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昨日発売された 文藝春秋 2023年6月号に、〈 朝日襲撃「赤報隊」の正体〉と題した特集記事が掲載されている。同誌取材班が20年にわたって進めてきた取材の成果を一挙に吐き出した25ページにわたる渾身のレポートだ。(ウェブ版はこちら) その核心部分を要約すると―――― 1987年 5月の朝日新聞阪神支局襲撃事件の発生直後、東京・浜松町に事務所を構えていた大物右翼・野村秋介から、彼のスポンサーである盛田正敏なる人物に電話が入った。「 急いで3000万ほど現金で持ってきてくれないか。えらいことになった。もう後には引けない」という内容だった。 当時、六本木で「サム・エンタープライズ」という不
この記事では、連載本編で取り上げることができなかった鈴木邦男氏(以下、敬称略)の赤報隊に関する発言を紹介する。 ご存じの通り、この連載では「鈴木邦男は本当に赤報隊に会ったのか」という謎をテーマに据え、生前の彼の言葉の数々を検証してきた。しかし、そこで取り上げた発言以外にも、彼は赤報隊に関して膨大な文章を書き残している。 その中から特に興味深い言葉を幾つかピックアップしたので、連載本編を読了した方々には、是非これらの言葉にも目を通してほしい。そして、彼の胸の奥底を推し量る材料にしていただきたい。 右翼・民族派のしわざとは思えない レコンの原稿を全て印刷所に入れて、初校をやっている時
あのインタビューからはや6年が過ぎた。 あの日、あの喫茶店の個室で、鈴木邦男は最後まで笑顔を絶やさず、僕のしつこい取材に付き合ってくれた。 しかし、核心に触れる話はとうとう最後までしてくれなかった。 店の前で礼を言って別れた後、高田馬場駅の改札まで歩きながら無念さで天を仰いだ記憶が今も頭に焼き付いている。 それから1年近く経った2018年(平成30年)1月、NHKが「未解決事件 file.06 赤報隊事件」と題したドキュメンタリー番組を放送した。 NHKスペシャル「未解決事件file06 赤報隊事件」 警察庁広域重要指定116号事件の捜査に携わった元警察幹部や、捜査対象となった右翼活
インタビューの開始からすでに2時間が過ぎていた。 鈴木邦男は本当に赤報隊に会ったのか――――。 この疑問に何としてでも答えを出してやろうと意気込んで臨んだインタビューだったが、それは簡単な仕事ではなかった。 これまでのやりとりを通じて、鈴木が過去に書いた赤報隊に関するエピソードの中に、数多くのフィクションが混入しているという心証が得られた。 しかしその一方で、鈴木があくまで「実体験」だと主張するエピソードもあった。 朝日新聞阪神支局襲撃事件の後、差出人不明の手紙で呼び出され、指定された場所から2度3度と移動させられ末に謎の男が現れ、「中曽根康弘を全生庵で狙う」と予告されたという話。 ま
鈴木邦男が「この男が赤報隊に違いない」と考えている本命の人物は、見沢知廉の奪還を持ちかけてきた〈第1の接触〉の男ではなく、中曽根総理襲撃を予告した〈第2の接触〉の男だった――――。 そのことを悟った僕は当然、この人物に質問の矛先を向けることにした。 ――――この人とは1度しか会わなかったんですか? 「もう1回会ったのかな。なんか、ものすごく慎重でしたね」 そう、この〈第2の接触〉の男はものすごく慎重な人物なのだ。 繰り返しになるが、改めて説明しておこう。 鈴木が1995年(平成7年)に「SPA!」の連載コラム「夕刻のコペルニクス」につづったところによると、朝
鈴木さんはかつて、「SPA!」の連載で「赤報隊に会ったことがある」と書きましたよね? 僕がこう問いかけると、鈴木邦男は「ありましたねえ……」と頷いた。表情はあくまで穏やかだ。 ――――会っただけじゃなく、かなりやり取りを書いていますね。ただ、その後、朝日新聞や週刊文春の取材に「あれは文学的表現」「筆が滑った」などとコメントしています。 「ははは……」 ――――実際のところはどうなんでしょうか? 「赤報隊でしょう、多分。僕は結構、いろんな犯罪者と会っているんですよ。それはどこか信用されているのか、何かあったら殺すよと脅されてるのか、分からないんだけども」 鈴木はこともなげに言った。
2017年(平成29年)春のある日。 僕は東京・高田馬場駅の近くにある喫茶店の個室で、鈴木邦男と向かい合っていた。 彼は当時、73歳。 僕にとっては父親よりも少し上の世代だが、スーツに身を包んだ鈴木は年齢よりずっと若く見えた。頭髪こそすっかり薄くなっているが、肌に色艶があり、その表情にはまだまだ気力が充実している様子がうかがえる。 同席者は誰もいない。1対1の対面取材である。 警察庁指定第116号事件の発生から今年で30年になります。この節目の機会に、この事件に対する鈴木さんの見方、考え方を忌憚なく聞かせていただけませんか。 こんな内容の手紙を鈴木のもとへ送ったのは、この数週間前だ
以下は、警察庁広域重要指定116号事件と鈴木邦男氏に関連する出来事を時系列でまとめた年表です。グレーの網掛け部分は、客観的な裏付けのない鈴木氏の告白内容です。本連載の補足資料として参照していただければと思います。 〈赤報隊・鈴木邦男〉関連年表 1981年(昭和56年) 12月 日本民族独立義勇軍による米国総領事館放火事件。 同月 警視庁が一水会を家宅捜索し、令状を破った容疑で鈴木を逮捕。 (※23日間拘留されるも不起訴に) 1982年(昭和57年) 1月 一水会が機関紙に日本民族独立義勇軍の犯行声明文を掲載。 (※以後、公安警察から関係を疑われるようになる)
鈴木邦男が生前に繰り返し書いていた「赤報隊に会ったことがある」という体験談。その信憑性を検証するうえで、必ず踏まえておきたいことがある。 それはこういう事実だ。 鈴木は週刊「SPA!」の連載「夕刻のコペルニクス」で赤報隊との接触を告白するより前に、赤報隊について考察した著書を2冊出版しているが、これらの本の中には「赤報隊に会った」という話が一切出てこないーーーー。 普通に考えれば、これは非常に不自然な話である。 その2冊の著書とは、朝日新聞阪神支局襲撃事件の翌年に出版された「テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊」(1988年、彩流社)と、そのさらに2年後に出版された「赤報隊の秘密 朝日
【赤報隊に会った男】⑥ 時効後の再告白~「関西のホテルで会った」
赤報隊を名乗るグループが朝日新聞社などを襲撃した警視庁広域重要指定116号事件は、2003年(平成15年)3月に全ての犯行が公訴時効を迎えた。 その翌年の10月、鈴木邦男は筑摩書房から「公安警察の手口」という新書を出版した。 鈴木の著書「公安警察の手口」(ちくま新書) タイトルの通り、日本の公安警察の捜査手法や組織構造、その問題点を体系的に論じたこの本の中で、鈴木は116号事件に言及して次のような文章を書いている。彼の胸の内を探るうえで非常に重要な資料だと思うので、少し長めに引用してみよう。 赤報隊は、朝日新聞の記者を殺害し、東京、名古屋などの朝日新聞社の本社、支局、寮などを襲撃し
【赤報隊に会った男】⑤ トーンダウン~「あれは文学的な表現」
鈴木邦男が連載「夕刻のコペルニクス」でつづった赤報隊との接触エピソードは大きく4つ。その内容を整理するとこうなる。 〈第1の接触〉 1982年(昭和57年)秋~1983年(昭和58年)春ごろ、一水会メンバーによるリンチ殺人事件で窮地に陥った鈴木の前に謎の男が現れ、「警察に逮捕された見沢知廉を奪還してやろう」と持ちかけてきた。鈴木が断ると、男は別れ際に「今後僕らは朝日新聞をやる」と予告した。 〈第2の接触〉 1987年(昭和62年)5~11月ごろ、謎の男が差出人不明の手紙で鈴木を呼び出し、電話連絡で2度3度場所を変えさせた末に姿を現した。男は靖国参拝を中止した中曽根康弘総理(当時)
【赤報隊に会った男】④ 第3の接触~「統一教会は僕らの敵だ」
前回までの記事で、鈴木邦男がかつて週刊誌「SPA!」の連載「夕刻のコペルニクス」で「告白」した、赤報隊との2度にわたる接触について紹介した。しかし、話はこれだけで終わらない。 彼は連載の中で、さらにこんな文章をつづっている。 阪神支局で朝日の記者が殺傷され、しばらくしたころだった。神田の喫茶店で本を読んでいた。その時、店の電話で呼び出された。ここにいるのは誰も知らないはずなのに変だなーと思いながら電話に出た。ギクッとした。例の男だった。また仲間に僕を尾行させていたのだろう。 「SPA!」1995年10月11日号「夕刻のコペルニクス」第49回 赤報隊からの抗議電話 この電話で謎の
【赤報隊に会った男】③ 第2の接触~「中曽根を全生庵で狙う」
鈴木邦男が「SPA!」の連載コラム「夕刻のコペルニクス」で描いた赤報隊との〈第2の接触〉。それはこんな書き出しで始まる。 中曽根康弘が首相の時だったから今から8年ほど前のことだ。“赤報隊”から手紙が来た。差出人の所には何も書かれてないが、「彼だ!」とピンときた。封を開けると、「次のどれかの方法で会いたい」と、日時と場所が3つ指定してあった。このうち都合のつく場所にいれくれ、そこに電話をするというのだ。今回は随分と警戒していると思った。朝日の記者を殺した“犯人”として全国手配されているのだから、それも当然だろうが。 「SPA!」1995年9月13日号「夕刻のコペルニクス」第45回よ
【赤報隊に会った男】② 第1の接触~「今後僕らは朝日新聞をやる」
1995年(平成7年)は、阪神大震災や地下鉄サリン事件、国松孝次・警察庁長官狙撃事件といった戦後史に残る出来事が続発した激動の年だった。 私は赤報隊に会ったことがあるという鈴木邦男の「告白」は、この年の6月、扶桑社が発行する週刊誌「SPA!」の誌面で唐突に始まった。 警察庁広域重要指定116号事件の発生からすでに8年。捜査にめぼしい進展はなく、迷宮入りしたとみなされるようになっていた頃の話である。 「夕刻のコペルニクス」という連載 鈴木は当時、「SPA!」誌上で「夕刻のコペルニクス」と題したコラムを連載していた。その連載の中で彼は、自分が代表を務める新右翼団体「一水会」の十数年前の
ああ、鈴木さんはとうとう、あの話の真相を墓場まで持っていってしまったのか………。 その訃報に接したとき、まずそう思った。そして、言いようのない落胆に打ちのめされた。 新右翼団体「一水会」の創設者で思想家の鈴木邦男が世を去ったのは今年1月。79歳だった。 想像するに、僕のような元新聞記者や元警察関係者の中には、同じような落胆を覚えた者が幾人もいたのではないだろうか。 なぜなら、彼が墓場に持っていった秘密というのは、昭和の終わりから平成の初めにかけて日本社会を震撼させた、ある未解決事件の真相を解明する糸口になったかもしれない性質のものだからだ。 「私は赤報隊に会ったことがある」 好々爺
2021.12.6(昨日の記事「<愛国心>に気をつけろ」の続きです。)それにしても、自分と違う考えの者をはじき出してしまおうとするのは、右翼に限らず、左翼でも、いやどういう仲間社会でも、よほど気を付けなければいけないことだと思う。 同じ考えの仲間と「力を合わせる」のは大切だけど、「同じ考え」と言っても、100%同じではなく、違う部分もある、あって当然、と考えておくことがすごく重要。 人と話していて、ちょっと意...
2021.12.26鈴木邦男さん(新右翼団体と言われた「一水会」の元顧問)の「<愛国心>に気をつけろ」(岩波ブックレット)を読んだ。納得できること・共感できることが多く、勉強になった。 以前から鈴木邦男さんには関心を持っていた。それは、この人が「右翼」と言われながら、「左翼」の人とも、いや立場の違いを越えて、どんな人とも会う。話をする。決して拒まない。ということを聞いていたからだ。「どんな人とも話をする」だ...