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#453 TVアニメ『まんが日本史04「聖徳太子の理想-中国文化と仏教の伝来』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の仏教の教えに基づいた高い理想に燃えた将と泰氏の政治についてヒストリーチャンネルで放送されて…
#455 TVアニメ『まんが日本史05「大化の改新-中大兄皇子と藤原鎌足』
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の大化の改新についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想 聖徳太子の理想を引き継…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 75.徳川家康・六十参
9月27日、徳川家康は、大坂城に入城して、豊臣秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻すと、嫡子の徳川秀忠を二の丸に入れた。 しかし、10月2日、徳川家康は、黒田長政を…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 74.徳川家康・六十弐
徳川家康は、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の六名に徳川家康に味方した、諸大名の論功行賞の調…
#450 朝鮮出兵と秀吉の死 from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
10月8・15日の大河ドラマ『どうする家康』では朝鮮出兵と秀吉の死が描かれています。これを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 73.徳川家康・六十壱
石田三成が、逮捕された場所は、三成の領内であり、同地の農民が、処罰を覚悟の上で、匿っていた。 しかし、石田三成は、発覚したことを知ると自身、田中吉政の兵に対…
#445 TVアニメ『まんが日本史03「大和朝廷の成立-古墳と大王たち』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の古墳時代の大和朝廷についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想 4~6世紀終わ…
戦後70年だっていうけど、あの敗戦の原因は、やっぱり軍部の独走だったのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『救世の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。宗教が尊敬を勝ち得ていない理由としては、やはり、先の大戦における敗戦が大きいでしょう。ただ、「先の大戦における日本の敗戦の原因は、結局、聖徳太子以来の国体に背いたことにある」と、私は思うのです。聖徳太子以来、仏教と神道が融和しながら、この国を運営してきました。「外側は神道、中身の教義は仏教」というかたちで、助け合ってやってきたのに、明治以降は国家神道となり、ほかの宗教は弾圧されました。明治維新では、天皇を押し立てて革命を起こしたため、日本の国を、もう一段、一神教風にしたかったのでしょう。天皇を「現人神」にし、仏...日本の敗戦の原因って?
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 72.徳川家康・六十
9月16日には、伊勢亀山城が開城し、城主の岡本良勝は自刃を命じられた。 良勝の嫡男の岡本重義は、近江水口で自刃した。 東軍に加担するつもりであったが、西軍の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 71.徳川家康・五十九
徳川家康は、関ヶ原の戦いが、東軍の大勝利で終わると、当日、首実検の後、大谷吉継の陣があった、山中村へ陣を移し、休養を取った。翌日の9月16日、 徳川家康は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 70.徳川家康・五十八
島津義弘は、撤退戦の際、捨て奸と言われる、数人の隊が、留まって、全滅するまで、敵の足止めをし、その部隊が、全滅すると、更に、新しい足止めの舞台隊を残すという…
【歴史ドラマ感想】MAGI 天正遣欧少年使節団【長崎篇・京都篇 】
MAGI 天正遣欧少年使節団(Prime Video) 天正遣欧少年使節を初めて実写化されたドラマが 『MAGI 天正遣欧少年使節団』です♪ Amazon Prime会員の方々であれば無料で視聴できます♪ 最終回は、第10話と中々の大作です。 話...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 69.徳川家康・五十七
関ケ原の合戦は、二次史料が、複数あるため、実態は、不明である。 以下は、筆者が、要約した、当日の様相である。 宇喜多秀家は、石原峠を背後に南東の方角に向けて…
おはようございます。警備員のおっさん、やぶりんです(´・ω・`) 歴史能力検定5級・4級に出願しました( ゚Д゚)入門・基本ということなので、特に勉強しないで…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 68.徳川家康・五十六
細川幽斎は、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。 遂に、後陽成天皇は、細川幽斎の歌道の弟子、三条西実条と中院通勝…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 67.徳川家康・五十五
8月8日、吉川広家と安国寺恵瓊が、指揮を執る、約一万の軍勢が、長束正家勢と共に、伊勢へ出陣した。 石田三成は、岐阜城主、織田秀信と相談の上、尾張方面に出陣し…
ここでは、楽しく日本史を学ぶためのコツを紹介します。 日本史は、日本の過去の出来事や人々の物語でいっぱいです。 その歴史の中には面白くて驚くような出来事がたくさん隠れています。 そんな歴史を楽しく学んでみましょう!
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年8ヒューマニストの運命1日本にいたエラスムス栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、そ...7-8-1日本にいたエラスムス
人類の歴史って、ほんとは光の天使や光の菩薩、如来が活躍してきた歴史だって、ちょっと聞いたんだけど、ほんとなの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、たとえば、こう教えておられます。プラトンは、ギリシャに生まれた偉大な光の大指導霊であり、本来、八次元如来界の高級霊なのです。師のソクラテスがそうであったように、プラトンもまた、生きながらにして光子体離脱(幽体離脱)をし、何度も天上界に足を運んで、その様子を実際に見聞しております。(中略)ソクラテスやプラトンたちは、来るべき西欧文明が、知性に彩られた文明になることを見越して、理知的に真理を説いたのです。(中略)ソクラテスは、紀元前五世紀の人です。インドでは釈迦が、中国では孔子が、活躍していた時代とほぼ同...人類の歴史ってどうなってるの?
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 66.徳川家康・五十四
7月23日には、徳川家康が、最上義光に対して、石田三成と大谷吉継が、各地に書状を触れ回しているとの「雑説」があるので、会津侵入は、「御無用」とする指示が出さ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 65.徳川家康・五十参
7月15日、毛利輝元は、上坂要請を受けると、広島を出発すると、同日に、加藤清正に豊臣秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送った。 更に、同日、島津義弘は、上杉…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 64.徳川家康・五十弐
1600年(慶長五年)3月、越後国の堀秀治が、会津の上杉景勝の重臣、直江兼続に越後の年貢の下半期分まで持ち出された訴えを起こした。 更に、出羽国の最上義光ら…
~臨時職員を見下したために食らった痛い一撃~ 「・・・しなさいとは何だ‼」・・・突然怒鳴られてしまいました。強烈な一撃です。一緒に夕食を食べていたときのことでした。 相手は同じA中学校に同僚として勤務していた本田さん(仮名)です。即座に謝りましたが、まさか怒鳴られるとは思っていませんでした。 僕と彼は同い年。特に親しい友人でもありませんでしたが、同じ職場で同じような悩みや不満を持っていたので話がよく...
夜の11時前。 これから日本史の復習をします。娘のプリンちゃんがソファーでくつろいでいるパパの前に椅子を持ってきて座り込みました。 いつもは11時過ぎには布団…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 63.徳川家康・五十壱
文治派は、豊臣秀吉の死後、徳川家康の専横に対し、危機感を持ち、抑制しようとした。 しかし、武断派の多くが、徳川家康に味方したのに対して、文治派の中には、徳川…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 62.徳川家康・五十
豊臣秀吉の死の年、後継者の豊臣秀頼は、わずか、六歳であった。 そのため、五大老、五奉行の合議制となっていた。 豊臣秀吉の遺言によって、徳川家康は、三年間は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 61.徳川家康・四十九
豊臣政権を揺るがす、「秀次事件」を受けて、豊臣秀吉は、諸大名に対し、上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。 徳川家康は、豊臣秀吉の命令で上洛した。 以降、開発途…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 60.徳川家康・四十八
豊臣秀吉の直轄領は、太閤蔵入地と呼ばれたが、畿内及び、九州に二百二十万石である。 即ち、徳川家康は、天下人であり、主君の豊臣秀吉を超える、大大名になったと言…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 59.徳川家康・四十七
蟄居中の北条氏直は、富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して、赦免の執り成し依頼を行っている。 翌年の1591年(天正十九年)2月、早々に徳川家康を通して…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 58.徳川家康・四十六
しかし、北条氏政が、講和条件を拒否したために、豊臣秀吉が、黒田官兵衛孝高に命じ、交渉に当たらせた。 6月16日、北条氏政の重臣であった、松田憲秀の長子の笠原…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 57.徳川家康・四十五
浅野長政は、5月20日時点で、豊臣秀吉の命に従って、急ぎ軍を返すと、武蔵国方面に侵攻しており、寿能城及び、岩付城を攻めた。 5月21日時点にて、浅野長政は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十四
松井田城主で、北条氏累代の重臣、大道寺政繁は、北方軍を碓氷峠で、迎え撃ったが、与良が、真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られた。 主力は、真田軍と激戦になった…
いま色々と忙しいので、適当にお茶を濁した記事で。今日の昼間、大河ドラマ「どうする家康」で、関ヶ原の戦いに決定的な影響を及ぼしたとされる小早川秀秋役が発表されました。 x.com
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十参
北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。 同年の3月1日、豊臣秀吉…
目次 藤原公任 説話 東三条殿の立后について失言を放つ 三船の才 藤原実資 説話 藤原実頼の名前が由来 豪華な邸宅 藤原済時 説話 気難しい性格 大饗において永平親王に接待させて大恥をかく 藤原師尹
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 54.徳川家康・四十弐
11月24日、豊臣秀吉は、北条氏との手切れ書を北条氏及び、諸大名に配布した。 同日の豊臣秀吉から、徳川家康への書状では、来春の出陣決定と陣触れを出したことを…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 53.徳川家康・四十壱
豊臣秀吉は、北条氏政、徳川家康から事情聴取を行い、沼田領内の三分の二を北条氏政、三分の一を真田氏とする、譲歩に近い裁定を行った。 豊臣秀吉は、北条氏の当主の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 52.徳川家康・四十
1586年(天正十四年)11月1日、徳川家康は、京へ上ると、11月5日、朝廷に正三位に叙される。 この時、多くの徳川家康の家臣が、叙任されている。 徳川家康…
醍醐寺五重塔は朱雀天皇が醍醐天皇の冥福を祈るために建てた塔で、現存する京都最古の木造建築物である。承平六年(936)に着工し、村上天皇の御代の天暦五年(951)10月に完成した。 内部には両界曼荼羅・
目次 一条天皇時代 寛弘二年(1005) 11月22日 陰陽寮が内裏で起こった火災の祟について勘申する 11月29日 賀茂光栄が賀茂臨時祭の日時・紫宸殿出御の日時・官奏に伺候する日時・除目の日時を勘申
陰陽道の教えに沿って一日を過ごした平安貴族~九条殿遺誡・現代語訳~
『九条殿遺誡』は10世紀半ばに右大臣藤原師輔が記した家訓書。 目次 平安貴族の一日 起床後の作法 宮中での心得 教訓 幼年期 仏を大切にする 天皇に尽くし、父母を敬う 対人関係の心得 質素倹約のすすめ
目次 晴明の位階・官歴 解説 天文博士 主計権助・主計助 備中介 大膳大夫 散位 晴明の位階・官歴 官職 官位 初出 典拠 天文得業生 天徳四年(960)9月23日 『中右記』嘉保元年(1094)11
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 51.徳川家康・三十九
1586年(天正十三年)11月29日、日本列島中央部を「天正大地震」が襲った。 被害は、甚大であり、中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。 地震発生の際、豊臣秀…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 50.徳川家康・三十八
1586年(天正十三年)1月2日、徳川家において、主君の徳川家康に次ぐ、筆頭家老の重臣である、石川数正が、出奔し、羽柴秀吉に帰属する、事件が発生した。 石川…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 49.徳川家康・三十七
羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として、浜松城に送り、徳川家康と講和しようと試みた。徳 川家康は、返礼として、次男の於義丸、即ち、結城秀康を秀吉の養子にするために…