メインカテゴリーを選択しなおす
アメリカの医師であったロバート・バトラーは、老年学の分野において、個人の心理的な健康と社会的な公平性に関する革新的な視点をもたらした人物です。その功績の中でも特に「ライフレビュー」、「エイジズム」、「プロダクティブ・エイジング」、「長寿革命」といった概念を提唱しています。 まず、ライフレビューという考え方は、人生の最終章において過去を振り返ることの重要性を説いています。バトラーは高齢者が自己の経験を再評価し、その意味を見出すことが心理的な健康を維持する鍵であると考えました。このようなプロセスは、単なる懐古ではなく、人生を統合的に理解し、平穏と幸福感をもたらす手段として機能します。
年末の認知症母との旅行計画断念 誰の幸福を優先するかのジレンマ
ちーたむ 年末に予定していた認知症母との旅行の計画・・・すごくジレンマに陥って、色々考えた決断 認知症母との旅
認知症母との旅行計画 老老介護の父の思いと遠距離介護の娘の思い
ちーたむ 年末は認知症母を連れて父と私と孫娘(私の娘)で温泉旅行を計画してる。みんながそれぞれ良かれと思ってい
人間の判断に欠かせない価値判断の能力ですが、日常生活の中であらゆる判断を行っています。イギリスの神経科学者であるバーバラ・サハキアン教授の研究によると、人は1日に最大3万5000回もの判断に迫られて生活しているということです。 そのような一つ一つの判断に対して、全て熟考するということは考えられず、少なからず直感を働かせています。そしてこのような決断方法は、行動経済学においても重要な意味を持っています。例えば買い物したいときの選択肢があったとして、価格と機能、機能と重量などといった二つを判断基準にする場合に、どのような判断が下されるでしょうか。 ここでは、アメリカにおける著名な行動経
対人援助職ならば是非にでも学んでおいた方がいいであろう学問。それが行動経済学だと思っています。行動経済学は経済学に心理学を掛け合わせた学問で、人間の無意識の行動や選択についても解き明かすことができる実学だからです。そして即効力があります。自己の中で無意識に潜む他者に対する偏見などに、いち早く気付くことの出来るスキルなのです。 また自己選択することの重要性については、対人援助職についている人ならば誰でも理解しているところです。人の自己実現には必ずや日々の自己選択が潜んでいて、自己選択は直近における自己決定というニーズ充足の第一歩でもあると考えられるからです。 たとえば我々のような介護
☆いつも「敵」は存在する.過去の記事で「嫉妬する人」について述べました。→sokamori2.exblog.jp/33375403/その対処方法として「バ...
認知症母の2度目の徘徊 ディサービスの職員さんに偶然保護される
ちーたむ 木曜日に1日に2度徘徊して、その後は機嫌が普通だったり、ご機嫌だったりしてたけど・・・2度目の徘徊は
実家の片付けから帰って30分・・母の仏前に実家の片付けのことなど報告した30分後父が暮らす高齢者施設から連絡が入り救急病院へ搬送しますとの電話。+++先日 いつもの、かかりつけ医に受診した時主治医の先生に こっそり私の入院や手術があるのでその期間に父に何かあればよろしくお願いします、と話していた矢先・・ただ 搬送された医療機関がかかりつけ医ではなかったので救急搬送病院の先生に事情を説明しかかりつけ医に...
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない。」 オーストリア大学でフロイトやアドラーに師事し、心理学を修めた精神科医でもある心理学者ヴィクトール・E・フランクル。彼は第二次世界大戦における強制収容所での体験を精神分析と共に「夜と霧」に著しました。 なんら罪もない善良な市民だったはずの人々が強制収容所送りにされる理不尽極まりない状況。その上で、健康で労働力として使える価値のある者だけが、事実上"残される"ことを許されます。残された人々も名前すらない、存在するのは自分の胸に記された番号のみ。過去何をしてきたか、そして何者であったかは一切不要とされる環境でした。 家畜よりも悪
認知症ケアでは、日本においても革命だと言われる考え方が広まりを見せています。その考え方はフランスを由来としたユマニチュードの考え方です。私は全ての事柄に共通して、理想の理念を掲げる事は大切な事だと思っています。現実と理想の狭間で常に葛藤されてきたのが社会であり、人間なのですから。 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」 世界人権宣言・第一条 ユマニチュードの考え方は、世界人権宣言のような個人の自由と自律の尊重こそが民主主義を支えている。強者が全てを
私の介護職としての経験論、いや人間として重要なのは、やはり挨拶です。挨拶というのは最高の飛び道具です。なぜなら私の気持ちを相手に投げ、相手がそれを受け取って投げ返す。その会話が成立するかどうか、相手の体調はどうかを見極め得る最高の道具として常に存在してきたからです。 急にこちらのしたいことや終わらせたいことを提案するのではなく、「おはようございます」というボールが返ってこない場合には、そのままでは相手がこちらを認識していないか、聞き入れる態勢に無いという事を教えてくれるからです。まず一人一人に挨拶をしていると、今日の気分が分かりますし、一日のコミュニケーションが非常に円滑です。 挨
「体が資本」まさに健康というものは、誰もが最も必要とする掛け替えのないもの。健康寿命さえ高まれば、人生の幸福度や満足度を充足させ、よりよい人生を長く送ることが出来るはずです。私の願望として、たとえ命の灯が消える日時が定まっていたとしても、より長く日常生活を不安なく送れる程度に健康でありたいところです。 この考え方について、アメリカの経済学者であるマイケル・グロスマンは、健康がどのようにして人の幸福に寄与するか、またその健康を維持改善するために選択する行動についても経済学的な意思決定の観点から提示しています。 健康消費(Health Consumption):健康な身体そのものが
2か月勉強で介護福祉士/ケアマネジャー試験に一発で合格する方法
私は介護施設で働いていく中で、多くの同僚が介護福祉士やケアマネジャーの試験に泣かされているところを多く見て来ました。情熱をもって取り組み、そして仕事に励み、その結果として試験に落ちてしまう。その辛さは、私も痛感しています。あなたの知識欲と向上心は必ずや介護に必要とされる人材であることを表しています。 そしてまた、試験に必要とされる知識、そして勉強の経験は誰にとっても重要であるからこそ、このノウハウについて記しておきたいと考えています。 私は地方公立高校を卒業し、地方私立大学を卒業しましたが、決してそれまで学業が優秀な人間ではありませんでした。はっきり言って落ちこぼれです。しかし、公
私は介護職員として働く前からずっと所謂、一般的に言われるような社交的で積極的なコミュニケーション能力に秀でた人ではありませんでした。しかし、広く浅い関係性よりも、狭くとも深い関りを求めて来ました。その深い関りというのは、私の妻、家族や友人がしてくれたような関係です。 温かみがあり、たとえ一見厳しいようでいても、相手のことを真剣に考えているのだと感じさせる関係です。私はこのような関係性を互いに"尊敬"することだと感じていました。幼い頃から培った経験や元来の性格も組み合わさって、相互理解は、このような相手に対する尊敬の念の上に成り立つのではないかと考えてきたのです。 私のこのような理解
「これからをどう生きるか、何をしたいのか」この問いは介護に携わる者にとって、いつも重要なテーマとなり続けています。日々の言動に耳を傾け、目を凝らすこと。生活の些細な事柄からニーズであろうものを把握し、それを充足していくこと。これこそが利用者の効用を高める原動力であり、ひいてはその人らしく生きるという介護の在り方にとっての羅針盤となります。 たとえ認知症で少しずつ物事を忘れていくという段階にあっても、人の役に立ちたいという気持ちは誰もが持ち続けています。 他者の洗濯物を畳んであげたり、野菜の皮むきをしたり、苦戦する車いすを押してあげようとしたり、症状が進行していても優しく声を掛けて手
ちーたむ 今回の帰省は色々ありました。母が裸で脱衣所から出てきた前回の続きから、やっと落ち着いたと思ったら、今
12月の遠距離介護の帰省 認知症母、服を着ずに脱衣所から出てきてしまう
ちーたむ 帰省初日の夕方から若干母の雲行きが怪しくなって、また一つ、今までなかった認知症からくる行動を目にして
「はい、チーズ!」カメラを向けるとよそ行き顔。たった今、あんなに嬉々として素敵な笑顔だったのに…。 季節が巡るごとに、一緒に梅干しを作ったり、お花見に行ったり、その時々で本人や家族に手渡す手紙や写真。いつも大切にしまわれていて、暇があればそれを眺めている姿は、日頃から傍にいる人間の一人として、とても印象に残っています。そして家族にとっても、その写真はいつかお金には代える事が出来ない財産になったりします。たった今のその瞬間が、きっと掛け替えのない誰かの宝物になるに違いありません。 笑うという行為自体が感情と密接にリンクしていて、面白いから笑うと同時に笑うから面白いという事も出来ます。
現在の認知症介護では当然ともいえますが、拘束や抑制に関して、原則禁止。身体拘束ゼロが指針となっています。また高齢者のプライバシー等の人権尊重は当然守るべきものとして捉えられています。しかしながら、このような認知症介護の歴史は決して長いとは言えないものです。 日本においては、1950年に精神衛生法が施行されるまでの間、世間から隔絶され、自宅の離れに隔離するなどの事実上の"座敷牢"が存在していたのです。勿論、それまで社会に任せることも不安な状況であったことも要因であったようですが、それ以降にようやく治療に重きが置かれ始めました。 1972年になると有吉佐和子氏の「恍惚の人」が発表。この
日々私は、自分が世間の常識と乖離していないだろうかといつも心配になります。介護分野に携わるにあたって、専門職としての技術や知識を身につけなければならないのだと、多くの諸先輩方から指導されてきました。しかし、私は寧ろ介護という分野においては、技術よりも大切なものがあると思っている節があります。だからこそ不安になるのです。 特に介護において、やはり生活者として共に歩むという心持ちが重要になるのではないでしょうか。この場合、家族介護というものが、如何に素晴らしいものであろうかといつも考えます。というのも、実際に施設に預けるよりも家族が介護するのが一番良いという意味ではなく、家族が介護するよ
「認知症は大変。」そんなことを思ってしまった事に罪悪感を覚えることも介護者にはきっとあると思います。 日々介護に携わる中で、たとえ要介護者が認知症であっても、人と人との交流であることにまったく変わりがない事を実感します。だから自分と相手との関係では、鏡とか、池やガラスに反射する風景のように、相手には少なからず、私自身の態度も映し出されているとさえも思えるのです。 きっと誰しも相手から好感を持たれれば、人は好感で返し、人からぞんざいな扱いを受ければ、それ相応に対応するでしょう。勿論、人と人との関係では相互の感情や思いが交錯し、思いが伝わらないとか、すれ違う事も多くありますが、そうした
ケアマネジャーが作成するケアプランというものをご存じでしょうか。このプランは、その人の事だけを考えて、その人の為だけに作成されます。他の人と同じようなニーズであっても、同じサービスが提供されているわけではありません。 そしてこれは、介護保険を用いたサービスが提供される際に必要になる計画書の一つなのです。簡単に言うと、本人の思いを中心に組み立てられた目標。それに向かって、本人を支える関係者が一丸となって取り組む、一人一人の役割を認識する為にも重要になる書類です。 基本的には、居宅介護サービス計画書というものがケアプランに該当するもので、本人のニーズを基礎にして"援助の方針"や"長期目
最後まで残っている記憶というのは、とても美しく大切にしまわれた記憶だと認識します。たとえ日ごろの事は忘れてしまっていても、いつまでもハーモニカを奏でられる方がおられました。周囲の人も聞き入ってしまう程の腕前でしたが、父が奏で、そうして兄に手渡されたされたハーモニカ。 「兄は興味を失くしたから、私が勝手に覚えたの」 「あなたもやってごらんなさい。あなたならすぐにうまくなって、そしていつまでも励みになるのよ」 出征して若くして亡くなったお兄様や既に亡くなったお父様との繋がりだったのかもしれません。きっとご自身で奏でるハーモニカの音が人生の支えになり、生きてこられたのだと思います。そし
「お互いにとってより良い介護ってなんだろう?」 時にすれ違い、感情が交錯することで生まれる衝突。認知症介護にはつきものです。 認知症になると、同じ話を何度も繰り返すとか、何度もトイレに行こうとするとか、自宅にいるのに「帰る」と言い出すとか、ご飯を食べたことを忘れるとか、汚物が箪笥に入れられているとか、物を失くし突飛なところから出てくるとか、何度も見回りを繰り返すとか、急に泣いたり怒ったり、いわゆる徘徊する、好きだった風呂が嫌いになる、そうした事がきっと増えてくるに違いありません。 介護者の側からすると、要介護者のこのような変化には少なからず戸惑いが生じます。以前の姿を知っている身
なぜ介護というものに、専門性を持たせるのだろうと思う事があります。それは、介護職のする介護と家族のする介護の本質にはきっと大きな差は無く、寧ろそこから乖離しすぎてはならないのではないかと思えるからです。 介護はその人を全人的に把握するところから始まります。その人がどうしたいのか、どうしてほしいのかを考える手がかりは、あらまし家族や馴染の関係では当然に理解している事柄でもあります。しかしながら、それとは裏腹にかえって自分の家族であるからこそ、確執が生まれる事だってありがちです。 それは身近であればあるほど、その人のことを思えばこそ起こり得る摩擦なのです。全くの赤の他人であれば許せるこ