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では、勝林院の境内を散策してみましょう。法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に再興されたものです。 法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に...
源頼朝墓の下にある白旗神社(西御門)は、源頼朝の御墓を守っていた法華堂があった場所。勝運の神様・源頼朝のご利益とパワースポットとして人気です。
パソコンやメールが普及した現在、文字を手書きすることはとても少なくなりました。とはいえ、日常どうしても書かなければならない場面で美しい字が書きたい…また、忙しい毎日の中で自分と向き合う時間、心が豊かになる時間を持ちたい…美文字(ペン字・書道)を学びたい理由には、皆さんそれぞれの思いがあるはず。そんな個々の思いや目的に応じて美文字の秘訣を様々な角度からアプローチ!姿勢や、ペンの持ち方、美文字の法則などの基本を大切に、少しずつステップアップできるよう丁寧にご指導いたします。初めての方、迷っておられる方、どうぞお気軽にご相談ください。ひなみ美文字教室で自分らしい素敵な美しい文字を手に入れましょう!
鎌倉の三浦一族ゆかりの地をまわってみました。源実朝を暗殺した公暁が、事件後目指した三浦義村の邸宅は、現在、鶴岡八幡宮の東側に位置する横浜国立付属鎌倉小・中学校となっています。三浦義村鎌倉前期の武将。義澄(よしずみ)の子。母は伊東祐親(いとうすけちか)の女(むすめ)という。駿河守(するがのかみ)。評定(ひょうじょう)衆。1199年(正治1)梶原景時(かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱...
現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス 大正十三年三月建 鎌...
鎌倉市西御門に大江広元の墓と伝えられるものがあります。北条義時の墓があったといわれる法華堂からさらに鳥居をくぐって急勾配の階段を登るとやぐらが3つ並んでいます。左から、大江広元、島津忠久、毛利季光の墓となっています。大江広元の墓所これは江戸時代に広元の子孫である毛利氏の長州藩によって作られた供養墓(詣り墓)であり、鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓とされているそうです。大江広元建仁3 (1...
鎌倉幕府創立当時の御所・幕府跡(頼朝公の邸宅跡)の「大藏幕府舊蹟(旧蹟)」を訪問しました。と言っても↑写真の石碑が建っているだけでしたが(汗)Googleマップの所在地表示は「神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目6−26」となっております。↑小説の話ですが、吉川英治「新・平家物語(全16巻)」第7巻「広常参陣」の章には、頼朝公が根拠地を鎌倉に決める様子が描写されています。以下に整理してみました。千葉城での軍議の最後に「...