メインカテゴリーを選択しなおす
想い出Photo見出したら止まりません☺️みんな良い子で可愛い自慢の子たちウワァ〜、懐かしい家の子だぁ〜が居るかも・・・ノーフォークテリアもばぁ〜ばの願いが叶いますように・・・と祈る日々ニュージーランドから遥々ばぁ
ランキング参加中シニアのミニマルライフ [はじめに] 余命も僅かとなった今、人生を振り返ると、苦労や失敗の多くが思い出されます。「冥途のみやげ」には、苦労話は歓迎されないでしょうから、数少ない「楽しい話」を探してみました。 「楽しい話」と書くと、遊園地や趣味・娯楽に纏わる話を連想しますので、そのような「退屈な話」は省き、「自身が幸せに感じた」出来事を採り上げることにしました。 これは、私の胸の中の「秘密ファイル」ですが、「裸の大将」で生きてきたので、今更隠すことも無かろうとの決断で公開します。 ・・・・・***・・・・・ 私が小学校へ入学したのは、太平洋戦争が終結した翌年でした。日用品や食糧が…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 私の青年時代は、マイカーが普及する前でしたから、鉄道旅行が一般的でした。高度経済成長で、サラリーマンや職人たちの娯楽の要素は「飲み・打つ・買う」でした。 ですから、私も時流に乗って、給料はすべて使い果たしていました。 独身寮では、毎晩マージャンが行われていました。 夜勤明けの日は、一人休日ですから、パチンコ店へ通いました。 職場の同僚と競輪場へも通いました。 時々は、先輩に誘われて、赤暖簾をくぐって酒をごちそうされました。 また、工場長に誘われて、ビヤホールで緊張したこともありました。 当時は、職場の慰安旅行で親睦を深めていました。年1回の職場慰安旅行は…
現在は晩婚が多くて、30代まで独身で、仕事と遊びを両立されていますが、昔は、婚期の女性に対して外野がうるさかったです。このため、20代前半で結婚する女性が大半でした。 私は、18歳まで名古屋で暮らし、就職と同時に小倉で独身寮生活が始まりました。工場は男性ばかりですし、独身寮は、社宅を流用して、1軒に4名のすし詰め状態でした。高度経済成長時代で、プラント工場では、3直4班制で、1か月に1度の定期整備で停止すること以外は連続運転のフル操業でした。休日は一人で過ごすことが多くて、味気ない毎日でした。 労働組合の代議員として、東京へ出た際に本社を訪ねたら、新設工場の要員候補者に私の名前が入っている様子…
私が社会人となり、初めての職場が「酸素製造工場」でした。 新設工場であり「液体酸素の製造プラント」がメインで、50名程の社員でした。 当時は、職員と工員と分けた職工制度があって、工員は現地採用、職員は本社採用でした。 技術職員が10名程で、新入職員は、私を含めて5名でした、 「液体酸素の製造プラント」は、大量の高圧空気を低温まで冷却します。従って、大量の電力を消費しますから、「法定電気主任者」が常駐されていました。しかし、夜間は不在ですから、技術職員で故障時の対処を迫られます。 工場が玄界灘の海岸線沿いにあったので、塩害で返電所の受電碍子が破損して停電になったことがありました。その後は、定期的…
私が30歳の頃、会社創立60周年を記念して、社内懸賞論文の募集が発表されました。当時は、技術部の若手同僚5名で「朝の勉強会」を行っていました。そこで、懸賞論文を作成することが決まり、手分けして調査したり、討議して3ヶ月で作成できました。 会社創立は明治43年で、ドイツから「酸素製造装置」一式を輸入して、溶接用の高純度酸素ガスを製造しました。私が入社した当時は、全国に20ケ所程の工場があって、本社は銀座5丁目にありました。造船業や製鉄業の発達に合わせて、酸素会社も規模を急拡大しつつありました。製鉄所の構内に、合弁会社のオンサイトプラントを建設して、プラントの自社製作と運転要員の派遣を引き受けてい…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 私が32歳の時、12月から2月まで2か月半に亘って仕事で沖縄に滞在しました。 沖縄が日本に返還される前年度で、ドル通貨でした。中古の「液体酸素製造プラント」を沖縄の酸素会社へ売却したので、その移設工事立会いと先方社員への教育を担当しました。 那覇市の公共施設に滞在して、嘉手納基地の前にあった移設現場までタクシーで通いました。 単調な景色でしたが、晴れた日と曇った日では、海の色が違いました。 移設現場からは、嘉手納基地内の大型爆撃機B-57を高いフェンス越しに見られました。 当時、妻は東京都立保育園の保母さんでした。年末年始休日を那覇観光に充てて、那覇市の…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 私は、1部上場企業の本社に23歳から9年間も在籍していたのですが、突然に、勝手な理由で自己都合退職しました。その時に、人事部長から「希望の職場があれば考慮したい」との最後の言葉に、感謝の気持ちで応答出来なかったことが心残りです。それまでの長い間には、多くの上司の好意と同僚の協力があって自分の仕事ができたのですが、退職することだけに集中していました。 当時は、名古屋にも職場がありましたので、そこへの配置換えを含んだ言葉でした。 ところが、私は自己の利益を優先した選択はしたくなかったのでした。ご厚意に対して一方的な返答をしてしまったことに対して、今では反省し…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 「脱サラ」を目指して退職はしたものの、起業に必要な資格取得が緊急の課題でした。先ずは、基礎技術である「電気制御盤の製作技能」習得のために、電気工事会社に転職しました。ここで、1年間近く勤めました。次いで、「消防設備工事の実務」を習得のために、防災設備工事会社に転職しました。ここにも、1年間ほど勤務して、その間に、「自動火災報知設備」の保守管理と工事の実務を体験しました。そして、帰宅してからは、専門書や消防法令を学習しました。 「消防設備士制度」は、1966年(昭和41年)10月から国家資格制度として発足したので、当時は、発足後7年目の新しい資格制度でした…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 「ミドリ防災有限会社」を設立したのが1974年(昭和49年)9月でした。そして、会社整理したのが、1987年(昭和62年)3月ですから、12年6ヶ月の操業でした。 経営不振とか後継者不足などの理由ではなくて、私の業務転換計画に対して、従業員からブーイングを受けての事業閉鎖でした。 「消防用設備の業務」で12年間を費やして、名古屋市の中心部にある複合施設から愛知県内の大規模工場まで、手広く保守業務を展開していましたが、下請け業務が80%でしたから、人件費の上昇により、利益を圧迫していました。そこで、「駐車場設備」部門を強化すべく、社長自ら大規模駐車場の自動…
ランキング参加中シニアのミニマルライフ 昨年の6月3日に、妻が「大動脈弁の取替手術」をしました。人工弁と交換して、手術が成功しました。これには、長い間の苦痛と手術に至るまでの調査検討が行われました。 生死をかけた大手術で、胸骨を切断して直接心臓を開き、人工心臓で血流をバイパスしました。そして、5時間も心臓を停止して、7時間に及ぶ手術でした。 以前から心臓機能に欠陥があったのですが、内科的治療で数年間を対処してきました。そして、今回の手術までに、手術手法の検討が半年間ほど行われました。 一般には、年齢が80歳を超えた高齢者にはTAB法(カテーテルを挿入して弁を追加設置する応急的手法)で対処されま…