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鎌倉の建長寺は、1253年、禅によって国の興隆をはかるため、北条時頼の願いにより、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が開いた日本で最初の禅の大道場で、建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。現在の総門は、1783年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建てられたものを1940年に移築したものです。安永4年(1775年)の上棟で、楼上には、釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢...
次は、江の島の最奥部にある海食洞窟「岩屋」に向かいました。多くの高僧や武将がここを訪れて祈願のため籠ったことを「江の島参籠」といってました。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島弁財天信仰発祥の地として崇められてきました。養和2年(1182)には源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願したとも伝えられています。夏は岩屋に海水が入るので、昔は旧四月~十月の間は、岩屋本宮の神様を山の上の御旅所(奥津宮)...
北条時政、源頼朝ゆかりの江島神社(5)伝頼朝寄進の鳥居~奥津宮~龍宮
奥津宮に向かう途中、養和2年(1182)に源頼朝が寄進したといわれ石鳥居があります。 伝頼朝寄進の鳥居 鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣しそのつど信仰上の対象を寄進しています。 吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請...
次は中津宮を目指します。辺津宮から歩いて約5分。市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。度々の改修により、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿が再現されました。中津宮へ続く参道の両側には、江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石燈籠があり、昭和六十年(1985年)には、燈籠奉献二百年を記念して音羽屋七代目がしだれ梅を植樹しました。歌舞伎役者の手形も残されています。江の島歌舞伎中津宮か...
今日は生大学習会、 ひとつ目は語りと弦で聴く平家物語。今まで知っていたのは祇園精舎の鐘の声という文言くらい。 語りとそれに合わせてのコントラバスでの即興で「逆落」「敦盛最後」「壇ノ浦合戦」などを選ん
奉安殿は、辺津宮の南隣にある八角円堂で、妙音弁財天像と八臂弁財天像を安置しています。八臂弁財天像は、鎌倉時代最盛期の作と見られる県指定の文化財です。妙音弁財天像は琵琶を抱えた全裸の坐像で、女性の象徴をすべて兼ね備えているといわれています。源頼朝は奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請しました。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せま...
辺津宮(へつみや)は、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。土御門天皇 建永元年(1206年)源実朝が創建。現在の建物は延宝3年(1675)に再建されたものです。昭和51年(1976)に改修により、権現造りの現在の社殿が新築されました。神社の祈祷は、主にこの宮で行われています。本殿前には「天女と五頭龍伝説」に由来した龍を祀った江の島弁才天の龍の銭洗、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られます...
藤沢から小田急江ノ島線で7分、片瀬江ノ島駅で下車。数年ぶりに江の島を観光しました。『吾妻鏡』には、干潮時、片瀬の浜から江の島まで歩いて渡ったという記載があり、江戸時代には、幕府の高官、歌舞伎役者、職人、火消し、楼主や魚河岸の人々など幅広い階層の参詣者が、干潮時に現れた陸路を歩き、江の島を訪れていたそうです。『養和2年(1182)4月5日に源頼朝が、北条時政、足立遠元ら御家人を引き連れて江の島に来島、この...
佐助稲荷神社は、平治の乱後に蛭ヶ小島に配流された源頼朝の夢に、稲荷の神霊が老翁の姿で現れ、平家討伐の挙兵を勧めたという神社。そのため、平家討伐後、「佐介ガ谷隠れ里」の霊地を選び、畠山重忠に命じて社殿を造らせたといいます。 参道沿いに100本以上の赤い鳥居が並んでいます。佐助という名は、頼朝の幼少の名前「佐殿」を「助けた」という意味で「佐助」と名付けたとも、上総介・千葉介・三浦介という3人の介の屋敷があ...
江戸時代、水質に恵まれない鎌倉の地において、質の良い水が湧き出す井戸は貴重な水源でした。鎌倉十井(かまくらじっせい)とは、水質も良く美味で、伝説やいわれが残る鎌倉を代表する十の井戸のことで、江戸時代に『新編鎌倉志』で選定されました。鎌倉十井鉄ノ井(雪ノ下・小町通り)底脱ノ井(扇ヶ谷・海蔵寺)泉ノ井(扇ヶ谷)銚子ノ井(名越、別名「石ノ井」)星ノ井(坂ノ下・虚空蔵堂、別名「星月夜ノ井」)六角ノ井(材木...
朝風呂に入り、食事後、イーチャンしてから、石橋山に向かう。ドライバーは運転のプロ、普通の人では見逃してしまいそうな入り口を入り、これまた狭い道をわけなく登る。素人では対向車が来たらどうしようと躊躇する
↑神奈川県鎌倉市西御門2-1-24に鎮座する、源頼朝公を祀った白旗神社(しらはたじんじゃ)を訪問しました。 ↑白旗神社は鎌倉市内に2社在り(他にもあるのかも?)、このページで紹介するのは地図赤丸の地点、西御門に鎮座する白旗神社です。地図ピンクの丸の白旗神社は、鶴岡八幡宮の境内に鎮座する、鶴岡八幡宮の境内社になります。↑こちらが鶴岡八幡宮境内社の白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)で、御祭...
【鎌倉殿の13人】4話 ”矢のゆくえ” 感想 1話からイッキ見した気づきと得たもの
『鎌倉殿の13人』は1月から放送が開始、34話まで放送されていますが、見ていない方も、すでに見た方も、1話からの一気見を強くおすすめします。4話では、いよいよ頼朝が挙兵します。頼朝の背中を押し挙兵の火ぶたを切ったのは矢。佐々木秀義役の康すおんさんを見逃せません。
「品川神社」で富士登山!?徳川家康も戦勝祈願した神社【東京・品川区】
東京都文京区の異国情緒漂う不思議なスポット、湯島聖堂を紹介。ここは江戸時代発祥の、歴史上とても重要な場所!その正体と歴史と見どころを案内します。
鶴岡八幡宮の東の鳥居を出ると、住宅地の一角に「畠山重忠邸跡」の碑があります。ここは、鎌倉幕府成立後、畠山重忠が公務で鎌倉務めの際に居住した邸宅跡です。畠山重忠邸址正治元年五月頼朝ノ女三幡疾ミ之ヲ治センガ為当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ 東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス 是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ...
銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてん うがふくじんじゃ)は、鎌倉市佐助にある神社で、境内の洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから、銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)の名で知られています。文治元年(1185年)、源頼朝への宇賀福神の夢のお告げを元に、宇賀福神を祀り神仏の供養を行なったのが創建の由来。頼朝が貧困にあえぐ庶民の救済を祈願したところ、文治元年(1185年)巳の月巳の日の...
【鎌倉殿の13人】3話 “挙兵は慎重に”怪しい人 金縛り ネタバレあらすじと感想
以仁王の乱で情勢が一変。時政の懐の広さと後白河法皇が枕元に立ち、義時がデータ取集が光ります。頼朝が誰のものだかわからないしゃれこうべを掲げて挙兵を誓宣言する場面はシュールでしたが、北条一族が一丸となって頼朝を支えていく体制が整いました。
伊豆の国市韮山の政子産湯の井戸の近くに、光照寺があります。もとは北条時政が源頼朝のために建てた館の跡で、頼朝の死後に寺になったそうです。伊豆には、頼家の面に伝わる伝承がいくつか残されています。頼家の病状を伝えるため、面に写して鎌倉に送ったという共通点はあるものの、面を刻むに至った理由については・北条氏が密かに温泉に漆を混入させ、頼家の全身をかぶれさせた・単に伝えるための2種類が認められ、面を届ける...
修禅寺に幽閉されていた源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々は、笠冠地蔵を建立しました。元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の袂に移されました。幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘で月を眺めてその憂さを晴らしたり、里の子どもと遊びながら、鎌倉に残した息子・一幡に思いを馳せていたといいます。23歳の若さで無...
横瀬八幡神社の境内には、源頼家の母・北条政子の悪病平癒の伝説を持つ『孔門石(紅門石)』または『玉門石』と呼ばれる女陰の石尊がまつられており、女性特有の病や子宝開運のご利益があると言われています。こちらの祠の中にあるのですが、石の姿は見えません。横瀬八幡宮縁起兼ねて修善寺温泉に湯あみしける徒然に横瀬八幡宮に詣うで、ゆかりある祠にてめづらかなる世のまれごとを伝えたり此所は、狩野川と桂川との合流点にあた...
修善寺の横瀬八幡神社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、祭神は不詳、相殿は源頼家です。元々は現在の場所より200mほど東側にある月見ヶ丘にありましたが、のちに現在の場所に社殿を建立し、源頼家の束帯の立像を作り、廟(みたまや)とし、八幡と称しました。2017年、道路の拡張のため境内の一部が削られた際、鳥居と神橋が撤去され新たに鳥居が奉納されました。(撤去された鳥居と神橋は本殿の横に置...
十三士の墓は、頼家の墓近くにあります。頼家の家臣十三人が、頼家が殺された6日後に謀叛を企てたものの、挙兵前に発見され、全員殺されたと伝えられています。北条氏との確執で、病気を理由に修禅寺に配流された頼家は、元久元年(1204)7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。...
修善寺の筥湯(はこゆ)は、鎌倉幕府二代将軍、源頼家が入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉したという伝説の名湯です。伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて桂川沿いに7つの外湯があり、それぞれが浴客で賑わっていました。しかし昭和20年代には「独鈷の湯」だけになったといわれてます。平成12年に筥湯がオープンし、外湯が復活。檜造りの湯舟には掛け流しの湯があふれ、修禅寺温泉の情緒を味わえます。修善寺...
修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...
修禅寺の山門から川を挟んだ対岸にある指月殿は、修善寺で暗殺された源頼家の冥福を祈って母の北条政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。その際、政子が寄進した経典の一部は、修禅寺の宝物殿で展示されています。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されていますが、持ち...
源頼家の墓は、鹿山のふもと源氏公園内の指月殿の隣にあります。正面に立っている石碑は、元禄16年(1703年)頼家公500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑で、墓は記念碑の裏にある小さな五輪石塔で、それぞれ頼家、側室の若狭の局、子の一幡のものといわれています。 毎年7月下旬ごろの『頼家まつり』では、頼家公行列と墓前供養が行なわれます。正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった...
大河ドラマ鎌倉殿の13人2話佐殿の腹ネタバレあらすじと感想。運を味方につけて伊東から北条へ移った頼朝。笑いの中に政子とのなれそめや八重からのバトンタッチも。義時は頼朝の天運と人たらしを目の当たりにして、大きな歴史の渦に飲み込まれていきます。
仁田館は、仁田一族の菩提寺である慶音寺に隣接し、同家邸内には、四郎忠常・五郎忠正・六郎忠時の墓石があり、現在も子孫によって守られています。仁田四郎忠常兄弟の墓六郎忠時(右)、四郎忠常(中央)、五郎忠正(左)仁田忠常頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。引き続き頼家に信頼され、建仁2年(1202年)には忠常の屋敷で小笠懸が催されている。『保暦間記』『北条九代記』は頼家の嫡男・一幡の乳母父となったとする[...
8月21日の回で、仁田忠常殿が退場してしまわれたので、三島の仁田忠常ゆかりの地を再アップします。伊豆箱根鉄道「伊豆仁田駅」から徒歩約5分のところに、函南町仁田館遺跡があります。ここは、源頼朝の旗揚げに尽力した仁田忠常の屋敷跡とされる遺跡です。来光川河川改修による発掘調査では、屋敷の周りの堀や、多くの土器や陶器、こけら経など貴重な遺構や遺物が発見されました。仁田四郎忠常 月岡芳年画「芳年武者无類」仁田忠...
妙本寺の境内に、源頼家の娘・源媄子(よしこ)の墓があります。寺伝によると、鎌倉幕府2代将軍 源頼家と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。生き残った媄子(よしこ)は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方となりま...
妙本寺の方丈門のところに境内の案内図があります。ここから門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段があり、これを上って行くと、蛇苦止堂というお堂に辿り着きます。比企の乱で、井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され、蛇苦止堂(じゃくしどう)に祀られたといいます。比企の乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦し...
下関の赤間神宮境内に、安徳天皇を祀った安徳天皇阿弥陀寺陵があります。壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子...
下関市伊崎町に赤間神宮小門御旅所があります。寿永4年(1185)3月24日、伊崎の中島組という漁業団が網を張って小門(おど)海峡で漁をしていた時、壇ノ浦で入水した安徳天皇のご遺体がいわし網にかかり、中島家がご遺体を陸上に引き揚げて安置した場所が「御旅所」であり、紅石山の麓に手厚く葬ったのが現在の安徳天皇阿弥陀寺陵であると伝えられています。 「先帝祭上臈参拝」の翌日(5月4日)、赤間神宮を出発してこの小門の御...
江ノ電の線路を渡り、民家の前の道を通り過ぎると、満福寺に続く階段が見えてきます。階段を上がると、すぐに本堂が見えます。満福寺は、天平16年(744年)に行基が開山したとされています。元暦2年(1185年)5月、源義経が、兄の源頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず、腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られています。本堂に向かって右手に弁慶の腰掛石、左手には義経公慰霊碑と弁慶の手...
草津市野路の民家の庭に、平清宗の胴塚と伝える石塔があり、保存供養されています。 平清宗 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚と...
滋賀県野洲町大篠原は、平家終焉の地であります。国道8号線から一歩細い道を入った奥に、ひっそりと墓標が立っています。壇ノ浦で、平家一門を倒した源義経は、平宗盛・清宗父子を捕らえ、頼朝に報告するため、鎌倉へ向かいますが、手前の腰越で留められてしまいます。鎌倉入りを許されず、京に戻る途中、源頼朝の命により、宗盛父子を斬首。鏡の宿を過ぎたここ篠原が平家終焉の地になりました。義経は、元服後も何度か「鏡の宿」...
妙本寺の境内には比企一族の墓と一幡の袖塚があります。比企一族の墓北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。...
左女牛井は、京の名水として源頼義がこの地に築いた源氏の館、六条堀川館内に引き込まれていました。平治の乱で平家に焼かれ、後に源義経が再建しました。堀川御所とも呼ばれ、義経はここで静御前と暮らしていたといいます。また、土佐坊昌俊が堀川夜討ちした屋敷跡でもあります。義経が京を去ってからは荒廃し、現在は、京都市下京区六条堀川の京都東急ホテルの横に石碑のみがたっています。左女牛井之跡源義経堀川御所用水と称え...
JR渋谷駅東口から歩いて10分ほどのところにある金王八幡宮平安時代、渋谷氏の祖・河崎基家と源義家が八幡宮を創建し、その一帯に1092年、基家の息子の重家が渋谷城を築城しました。重家は、京都の御所に侵入した賊を捕らえた褒美に堀河天皇から渋谷の姓をもらったことから渋谷の地名がうまれたとされています。また重家が八幡神に祈願して嫡男・金王丸を授かったことから金王八幡の名がおこったといいます。金王丸は17歳の時、源...
鎌倉の小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。源頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を討つべく御家人達を召集したところ、名乗り出る者がおらず、土佐坊昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。頼朝から京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと...
京都市下京区堀川六条周辺には源義朝の屋敷がありました。義朝の三代前に当たる河内源氏初代・源頼信の嫡男で、河内源氏二代目・源頼義が邸宅を構えたとされています。若宮八幡宮は、後冷泉天皇の勅令で、源頼義が創建し、女牛井八幡とも呼ばれ、長年にわたり源氏の崇拝を受けました。周辺には六条堀川館があり、京に入った源義経もその邸宅を宿としたそうです。 若宮八幡宮は、慶長10年(1605)東山五条坂へ移転しましたが、もと...
2011年のことになりますが、尼崎の大物主神社を訪ねました。尼崎という地名は、平安時代の末から鎌倉時代初めに書かれた史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎は久安年間(1145~51)頃に形成された土地なのだそうです。尼崎の「あま」は、今では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においては、漁民・海民を意味していました。また、崎(さき)は岬同様、海に突き出...
2006年4月の中旬、桜で有名な吉野山へ向かいました。近鉄吉野からバスで奥千本へ。行きはバス、帰りは下り坂をのんびり歩くルートを選び、金峯神社から史跡巡りの開始。金峯神社は吉野山のもっとも奥にある修験道の修行場。この辺りから道が険しくなると聞いていましたが、やはりこの参道の上り坂は結構きつかったです(;'∀')金峯神社は、吉野山の地主神であり、金鉱の守り神でもある金山毘古命を祀っています。金峯神社の冠木門(...