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三河・岩略寺城 その3 遺構の残りは良いが謎の多い県下最大級の山城を見学する
岩略寺城は愛知県豊川市長沢町にあります。その1、その2に続いて今回はその3です。今回の参考資料も(1)見学会当日資料(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010と現地案内板などです。その2までで、謎の多い土坑5か所を確認し、本曲輪に到着しました。その3では近年大手道と言われる城道等を見学したいと思います。※その1は→こちらその2は→こちら岩略寺城近年、大手道と言われる様になった城道b道は屋敷地(向屋敷)に下る従来は、城道aが大手道とされてきましたが、資料(3)で石川浩治さんが東尾根を通る城道bが山下の屋敷地(向屋敷)とつながっていることから、bが大手道だったと考えられると述べておられます。※向屋敷の写真は、その1に掲載してあ...三河・岩略寺城その3遺構の残りは良いが謎の多い県下最大級の山城を見学する
三河・長沢城 今はほぼ消滅したが謎の多い城郭の往時の姿を想定してみる
長沢城は愛知県豊川市長沢町にあります。城の名は桜ケ城、長沢古城ともいわれます。長沢の地は、古くは今川氏の一族の関口氏が領したとされます。後に松平信光が長沢城を攻めとり、子の親則に与えたとされ親則を長沢松平の初代とします。親則から七代政忠までの歴史は不明確のようで、長沢の地は別にあったという説も出されています。※長沢の地は別にあったは→こちら長沢松平八代康忠の時に東三河に進出した家康が、永禄五年に長沢を康忠に与えたとされます。その後、家康の関東移封に従って康忠も関東に移ったとされます。長沢にとどまった長沢松平氏の分家筋もあったようで、後に長沢松平を名乗ったとされます。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(2)音羽町史通史編音羽町史編さん委員会2005(3)「城」代31号東海...三河・長沢城今はほぼ消滅したが謎の多い城郭の往時の姿を想定してみる