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※地平を埋めつくす曹操の兵。何万人いるのだろうかなあ、と張飛はかんがえる。何万いようと、関係ないのだが。それぞれの大将の名を染め抜いた旗がひるがえり、こちらを威嚇しているのが腹が立つ。兵の中央には天蓋があり、その下に、稀代の姦雄・曹操がいるのはまちがいなかった。やつはおれを見ている。おれもやつを見ている。趙雲が引っ掻き回した戦場は、すでに落ち着いていて、いまは耳に痛いような静寂に包まれていた。曹操の兵は、橋を突破せんと集まって来たのだ。しかし、単騎で橋を守る張飛の姿に怖じて、先に進めなくなっている。おそらく、なにか策があるのではと疑っているのにちがいない。しかし実際に、張飛には策があった。橋の背後の木立に兵をひそませ、縄でもって、木立をしきりに揺らさせていたのだ。そうすることで、伏兵があると、曹操側に疑わ...地這う龍四章その18張飛の咆哮
※趙雲の行く手に、よく顔の似た、大男二人組があらわれた。「おれは鍾晋《しょうしん》だ」「こっちも鍾紳《しょうしん》だ」似たような声で自己紹介する男たちに行く手を阻まれ、趙雲は小さく舌打ちをした。というのも、これまでがんばってくれた馬が、そろそろ限界にきていることがわかったからだ。あまり長くは戦えない。第一、趙雲自身も疲れ始めていた。張郃《ちょうこう》という気の抜けない相手と長く戦いすぎたせいである。あいつさえいなければ、曹洪《そうこう》の首をとれたものを。そしたら、この惨状に一矢報いることもできただろうに。そう思うとむかむかした。大男たちは二手にわかれて、趙雲を右と左で挟撃しようとする。「もうすこしがんばってくれよ」趙雲は、馬の首を軽く撫でてから、一気に動き出した。鍾晋のほうが槍を突きだし、鍾紳のほうは矛...地這う龍四章その17英雄の帰還
趙雲もまた、自分めがけてやってくる武者の姿に気づいたようである。雑兵《ぞうひょう》を片付ける手を止めて、振り返る。その返り血を浴びた顔には、人間らしい表情の揺れはない。「貴殿は、平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張郃《ちょうこう》どのであったな」混乱の中心にあってなお、声が震えるわけでもなし。その胆力に、張郃はおもわずごくりと唾をのんだ。「そうだ。常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍、久しいな」「先へ急ぐ。そこをどいてもらおう」「たわけたことを!これより先には進ませぬ!その首、土産に置いていくがよい!」言いざま、張郃はぶぅん、と槍で趙雲を薙ぎ払おうとした。だが、趙雲は難なくそれを避ける。張郃は舌打ちしつつ、槍をかまえ直して、今度は首もとめがけて槍で突く。しかし、趙雲は自身の槍で、その攻撃を払った。だが張郃...地這う龍四章その16いまは地に這うもの
※張郃《ちょうこう》は、目の前にひろがる無残な光景に、いきどおりをおぼえていた。かれは徹底して武将であったから、将兵が傷つくことには慣れている。だが、いま目の前に転がっている死体の数々は、ほとんどが名もなき民衆だ。老親をかばいともに倒れた親子、けんめいに逃げようとして背中から殺されている男、略奪の憂き目にあったうえで殺された女の姿もあれば、子供を腕にしっかりと抱いたまま、息絶えている母親の姿まであった。これが劉備についていった民の末路なのだ。「やつは悪鬼か、民を盾に自分だけ助かろうとは!」苛立ちをこめつつ、のこされた劉備の兵が立ち向かってくるのを、なんなく屠《ほふ》る。劉備の兵たちもまた、曹操軍をこれ以上進ませまいと、必死の攻撃を繰り出してきた。あわれである。十日以上、ほとんどろくに食べていないような兵と...地這う龍四章その15対決ふたたび
※夏侯恩《かこうおん》のむくろのそばに、青釭の剣が落ちていた。趙雲がめずらしそうに、それを手に取ってしげしげとながめていたので、夏侯蘭《かこうらん》は言う。「それは夏侯恩が曹操から下賜された宝剣で、青釭《せいこう》の剣というやつだ。鉄でもなんでも、水のように斬ってしまうといわれている」と言いつつ、無念そうな顔をしてたおれている夏侯恩を見下ろす。「この御仁には、過ぎた宝物だったようだな。子龍、それはおまえが持つがいい」「ちょうど俺の剣が刃こぼれしてきたところだ。ありがたく頂戴するとしよう」そういって、趙雲が鞘ごと宝剣を手に入れていると、麋竺《びじく》がやってきた。「おおい、無事か!」と、夏侯蘭と玉蘭たちを見つけて、麋竺は声をはずませた。「なんと、我が妹をたすけてくれたのは、そなたたちであったか!」「子仲《し...地這う龍四章その14囮
さて一日も終わるし、サプリメントでも飲もうか。 ミカはサプリメントを数粒取り出して、マグを手元に引き寄せ、 珈琲を入れようとして席から立ち上がった。 席から立ち上がった拍子にサプリメントの1粒が床に転がってしまった。 もぉというため息を漏らしながら、床に屈んで探す。 ワークデスクの下の暗がりに見つけた。拾って口に入れる。 マグに珈琲を入れてそれで飲み込む。 飼い猫の軍曹が寄...
夏侯蘭《かこうらん》に迷いはなかった。兵をかき分けると、玉蘭《ぎょくらん》たちと夏侯恩《かこうおん》のあいだに滑り込み、夏侯恩の刃を、みずからの剣の刃で受け止めた。がきん、と凄まじい、耳をつんざく音がする。夏侯恩がおどろきに目を見開く。その目線を受けて、夏侯蘭は、にやりと精一杯の意地で笑って見せた。ぎり、ぎり、ぎり、と青釭《せいこう》の剣とやらの刀身の先が、おのれの刃を削っていく音がする。だが夏侯恩の姿勢が、どこかへっぴり腰なのが幸いした。夏侯蘭は力任せに夏侯恩をはじき返すと、すぐさま剣を持ち直し、夏侯恩とその兵士たちの前に立った。弾かれ、倒れた夏侯恩は、怒りで顔を真っ赤に染めて、叫ぶ。「夏侯蘭、きさまっ、裏切るのか!」「もとより、貴様らに力を貸すつもりはなかったさ!」夏侯蘭に手柄を立てさせてやろうという...地這う龍四章その13夏侯蘭の奮闘
※「劉備の女房がいるぞ!」だれかがそう叫んだことで、夏侯恩《かこうおん》の軍兵たちの目の色が変わった。それというのも、夏侯蘭《かこうらん》があまり熱心に先導しなかったことと、戦に慣れていない夏侯恩の要領の悪さのせいで、かれらはほかの軽騎兵たちとはちがい、まったく功績らしい功績をあげられていなかったからだ。劉備の妻を捕獲したとなれば、曹操から褒美がもらえる。しかも、さいわいというべきか、女は背後に男の子をかばっていた。「これが阿斗でしょう」と、夏侯恩のかたわらにいる老兵が夏侯恩に耳打ちをしている。かれらには、阿斗がいくつくらいかという正確な情報が届いていなかった。「はて、さきほど馬で逃げた女は何者だろう?」夏侯恩が首をひねるのを、老兵がまた答えた。「侍女ではありませぬか」「左様か。どちらにしろ、劉備の妻子を...地這う龍四章その12再会
鉛筆で横に線をひいた。画用紙は線によって上と下に分断された。さらに横線を引いた。上と下と真ん中が出来た。 子供の頃、真ん中に属していると思っていた。長い間、自分はごく普通の家庭の子供だと思っていた。ごく普通の家庭で裕福でもないが貧乏でもない、そんな家庭に属していると思っていた。 在るとき、何かのタイミングで、あの子と遊ぶな、と言われているらしいことを知った。同級生の親に言わせると僕は乱暴者...
麋夫人《びふじん》は、それでも玉蘭《ぎょくらん》と阿瑯《あろう》をこの地に残すことをためらった。だが、そうこうしているうちに、どんどん廃屋に曹操の兵の気配が近づいてきている。「おそらく水を得ようとしているのでしょう。わたくしたちは、なんとでもなりますわ。さあ、行って!」玉蘭は言うと、馬の腹を手で思い切りたたいた。それを合図に、馬は南へ向かって走り出す。とつぜん動き出した馬に食らいつくのが精いっぱいで、麋夫人は玉蘭たちを振り返ることができなかった。『どうか、ご無事で!』そう祈りながら、手綱を持ち、二の腕で必死に阿斗を抱える。するとなんということだろう、背後から、呪わしい曹操兵の声が聞こえてきた。「だれか馬に乗って逃げるぞ!矢を掛けよ!」「いいえ、待ちなさい!その者に矢を掛けるのは、この劉備の妻がゆるしません...地這う龍四章その11身代わり
『だれなの?味方?』怯えつつ、曹操の兵のほうに注意を戻す。すると、曹操の兵も麋夫人《びふじん》の存在に気づいたらしい。人食い鬼のような顔を土塀の向こうからのぞかせて、怒りの形相のまま、麋夫人と少年のところへやってくる。そのときである。曹操の兵のうしろから、にゅっと白い手が伸びた。あっ、と麋夫人が驚く間もなく、その白い手は曹操の兵の髭だらけの口を覆いつくす。つづいて、もう片方の手が、手際よく、男の首筋に短刀を突きつけていた。口をふさがれたまま、男はなにかを叫んだ。だが、ほどなく首筋からすさまじい出血をすると、膝から崩れ落ち、やがて絶命した。あまりの手際のよい一連の展開に、麋夫人は声を上げることもできず、目を見張るしかない。白い手の持ち主が男の背後からあらわれる。いかにも婀娜《あだ》っぽい雰囲気の、短い筒袖の...地這う龍四章その10思わぬ助け
どこか安全なところへ逃げなければ。脚を励まし、引きずり、麋夫人《びふじん》はあたりを見回す。前方に、廃屋があるのがわかった。かろうじて屋根が残っている、ひどいありさまの廃屋だった。だいぶ昔に家主に捨てられたものらしい。『あそこに隠れよう、だれか迎えにきてくれるかもしれない』夜闇のなかを駆けまわるのはおそろしいことであった。だが、朝になってわかった。目隠しになってくれていた闇が消えることも、またおそろしいことなのだと。敵に見つかるわけにはいかない。自分はどうなってもいい。だが、阿斗は、見つかったら、きっと殺される。それだけは避けなければ。廃屋に入っていくと、さいわい、厨房の傍らに残っていた大甕《おおがめ》のなかに雨水がたまっていた。清く甘い水しか飲んでこなかった麋夫人にとっては冒険だったが、のどがあまりに乾...地這う龍四章その9廃屋の麋夫人
その時、リエは静かに泣いていたようだ。 僕には、リエが確かに泣いていたように見えた。 そんなとこ、僕は初めて見た。 泣かない女性だった。 それまでは涙を見せない女性だった。 そんな彼女が泣いていた。 僕はなんて言葉をかけたらいいのか、わからなかった。 そんなリエの隣で、無力に打ちひしがれた僕は、やはり同じように泣いていた。2人で泣いていると、僕のお腹がぐーっと鳴っ...
※張飛は虎髯《とらひげ》を風になぶらせつつ、じっと北の方向をにらみつけていた。長阪橋の中央で、騎馬にのり、敵のやってくるのを待っている。朝もやの向こうから、絶えず悲鳴と剣戟が聞こえてくる。みんな死んじまったかな、と頭のすみでかんがえる。かといって、ひるむ張飛ではなかった。たとえ万の曹操軍が押し寄せてきたとしても、この橋をきっと守り、兄者を守り通して見せる。決意を固めたその姿は、神々しいといっていいほど凛としていて、部下たちも、声をかけそびれるほどだった。と、朝もやを突っ切るようにして、こちらに駆けてくる一団がある。見れば、先頭に立っているのは簡雍《かんよう》で、片腕にひどいけがを負っているようだったが、声は元気だった。「おおい、おおい、益徳っ、わたしだ、簡雍だ」「見ればわかるわい、生きておったか」軽口をた...地這う龍四章その8彷徨
気がつくと離れられなくなっていた。 離れるには、長い時間を共に過ごし過ぎた。 共に過ごした長い時間は、適度な距離感と丁度いい存在感、血縁のような親近感を2人の間に作っていた。今更、離れることは出来ない。 今のままでは共倒れが確実なのも理解出来ていた。 もっとも離れたとしても、2人別々に倒れるか、2人一緒に倒れるかの違いだけだった。 どちらにしろ、このままでは倒れるだろうことは予想...
「うわっ」敵の雑兵たちが、あっけなく大将が討ち取られたのを見て、悲鳴をあげる。趙雲は突き立てた槍を抜くと、「常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍だ、命の惜しくないやつはかかってこい!」そう叫んで、及び腰になった敵へ突っ込んでいった。こうなるともう独断場である。草を刈るように雑兵たちを狩っていく。雑兵とひとくくりに行っても、相手も人間。味方が突如としてあらわれた男に、すさまじい勢いで斃されていくのを見て、ひとり、またひとりとその場から脱落していった。背中を見せる敵には、麋竺《びじく》が容赦なく、お返しとばかりに矢をかける。ほどなく、あたりは落ち着き、血風と砂塵のほか、味方だけが残った。「子龍よ、助かったぞ」「それはこちらの台詞です、よく奥方様をお守りくださいました」趙雲は破顔し、麋竺とたがいの無事をよろこ...地這う龍四章その7北へ
※趙雲は必死に甘夫人と麋夫人、それから阿斗の姿を探し求めた。その名を呼び続け、北へもどりながら、敵に遭遇すると、それを片っ端から蹴散らした。敵とて舐めてかかってきているわけでもない。だが、夫人たちの無事を祈り、ひたすら前へ進まんとする趙雲にかかれば、かれらは障壁にすらならなかった。趙雲の行くところ、まさに死屍累々。加えて大地には、無残な民のしかばねも転がり、あたりは地獄の光景に変わっていた。汗まみれ、血まみれになりながらさらに先を行くと、どこからか趙雲の声に応じて、呼びかけてくる者がいる。だれなのか。もしかして奥方様か、と耳をすますと、あわれな味方の将兵たちのなかにかばわれるようにして倒れていた男が、「子龍、子龍、わたしだっ」と必死に声をあげているのだった。見れば、簡雍《かんよう》である。かれは肩に刀傷を...地這う龍四章その6奮戦開始
※劉備は陳到らに守られ、けんめいに馬を南へ走らせていた。孔明の作ってくれた地図にある、長阪橋を目指しているのである。どどどど、と馬の蹄の音がつづくが、それがもしかしたら追いついてきた曹操軍の蹄の音ではないかと思う時があり、こころがまったく休まらない。そのうえ、頭の中は、自分を責めることばと、恐怖とでいっぱいである。『こんなことになるのなら、孔明の言うことをもっとよく聞くべきであった!』激しい後悔が胸の中で渦巻いている。唇からは、すまない、すまないという謝罪の言葉を自然と口にしていた。やがて、白々と夜が明けてきた。いまのところ、曹操の軍兵が自分に追いすがってくる気配はない。おそらく、あわれな難民たちが盾になってくれているのだ。曹操軍も、かれらを蹴散らしているがために、なかなか自分に追いつけないでいる。『なん...地這う龍四章その5劉備の後悔
夢を見ていた。大きな風船に掴まってふわふわと町の空に浮かんでいた。上に下にをふわふわふわふわと繰り返しながら、町の通りをふわふわ進んでいる。風船の行きたい方向に行きたいように任せて、ふわふわ浮かびながら、長い時間、空に浮かんでいた。 下に降りたタイミングで、突然、知らない男がしがみ付いてきた。二人は定員オーバー、風船は再び浮かび上がることなく、地面に落ちて転がった。 私はその男の顔をみて、...
※西へ傾きかけた太陽は、ほどなく血に染まった大地を暗く隠していった。視界が悪くなろうと、曹操軍の前進と殺戮が止む気配はない。趙雲はここに孔明がいなくて良かったと、頭の隅で思っていた。もし同行していたら、また虐殺の場に居合わせることになっていただろう。友のこころにあらたな傷がつかずにすんでよかったと、心から思っていた。やがて、難民の行列の後方から、おおぜいの傷ついた人々が押し寄せてきた。それを追うようにして、曹操軍の軽騎兵が迫ってくる。視界が悪すぎた。月の細い光か、あるいは馬車に随行する兵の持つ松明だけが頼りである。どれほど曹操軍に近づかれているのか、音と気配を頼りにする以外にない。距離感がつかめないのだ。甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》を乗せた馬車を警護していた趙雲に、後方を守っていた将が叫んだ。...地這う龍四章その4趙雲、見失う
※秋だというのに太陽はカンカンと照り続けた。日差しを照り返す大地のうえで、乏しい水と食料を分け合いながら、必死に劉備一行は江陵《こうりょう》へ向かっていた。趙雲は、陳到とともに劉備たち一族を守っている。趙雲のそばには、小さめの馬に乗った張著《ちょうちょ》がいて、少年ながら、周りの様子に気を配っていた。孔明が去ってから三日。さすがに、まだ戻ってくる気配はない。江夏までの旅程、それから交渉に使う時間、戻ってくるまでの旅程。それらを計算しても、果たして孔明は間に合うのか。曹操が襄陽《じょうよう》でぐずぐずしているのを祈るばかりである。「子龍さま、あの男がいます」張著がとつぜん群衆のなかの一点を指さした。見れば、いつかの夜、迷子をめぐって口論になった大男である。かれは一人ではなく、背中に、どこから拾ってきたのかと...地這う龍四章その3悲劇のはじまり
王妃の物語が完成してから、季節は瞬く間に過ぎていった。新しい年を迎え、母の1周忌も無事に終わり、僕の中で母に対して抱えていた様々な想いは徐々に薄れていった。母の事を考える時間は減り、家族の間でも話題となることは少なくなっていた。故人というも
「一体、何をされているのです、船はどうしました!」怒りで声が震えるが、かまっていられなかった。こうしているあいだにも、劉備たちが曹操に追いつかれてしまっているかもしれないのだ。温雅な孔明が、眉を逆立てて怒鳴りつけんばかりの剣幕なのを見てか、孫乾《そんけん》はしろどもどろになりながら答える。「申し訳ない、面倒が起こってしまってな、わしらでは、にっちもさっちも行かなくなっておったのだ」「面倒とは?劉公子には面会はできたのですか?」「それが、江夏《こうか》に来てから、一度もお会いできておらぬのだ」と、関羽が赤い顔に憔悴した表情を浮かべて言った。「御病気が重くなったとか理由をつけられてしまい、われらは側近に阻まれ、門前払いよ。なんとか粘って、毎日、わし自ら城の門をたたくのだが、相手は一向に姿をあらわさぬ」血の気が...地這う龍四章その2江夏の美姫たち
江陵《こうりょう》への隊列からはなれた孔明は、わずかな手勢とともに、めちゃくちゃに馬を走らせた。これほどに馬を急がせるのは、叔父の諸葛玄らとともに豫章《よしょう》が落城したさい、賞金稼ぎどもから逃げたとき以来だった。あのときは、かわせた。今度はどうか。孔明が恐れているのは、曹操からの追撃者がやってくることではない。いくら曹操でも、まだ自分という人間を深く知っているとは思っていない。孔明が恐れているのは、ただひたすら劉備が討ち取られてしまうこと、その一点のみであった。なんとしても急いで劉琦の元へいき、船とともに戻らねばならない。馬は孔明の緊張がうつったのか、けんめいに地を駆けていく。がくがく揺れるし、尻は痛くなるし、小虫が正面から何匹も飛び込んでくるし、目は乾くしで、ろくなことはない。だがそれも、劉備たちの...地這う龍四章その1孔明、急ぐ
※それから数日経っても、関羽は戻ってこなかった。しだいに人々のあいだに疲れが濃く見え始め、なかには離脱する者まであらわれはじめた。土地の豪族たちが同情的だったこともあり、その私兵に襲われることがなかったのが、唯一の幸いだった。難民たちは砂ぼこりにまみれ、少なくなってきた食料をちびちびと口にし、泣き言を言いたくなるのをぐっと我慢している。趙雲は部下たちとともに、かれらを励まし、江陵《こうりょう》へ向かわせたが、その歩みは早くなるどころか、疲れのためにどんどん遅くなっていた。それまで、愚痴の一つもいわず、どころかみなに張りのある声で励ましをつづけていた孔明だったが、あまりに事態が切迫してきているために、とうとう劉備の前に進み出た。「わが君、関羽と孫乾たちになにか起こったにちがいありませぬ。わたくしが江夏《こう...地這う龍三章その20孔明、江夏へ
それを聞いて、趙雲は急に理解した。孔明は新野《しんや》に招聘《しょうへい》されて、すぐに実務を片付け始めた。優秀だから、天才だから、などと周囲は評したし、本人もそうだというふうに振舞っていた。趙雲も、孔明が飛びぬけて優秀だから、どんな仕事もこなせるのかなと思っていた、どうやらちがうようだ。孔明は、世間のもめ事を解決するさいに、じっさいに実務にたずさわっていたのである。つまり、劉備の軍師になる以前から、すでに経験豊富だった。だからこそ、新野での仕事に迷いがなかったのだ。「それと、豪族たちがわたしに協力的なのは、わたし個人の力ではないよ」「どういうことだ」意外に思って孔明のほうに目を向けると、孔明は肩をすくめた。「わたしに『臥龍』という号を授けた、龐徳公《ほうとくこう》の影響がものをいっているのだ。つくづく、...地這う龍三章その19臥龍の来歴
※関羽が江夏《こうか》へむかってから十日ほどたつが、かれが船を連れてくる気配はまったくなかった。当初は楽観的だった人々も、だんだんじりじりしてきているのが、趙雲にもわかる。難民たちのなかで、いさかいが増えているのだ。食糧や水をめぐるものだったり、歩き方が悪いだのと言ったくだらない原因のもの、赤ん坊がうるさいといったことまで、喧嘩の原因はさまざまだった。それらをこまごまと仲裁しつつ、一方で、難民たちに先行して、行く先の土地の豪族と交渉し、休む場所と水を提供してもらうための交渉をした。孔明がこまかく記載していた、井戸と水脈のありかの地図が、たいへんものを言った。おかげで、時間をあまりかけずに、難民たちは水を得ることができたのである。もちろん、交渉が平易に進まないときもあった。だが、それでも孔明が出てくると、豪...地這う龍三章その18臥龍先生の評判
荀攸《じゅんゆう》はすぐに夏侯蘭《かこうらん》の前にあらわれた。本人がすぐにあらわれるとはおもっていなかった夏侯蘭は、司馬仲達の人脈にあらためて感心した。荀攸からすれば、早く読みたい手紙らしい。人払いをしたのち、荀攸は夏侯蘭から受け取った手紙を読む。荀攸は体つきのすらりとした、いかにも上品で清潔な印象の男だった。文官をあらわす冠に、趣味の良い飾りをつけている。身にまとう黒い絹の衣裳は、かれの体つきをよけいに細くみせていた。手紙を読むその目は、あまり明るいものではなかった。「そうか、劉表の死の真相が、これでわかった」荀攸はため息とともにそういうと、やっと真正面から夏侯蘭を見た。その目には同情の色が浮かぶ。司馬仲達は、おれのことまで手紙に書いたのかな?不思議に思いつつ、荀攸のことばを待つ。「夏侯蘭どのといった...地這う龍三章その17夏侯蘭、巻き込まれる
具象があった。そこでは大勢の具象たちが存在していた。具象たちは個々に在り、共に交わることをしなかった。そこには混沌が支配していた。 具象たちはいつからか群れることを覚えた。具象たちは群れ、交わり、1つの大きな抽象になった。 具象は在り、抽象は成る。抽象は歪さを持った具象を群れから弾き出した。抽象から存在を否定された具象は個別で生き残るより他なかった。 弾き出された具象たちは集まり、より...
※街道にそって、ひたすら南へ向かっていた夏侯蘭《かこうらん》は、いよいよ荊州の境に入ったところで、宿のあるじから、おどろくべき情報を手に入れた。「新野城《しんやじょう》はすっかり廃墟のようになっていますよ。劉備さまが、撤退される際に、火をかけたものですから」「なんだと!戦場になったのか」「手前どもも詳しくはわかりませんが、劉備さまと新野の住民が樊城《はんじょう》へ逃げたあと、火の手があがったようです」「そ、そうか」では、曹操軍による新野城の住民の虐殺はなかった。藍玉《らんぎょく》は、阿瑯《あろう》は無事なのだなとおもって、夏侯蘭はホッとした。恩人たちが炎にまかれて死んだかもしれないなどとなったら、今度こそ立ち直れない。宿を早朝に引き払い、さらに南へ向かう途中で、すでに劉備軍が民をひきいて、樊城を出たという...地這う龍三章その16夏侯蘭、ふたたび荊州に
外に厠《かわや》があるので、そちらに足を向ける。とはいえ、尿意があったわけではない、気分を変えたかったのだ。夜の涼しい風が、ほてったほほに当たって、心地よい。曹操は末端の兵にまで、襄陽《じょうよう》での略奪を禁じていた。そのかわり、今日に限っては、襄陽城の酒蔵を開け、みなに酒をふるまうことを許していた。あちこちから、兵士たちの楽しんでいる声が聞こえてくる。焚《た》かれた篝火のなかで、深呼吸をくりかえし、さて、そろそろ席に帰らないと罰杯を飲まされることになるなと踵《きびす》を返そうとしたときだった。篝火と襄陽城の柱の間の陰にかくれるように、女がいた。こちらに背を向けて、しょんぼりうなだれている。舞姫のひとりだろうか。派手な衣装と、その流行に合わせて複雑に編み込まれた髪で、玄人女だと知れた。さて、だれかに意地...地這う龍三章その15張郃と舞姫
※張郃《ちょうこう》は満足した。曹操が、いよいよ本腰を入れて劉備の追討にうごいたことが、うれしいのである。『こんどこそ、劉備の首をとって見せる。趙子龍ごときに邪魔をされてなるものか』聞いた話では、劉備たち一行は、民を連れているため、いまだ江陵《こうりょう》にたどり着いていないと聞く。追えば、三日もしないうちに追いつくだろうとのことだった。おそらく、劉備たちは水と食料の確保にも汲々《きゅうきゅう》としていて、心身ともにボロボロになっているだろうが……かまうものかと張郃は思う。ついていった民についても同情はまったくしない。判断をまちがえるから、死ぬ運命になるのだ。本気でそう思っている。出発の前日、壮行会がひらかれた。かつては劉表らが使っていた襄陽城《じょうようじょう》の大広間に、いまは曹操とその腹心たちがずら...地這う龍三章その14壮行の宴
今月の「トリック」というテーマの「小説でもどうぞ」の公募に出してみようと思って書いてみたのですけど気が変わりましたwこちらで公開します。「やつのアリバイはどうだ?」 田上警部がタバコを咥えながらいう。 長野県の県警の一室。室内には10数人が集まり、それぞれがタバコを吸っているものだから、 煙が充満して空気がかすんでいた。空気清浄機がフル稼働する音が高く響く。 「やつのその日の足取りはまった...
趙雲がいま、めったにやらない事務仕事をやっているのは、圧倒的人手不足ゆえにほかならない。それが証拠に、すでに交代の太鼓がドンと鳴ったのに、陳到が席を立たないでいる。あの、家族の元へ帰ることだけが至上命題となっているような男が、それを忘れているほど大量の事務仕事があるのだ。まず、文官をたばねている麋竺が風邪をひいたのが原因だった。それがどんどん移っていき、孫乾、簡雍とひろがって、最終的には関羽にまでたどり着いた。関羽が抜けたことで、荊州の州境の見張りが張飛と劉封だけ、というのが心もとないという劉備のひとことにより、孔明が視察もかねて州境に派遣されたことが決定打。たまりにたまった事務仕事を手の空いているすべての読み書きのできる者がやることになり、趙雲と陳到も動員されている、というわけだ。「軍師はいつもほとんど...ブログ開設6000日記念作品筆の神は見ている
稲光を背景にコンピュータ制御の塔が映える。 稲光が光る度に、狂ったコンピュータが1秒間に80億回の計算を行う。 周期も計算結果も明らかに滅茶苦茶だが、コンピュータは稲光が光る度に同じ処理を繰り返す。 Error 88890163 稲妻がコンピュータを直撃した。 煙をあげたコンピュータはそれでも止まらない。 稲光が光り、狂ったコンピュータが制御する塔が照...
※襄陽城《じょうようじょう》に入るには新野《しんや》と樊城《はんじょう》を経過せねばならない。もはや廃墟と化した新野城を横目に、無人の樊城を過ぎ、ようやく曹操軍は襄陽城へ入った。それまでの道中は、張郃《ちょうこう》にとっては苦々しいものだった。曹操は劉備と諸葛亮とやらの手際をほめていたが、こてんぱんにやられたほうとしては、笑ってなどいられない。とくに張郃は、悔しさがまったく晴れず、朝はだれよりも早く起きては、ひとり槍の鍛錬に励むようになっていた。だれに命じられたわけでもない。ただ、無性に、そうしなければと思ってしまうのだ。燃え盛る新野城で見た、趙子龍のぞっとするような凄惨な笑み。あいつを二度と笑わせない。今度はほえ面をかかせてやる!そんな張郃に付き合う副将の劉青《りゅうせい》は毎朝眠そうで、「ほどほどにし...地這う龍三章その13燃える張郃
※数日後。孔明は江夏《こうか》から戻ってこない使者に見切りをつけ、劉備とともに今後のことを相談し始めた。だれを使者に送るのかで迷っているようすで、夜のたき火のそばで行われたその話し合いは、なかなか終わらない。劉備と孔明のふたりは、ああでもない、こうでもないと意見を戦わせている。そのかたわらで、甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》が、やつれた顔をして座っていた。敷物の上にぺたんと座ったその姿は、髪もほつれ、衣も汚れ、血色もわるい。趙雲は夫人たちの守りとしてかたわらにいたが、やがて、阿斗をあやしていた甘夫人が顔を上げた。「お疲れですか。水でも持って参りましょうか」趙雲は心配になって声をかける。朝から晩まで、ゆっくりした行軍とはいえ、馬車での移動。揺れっぱなしのなかにいては、両夫人ともに、いつ具合が悪くなっ...地這う龍三章その12江夏への使者
※「よくありませぬなあ」趙雲の副将・陳到は趙雲のとなりで轡《くつわ》をならべていたが、後方をみやって、ぼやきはじめた。「民の数が増えたように感じます。わが君が劉表の墓参りをしているのを見て、襄陽《じょうよう》の民もいくらかついてきたようですな。それに、思った以上にみなの足が遅い。これでは曹操がその気になれば、あっという間に追いつかれてしまいますぞ」陳到は愚か者ではないので、まわりに民の耳がないことをたしかめてから、ぼやいている。民の行列は、地平の向こうまでつづくように見えた。たしかに、数が増えてしまったようだ。しかも、新野《しんや》から樊城《はんじょう》へ移動したときの元気はなく、みな口数が少ない。襄陽で追い立てられたことで、冷酷な現実が見えてきたのだろう。「たしかに、昨日より民が増えているな」「わが君の...地這う龍三章その11苦難の蜜月
黄金虫はヒマラヤスギの樹上に巣をつくる。 黄金虫の甲殻は魔女の秘薬の材料になる。 黄金虫の甲殻とマンドラゴラとイヌサフラン、ヨウシュトリカブト、蝙蝠の頭、 猫の目から作った秘薬を焚くと狼に変身することができる。 フェンリルの夜。 魔女たちは狼に変身して村々を襲う。 ...
張允《ちょういん》の甲高いわめき声を合図に、雨あられと矢が降りかかってきた。「いかん!」趙雲は、とっさに劉備の前に立ち、飛んできた矢を盾でかばった。飛んできた矢の何本かが、だん、だんっ、と盾に突き刺さる。一瞬、間が空いた。おそらく張允の兵が矢をつがえなおしているのだろう。兵を立て直さねばとまわりを見れば、将兵たちは手にした盾などで矢を防ぐことができたようすだ。たが、無防備な民は悲惨であった。かれらは大きく悲鳴をあげながら、城門の前から逃げようとしている。荷物は崩れて踏まれ、牛や馬は混乱し、暴れた。親の亡骸をまえに泣く子や、怪我をした家族をけんめいに抱えて逃げようとする者などもあって、冷静な者が落ち着くよう言っても、もはや誰も耳を貸さない。「おのれっ、おなじ荊州の民をなぜ殺すっ!」劉備は、顔を朱にして大音声...地這う龍三章その10無情の矢の雨
※襄陽《じょうよう》には、普通の旅程の倍の日数をかけて、やっとたどり着いた。民は元気いっぱいだった。守る兵たちも、おなじく士気が高く、馬も飼い葉をたっぷり与えられており、威勢が良い。だが、それでも人数が多すぎた。だれもがけんめいに足を運んだのだが、騎馬なら半分の日数で済む日程が、ほぼ倍になってしまったのだ。しかも大所帯ならではの小さなもめ事も頻発した。趙雲も、その仲裁などに回って神経をとがらせていたため、ふだんの旅よりもずいぶん疲れた。襄陽城が見えてくると、ホッとした。一か月ほどまえに、あの城市を舞台に大立ち回りをした。そのことすらが、夢のように思える。しかし、こてんぱんにされたほうの蔡瑁《さいぼう》からすれば、昨日の悪夢のように感じられる出来事だったろう。大けがを負ってもいるはずで、かれが正常な判断がで...地這う龍三章その9襄陽城の門前にて
※その夜、孔明は大量の紙束をかかえて、劉備の部屋へとやってきた。あいかわらず、その紙束の内容は、趙雲には知らされていない。紙束を孔明は劉備の居室で広げ、熱心に話をはじめた。趙雲は、ふたりが話しこんでいる部屋の外で、じっと話し合いが終わるのを待つ。怪しい奴があたりをうろついている気配もない。夜が更けるにつれ、あたりにどんどん虫の音の大合唱が響くようになってきた。それに紛れて、樊城《はんじょう》城内に寝泊まりする者たちの、いびきが聞こえてくる。趙雲もつられてあくびをしたとき、ようやく両者の話し合いがおわった。「子龍、遅くまですまないな。いま話がおわったよ」孔明に声をかけられ、趙雲は部屋を覗き見る。部屋には、孔明の書いたとおぼしき紙の絵図がひろがっていて、さらに、紙燭《ししょく》のまえに、劉備が満足そうな顔をし...地這う龍三章その8あらたな指針
※孔明の秘密の作業は、まだつづいていた。邪魔してはいけないので、趙雲は孔明のいる部屋を退出し、劉備の元へ行く。劉備は忙しく立ち働いていた。張飛や関羽といっしょになって、新野《しんや》と樊城《はんじょう》の民のため、炊き出しを手伝ったり、草鞋《わらじ》を編んだり、収穫物を管理するための帳簿を書いたりしている。草鞋を編むことにかけては、劉備の手先の器用さがいかんなく発揮されていた。張飛や関羽のつくる不格好な草鞋を直してやることまでやっているのだ。かれらは楽し気に作業していて、目の下にクマを作りながら一室に籠って懸命に作業している孔明とは対照的だった。趙雲は複雑な思いで、劉備たちをすこしはなれたところから見守っていた。すると、当の劉備が気づいて、たずねてきた。「子龍、軍師はどうしている」「部屋で書き物をつづけて...地這う龍三章その7三兄弟と草鞋
母が危篤になったと兄から電話があったのは、お正月休みが過ぎてすぐのことだった。僕は、ちょうど会社に行く準備をしている所だった。「シュン、いよいよあの人が危ないそうだ。すぐ来られるか?」「ああ、ちょうど出勤前で出かける準備をしていたから1時間
※その日のうちに、軟児《なんじ》は孫子礼《そんしれい》と紫紅《しこう》に連れられて樊城《はんじょう》を離れた。軟児は、最初のうちは、父親に会えたとはしゃいでいた。だが、すぐに、大恩人の趙雲と離れなければならない事実に気づいたのだろう。次第にその顔から笑みが消え、口数が少なくなり、涙がちになってきた。趙雲は、なるべく用意できる旅の道具を一式持たせて、軟児とその父母に渡した。両親は恐縮してぺこぺこと頭をさげつづけている。それを見て、軟児は泣きながら、言った。「どうしても長沙《ちょうさ》に行かなくてはいけないの?ここにいてはいけないの?」それは、と趙雲が答えるより先に、孔明がなだめるように言った。「軟児や、子龍はかならずおまえを迎えに行くであろう。それまで良い子にして待っているがいい」「ほんとうですか?」軟児は...地這う龍三章その6離別
事件は、紫紅《しこう》が父のお供で襄陽《じょうよう》の市場へ馬を売りにいったときに起こった。彼女が留守をしているあいだに、子礼《しれい》が軟児《なんじ》を壺中《こちゅう》という、貧しい子供に礼儀作法や学問を教えてくれるという塾に預けてしまったのだ。「壺中なんてもの、聴いたことありませんでしたから、びっくりしてしまって。このひとに言って、軟児ちゃんを取り戻すように言ったんです」紫紅のことばを引き継いで、子礼も深いため息をともに言った。「あのときは、ほんとうにどうかしておりました。あの子を手放そうとするなんて……しかし、貧しい暮らしをさせて世に埋もれさせるには惜しい器量の子ですし、毎日きちんと食べられるところで、きちんとした教育を受けられるというのなら、それがいちばん幸せだろうと思ってしまったのです」かれらは...地這う龍三章その5父娘の再会
ある国の、ある地方に在る、ある暗い森の中にそれは在る。昼でも暗いその森のさらに奥深い場所に、甘い香りを放つ植物が在る。この植物は土壌の窒素とリン酸とカリウムを栄養素としない。この植物は動物や人間を捕食して生きている。甘い香りを放ち、被捕食者たちを幻惑してその花びらに閉じ込め、そして食べた。...
スケール越しに石膏像を見た。 パジャントの石膏像はかすかな微笑みを浮かべて窓の外を見ていた。 パジャントが見ている窓の外に目を向ける。 陽が落ちてだいぶ暗くなってきている。 蛍光灯に照らされた石膏像たちは思い思いの方向をみている。 それぞれの方向を向く石膏像たちには何が見えているのか。 何が見えて、それを見て何を考えるのか。 何も見えていないし、何も考えていないというには、 石膏像...