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ここ吉水神社は、元は吉水院(きっすいいん)という金峯山寺の僧坊で、源頼朝に追われたました源義経が、弁慶や静御前と潜んだとされていいます。花見客の多い4月、吉水神社には義経や静御前ゆかりの品が展示されていました。義経の鞍義経の鐙義経の書義経の色々威腹巻義経潜居の間「義経潜居の間」の隣には一畳の「弁慶思案の間」があります。ここで彼らはこの先の逃亡のルートを考えていたのでしょうか。静御前の舞の衣や鎧。(...
鎌倉の妙本寺の立つこの辺りは比企が谷といい、鎌倉時代には比企能員や比企尼をはじめとする比企一族が住んでいました。懐妊した北条政子は、比企の館に入り、万寿(後の源頼家)を出産。比企一族と頼朝の絆は、さらに深まっていくのでした。総門しかし、建仁3年(1203年)9月2日、2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされてしまいました。唯一、京都にいて難を逃れた比企能員(よ...
鎌倉の妙本寺の総門から住宅街の小道を進んで行くと、民家の間に常栄寺という小さなお寺がぽつんとあります。通称ぼたもち寺の名で知られているこの寺の裏山は、源頼朝が由比ガ浜を眺めるための桟敷(展望台)を設けたところといわれています。ここを守護していた印東祐信の妻の日蓮宗の尼僧・桟敷尼が、文永8年(1271年)の龍ノ口法難の折り、処刑のため刑場(現・龍口寺)に引かれて行く日蓮に胡麻ぼたもちを捧げたところ、この...
義経の逃走ルートを追って、石川県小松市の「安宅の関」にやって来ました。兄の源頼朝に追われる立場となった源義経は、かつて世話になった奥州・平泉の藤原氏を頼ろうと旅立つが、これを捕らえようと頼朝は各地に関所を設けた。1187年、山伏姿に変装した義経主従一行は安宅の関に到着。怪しいと感じた安宅の関守・富樫康家は東大寺復興勧進のため諸国を廻っているという弁慶に勧進帳を読ませる。何も書かれていない勧進帳を弁慶は...
若宮大路(わかみやおおじ)は、鎌倉市の由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる約1.8km)に及ぶ参道です。由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」と3つの鳥居があり、 二の鳥居から三の鳥居までの間は、盛土によって大路中央部分は一段高く、その両側に堤を築いて石を置いた段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道になっています。段葛は、遠近法によって実際の距離より長く見えるように、二ノ鳥居から鶴岡八幡宮側...
鎌倉十橋の一つ、琵琶橋を訪ねてみました。鎌倉十橋(かまくらじっきょう)とは、鎌倉を流れる滑川などに架かる橋の中で、古くから重要な交通路にあった橋や、伝説の伝わる十の橋のことです。江戸時代に『新編鎌倉志』で選定されました。現在は橋としては残っておらず、碑だけが残っているところもあります。鎌倉十橋とされたのは以下の10の橋である。歌の橋夷堂橋勝ノ橋裁許橋逆川橋十王堂橋筋違橋針磨橋琵琶橋乱橋琵琶橋と琵琶小...
鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路沿いのガソリンスタンドの脇に「下馬」の碑が建っています。往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ今ニ地名トシテ存ス此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上鶴岡ニ向ヒ八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顯ハシタマヘト大音...
藤沢の 白旗神社は、古くは寒川神社とよばれていました。吾妻鏡によると、源義経の首は奥州から鎌倉へ送られ、腰越において和田義盛、梶原景時らによって首実験が行われました。伝承では同時に弁慶の首も送られ、首実験がなされ、夜の間に二つの首がこの神社に飛んできたといいます。このことを源頼朝に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神として後に白旗神社とよばれるようになりました。一...
白旗交差点近くのマンションの前に「伝源義経首洗井戸」の立て札があります。この立て札と交番の間の道を入ったところに小さな公園があり、その一角に「義経首洗井戸」がありました。井戸の脇には「九郎尊神」という文字が刻まれています。腰越の浦で首実験された源義経の首は浜に捨てられましたが、その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、藤沢の里人によってこの井戸で清められ、葬られたと伝えられています。 以前は首洗井戸...
藤沢本町駅から歩いて10分ほどのところの常光寺というお寺の裏山に、弁慶を供養したという「弁慶塚」が庚申塔とともにあります。弁慶塚と書かれているようですが、石の表面が削られていてはっきり見えませんでした。画像で確認できるでしょうか。なぜここに弁慶が祭られたのか?ここには以前、八王子権現社という白旗神社(義経を祭る)の末社がここにあったことから、弁慶塚が残されているようです。「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ...
義経公首洗井戸から歩いて数分のところに荘厳寺というお寺があります。荘厳寺は、1184年に覚憲和尚により創建され、一時荒廃してしまったが、1235年に覚盛上人により再興された。その後、火災により1747年、白旗神社隣に移転し、白幡神社の別当寺となったが、明治に入り神仏分離令により分けられ、現在の地に移った。こちらには義経のご位牌が祀られています。荘厳寺に祀られている源義経の御位牌は、1832年に宥全和尚によって作ら...
願成就院は、『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で、鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のため建立したといいますが、寺に残る運慶作の諸仏は、文治2年(1186年)から造り始められていることから、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられています。大御堂その後、北条義時や北条泰時によって堂塔が整備され、巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそ...
東京都世田谷区下馬にある駒繋神社駒繋橋創建年代は不詳ですが、天喜4年(1056年)源義家と父・頼義が、奥州の安部氏征討に向かう途中、戦勝祈願したとされています。また源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐の際にも、松の木に駒を繋いで戦勝祈願したと伝えられています。 世田谷区のHPに「馬引沢」「下馬」の地名と芦毛塚の由来が紹介されています。ずっと古く文治5年(1189年)に源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州...
荒川区南千住にある神社の紹介です。白髭橋から隅田川に沿って北に歩くと、石浜神社の鳥居が見えてきます。神社の由緒書きによると、 文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281)、蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て、中世初めには大社としての発展を見ました。殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は...
東京都杉並区善福寺に鎮座する井草八幡宮。平安時代末期は春日神を祀っていましたが、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになりました。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をした伝えられています。江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進。以降幕末まで歴代将...
東京都杉並区の善福寺公園は、善福寺池を中心に、遊具・遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっています。また、善福寺池は善福寺川、また東京都水道局杉並浄水所の水源にもなっています。善福寺池は、湧水量も多く、古来より武蔵野三大湧水池のひとつとして知られていました。善福寺池の名の由来は、池のほとりにあった寺からきていますが、江戸時代に廃寺となっています。池は上の池と下の池に分かれ、両方で約37,000平方メート...
江戸時代の田端は田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていました。東京都北区田端4丁目に鎮座する上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、文治5年(1189年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社です。現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれてい...
この大泉寺には全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。またその切り株は、お寺で保存されて...
比企能員ゆかりの「岩殿観音正法寺」、北条政子の守り本尊がある古刹【埼玉・東松山市】
埼玉県東松山市の岩殿観音正法寺は、1300年以上の歴史を持つ古刹。鎌倉時代には家臣・比企能員に、源頼朝が妻・北条政子の守り本尊とするため再興させたと伝わります。比企能員とのゆかりとともに、岩殿観音の見どころを紹介。
頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(1)頼朝の詠んだ白糸の滝
曽我物語は、建久4年(1193年)に源頼朝が富士の裾野で行った富士の巻狩りの際、富士宮市上井出の地で、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした伝説を基にしています。頼朝は、富士の巻狩りの際、「白糸の滝」を訪れたといいます。2013年の5月、白糸の滝から曽我兄弟の史跡巡りをしてみました。世界遺産登録に向けて、工事中で滝壺に降りることができなくなっていたため、こんな画像しか撮れませんで...
音止めの滝(おとどめのたき)は静岡県富士宮市にある滝で、すぐ近くの白糸の滝とともに日本の滝百選の一つに数えられています。白糸の滝とは違って、音止めの滝は、水量が多く、ダイナミックな滝です。音止めの滝高さ約二五メートル、幅五メートル水量は富士山への積雪、上流部への降水量等により大きく左右されます。この滝の名前の由来は、建人四年五月二十八日(約八百年前)曾我の五郎、十郎兄弟が父、河津三郎祐泰を工藤祐経...
頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(3)曽我の隠れ岩と工藤佑経の墓
忠臣蔵、伊賀越えの仇討ちと共に、日本三大仇討ちに数えられる「 曾我兄弟の仇討ち」ゆかりの史跡「曽我の隠れ岩」が、音止の滝の東側にあります。「武勇見立十二支 曽我五郎 午」 歌川国芳画曽我の隠れ岩の由来曽我兄弟(兄十郎祐成、弟五郎時 致)の父河津三郎祐泰は、領地争い により伊豆で工藤祐経に暗殺されま した。兄弟は、武士道の面目にかけ 仇討ちを念願し、建久4年(1193年)富 士の巻狩に参加していた工藤祐経を ついに...
頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(4)曽我八幡宮(上井出)
富士宮市上井出に鎮座する曽我八幡宮は、 曽我兄弟を祭った神社です。社殿は、珍しいピンク色をしています。 社伝は、源頼朝が曽我兄弟の孝心に感じ、兄弟の英魂を祭るよう畠山重忠を遣わし、建久8年(1197)に上原の住人渡辺主水に祭らせたと伝えている。この地は、新田四郎忠常の陣所の近く、十郎祐成が討たれた所だと言い伝えられている。 主神は応神天皇で、兄弟はその相殿として祭られている。主神の応神天皇の尊像は...
曽我八幡宮の東側、この階段をのぼったところに曽我兄弟の墓があります。この近くに新田四郎忠常の陣所が置かれ、その辺りで兄の十郎祐成が討たれたといわれています。建久四年一一九三年右大将源頼朝富士之巻狩 を行いし時幕臣仁田四郎忠常の陣屋の所在地 にして曽我兄弟が怨敵工藤祐経を討ち果した る後餘勢を馳りて寄せ手を斬り払いつゝ拾町 余を走りしに終に精魂に盡きて祐成が仁田の為に討たれた所なりと伝ふ。後人二孤が孝烈...
曽我兄弟の史跡は、曾我兄弟の仇討ちの舞台の地である県内各地に点在し、厚原にも曽我八幡宮があります。こちらは2010年に改修工事が行われたそうです。 曽我兄弟の父が、工藤祐経に討たれたときは、兄は5歳、弟は3歳だったといいます。境内には、幼い兄弟がいつか親の仇をとろうと誓い合う像が立っています。幼い兄弟の像が愛らしいだけに、悲しみを誘います。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろし...
富士市厚原に鎮座する玉渡神社。曽我兄弟の兄の曽我十郎の恋人、虎御前が、兄弟の供養のため、終焉の地・井出の里に向かう途中、この祠で休んでいたところ、夜中にふと目をさますと、曽我寺の辺りから、二つの火の玉が飛んできて、虎御前の前まで来ると消えてしまいました。それが、兄弟の魂だと確信した彼女は、その夜から七日七晩、この祠で念仏を唱え、兄弟の冥福を祈りました。そのけなげな姿を見た地元の人々が、虎御前の死後...
阿野全成の幼名は今若。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。頼朝の死後、嫡男の源頼家が...
建久4年(1193)源頼朝が、富士の巻狩りを催した折、曽我兄弟は、頼朝の寵臣になっていた父の仇である工藤祐経を討ち取りました。兄の十郎はその場で討たれてしまいましたが、弟の五郎は、頼朝の宿所にめざしましたが、頼朝の側近に捕えられました。翌日尋問が行われます。頼朝は五郎が勇気ある武士だということで助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆願により処刑されました。一説には、単なる仇討ではなく、背後には北条時政など...
富士山本宮浅間大社は、全国に約1,300社ある浅間神社の総本社で、富士山を神体山として祀っています。当大社は、朝廷や武家より篤い崇敬を受けてきました。延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。源頼朝は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納。現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。北条氏ともゆかりが深く、後に北条義時が社殿を造営...
岩船地蔵堂とは、鎌倉・扇ヶ谷から亀ヶ谷坂の分岐点に建つ小さなお堂で、ここには源頼朝と北条政子との長女・大姫の守り本尊とされる木造地蔵菩薩立像が安置されています。大姫は許婚の木曽義仲の息子・義高を政略のために殺され、失意のあまり病にかかってしまい、若くしてこの世を去りました。武者鑑一名人相合南伝二 大姫君(一猛斎芳虎画、国立国会図書館蔵)治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初...
修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...
源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。現在の範頼墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザイ...
源氏山は源義家が後三年の役で奥州に向かう際、山頂に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したところです。源頼朝もこれにならい、平家討伐の際、源氏山の山頂で戦勝を祈願したといいます。頼朝の鎌倉入り800年を記念して約2mの頼朝像が造られました。源氏山公園の中央には芝生が広がり、家族連れの憩いの場となっています。源頼朝公銅像碑この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よ...
静岡県袋井市の油山寺の三重塔は、建久元年(1190年)源頼朝が眼病全快のお礼に建立されたものであり、その後、遠江国守護職工藤祐経が薬師堂と共に普請奉行をした塔です。内陣には、弘法大師作と伝えられる大日如来を安置し、塔の高さはおよそ23メートル、上層は唐様と天竺様を用い、中下層は和様式、三手先組一式、上層は2.3メートル四桃山期の姿を今に伝え、桃山の三名塔の一つに数えられています。方、中層は2.8メートル四方、...
東京都品川区北品川三丁目にある品川神社は、文治3年(1187)創建、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請したことが始まりといわれています。昇り龍下り龍の彫刻が施された石造鳥居天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸城に入り、翌19年11月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜りました。現在の社殿は昭和39年に新築されたものです。また、本殿には、東海七福神の大黒天が祀られています。境内に...
鎌倉権五郎景正は相模川から今の藤沢市一帯を開墾し、伊勢神宮に寄進した土地は大庭御厨おおばのみくりやと呼ばれました。領主となった大庭景能は、大庭御厨の一画である懐嶋(現在の円蔵、浜之郷、矢畑付近)を治めており、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し、神明大神宮を建立しました。1190年、京に向かう源頼朝がここに宿泊しました。大庭氏が滅びた後も、地域を守護する神社として多くの人に尊ばれてきました。円蔵祭囃子の由来平安末期...
茅ヶ崎の鶴嶺神社の大きな赤い鳥居横には、弁慶の霊を鎮めるために里人が建てたと言われている「弁慶塚」があります。 弁慶塚の由来 武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久9年12月28日その落成供養を行った。 源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列。盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、 義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒...
源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧、義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。1191年には、源頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興しています。鶴嶺八幡宮御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀...
茅ケ崎市南湖の御霊神社は、大庭景能が鎌倉権五郎景正の霊を祀ったことが始まり、また1198年、相模川に新造した橋の落成供養から帰る源頼朝の前に、亡霊となった源義経の怨霊を供養するため、御霊神社に霊を合祀したと伝えらえています。武運長久である2つの御霊が祀られていることから、合格祈願や願掛けにご利益があるといいます。 御霊神社の由緒 御祭神 鎌倉権五郎平景政 御祭神 九...
源頼朝は、建久9年(1198)12月27日、相模川橋の法要供養から鎌倉への帰途に落馬したと伝えられています。頼朝は、源義経、源行家、安徳天皇らの亡霊に遭って落馬したとも伝えられています。この時、警護の武士10人が責任をとって自害し、その墓が龍前院の境内の10基の五輪塔であるとも言われています。「源頼朝公 落馬地」は、神奈川県藤沢市辻堂の三浦藤沢信用金庫辻堂支店の駐車場前に、看板があるのみの史跡となっています。源...