑丈な電柱が建って、ターンテーブルを駆動するモータ…
中学2年の夏休みに友人二人で初渡道。函館駅から夜行急行「すずらん6号」に乗って最初に下車したのが、なぜか千歳駅。ファーストカットは奥にC58が休んでいる画。しばらくするとC57が給水塔にやってきた(C58は電柱の間から微かに見える)。1973年8月 OLYMPUS 35DC(二枚とも)にほんブログ村↑↑↓↓お気に召したらポチポチっとお願いします。...
現地でのお仲間が増え始めた頃。この場所、小生が初めてということで撮影場所へ案内していただいた上に、「好きな場所に三脚立てて良いよ」と最優先で場所を譲って下さった。今でも感謝している。2006年5月 D200 AF50/F1.8Dにほんブログ村↑↑↓↓お気に召したらポチポチっとお願いします。...