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どうする家康 第43話「天下分け目」 ~小山評定、伏見城の戦い~
徳川家康とともに会津の上杉景勝討伐に向かった諸将に、上方で石田三成が挙兵したとの報せが入ったのは、慶長5年(1600年)7月20日過ぎのことでした。この...
数年前、秋の大原を訪ねました。紅葉の参道を抜けて、三千院の参道の奥にある宝泉院へ向かいました。宝泉院も、実光院とともに大原寺勝林院の僧坊の一つです。山号は魚山、本尊を阿弥陀如来。声明の大家・宗快法印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建され、当初は了性坊と呼ばれていました。正徳6年5月に宝泉院と改められ、現在に至ぃています。宝泉院には、盤桓園(ばんかんえん)、鶴亀庭園、宝楽園(ほうらくえん)という3つの...
医王寺山「武田勝頼本陣跡」!進軍か退却か?武田の命運を左右する軍議の行方は?
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、医王寺山「武田勝頼本陣跡」!進軍か退却か?
【どうする家康】#41 逆襲のシャアならぬ三成、家康との最後の戦い前夜
最後に向けて盛りだくさん NHK大河ドラマ「どうする家康」第41回「逆襲の三成」が先週10/29に放送された。石田三成は、秀吉死後の五大老五奉行の政を進めたが、朝鮮戦役から戻った加藤清正らの処遇に失敗して混乱を抑えられず、失脚した。 この「逆襲の三成」というサブタイトルを聞いた時、世代的にどうしても機動戦士ガンダムの映画「逆襲のシャア」を思い浮かべてしまったが(それにしてはすっかり中身を忘れている)、確かあの映画もアムロとシャアの「最後の戦い」を描いたんじゃなかったっけ・・・(気になる人は調べて)。「どう家」の三成と家康も、いよいよ決着が付く「関が原」前夜と言ったところに物語は差し掛かっている…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜家康さんが狸って言われているのは演技なんかなぁ?ってことで第41話の感想ぉ!石田三成を政(まつりごと)から…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 78.徳川家康・六十六
上杉景勝への処分は、8月16日に言い渡された。 上杉景勝は、陸奥会津百二十万石から、出羽米沢三十万石へと減封され、11月28日には、米沢へと移動した。 即ち…
京都市東山区の養源院は、三十三間堂の東向かいにあります。以前行った春の養源院の特別公開では、俵屋宗達筆の襖絵「松図」、杉戸絵「白象図」「唐獅子図」、狩野山楽筆の襖絵、豊臣秀吉公木像、伏見城遺構「血天井」、淀殿・江・豊臣秀頼の肖像画などの寺宝が公開されました。養源院は、豊臣秀吉の側室となった淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の文禄三年(1594年)に創建した寺。一度は落雷により焼失しました...
のことですが、伏見の武家屋敷の古地図を買いに伏見区桃山まで行ってきました。伏見城を中心に全国各地の武将の屋敷や街道、河川を描いた伏見町誌付図「豊公伏見城ノ圖」です。この地図は、文禄3年(1594年)の伏見城が完成した当時に作られた地図なのだそうです。これは、桃山時代、大名屋敷が立ち並んだ伏見城城下町の地図を、京都市伏見区の郷土史家の藤林武さんが伏見町誌付図「豊公伏見城ノ圖(ず)」を基に作り上げた地図で...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 77.徳川家康・六十五
島津家は、二年間という、粘り強い外交によって、減封されることはなく、本領安堵を得ることができたのである。 薩摩は、大坂から、離れている、地理的な利点は大きか…
もう10年以上前のことになりますが、京都市北区鷹峯を訪ねました。北大路バスターミナルからバスで源光庵へ。源光庵は、貞和2年(1346年)に臨済宗の大徳寺2世・徹翁義亨国師により隠居所として創建され、元禄7年(1694年)臨済宗から曹洞宗に改められました。夕方近くでしたが、女性同士の参拝客が多かったです。障子の向こう側に見える庭園が美しい源光庵といえば「窓「が有名ですね。一つは四角い方の迷いの窓円迷いの窓の⾓型...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 76.徳川家康・六十四
島津義弘は、関ヶ原の戦いにおいて、敵中突破を敢行したことは、既に述べた。 義弘は、堺より、立花宗茂と共に海路逃走し、鹿児島へと辿り着いた。 島津義弘は、桜島…
#427 TVアニメ『まんが日本史「秀吉ついに天下を取る-封建制度の確立』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の秀吉の天下統一についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想 天下を治めるために…
#428 第38回「唐入り」感想~大河ドラマ『どうする家康』
欲望を大義にすり替えて壊れていく太閤秀吉の姿を描いた大河ドラマ『どうする家康』の第38回「唐入り」(10月8日放映)について”キツネ”の茶々?に憑りつかれたよ…
#459 小田原攻め その1~『松平家忠日記を読む』から見る
大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる北条攻めについて『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』ではどのようになっているのか小田原…
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝の征伐のため出兵(会津征伐)、6月16日、家康は伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし、伏見城を預けました。家康の出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵。伏見城で、鳥居元忠らが1,800人の兵力で立て籠もる伏見城の戦いが勃発しました。元忠は、三成が派遣した降伏勧告を拒否して戦い続け、13日間の攻防戦の末、討ち死。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されましたが、...
#432 小田原合戦&関東国替え from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
10月1日放映の大河ドラマ『どうする家康』第37回の小田原合戦から関東国替えについて大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』…
#433 TVアニメ『まんが日本史「豊臣秀吉の野望-朝鮮出兵と安土桃山文化』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の秀吉の朝鮮出兵などについてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想 秀吉の驕りと名…
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ) は、全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社で、「天野大社」「天野四所明神」とも呼ばれています。境内入口にある太鼓橋は、淀殿の寄進と伝わり、舞楽曼荼羅供の装束にも描かれているそうです。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されています。空海が金剛峯寺を建立する際、丹生都比売神社が神領を寄進...
沓掛城跡(今川義元最後の滞在地)沓掛城跡(本丸)沓掛城跡(二の丸)沓掛城跡(諏訪曲輪)1560年、駿河の今川義元は、尾張に攻め込み、沓掛城に入る。5月19日朝、沓掛城を大高城へ向けて出立した。その途中、桶狭間において、織田信長に攻撃され、
徳川家康公像若き日の徳川家康公像 徳川家康(1542‐1616)江戸幕府初代将軍。三河国を統一後、遠江国に進出し、岡崎城から浜松城に移る。29歳~45歳までの17年間を過ごし、浜松からは、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の攻略、小牧・
#435 2023年10月の購入本について その1 『歴史街道2023.11』
2023年10月購入本は、100分de名著はすでに持っているものでしたので、『歴史街道2023年11月号(特集1「新・関ケ原)』の最新号だけを購入。歴史街道2…
#457 第41回「逆襲の三成」感想~大河ドラマ『どうする家康』
石田三成が失脚し、狸を演じる徳川家康が豊臣政権の政務を担うようになった中で、チャンスをうかがっていた三成ついに打倒家康に立つを描いた大河ドラマ『どうする家康』…
徳川家臣団の屋敷跡巡りの続きです。尾張町公会堂付近には松下之綱の屋敷跡松下之綱天文6年生まれ。松下長則(ながのり)の子。今川氏に属し遠江(静岡県)頭陀寺(ずだじ)城主。このころ日吉丸(のちの豊臣秀吉)が3年間之綱につかえている。のち徳川家康,秀吉につかえ,天正18年遠江久野(くの)1万6000石の城主となる。慶長3年2月29日死去。62歳。三河(愛知県)出身。通称は嘉(加)兵衛。(コトバンクより)「おんな城主直虎」では、悪役に...
どうする家康 第41話「逆襲の三成」 ~家康暗殺計画、直江状、内府ちがひの条々~
石田三成の失脚から約半年後の慶長4年(1599年)9月、今度は徳川家康を暗殺しようとする企てがあることが発覚します。その首謀者は金沢に帰国している前田利...
#438 第39回「太閤、くたばる」感想~大河ドラマ『どうする家康』
唐入りの欲望を果たすべく文禄の役を始めた秀吉が秀頼の無事だけを願う人物になってしまった姿を描く大河ドラマ『どうする家康』の第39回「太閤、くたばる」について欲…
#439 秀吉と北条家の関係悪化~『松平家忠日記を読む』から見る
大河ドラマ『どうする家康』においては初めから北条攻めを考えていて実行した秀吉という設定ですが、『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』…
徳川家康在城期の徳川家臣団居住区は、浜松城を取り囲むように設定されていました。鴨江観音堂の北築地跡、現在の浜松西小学校付近には、鵜殿兵庫頭の屋敷跡の標柱が立っています。鵜殿兵庫頭鵜殿氏長(うどの うじなが)天文18年生まれ。鵜殿長照の子。今川氏真の家臣。父とともに三河(愛知県)上之郷(かみのごう)城をまもる。永禄5年徳川家康の家臣,松平清善に攻められ捕虜となる。今川方と徳川方の人質交換で氏真のもとにもどり,...
戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った鳥居強右衛門ゆかりの史跡へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った
【どうする家康】#40 念入りに老けた「狸」家康、満を持して天下様へ
「狸」の域に達した家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」第40回「天下人家康」が10/22に放送された。前回、秀吉がおどろおどろしく死んじゃったので今回はちょっと気が抜けてしまったが、残り8回しかない家康はそうも言っていられないだろう。あらすじを公式サイトから引用する。 秀吉(ムロツヨシ)が死去し、国内に動揺が走る。家康(松本潤)は三成(中村七之助)と朝鮮出兵の後始末に追われる。秀吉の遺言に従い、家康は五大老たちと政治を行おうとするものの、毛利輝元(吹越満)や上杉景勝(津田寛治)は自国に引き上げ、前田利家(宅麻伸)は病に倒れる。家康は加藤清正(淵上泰史)ら諸国大名たちから頼られる中、やがて政治…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜秀吉さん亡き後…合議制…うまくいくの?ってことで第40話の感想ぉ〜!秀吉が亡くなり、五大老五奉行による合議…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 75.徳川家康・六十参
9月27日、徳川家康は、大坂城に入城して、豊臣秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻すと、嫡子の徳川秀忠を二の丸に入れた。 しかし、10月2日、徳川家康は、黒田長政を…
豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣家を擁護する石田三成が対立。家康が上杉征伐(会津征伐)を企てると、石田三成は、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名を大坂城に集結させました。家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。三成は家康が会津攻めに赴いた隙に、大谷吉継や毛利輝元らを集めて挙兵。伏見城を落とし...
岡崎の伊賀八幡宮は、松平家の4代親忠が、文明2年(1470)に松平家(徳川家の祖)の子孫繁栄・武運長久の守護神、氏神として創建しました。5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。天下人となった家康により社殿の改築が行われ、家康も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれています。のちに3代将軍・家光が社殿を拡張し、家康(東照大権現)を祀りました。江戸時...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 74.徳川家康・六十弐
徳川家康は、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の六名に徳川家康に味方した、諸大名の論功行賞の調…
#450 朝鮮出兵と秀吉の死 from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
10月8・15日の大河ドラマ『どうする家康』では朝鮮出兵と秀吉の死が描かれています。これを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 73.徳川家康・六十壱
石田三成が、逮捕された場所は、三成の領内であり、同地の農民が、処罰を覚悟の上で、匿っていた。 しかし、石田三成は、発覚したことを知ると自身、田中吉政の兵に対…
豊田市の隣松寺の裏手には、鴛鴨(おしかも)松平氏墓所があります。この地もかつては隣松寺の敷地内だったそうです。榊原康政の祖父・榊原清長・父・榊原長政の墓や、松平忠久の娘である於美津(おみつ)(東条松平家忠の妻で、松平忠吉の養母になった)の墓があります。鴛鴨松平氏は、松平家三代当主・信光の子である親光を初代とし、鴛鴨城を拠点としました。親光の後は、親康、親久、忠久と続きました。永禄6年(1563)上野城(豊田...
岡崎城のすぐ近く、康生町新田に鎮座する新田白山神社は、1566年に、徳川家康が厄除け開運祈願のため、源氏の一族新田氏のゆかりの地「上州新田」から勧請したものであると伝えられています。もとは岡崎城内にあって、城主の産土神として崇敬されていました。境内には、天然記念物に指定された大楠があります。樹高が10mを超えるクスノキの老樹で、根本から1.5mのところで二つに分かれています。樹齢は600年以上と言われ、家康の...
隣松寺は、鴛鴨松平家(寺から北に約1㎞に居城・鴛鴨城跡)の菩提寺であり、隣松寺の墓地には、鴛鴨松平家の墓、家康の四男・松平忠吉の墓、内藤家の祖先・内藤清長の墓、室町時代の細川家三代の墓などが並んでいます。細川家三代墓所細川家三代とは、初代の細川義季とその弟の戸賀崎義宗、2代細川俊氏、3代の細川公頼のことをいいます。内藤清長の墓内藤清長は、家康の祖父・松平清康、家康の父・松平広忠に仕えた上野上村城主です...
豊臣秀吉の喪は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮に10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(15...
本日も晴天でした!秋晴れが続いてます。今回は お出かけメモを簡単に綴っておきます。先週末の10/20(金)、2023年大河ドラマ『どうする家康』で沸く徳川家康生誕の地愛知県岡崎市の
#449 第40回「天下人家康」感想~大河ドラマ『どうする家康』
天下人秀吉が何もかもを放り出すように亡くなった後の国内での政争と天下人への道を歩む家康の姿を描いた大河ドラマ『どうする家康』の第40回「天下人家康」(10月2…
豊田市の隣松寺もまた徳川家ゆかりの寺として知られています。仁王門仁王像山門稲荷社境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。家康は三河一向一揆の際、一向一揆の際に、酒井忠尚の居城・上野城めの本陣とし、稲荷社に戦勝祈願しました。勝利した後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進したといい...
日本三大山城・岩村城本丸の六段の石垣右:太鼓櫓、左:表御門岩村城は、標高717mに築かれた日本一高い地にある山城。高取城、備中松山城とともに、日本三大山城に数えられる。遠山氏→河尻秀隆→森長可→松平氏→丹羽氏が城主となる。その佇まいは、和製
天正18年(1590年)佐和山城主となった石田三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行い、山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、人をして「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめました。三成は伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であったといいます。慶長4年(1599年)大老・前田利家が病死すると、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福...
※本日の紀行で紹介されましたので、再掲します。まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている米原市の観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂...
※本日の紀行で、石田三成の生誕地・長浜の石田会館が紹介されましたので、まとめ直しました。長浜駅から、湖国バスで約20分、石田で下車。石田三成生誕の地・石田町を歩いてみました。バスを降りたところで、「三献の茶」の三成さまを発見!ここから南へ50mほど行くと、右手に石田三成出生地があります。三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルが展示されています。「石田治部少輔出生地」と刻まれ...