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荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...
長慶山 正覚院 大巧寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は日蓮宗を離脱した単立寺院で、ホームページによると、鎌倉時代初期に梶原景時邸に創建された「大行寺」という名の真言宗寺院が前身で、源頼朝の祈願寺となり、頼朝がこの寺で軍評定(いくさひょうじょう→作戦会議)を行った合戦が勝利につながったことから「大巧寺」に改めたと伝わります。その後、1320(元応2)年2月に現在地へ移転し、長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)にい...
中座山 大聖院 教恩寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、戦国時代中期に小田原北条氏の北条氏康(→3代目)が開基、僧の知阿が開山した時宗(じしゅう)寺院です。もともとは鎌倉時代前期に天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)北の山際に建てられ、現在地には光明寺の末寺「善昌寺」がありましたが、善昌寺が廃寺になったため、江戸時代前期の1678(延宝6)年に僧の貴誉が現在地へ移転したと記されます。本尊の阿弥陀如来像は...
令和5年2月6日(月) 【旧 一月十六日 仏滅】・立春・東風解凍(はるかぜこおりをとく)もののふの覚悟もかかる時にこそ心の知らぬ名のみ惜しけれ ~梶原景時(1140?-1200)辞世武士の覚悟はこのような時にこそ表れるものだ。その心も知られず汚名を残すのは口惜しいことだ
祇園山 安養院 田代寺(→神奈川県鎌倉市大町3丁目)は、鎌倉時代前期の1225(嘉禄元)年に、北条政子が亡夫・源頼朝(→鎌倉幕府初代将軍)の菩提を弔うために僧願行を開山として笹目ヶ谷(ささめがやつ→鎌倉市笹目町)に創建した浄土宗寺院です。創建時は「祇園山 長楽寺」という名前の真言律宗寺院でしたが、同年7月11日に北条政子が死去したため、導師(どうし→葬儀を取り仕切る僧)を務めた願行が、政子の法名「安養院如実妙観大禅尼」か...
鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ…です。
1/29(日)の早朝散歩の続き。 善福寺公園を歩いた後、最初は井の頭公園まで歩こうと思っていたんですが ふと思い当たって、「井草八幡宮すぐそこじゃん。」 井の頭公園も最近行ってないですが、井草八幡宮もご無沙汰なので 今回は急遽井草八幡宮の方へ行くことにしました。 まあ、気ままな朝散歩だしね。 そもそも善福寺公園行くのも歩き始めて何となく思い付きで決めたところだし。(^^ 数年ぶりの井草八幡宮。 まだ正月の名残があります。 早朝から多くの関係者さんたちが清掃等々作業している中参拝に来る人も多数。 この辺じゃかなり大きな神社だからね。 源頼朝ゆかりの神社で自身で雌雄二本の松を植えたと伝えられていて この松は初代が枯れた後植えられた2代目の松らしいです。 今回は16000歩ほどの..
【熱い想いを】『鎌倉殿の13人』ブルーレイをついに買った【語らせてくれ】
2022年の一年間、毎日曜日の8時に展開される地獄の乱高下ものがたりにより、感情のジェットコースターを味合わせてくれた『鎌倉殿の13人(以下殿)』。そのブルーレイをついに買った。第参集まで一気に。毎日曜日、そして再放送のある土曜日にダンゴムシのようになって目をはらしていたわたしを観てきた旦那様の方が楽しみにしており、1月10日に第弐集(欠品していて第壱集が一番遅く届くという)が届いて以来、毎晩2・3話観ては...
南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、平安時代末期の1181(養和元)年に源頼朝の祈願所として、僧の文覚(もんがく)が開山した真言宗大覚寺派寺院です。文覚は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、後白河法皇や源頼朝に重用されたもと北面の武士(→院御所を警固する武士)で、1180(治承4)年に平氏打倒を命じた後白河法皇の院宣を頼朝に仲介し挙兵を促したとされる僧侶です。昨年のNHK大河ドラマ「鎌...
23.【北条政子】 評価:70点/作者:永井路子/ジャンル:歴史小説/出版:1969年 『北条政子』は、1967年4 月~1968年6月 に『新潟日報』に連…
長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、平安時代前期の仁寿年間(→851年~854年)に創建された長尾山 威光寺(→別名長尾寺)の跡地に建立された天台宗寺院です。仁寿年間は天台宗寺門派の宗祖となる円珍(智証大師)が新羅商人の船で入唐(にっとう→唐に入国)した時期でもあります。長尾郷は、鎌倉時代前期の頃は関東御領(→鎌倉幕府の経済基盤となった荘園・公領)となるなど、源氏将軍家...
-つづき鎌倉ゆかりの地めぐりへ。バス乗り放題通行手形なるものを購入したけど、道に人がいっぱいで時間通りにバスが来なくて役に立たない。歩いたほうが早いそれでも、せっかく買ったのやから、北鎌倉までバスに乗ってみよう。まずは、円覚寺へ。「ここって、北条のお父さんの御廟があるんやなぁ~?」 って、横の石碑みたいなのを見ると、北条時宗・・・・・てーーー誰確か、この名前って歴史の教科書で元寇の時に出てきたよな...
筆者の生息地・名古屋では、本2023年1月4日から市営地下鉄の4つの駅の名称が 変更されました。 それには理由は二つほどあったようで、一つには「中村区役所」が新しい場所に 移転されたことで、それなのに駅名が従来通りに「中村区役所」駅のままでは さすがに不都合であるという...
白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)は、源頼朝にまつわる創建の縁起を持ちますが、その始まりについては2つの異なる説が見られます。1つは、鎌倉時代初期の1189(文治5)年7月に源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討伐した際に建てたという『新編武蔵風土記稿』の説で、もう1つは、平安時代中期の1061(康平4)年にこの地に創建された社(やしろ)が鎌倉時代初期の1192(建久3)年に源頼...
18.【曾我物語の史的研究】 評価:65点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2014年 『曾我物語の史的研究』は、「赤穂事件」「鍵屋の辻の決闘」と並…
17.【曾我物語~物語の舞台を歩く】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2005年 『曾我物語~物語の舞台を歩く』は、日本三大仇討、「赤…
16.【征夷大将軍~もう一つの国家主権】 評価:75点/作者:高橋富雄/ジャンル:歴史/出版:1987年 『征夷大将軍~もう一つの国家主権』は、源頼朝の征…
千葉神社(→千葉県千葉市中央区院内1丁目)は、古代より「妙見様」として親しまれてきた北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)を主祭神として祭る神社で、全国にある妙見宮の本宮を称しています。北辰妙見尊星王は中国から伝わった蕃神(ばんしん→異国からやってきた神)で、天の中央に位置する北辰(→北極星・北斗七星)が神格化したものです。古代には諸星・方位方角を守護する尊い神であると信じられ、平安時代前期に神仏...
15.【武蔵の武士団】 評価:70点/作者:安田元久/ジャンル:歴史/出版:1984年 『武蔵の武士団』は、武家の発生を、関東最大の律令制化の国、「武蔵国…
今年の大河ドラマ「どうする家康」のゆかりの地を訪ね、JR大高駅で下車し、大高城跡へと向かいました。すると、途中で八幡社の前を通ったので、お参りして来ました。八幡社治承 4年(1180)、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、相模国小林郷丸山に鎮座させ、その後、大高城主の花井備中守がこれを大高に勧請し、ここと大高城内の二箇所に祀ったのが創始と言われているがその年代は明らかではない。江戸時代までここは村人が...
14.【畠山重忠】 評価:75点/作者:貫達人/ジャンル:歴史/出版:1962年 『畠山重忠』は、吉川弘文館より刊行されている、日本史上の人物の学術伝記書…
13.【三浦義村】 評価:75点/作者:暁太郎/ジャンル:歴史/出版:2006年 『三浦義村』は、清和源氏の累代の家人、三浦一族の嫡流、三浦義村の伝記書で…
大谷山 吉祥院 法泉寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、この地を治めていた鎌倉時代前期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が、1195(建久6)年7月7日に亡くなった妻の秋楽院妙林大姉のために建立した重成山極楽寺を起源とする天台宗寺院です。1197(建久8)年には源頼朝・北条政子夫妻が参詣して供養料を寄進し、両者の死後、その法要が行われたと記されます。1229(寛喜元)年7月13日には...
12.【大江広元】 評価:75点/作者:上杉和彦/ジャンル:歴史/出版:2005年 『大江広元』は、吉川弘文館より刊行されている、日本史上の人物の学術伝記…
江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代①)源頼朝・北条政子・梶原景時・吉田兼好・藤原定家・北条時頼・佐野源左衛門常世
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
11.【源頼朝と鎌倉】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2016年 『源頼朝と鎌倉』は、日本史上初の武家政権、鎌倉幕府の初代将軍、源頼…
鎌倉市二階堂にある菅原道真を祀る荏柄天神社。鶴岡八幡宮の東方に位置し、鎌倉時代初期より鎌倉幕府との関わりが記録に見え、武家政権の守護神として、鶴岡八幡宮とともに信仰された神社です。社伝によれば、長治元年(1104年)、菅原道真を勧請し創立されたと伝わり、古くは荏柄山天満宮とも称される。創祀については、社蔵の江戸時代の書「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」によると、長治元年(1104年)8月25日に、空が突如暗くな...
10.【日本史リブレット人 029~北条時政と北条政子~「鎌倉」の時代を担った父と娘】 評価:70点/作者:関幸彦/ジャンル:歴史/出版:2009年 『日…
武士として初めて幕府を開いた源頼朝。その頼朝の墓は、神奈川県鎌倉市にあります。その墓に向かう階段をのぼる左側に白旗神社(西御門)があります。 (もともとは頼朝の持仏堂があった場所)白旗神社は、頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、鶴岡八幡宮の東500mほどにあります。 この地は、鎌倉幕府の北隅で持仏堂(守り本尊として常に身近に置いて信仰する仏像のこと)がありました。 境内入口の鳥居をくぐると正面に社殿があります。この社殿が実にシンプルです。 頼朝が本格的に打倒平氏に向けて挙兵した石橋山の 合戦のときに、源頼朝が髻の中に納めて戦ったという観音像が安置されていたそうです。 (頼朝の死後に法華堂に) 1…
8.【相模のもののふたち】 評価:65点/作者:永井路子/ジャンル:歴史/出版:1978年 『相模のもののふたち』は、鎌倉幕府草創に貢献した、相模国、即ち、…
最初の頃とは衣装がどんどん変わっていきましたね。偉くなった小四郎の衣装です。そうそうこんなこともありましたね(^^ゞ八田殿特製の小鹿富士の巻き狩りの時の頼朝の衣装政子の衣装もずいぶん豪華になりました続いて太郎の衣装です😄長身の坂口さんに似合いますね!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm...
再度鎌倉の大河ドラマ館を見学してきました。11月に模様替えされて、初期の頃とは異なる展示物も展示されていました。まだ純粋な青年だった頃の小四郎こと北条義時家族が和気あいあいだった頃の北条家この頃が懐かしいですね~出ました!平六こと三浦義村です!決して相談してはならないお方(^0^;)襟を正すと要注意(..;)源氏三代揃い踏み。いつの間にかお三方とも逝ってしまわれた(; ;)実朝くんの手には、演じた柿澤勇人さんが来館...
どこで聞いたのか、「頼朝と千葉常胤についての講演」問題が解決
頼朝と千葉常胤についての講演を聞いた記憶がある。 地元の公民館では、千葉県などを関する歴史についての講演会が多い。確か、去年か一昨年、聞いたはずだと思い、何回か、地元関係の資料を探していたがそれ
7.【つわものの賦】 評価:75点/作者:永井路子/ジャンル:歴史/出版:1978年 『つわものの賦』は、鎌倉幕府草創を、東国武士団の革命として、描いた、…
武士の時代を創ったのはだれか・・・という質問をしたとしたら、ほとんどの人が源頼朝か平清盛のどちらかの名前をあげるでしょう。わたしも、ひとりだけ名前をあげ...
鎌倉の三浦一族ゆかりの地をまわってみました。源実朝を暗殺した公暁が、事件後目指した三浦義村の邸宅は、現在、鶴岡八幡宮の東側に位置する横浜国立付属鎌倉小・中学校となっています。三浦義村鎌倉前期の武将。義澄(よしずみ)の子。母は伊東祐親(いとうすけちか)の女(むすめ)という。駿河守(するがのかみ)。評定(ひょうじょう)衆。1199年(正治1)梶原景時(かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱...
北鎌倉を巡る、寄り道歴史探索 Final 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の余韻を感じながら
これまでの北鎌倉探索報告 wagamama110.com wagamama110.com 思いのほか楽しめたので、週末に再び夫婦で訪れることに。 北鎌倉駅を出て少し南にある「VERVE COFFEE Kitakamakura」さんで先ずはコーヒーを堪能。 vervecoffee.jp いただいたコーヒー、少し浅煎り感はありましたが美味しかったので、家用の豆も購入しお店を後にした。 途中、浄智寺に寄り道をしながら南下、ここも前回ふれた鎌倉五山第四位の場所で、見応えは十分だった。 1281年頃の創建で、当時南宋から渡ってきていた多くの僧の影響もあって、中国様式の建物が多く見受けられた、建物ほとんど…
よく知られた史実でも、「その後」については無頓着のままでいることも案外に 少なくないようです。 筆者の場合なら、たとえば「奥州黄金」もそうしたことの一つなのかもしれません。 その「奥州黄金」とは、いわゆる「奥州藤原氏三(四)代」の時代(1087-1189年)に その地でメッ...
現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス 大正十三年三月建 鎌...
川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と「涙の対面」を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています...
6.【逆説の日本史 5 ~中世動乱編】 評価:80点/作者:安田元久/ジャンル:歴史/出版:2000年 『逆説の日本史 5 ~中世動乱編』は、1992年か…
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ大詰めを迎えることになった。ただ、こうしたドラマは視聴者に魅力・面白さを提供しないことには見てもらえないわけだから、その作り方もその方向に沿わざるを得ない宿命を背負っている。ということは、大河のような歴史ドラマ
尼御台!建国の母!尼将軍!北条政子ゆかりの鎌倉「寿福寺」「安養院」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、尼御台!建国の母!
3.【鎌倉将軍・執権・連署列伝】 評価:65点/作者:細川重男/ジャンル:歴史/出版:2015年 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』は、その題名の通り、源頼朝に…
【武都】章「参考文献」弐・鎌倉源氏三代記~一門・重臣と源家将軍
2.【鎌倉源氏三代記~一門・重臣と源家将軍】 評価:80点/作者:永井晋/ジャンル:歴史/出版:2010年 『鎌倉源氏三代記~一門・重臣と源家将軍』は、以…
1.【日本の歴史09~頼朝の天下草創】 評価:80点/作者:山本幸司/ジャンル:歴史/出版:2001年 『日本の歴史09~頼朝の天下草創』は、全24巻の講…
先日の放送(12月4日)で、三寅というわずか二歳の赤ん坊が京から鎌倉に送られてきました。後の鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経です。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍で、九条頼経とも呼ばれています。九条道家と西園寺公経の娘・掄子の子として生まれ、生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言いました。両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠...
鎌倉市大町にある浄土宗の寺院・安養院。この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係しているそうです。もとこの地には、尊観が開いた浄土宗の善導寺がありました。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が、源頼朝の菩提を弔うため、長谷笹目ヶ谷(鎌倉文学館付近)に創建した寺でした。政子の死後、北条泰時が伽藍を整備し、政子の法名から「安養院」と名付けました。1333年(元弘元年)兵火により焼失...