メインカテゴリーを選択しなおす
大化改新の方程式(239) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き” その3
【前回までのおさらい】・大規模な人民動員を可能にする中国皇帝を理想像とした宝皇女は、倭国型皇帝の権威を創出するために飛鳥の聖地化を企てた。それが皇極・斉明の両期における彼女の“興事”だった。・『日本書紀』皇極紀おいて、八佾の舞や甘樫丘の邸宅建造など蘇我父子の専横の象徴として描かれているものの多くは、宝皇女による飛鳥聖地化に向けた“興事”の一貫であった。【ここでの課題】彼女の“興事好き”が、乙巳の変以降の...
はじめに 明日香の石造文化。#飛鳥石 は #石舞台古墳 を始めとする古墳にもよく使われました。その石切り場と云われる薬師堂近くの断崖とお滝場を見学 目次 地図では薬師堂が目印 滝があるかつての飛鳥石の採石場 飛鳥石のかつての採石場跡とされる崖(薬師堂奥)の滝(お滝場) 本文 地図では薬師堂が目印 www.zero-position.com 先日紹介した氣都倭既神社(けつわきじんじゃ、茂古の森)を談山神社に向かって、多武峰見瀬線(県道155号線)をもう少し上の方に進み、氣都倭既橋(けつわきばし)を越えてすぐ、道路に沿ってフェンスの入り口が見えます。 フェンスは、イノシシ・シカ対策に常時閉じられて…
大化改新の方程式(237) 自説のまとめ:宝皇女の“興事好き”
【ここでの課題メモ】前回から始めた自説を振り返るための、自説のまとめ第2弾。その第1弾として前回では、皇極期を通して皇極女帝への圧力となり、上宮王家滅亡事件や乙巳の変に大きく関わる“女帝不可”の思想をとりあげた。『日本書紀』によれば、斉明天皇は“興事好き”で、飛鳥を中心に多くの構造物を創造した。斉明朝の実力者が中大兄皇子や中臣鎌足であったというのでなければ、この所業は斉明こと宝皇女の強烈な個性を示すもの...
大化改新の方程式(236) 自説のまとめ:“女帝不可”の思想
ずいぶんと遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。さて、前回「自説を振り返る」と自らに宿題を課した手前、この年末年始の暇な時間を利用して、過去の記事を読み返してみた。「大化改新の謎解き」をテーマにしつつも、話は6世紀末の穴穂部皇子騒動から663年の白村江の戦いまでおよび、その間、自らトンデモ宣言した説や後日再考すべしとして放置した考えが数多あり、また、自説として残したい考察にも、理屈や資料解...
長らく「白村江」をテーマにつづってきたが、その間、感慨深いニュースがあった──遠山美都男氏『大化改新』の30年ぶりの改訂だ。旧版は、当時(1993年)、新書レベルでは初めて「乙巳の変」の孝徳(軽皇子)主犯説をぶちあげたと思う。学会でどういう評価を得たかはともかく、巷の古代史ファンにはかなり話題になったのではないだろうか。私にとっても衝撃的な出会いとなった本の1つだ。ただ、新版のはしがきで遠山氏が触れている...
(前回からの続き)『大化改新』新版で、旧版から大きく変わった2点目、「(B)7世紀半ばのこの時期に生前譲位が必要とされた背景」についてみてみよう。旧版では、6世紀の欽明天皇以降に確立した世代内王権(王位)継承のシステムにおいて、それに内在する危険性(同一世代に属する有力な皇子が複数存在するときに、大王死後に不可避となる紛争)を未然に抑止する「安全装置」として考え出されたのが、大兄と大后の制度であり、大...
当ブログで「大化改新」をテーマに自説を展開してから早10年になる。当初展開した自説については、自らトンデモ説宣言をしたもの、機会をみて再検討したいとして放置しておいたものが多々ある。そろそろ自説を振り返り、断捨離を行うタイミングであろう。そう考えたのは、10年という節目だけでなく、先般刊行された仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』が、これまで私が展開してきた自説を再構築するには、格好のテキスト...
いにしえの都・飛鳥に思いを馳せよう・・・『まほろばトリップ 時のむこう、飛鳥』
『まほろばトリップ 時のむこう、飛鳥』倉本由布主人公は中学1年生の女の子・真秀(まほ)。7年前に奈良県高市郡明日香村ならけんたかいちぐんあすかむらにあるおじいちゃんの家で二つ年上のお兄ちゃんが行方不明になった。お兄ちゃんの手がかりを探したく
橘樹郡衙跡(たちばなぐんがあと→神奈川県川崎市高津区千年)は、律令国家の頃の武蔵国橘樹郡の役所跡である橘樹郡衙(→郡家とも)跡である千年伊勢山台遺跡と、その西側に隣接して造営された古代寺院跡である影向寺遺跡から構成される古代官衙の遺跡で、7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知るうえで重要であるとして、2015(平成27)年3月に国史跡に指定されました。〖千年伊勢山台遺跡(橘樹郡衙跡)〗丘陵上に営まれた縄文時代...
飛鳥池遺跡で飛鳥時代後半(7世紀後半)の古代の仮面舞踊劇「伎楽(ぎがく)」に使用する面の一つ「酔胡王(すいこおう)」を描いたとみられる木簡が発見された。 伎楽は612年に百済人が伝えたと『日本書紀』にあれ、記述の裏付けになるという。[読売新聞]※新発見以外の歴史ニュースは「歴史タイムッス」でどうぞ。...
着物に伝統のあるものは少ない 古代は左前、琉球やアイヌは戦前まで左前だった。着物雑誌も戦後すぐに左前で着る提案をしていた。(前編)
今回は、着物の左前・右前についてのお話です。 本題に入る前に、右前・左前の定義について書いておきたいと思います。 着物の世界では、着物の着方の常識として、男性も女性も「右前」に着るのが決まりごととされており、「間違えて左前で着てしまうと大恥をかく」と言われているくらい、着物の着付けでは絶対的なしきたりのように言われています。 私のオススメは、「他人から見て小文字のyの字になるように着る」と覚え...
奈良時代の高僧・行基菩薩とせんとくんが近鉄奈良駅で華麗なるコラボ
行基(ぎょうき)と奈良県の公式マスコットキャラクター・せんとくんが古都奈良で見事なコラボレーションです せんとくん 平成30年(2018年) 10月11日 村内伸弘撮影 奈良きたまち(奈良北町)から東大寺、そして東大寺からバスに乗って近鉄奈良駅にやってきました。 近鉄奈良駅...
藤原宮跡で飛鳥時代に天皇が儀式や政務を行う前の控え室として使ったとみられる建物跡が大極殿跡の北側で発見された。 同様の構造の建物は平城宮(奈良市)や平安宮(京都市)などでもみられるという。[NHK]...
城山の高茶屋大垣内(おおがいと)遺跡で平安時代末期(12世紀前後)の道路跡などが発見された。 飛鳥・奈良時代(7~8世紀)とみられる掘立柱建物跡や竪穴建物跡2つも発掘されたという。[中日新聞]...
[夏の七ヶ浜町ドライブ #13] ながすか多目的広場と長須賀遺跡
「菖蒲田浜海水浴場」のすぐ隣は、広い公園になっていました。 きれいに刈り込んだ緑の芝生広場や屋外遊具がありました。屋外遊具はすべり台やジャングルジムで、どっちかっていうと小っちゃい子たちが遊ぶようなかんじでしょうね
東北には、阿部・安倍といった苗字が多いです。奈良時代の後半以降に下賜された臣姓で、その頃は大抵、「阿倍」と書いていました。平安期には、安倍清明で知られるように安倍表記が、江戸になる頃には、阿部表記が主流だったようです。……先に安倍清明(10世紀)を挙げましたが、こちらは中央の安倍。中央の安倍の歴史は古く、後世は陰陽道に生きるようになりましたが、継体天皇の時代以降、急速に力をつけた氏族であると見られてい...