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私の介護職としての経験論、いや人間として重要なのは、やはり挨拶です。挨拶というのは最高の飛び道具です。なぜなら私の気持ちを相手に投げ、相手がそれを受け取って投げ返す。その会話が成立するかどうか、相手の体調はどうかを見極め得る最高の道具として常に存在してきたからです。 急にこちらのしたいことや終わらせたいことを提案するのではなく、「おはようございます」というボールが返ってこない場合には、そのままでは相手がこちらを認識していないか、聞き入れる態勢に無いという事を教えてくれるからです。まず一人一人に挨拶をしていると、今日の気分が分かりますし、一日のコミュニケーションが非常に円滑です。 挨
真理を見通す力、真実への探求。これは人類が欲してやまない能力ではないでしょうか。一体全体どれが本当の事なのか分からなければ、常に疑心暗鬼になって不思議ではありません。 この場合に道標となるのは、球を捉える概念です。 ある方向からその物を捉えたとしても、球という形であるかどうかは判別できません。球体である事を理解するためには、あらゆる角度から物を捉えなくてはなりません。そうすると朧気ながら見えてきます。更に言えば、見るという行為だけでは形のみしか分かりません。そこで必要になるのは五感です。 我々人間には、視覚(見る)、聴覚(聴く)、味覚(味わう)、嗅覚(嗅ぐ)、触覚(感じる)が備わ
「体が資本」まさに健康というものは、誰もが最も必要とする掛け替えのないもの。健康寿命さえ高まれば、人生の幸福度や満足度を充足させ、よりよい人生を長く送ることが出来るはずです。私の願望として、たとえ命の灯が消える日時が定まっていたとしても、より長く日常生活を不安なく送れる程度に健康でありたいところです。 この考え方について、アメリカの経済学者であるマイケル・グロスマンは、健康がどのようにして人の幸福に寄与するか、またその健康を維持改善するために選択する行動についても経済学的な意思決定の観点から提示しています。 健康消費(Health Consumption):健康な身体そのものが
2か月勉強で介護福祉士/ケアマネジャー試験に一発で合格する方法
私は介護施設で働いていく中で、多くの同僚が介護福祉士やケアマネジャーの試験に泣かされているところを多く見て来ました。情熱をもって取り組み、そして仕事に励み、その結果として試験に落ちてしまう。その辛さは、私も痛感しています。あなたの知識欲と向上心は必ずや介護に必要とされる人材であることを表しています。 そしてまた、試験に必要とされる知識、そして勉強の経験は誰にとっても重要であるからこそ、このノウハウについて記しておきたいと考えています。 私は地方公立高校を卒業し、地方私立大学を卒業しましたが、決してそれまで学業が優秀な人間ではありませんでした。はっきり言って落ちこぼれです。しかし、公
歳を取れば誰しも、見た目だけでも老いを感じるものです。歳を重ねて10代の見た目であろうとするのは無理難題。そうすると必然とどのように年を重ねていくほうが良いのか、より健康で居たい、成熟した人間でありたいという願望が生まれてきます。 実は、老化というものに密接に関係しているのが糖化です。"老化とは糖化である"と言い換えても良いでしょう。なぜなら糖化は老化の促進因子だとされているからです。"体のコゲ"とも表現される糖化は、余分な糖質が体内でタンパク質と結びついて細胞を劣化させます。そうして、表面的には皮膚などに現れるシミやたるみの原因となっているのです。 老化はAGEsが蓄積されること
山本周五郎著「赤ひげ診療譚」は、小石川養生所の“赤ひげ"と呼ばれる医師と、見習い医師との魂のふれ合いを中心に、貧しさと病苦の中でも逞しい江戸庶民の姿を描いた連作短編時代小説集。実在した江戸の町医者、小川笙船をモデルにした活劇。黒澤明「赤ひげ」の原作。2012年から全国の都道府県医師会の推薦した「地域の医療現場で長年にわたり、健康を中心に地域住民の生活を支えている医師」を赤ひげ大賞として顕彰している。 医療というものにも必ず限界があります。そしてその限界を誰もが知り、認めるべきなのです。医療というと目の前の患者の傷病を治すという事だけが使命であるように捉えられがちです。確かにそれは一
私は介護職員として働く前からずっと所謂、一般的に言われるような社交的で積極的なコミュニケーション能力に秀でた人ではありませんでした。しかし、広く浅い関係性よりも、狭くとも深い関りを求めて来ました。その深い関りというのは、私の妻、家族や友人がしてくれたような関係です。 温かみがあり、たとえ一見厳しいようでいても、相手のことを真剣に考えているのだと感じさせる関係です。私はこのような関係性を互いに"尊敬"することだと感じていました。幼い頃から培った経験や元来の性格も組み合わさって、相互理解は、このような相手に対する尊敬の念の上に成り立つのではないかと考えてきたのです。 私のこのような理解
「これからをどう生きるか、何をしたいのか」この問いは介護に携わる者にとって、いつも重要なテーマとなり続けています。日々の言動に耳を傾け、目を凝らすこと。生活の些細な事柄からニーズであろうものを把握し、それを充足していくこと。これこそが利用者の効用を高める原動力であり、ひいてはその人らしく生きるという介護の在り方にとっての羅針盤となります。 たとえ認知症で少しずつ物事を忘れていくという段階にあっても、人の役に立ちたいという気持ちは誰もが持ち続けています。 他者の洗濯物を畳んであげたり、野菜の皮むきをしたり、苦戦する車いすを押してあげようとしたり、症状が進行していても優しく声を掛けて手
医療や福祉といった分野は、縁の下の力持ちとも言え、社会基板でもあるエッセンシャルワークです。同時にたとえ機械化や自動化が進んだとしても完全に置き換わることは難しく、労働者による人的資本が中心を担い続ける必要のある労働集約的産業でもあります。この労働集約的産業が抱えた問題を提唱し、公的支援の必要性を示したのがアメリカの経済学者、ウィリアム・ボーモルでした。 社会が目まぐるしく変化していく中で、自動車や精密機器など資本集約的な産業が技術革新によってどんどんと生産効率性を向上させてきました。しかし、同時にクラシックのオーケストラで弦楽四重奏を奏でるのに必要な演奏家の数、看護師が包帯を巻くの
後天的な精神疾患は多くの場合、健全なる人間的反応、免疫のようなものであるように思えてなりません。そうして"現実の苦悩"や"恐怖"に直面した人間が自己を保とうとする正常な働きだと捉えるならば、その原因をどうにか解消しない限り、根源的な改善と解決は見込めないのだとも思えます。 投薬などによる症状の緩和が行えたとしても、それは一時の対処療法に過ぎず、完全な治癒とは言えないところです。むしろ、正常な心的機能を投薬によって押さえつける事によって、その機能の退化、脳の退化、感情の廃用が起こるのではないだろうかという疑問さえも湧いてきます。私はこの常態化に危惧を抱いているのです。 過去にはE・モ
「はい、チーズ!」カメラを向けるとよそ行き顔。たった今、あんなに嬉々として素敵な笑顔だったのに…。 季節が巡るごとに、一緒に梅干しを作ったり、お花見に行ったり、その時々で本人や家族に手渡す手紙や写真。いつも大切にしまわれていて、暇があればそれを眺めている姿は、日頃から傍にいる人間の一人として、とても印象に残っています。そして家族にとっても、その写真はいつかお金には代える事が出来ない財産になったりします。たった今のその瞬間が、きっと掛け替えのない誰かの宝物になるに違いありません。 笑うという行為自体が感情と密接にリンクしていて、面白いから笑うと同時に笑うから面白いという事も出来ます。
現在の認知症介護では当然ともいえますが、拘束や抑制に関して、原則禁止。身体拘束ゼロが指針となっています。また高齢者のプライバシー等の人権尊重は当然守るべきものとして捉えられています。しかしながら、このような認知症介護の歴史は決して長いとは言えないものです。 日本においては、1950年に精神衛生法が施行されるまでの間、世間から隔絶され、自宅の離れに隔離するなどの事実上の"座敷牢"が存在していたのです。勿論、それまで社会に任せることも不安な状況であったことも要因であったようですが、それ以降にようやく治療に重きが置かれ始めました。 1972年になると有吉佐和子氏の「恍惚の人」が発表。この
日々私は、自分が世間の常識と乖離していないだろうかといつも心配になります。介護分野に携わるにあたって、専門職としての技術や知識を身につけなければならないのだと、多くの諸先輩方から指導されてきました。しかし、私は寧ろ介護という分野においては、技術よりも大切なものがあると思っている節があります。だからこそ不安になるのです。 特に介護において、やはり生活者として共に歩むという心持ちが重要になるのではないでしょうか。この場合、家族介護というものが、如何に素晴らしいものであろうかといつも考えます。というのも、実際に施設に預けるよりも家族が介護するのが一番良いという意味ではなく、家族が介護するよ
「認知症は大変。」そんなことを思ってしまった事に罪悪感を覚えることも介護者にはきっとあると思います。 日々介護に携わる中で、たとえ要介護者が認知症であっても、人と人との交流であることにまったく変わりがない事を実感します。だから自分と相手との関係では、鏡とか、池やガラスに反射する風景のように、相手には少なからず、私自身の態度も映し出されているとさえも思えるのです。 きっと誰しも相手から好感を持たれれば、人は好感で返し、人からぞんざいな扱いを受ければ、それ相応に対応するでしょう。勿論、人と人との関係では相互の感情や思いが交錯し、思いが伝わらないとか、すれ違う事も多くありますが、そうした
にほんブログ村 あまりにも自己中心で傲慢なお袋の言動にブチ切れた私ぱらのいあ電話も着信拒否にして2年ほど絶縁状態でしたが、今年1月ある事がきっかけで老人ホーム…
ケアマネジャーが作成するケアプランというものをご存じでしょうか。このプランは、その人の事だけを考えて、その人の為だけに作成されます。他の人と同じようなニーズであっても、同じサービスが提供されているわけではありません。 そしてこれは、介護保険を用いたサービスが提供される際に必要になる計画書の一つなのです。簡単に言うと、本人の思いを中心に組み立てられた目標。それに向かって、本人を支える関係者が一丸となって取り組む、一人一人の役割を認識する為にも重要になる書類です。 基本的には、居宅介護サービス計画書というものがケアプランに該当するもので、本人のニーズを基礎にして"援助の方針"や"長期目
最後まで残っている記憶というのは、とても美しく大切にしまわれた記憶だと認識します。たとえ日ごろの事は忘れてしまっていても、いつまでもハーモニカを奏でられる方がおられました。周囲の人も聞き入ってしまう程の腕前でしたが、父が奏で、そうして兄に手渡されたされたハーモニカ。 「兄は興味を失くしたから、私が勝手に覚えたの」 「あなたもやってごらんなさい。あなたならすぐにうまくなって、そしていつまでも励みになるのよ」 出征して若くして亡くなったお兄様や既に亡くなったお父様との繋がりだったのかもしれません。きっとご自身で奏でるハーモニカの音が人生の支えになり、生きてこられたのだと思います。そし
「お互いにとってより良い介護ってなんだろう?」 時にすれ違い、感情が交錯することで生まれる衝突。認知症介護にはつきものです。 認知症になると、同じ話を何度も繰り返すとか、何度もトイレに行こうとするとか、自宅にいるのに「帰る」と言い出すとか、ご飯を食べたことを忘れるとか、汚物が箪笥に入れられているとか、物を失くし突飛なところから出てくるとか、何度も見回りを繰り返すとか、急に泣いたり怒ったり、いわゆる徘徊する、好きだった風呂が嫌いになる、そうした事がきっと増えてくるに違いありません。 介護者の側からすると、要介護者のこのような変化には少なからず戸惑いが生じます。以前の姿を知っている身
なぜ介護というものに、専門性を持たせるのだろうと思う事があります。それは、介護職のする介護と家族のする介護の本質にはきっと大きな差は無く、寧ろそこから乖離しすぎてはならないのではないかと思えるからです。 介護はその人を全人的に把握するところから始まります。その人がどうしたいのか、どうしてほしいのかを考える手がかりは、あらまし家族や馴染の関係では当然に理解している事柄でもあります。しかしながら、それとは裏腹にかえって自分の家族であるからこそ、確執が生まれる事だってありがちです。 それは身近であればあるほど、その人のことを思えばこそ起こり得る摩擦なのです。全くの赤の他人であれば許せるこ
ツモリアはアフィリエイト広告掲載のサイトです。どこでもありそうなシニアの日常を物語のつもりでブログ書いてます。ランキングに参加してます。応援いただけるとうれしいです(^-^)/ツ的ムクミ指数76帰省からもどる、上りの新幹線ホームいつもほっとしながら、北側に見えるお城を眺めるのが好きです。母には、母をふくめ、長生きの兄弟姉妹が五人。うち三人が認知症。二人はすでに亡くなっていますが一番年下の、80才の叔母は2年...
この記事を読んで頂きありがとうございますはじめての方はこちらをご覧下さい。 『自己紹介をさせて下さい。』この記事を見て頂きありがとうございます。皆さまに読んで…
信頼できるケアマネージャーと契約を終えると、ケアプランを作成します。 高齢の親御様の介護であれば、親御様の希望、家族の要望、その家庭に相応しい介護サービスを、いつから、どの程度の頻度で、どこの事業者が提供するのかを計画します。 私は、最初
私は2021年にケアマネの資格をとり結婚してから居宅ケアマネとして働き始めました 未経験からのスタート不安しかありませんでした 現在は妊娠を機に退職をしたので私が経験したの たったの1年程度でしたが、その時のことを書いていければと思います
認知症を患った母の在宅介護をする家庭環境を立ち上げていく上で、最初に家族の結束が出来つつあるなら、外部環境の力を借りられる準備ができたと言えます。 役所の地域包括センターで、介護保険申請をすると、認定調査員が来宅して、母の様子をチェックし
こんにちは、とうえのです。 10月はケアマネ試験のある月だということは忘れられません。 試験を受けた方々、本当にお疲れ様でした。 自分ごとですが、ケアマネ試験を受けたことは遠い昔の出来事ですね。 試験会場への乗り換えバスの時間を勘違いして、大パニックになりながらタクシーに乗り会場まで行ったということがあったんですよね。 タクシー代がすっごい金額で、バスに乗れていれば…、と試験後バスに乗ってて悔やんだり。 そんな試験日のことは今はただの記憶の一部。 でも鮮明に思い出すことができるのはかなり嫌だな。 血を吐きそうになるくらいの思いをしながら、ここまでケアマネの仕事をしてきたわけですが、もう身体は病…
在宅介護家庭のクオリティによって介護サービス環境の質は決まる
さて、ここまで私の実母が認知症を発症するところから、私のパートナーの協力を得て、在宅介護の始まりの始まりを投稿してきました。 大事なのは、まず在宅介護を始めるにあたって、パートナーとの仕事、家事、介護の分担を決めること。 次に大事になって
説明できますか? なぜ、パートナーもまた、あなたの親御様の在宅介護に協力しなければいけないのかを。 年老いた親御様の在宅介護が必要になると、真っ先に思い起こすのが、ケアマネだとか、デイサービスだとか、外部のヒューマン・リソースによる介護サ
新天地で、新居に、しばらく一緒に住んでなかった母、お付き合いは長くても本格的な同居の無かった私と家内、もちろん、母と家内は初めての同居になりますが、そんなお三方が一緒に暮らし始め、しかも母が認知症を患っているという状態から、在宅介護が本格
在宅介護は家族にとって心身ともに大きな負担となり、限界を感じることも少なくありません。この記事では、在宅介護で大変なこと
親の介護は本当に義務なのか?おかしいと感じる理由 親の介護と子供の義務:法律と社会的期待 日本の法律では、民法第877条
7月に私もコロナに罹りやっと元に戻りつつありますが、最初に罹った母はそれ以降デイサービスをお休みしています。家にいた方が自由になるので、楽なのでしょう。7月中旬から、8月は全部お休みしました。この夏はほんとに暑く、健康な人でも参ってしまうような暑さが続きました。ここ数日台風10号の大雨で気温が下がり、エアコンを付けずに済んだ日がありました。