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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 34.徳川家康・二十弐
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。 そして、八年後の1581年…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 33.徳川家康・二十壱
1580年(天正八年)8月までには、徳川家康は、「高天神六砦」と呼ばれる、小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦を完成させ、高天神城への…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 32.徳川家康・二十
高天神城の守将の小笠原信興は、徳川家康を見限り、武田勝頼氏に降ると、駿河国東部に一万貫の高待遇で、移封されている。 松下之綱は、解放されたが、その後、織田信…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 31.徳川家康・十九
武田勝頼は、上杉景勝と同盟したため、北条氏政と対立することになった。 武田勝頼は、織田信長との和睦を模索し、人質の信長の五男、勝長を返還したが、信長は、黙殺…
【どうする家康】#26 狸と狼の化かし合い、絶品海老すくいで切り抜ける
アイドル松潤家康、面目躍如の舞 NHK大河ドラマ「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」が先週7/9に放送され、アイドル松本潤はやっぱり伊達じゃなかったと感嘆するしかないキラキラの「海老すくい」を見せて頂いた。今回はこれが白眉。 上半身を真っ直ぐに、舞台上にスススと滑るように進み出るブレない姿は、古いけど「徳川慶喜」本木雅弘が禁中で走る姿を思い出した。それでいて腰を曲げて跳ねる時の軽やかさ。よろけそうもないバランスの良さ。上品だな~これは絶品って言うべきでしょう。 松潤の「嵐」としてのダンスはいつが最後だったのだろう。彼が踊るのはそれ以来じゃないのか。お宝ダンスだったかな。 それに、後編突入…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよあの事件が起きる…その前の第26話の感想ぉ〜!瀬名と信康、大切な2人を失った家康。武田との高天神城…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 29.徳川家康・十七
織田信長が、長篠の戦いにおいて、武田勝頼に勝利を治めた頃から、信長と徳川家康は、対等な同盟関係ではなくなってゆく。 徳川家康は、「一門に準ずる、織田政権下の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 28.徳川家康・十六
鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。 武田の敗残兵達…
どうする家康 第26話「ぶらり富士遊覧」 ~武田滅亡と信長の駿河訪問~
息子の松平信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田に奪われていた高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高...
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回は辛すぎて悲しくて泣いたよーってことで第25話の感想ぉ〜!瀬名が目指した慈愛の国…武田勝頼が裏切り、瀬…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 27.徳川家康・十五
鳥居強右衛門は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、武田勝頼の命令とは、逆のことを大声で叫んだ。 武田勝頼は激怒すると、部下に…
有村架純を再登板させる手は NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」は、7/2に放送され、ここまでドラマを引っ張ってきた家康の正室・瀬名が、いわゆる「築山殿事件」にて残念ながら最期を迎えるに至った。 公式サイトからあらすじを引用させていただこう。 武田勝頼(眞栄田郷敦)の手で暴かれた、瀬名(有村架純)と信康(細田佳央太)の計画。それはやがて信長(岡田准一)の知るところとなる。2人の始末をつけなければ織田と戦になる。それでも家康(松本潤)は信長の目を欺き、妻子を逃がそうと決意する。一方、瀬名は五徳(久保史緒里)に、姑は悪女だと訴える手紙を信長に宛てて書かせ、全ての責任を負おう…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 26.徳川家康・十四
武田氏の西上作戦の頓挫によって、織田信長は、反織田勢力を撃滅して、徳川家康は、勢力を回復して、攻勢に出た。 それに対し、武田信玄の後継者、武田勝頼は、攻勢に…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜築山信康事件って、未だ謎なんだよねってことで第24話の感想ぉ〜!!いよいよ瀬名が動き出しました。瀬名のいる…
どうする家康 徳川家康は、1543年、三河国岡崎城で生まれました。幼名は竹千代といい、今川義元の養子となりました。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、家康は独立を宣言しました。その後、織田信長と結びつき、勢力を拡大していきました。1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、家康は豊臣秀吉と対立するようになりました。しかし、1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、天下人となりました。1603年、江戸幕府を開き、初代将軍となりました。1616年、73歳で亡くなりました。 瀬名の謀 瀬名が謀をめぐらし 武田勝頼と出来レースをすすめていきます しかし 武田勝頼がバラしてしまい 織田信長の知るところ…
酒井忠次以下、家臣団は優秀なのに殿は NHK大河ドラマ「どうする家康」第24回「築山へ集え!」が6/25に放送された。まずは公式サイトからあらすじを引用させていただく。 瀬名(有村架純)と信康(細田佳央太)が各地に密書を送り、武田方をはじめ多くの者が築山を訪ねていることを知った家康(松本潤)。これが信長(岡田准一)に伝われば、命より大事な妻子を失うことになる。苦悶の末、家康は数正(松重豊)らと共に築山へと踏み込む。だが瀬名は、家康が来るのを待ち構えていた。瀬名は、内々に進めていた途方もない計画を明かし・・・。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK) 家康、「苦悶の末」…
どうする家康 第24話「築山へ集え!」 ~築山事件(松平信康自刃事件)前編~
いよいよ物語は、徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件に入ります。松平信康自刃事件とも言いますね。諸説あって謎が多いこの事件ですが、通説とされてい...
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...
掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた東海一の堅塁を誇った標高132メートルの山城です。眼下には、下小笠川など中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、「難攻不落の名城」と呼ばれていました。高天神城の築城は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承がありますが、室町時代、...
瀬名は「静かなジャンヌダルク」 NHK大河ドラマ「どうする家康」第23回「瀬名、覚醒」という何とも来ないでほしい未来を感じさせる副題の回が6/18に放送された。はい、1週間前ですね。 いつも1週間遅れで私の個人的なダラダラとした雑感をお送りしているが、ネタバレという観点からすると1週間遅れぐらいがちょうどいいのかも、ということにしておく。大体、土曜日の再放送を見てからノンビリ書こうかなと思い立つ訳だから・・・平日は他に限られた脳みそを使うから仕方ない。 さて、公式サイトからあらすじを引用させていただく。 瀬名(有村架純)が武田の使者・千代(古川琴音)と密会していると知った五徳(久保史緒里)は信…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜なんか今回は残酷だったね…ってことで第22話の感想ぉー!今回はなんといっても鉄砲3段撃ちでしたね。強気の武…
【どうする家康】#22 設楽原でPTSD発症の信康、そして瀬名が動く
6/13、北条義時の800年忌 見ているこちらも重苦しくなる内容のNHK大河ドラマ「どうする家康」第22回「設楽原の戦い」が、6/11に放送された。 そちらについて書く前に・・・今週6/13はナント、昨年夢中になって視聴した「鎌倉殿の13人」主人公、北条義時の800年忌だったと聞いた。義時ゆかりの覚園寺、北條寺(他でもやってたかも)では法要があったそうだ。 ツイッターを見たら、覚園寺でのお供えはキノコが多め。そして、参列者に配られたのは「きのこの山」だったようで。なんともシャレの効いた話ですな。出歩く元気があったら行きたかったなー。 #北条義時 公800年遠忌法要をいたしました。大河ドラマ制作…
では、小山城へと進んで行きましょう。能満寺から左手に進むと、「男坂」と呼ばれる急階段と、「女坂」と呼ばれる緩やかな階段に分かれます。男坂男坂があまりにも急なため、後に女坂の階段がつくられたそうです。女坂男坂の方が近道に見えましたが、手すりがなく危険そうなので、女坂を選びました(^^ゞ小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされています。信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道...
優しさは〜罪〜・・・戦国の世においてはね・・・orz;;; どこにでも葡萄酒をお持ちなんですね,信長サマ。前みたいに一気に流し込んで,咽せたりしませんの〜? ・・・なんかトーキチローの掌で踊ってません?(苦笑) で,お三人の芝居がくさーい www 織田家中はブラック企業ですかー(爆笑) それに比べて,徳川家中は・・・そりゃ万千代チンも呆れるわな・・・(苦笑)こんだけカッコ良い勝頼クンって,かつてあったかしら・・・ で,ここ...
どうする家康 第22話「設楽原の戦い」 ~鳶ノ巣山砦奇襲と鉄砲三千挺の三段撃~
徳川方の武将・奥平信昌の守る長篠城が武田軍によって包囲され、奥平の家臣・鳥居強右衛門より援軍要請を受けた徳川家康は、援軍として駆け付けた織田信長と共に長...
小山城(こやまじょう)は遠江国、現在の静岡県榛原郡吉田町にかつてあった城です。現在、能満寺山公園となっている場所は、かつて武田氏の平山城が築かれていました。永禄11年(1568)、武田信玄は遠江をおさえる第一歩として、この地に砦を築き、その後、元亀2年(1571)、城郭を備えて新たな名前を付けたのが小山城です。 城をめぐって、徳川家康との戦いが、何度もこの地で繰りかえされました。能満寺山公園の駐車場から能満寺の...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回、感動したね〜ってことで第21話の感想ぉ〜!今回はこの男につきますね。それは…鳥居強右衛門(とりいすね…
徳川家康の物見塚徳川家康は、戦況を見極めるために武田軍が一望出来る八剣山の物見塚で指揮を取りました。物見塚から約250mほどのところには、家康の本陣跡があります。徳川家康本陣跡(八剱神社)天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です。天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康...
設楽原の戦いで、決戦の地となったところを巡ります。丸山砦丸山は、はじめ織田軍の佐久間信盛が陣を敷きましたが、後に武田軍の馬場美濃守がこれを攻め占拠しました。(奥三河観光ナビより)設楽原古戦場いろはかるた「さ」「佐久間と馬場 丸山とりでの 攻防戦」 矢立て硯矢立硯は青みがかった小さな硯で、上州(群馬県)の沼田地方特有のものです。主に武士たちが陣中において使い、時には歌や句の詠草や手紙をしたためたりしまし...
土屋昌次の墓土屋昌次は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。戦が始まると、真田信綱、真田昌幸と共に右翼の天神山に陣を敷いた。織田勢の三重柵の二...
次は、設楽原の戦いの舞台となった地へ向かいました。長篠城を巡る激しい攻防がきっかけとなり、やがて、設楽原を舞台とした決戦に至ります。設楽原歴史資料館資料館の前にある像は、彼は新城の東郷一帯を治めていた旗本設楽家の出身で、幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震の像です。岩瀬忠震(いわせただなり)江戸時代末期の外国奉行。肥後守。幕臣設楽 (しだら) 貞丈の3男。岩瀬家の養子となる。ペリー来航の頃,...
どうする家康 第21話「長篠を救え!」 ~長篠の戦いと鳥居強右衛門~
前回描かれた大岡弥四郎事件と連携するかたちで、武田勝頼は足助城、野田城などの小城を落とし、その勢いで岡崎城へ向かおうとしますが、そのタイミングで大岡弥四...
長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、薬師如来を本尊とする曹洞宗の名刹です。寺の裏手にある医王寺山(標高120メートル)は、天正3(1575)年の長篠の戦いの時、武田勝頼が本陣を置いたところです。本堂の前には「武田勝頼本陣跡」の碑が建っています。「武田勝頼本陣跡」の碑山縣三郎兵衛息継ぎの井戸弁財天 蓮池また、山門の前には長篠の戦いにまつわる「片葉の葦」伝説の弥陀池があります。長篠の決戦前夜、勝頼の枕元に...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜1日感想が送れちゃったね…ってことで第20話の感想ぉ〜!!今回、活躍したのが、家康の正室、瀬名。武田信玄亡…
【どうする家康】#20 岡崎を救うためのクーデター、瀬名を地獄に誘う
岡崎組のクーデターだった弥四郎事件 NHK大河ドラマ「どうする家康」第20回「岡崎クーデター」が先週5/28に放送された。いわゆる「大賀弥四郎事件」として知っていた話だったが、今作では「大賀」ではなく「大岡」と。最近の知見によると、そうなるらしい。まずはあらすじを公式サイトから引用する。 信玄(阿部寛)亡きあとも武田軍の強さは変わらず、勝頼(眞栄田郷敦)は徳川領に攻め込んだ。総大将の信康(細田佳央太)は数正(松重豊)らと応戦するが、苦戦を強いられ、瀬名(有村架純)や亀(當真あみ)も、負傷兵の手当てに走り回る。病で浜松から動けない家康(松本潤)は、忠勝(山田裕貴)らを援軍として送る。そんな慌ただ…
長篠・設楽原の戦い(3)戦国版「走れメロス」鳥居強右衛門磔の場と墓
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河の徳川家康方の奥平貞昌(後の奥平信昌)の家臣で、貞昌が長篠城に入ったのに従い、天正3(1575)年2月長篠城に入りました。同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒...
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
どうする家康 第20話「岡崎クーデター」 ~大岡弥四郎事件~
武田信玄の死後、徳川家康は武田に奪われた領土をいったんは奪還しますが、これに対して、信玄の後継者となった武田勝頼は攻勢に出て、天正2年(1574年)正月に...
諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)の標高212mから220mの台地にあった戦国時代の山城です。天正元年(1573)、武田勝頼は、遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場美濃守信春に命じて、牧ノ原台地に築城しました。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われています。駿遠の国境に位置し、掛川の高天神城攻略の陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天...
武田軍の突然の撤退は、徳川家康に武田信玄死去の疑念を抱かせ、その生死を確認するため、武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしたところ、武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。家康は、武田氏に与していた奥三河の山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略。浜松秋葉神社境内の山家三方衆屋敷跡奪回した長篠城に...
山県昌景軍が、柿本城、井平城を落とし、二俣城の武田本隊に合流。二俣城は、遠江国豊田郡二俣(浜松市天竜区二俣町二俣)にあった山城で、戦国時代、今川氏により築城され、武田軍の修築を経て、徳川の時代に天守台など諸施設が構築されました。天竜川と二俣川に挟まれたこの城をめぐって武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。一言坂の戦いで、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲。...
どうする家康 武田信玄とついに揉めるみたいですね 松本潤さんと阿部寛さん かなりタイプが違うので 見応えのある対決になると思っています 来週は三方ヶ原の戦いになるのかな 徳川家康がガチち負けするのが どのように描かれるのか大変楽しみです 井伊直政が出てきたのも面白いですね 綺麗な顔の役者さん 人気になるのでしょうね これからますます盛り上がっていくのかなと思います ただ、徳川家康は 存命している期間が長いので どうしても駆け足になってしまうのかなと思って ちょっと寂しい感じもしています 難しいと思うのですけど もう少し 掘り下げてやってくれたら もっと楽しいかなって 仕方ないですけどね
戦国の時代に、遥かヨーロッパから九州の南に位置する種子島に初めて鉄砲という道具が伝わったのが、いわゆる「鉄砲伝来」(1542?1543年?)だ。ときの若き領主・種子島時堯(1528-1579年)は、その鉄砲が備えた威力を間近に見て、さっそく実物二丁を買い求め、そして、すぐ
里見義頼は、里見義弘の弟、または、庶長子の二説があり、生まれが、不明確である。 前述の通り、里見義弘は、正室の足利義明の娘との間に子供が、生まれなかったため…
立正山 光妙寺(→神奈川県藤沢市藤沢4丁目)は、江戸時代中期の1756(宝暦6)年に僧の日暁が創建した日蓮宗寺院で、もとは駿河国富士郡にあった妙境山 円恵寺(えんねじ→静岡県富士宮市大久保字内久禰)の外境仏堂「光妙庵」として建立されました。円恵寺は、戦国時代の1565(永禄8)年3月18日に真言宗寺院として創建された草庵が始まりで、1581(天正9)年4月に安居山 東漸寺(→静岡県富士宮市安居山)の8代住職日教によって日蓮宗寺院に改宗...
大悲山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、戦国時代の1571(元亀2)年に僧の専造坊が二子塚に創建した天台宗寺院を前身とする浄土真宗大谷派寺院です。『川崎市史』の光明寺縁起によると、甲斐武田氏の有力国衆で、武田氏滅亡ののち織田信忠(→織田信長の嫡男)によって滅ぼされた郡内小山田氏の一族小山田宗光(おやまだむねみつ)が専浄と称し庵を結んだと記されます。武田氏や小山田氏の一族・遺臣がこの辺りに移住するのは1...
八雲神社(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、神仏習合の頃は「祇園天王社」と称し、平安時代後期、源義義(みなもとのよりよし)の三男・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が後三年合戦(1083年~1087年)に参陣する際、鎌倉に疫病が流行していたことを知り、祗園社(今の京都八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請したのが始まりです。社伝では永保年間(→1081年~1084年)の創建とありますが、新羅三郎義光が鎌倉に入ったのは10...