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最後の当主・義隆の遺児とされる。毛利家の統治を快く思わない人々に「大内氏再興」の旗頭として担ぎ出され、結果毛利家によって成敗された。手を下したのが実の叔父という悲劇も生まれている。
山口市は2024年1月に米NYタイムズ紙が発表した「2024年に行くべき52か所」に日本で唯一選ばれた場所です。 JR山口駅で下車します。 室町時代の14世紀後半から16世紀半ばまでの約200年間、守護大名大内氏がこの山口を本拠に中国地方から九州一帯にかけて大きな...
三十一代・義隆の息子。陶ら家臣の叛乱により、義隆が命を落とした際、なおも逃亡しようと試みたが失敗。叛乱者に見つかって殺されたとされる。母親は小槻氏。死亡時わずかに七歳。
二十九代・政弘の三男とされる。父が帰依していた保寿寺の以参周省に師事。幼い頃から優れた漢詩文を作った逸話が知られている。のち、師匠を継いで保寿寺の住職となり、兄・義興と大内氏を支えた。
政弘の子。息子を国衙領目代とすることで、国衙のコントロールを図ろうと目論む父の意図により僧籍にあったが、還俗。家督を奪おうという企みが発覚して逃亡。大友氏を頼る。
義興の兄弟・髙弘は家督を奪おうという企みが発覚したため、九州に逃れ大友氏を頼っていた。その息子にあたると考えられている。大友毛利の合戦中に山口に侵攻。一瞬で鎮圧された。
藤原姓。大内氏配下に属して活躍したが、後に尼子氏にも属した。頭崎城主・興貞は父の弘保と不和で、そのために大内氏の攻撃を受けた。のち、義隆の「お気に入り」隆保が家督に。
義弘弟・満弘の遺児。父は義弘と内紛を起こしたが、幕府の介入で和睦するも、九州で戦死。盛見対弘茂、持世対持盛の家督争いで常に負けた側を応援。最期は逃亡して京都で自殺。
清和天皇の末裔という方々。周防国との関わりは先祖が配流されたから? 大内水軍に属して活躍したことがわかっているものの具体的事蹟は系図からはわからず。毛利家に仕えて存続。
義弘の子。叔父・盛見は家督継承者は亡兄・義弘の子と決めていたが、持世・持盛の兄弟どちらを当主に、と明確にしないまま戦死。幕府が決めた家督を持世から奪おうとして、敗死。
『意見封事十二箇条』の三善清行、鎌倉幕府の問注所執事となった京下りの輩三善康信などの末裔で太田と名乗った子孫。周防玖珂郡椙杜荘に移住し、大内氏配下に。後毛利家臣。
大内政弘 天に二物を与えられし者・雅な武家歌人にして応仁の乱最強の将
応仁の乱で上洛し、強大な軍事力で他を圧倒。帰国後は領国経営に専念。分国内の秩序を安定させ、山口には西の京と呼ばれるほどの雅な文化が花開いた。武家歌人としても著名。
右田氏からさらに分家した一族。名字の地は「陶」だが、二代弘政の時、都濃郡富田が本拠地に。代々優秀で忠義の臣を輩出し、大内家中で重きをなした。最後に謀叛人が出たが……。
藤原姓。系図については諸説あるが、鎌足まで遡れば同じこと。国司として赴任してきて、そのまま石見に土着した国兼を祖とする御神木家一族の嫡流。長らく大内氏に属した。
『萩藩諸家系図』には、清和源氏であること以外、その出自は不明と書かれている。厳島合戦で活躍した弘中隆包が圧倒的に有名だが、事蹟を残したのは彼だけではない。
桓武平氏三浦氏の庶流で、鎌倉時代からの名門。平子重経代、西国に移住。仁保を根拠地とした。大内氏家中でも重きをなしていたが、のちに毛利家に仕え、三浦姓に復した。
藤原姓。武士化した藤原氏の一類と思われ、源氏に仕えて安房国に所領を得た。その後、里見家、近江の蒲生家と主をかえ、在京中の義興に従って周防国に来たと考えられている。
桓武平氏千葉氏の庶流。先に安芸武田氏に仕え、仁保島を拠点とした警固衆だった。瀬戸内海の制海権を欲する勢力から重要視され、多くの加増を条件に味方となって活躍。叛乱者に与した後、最後は毛利家家臣となった。
十四代の子孫が「仁戸田」と名乗った一類と十七代の子・鰐石小太夫が仁戸田とも名乗った一類とがある。両者の関係は不明。謎だらけ。
十九代・弘成の子貞保を祖とする。系図上は数代で途絶え、事蹟なども不明。義興・義隆期に活躍したのは宗像氏出身で改姓した人たち。
十九代・弘成の子、弘房を祖とする一族。子孫は毛利家に仕えてその後も続いたが、毛利家臣となる直前の記録が曖昧で経緯は不明。
大内氏が史料に現われる直前期に分出した一族。それゆえにか、系図からはほとんど手がかりを得られない。子孫は毛利家臣として続いた。
矢田太郎こと二十一代弘家の子・成賢が祖。史料が少なく、不明な点が多い。主義隆の死を知った当主は殉死。その子孫は毛利家臣となる。
末武氏の系図は信頼できるとして、『新撰大内氏系図』の御薗生翁甫先生も高く評価。義隆死後、吉見氏配下を経て毛利家臣となった。
応仁の乱の時、主の留守分国で叛乱を起こした大内教幸の子孫。折敷畑、厳島と大内(陶)方として活躍したが、後に毛利家に仕えた。
問田家から分家した一族。後継者がないまま当主が亡くなり、問田本家の者が継いだ。本家とともに叛乱家臣に与して滅んだらしい。
盛房弟・盛長が立てた分家。名字の地・右田は現在の防府市にある。さらに分家した陶のほうが有名だが、毛利家に仕え家は存続した。
大内氏分家で、興隆寺二月会の弓太郎。政弘・義興代の文武の臣・弘胤、興之父子などが著名。叛乱家臣に与力し、毛利家防長経略で滅亡。
史料に名前が確認できる最初の人々のひとりが始祖となった、古い時代に分かれ出た一族。宗家を凌駕した鷲頭長弘が有名。下松のお殿さま。
大内義隆に最後まで付き従った忠臣。武勇の人として有名で、大寧寺で意味深な歌を詠んで壮絶な戦死を遂げた。子孫は毛利家臣に。
弘世と争い敗死した兄弟とされるが、その詳細として古い史書で語られていたのは、義弘と満弘兄弟の内紛の経緯のだった。では果たしてこの人は誰?
幕府に忠実であろうとした義弘と、我が道を行かんとする弘世。大内家中は二つの意見に割れ、父に代わり、弟・満弘が兄と争った。
大内氏の始祖から八代までの間は、六代分の名前もわからない人々がいる。しかし、伝承や読み物では、これらの空白もきちんと埋まっている。
応永の乱で、兄・義弘とともに幕府軍と戦う。兄の死後、幕府に降伏。家督継承者となるが、留守分国にいた兄・盛見を討伐できず敗死。
幕府が認めた大内氏最後の当主。実情は大内義隆を倒した叛乱家臣たちに担ぎ上げられた傀儡に過ぎないが。子孫は東広島で名家となった。
大内氏第十一代当主。下松の妙見社を氏寺のある大内氷上山に勧請した人物として知られる。ただし、知られているのはその一点のみ。
和歌と言ったらこの方・二十九代当主さま 多々良正恒とは? 大内氏第八代当主。始祖・琳聖太子からのち、系図には六代の欠落があります。その後、八 ...
明応年間の戦勝祈願五社詣での際、五の宮はこの場所にあった。「五の宮大明神」と呼ばれ、大内氏の信仰篤い神社だったが、明治時代に合併・移転。
大内氏十六代当主。流刑地から帰国したことが『玉葉』に記され、多々良一族の実在が証明された記念すべき人。大内介という名乗りもここから。
源平合戦の時にいち早く源氏に味方した一人として有名。東大寺再建事業のために下向した重源の杣出しを妨害したことでも知られる。
山口県に行きたいと観光地を調べていたらニューヨーク•タイムズ紙で2024年に行くべき52ケ所で山口市瑠璃光寺五重塔が紹介されたと聞き山口県山口市香山町にある瑠…
弘世の祖父。この頃、大内氏は周防国衙の中で、在庁官人のリーダー的存在となっていた。その実力は国司上人を罷免させるほど。あらゆる意味で、基礎固めが完成した時期の人。
いわゆる元寇が起こった時の当主。海外への玄関口にあたり、異国侵攻の被害をもろに受ける西国。近辺諸国も恐怖のどん底。一致団結して敵に対抗・撃退した。皆と協力し、活躍したのがこの人。
二十三代弘幸の弟。一族の総意とは関係なしに、終始一貫して南朝への「忠節」を貫いた人とされる。防府敷山で武家方と戦い、石見で戦死。普門寺に宝篋印塔があることが有名。
叔父・長弘が家を導いているような状況下にあり、当主としてやや影が薄いが、南朝に転向して長弘派を追い落とそうと決断したのはこの人。鷲頭家討伐は子の弘世によって実行される。
二十一代当主・弘家の子。後醍醐天皇の倒幕からずっと足利尊氏を支持。南北分裂でも武家方につき、家中一の実力者として、幕府から周防守護に任命された。惣領家を凌ぐ勢いだったが、死後にその子・弘直は大内弘世に