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  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究⑦】子孫たちの400年(最終回)

    その塚は、杉林の中でひっそりたたずんでいた。 石積みの壇の上に石仏や石塔が立ち並び、隣に五輪塔の礎石が1つ。周囲には、かつて五輪塔の一部だったと思しき石材が散らばっている。 そして、傍らに立つ石碑には「七人塚跡」の文字。 ああ、間違いない。これが八つ墓明神のルーツなんだ。僕は感無量の思いでカメラのシャッターを切った――――。 岡山県立図書館での文献調査を終えた僕が新見へ向かったのは、まだ梅雨の明けきらない7月初めのことだった。 JR岡山駅を出発した伯備線の2両編成列車は、水田の緑が映える吉備路をひた走り、高梁川の流れに沿って中国山地の奥へ分け入ってゆく。 列車が新見市に

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究⑥】ついに発見!伝説のルーツ

    横溝正史が描いた八つ墓村埋蔵金伝説のルーツを求めて、十数年ぶりに訪れた岡山県。真っ先に足を運んだのは、JR岡山駅から東へ約1キロ、岡山城のすぐ南側に位置する岡山県立図書館だ。 旭川のほとりにそびえる岡山城 この種の伝説調査をする場合、新旧の郷土資料が大量に所蔵されている地元の図書館は「宝の山」であると言っていい。もちろん、文献調査なんかすっ飛ばして、いきなり現地で住民に聞き取りをするという選択肢もあるが、僕の経験から言えば、それはあまりにも効率が悪すぎる。 なぜなら、日本各地に残る伝説・民話の類は近年ものすごいスピードで消滅しつつある。戦前生まれの古老が健在だった昭和の時代ならと

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究⑤】文献の海から元ネタを探せ

    まずは、八つ墓村埋蔵金伝説のモデルとなった伝説を探すにあたって僕が参照した主な文献を紹介しておこう。 1冊目は、日本における埋蔵金研究のパイオニアである畠山清行氏(1905~1991)の「日本の埋蔵金」(1973年・番町書房)だ。北海道の山奥から鹿児島の離島まで全国50カ所近くの埋蔵金伝説を取りあげ、現地調査の結果も交えながら各伝説の信憑性を考察した上下2巻本。埋蔵金マニアの間では「バイブル」と呼ばれていて、絶対に外すことのできない名著である。 2冊目は「別冊歴史読本 日本列島埋蔵金地図」(1984年・新人物往来社)。この本の特筆すべき点は「全国埋蔵金伝説総覧」と題した膨大なリ

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究④】村のモデルは津山にあらず

    ここからは「八つ墓村」のモデルとなった実在の土地や事件、伝説などを紹介し、創作の裏側に迫っていくことにしよう。 横溝正史がこの小説を構想するにあたって、かつて岡山県で発生した大量殺人事件から多大なインスピレーションを受けたことは、ミステリーファンなら知らぬ者がいないくらい有名な話だ。 その事件とは、いわゆる「津山三十人殺し」(別名・津山事件)である。 横溝正史を戦慄させた津山事件 日中戦争開戦の翌年にあたる1938年(昭和13年)の5月21日未明、岡山県北部の旧西加茂村(現在は津山市の一部)の山間集落で、都井睦夫なる21歳の青年が猟銃や日本刀を使って民家を次々と襲撃。一夜に

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究③】三千両の第一発見者は誰か

    それではいよいよ、尼子落人の黄金の隠し場所を示す「宝の地図」に記された謎の歌の内容に踏み込んでいくことにしよう。 ここまで読んでいただいた方はすでにお察しのことと思うが、僕はかなりの埋蔵金マニアである。フィクションとしての宝探し小説はもちろん、日本各地に伝わっている埋蔵金伝説そのものにも強い関心を持っている。 かつて新聞記者をしていたころは、地方へ赴任するたびに仕事の合間を縫ってその土地の埋蔵金伝説に関する文献を集めたり、古老から地元の言い伝えを聞き取ったりしながら、「この伝説はガセっぽいな……」「これは信憑性が高いかも……」などと考察することを趣味としてきた。 その経験から言

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究②】謎の絵図と謎の歌

    「八つ墓村」の本編でも、要所要所で物語に絡んでくる尼子落人の埋蔵金伝説。その存在が最初にうっすらと顔をのぞかせるのは、物語の語り手である寺田辰弥という青年の身の上話の中である。 彼が亡き母親の形見として幼いころから肌身離さず持っていた「守り袋」の中に、和紙に毛筆で描かれた奇妙な絵図が納められている、というのだ。少し本文を引用してみよう。 それは不規則な迷路のような形をした地図で、ところどころに「竜の顎(りゅうのあぎと)」とか「狐の穴(きつねのあな)」とかいうような、地名ともなんとも、わけのわからないことが書いてある。 そして絵図のそばに、御詠歌のようなものが書きつけてあるのだが

  • 【八つ墓村埋蔵金伝説の研究①】名作推理小説の裏テーマ

    横溝正史の「八つ墓村」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。 原作小説(1949年発表)を読んだことのある人なら、迷信に支配された山村で次々発生する連続殺人事件の不気味さを思い出すかもしれない。 あるいは、「祟りじゃ~」という流行語を生みだした松竹映画「八つ墓村」(1977年公開)の、あまりにも残虐な落人襲撃シーンを思い出して身震いするかもしれない。 あるいは、あなたが犯罪マニアなら、この小説のモデルになったと言われる昭和初期の現実の事件、「津山三十人殺し」を連想するかもしれない。 いずれにせよ、今から半世紀上前に横溝正史によって紡ぎだされた「八つ墓村」という物語は、推

  • 「赤報隊=野村秋介黒幕説に違和感あり」元朝日新聞キャップの異論

    戦後の未解決事件の一つ、警察庁広域重要指定116号事件(赤報隊事件)をめぐる報道に新たな動きがあった。 文藝春秋2023年6月号の〈朝日襲撃「赤報隊」の正体〉と題した特集記事に対し、元朝日新聞116号事件取材班キャップでノンフィクション作家の樋田毅が違和感を表明。同誌が展開した野村秋介黒幕説は本当に事件の真相を指し示しているのか、と疑問を投げかける長文記事を会員制月刊誌「FACTA」に寄稿したのである。(オンライン版はこちら) 文藝春秋の特集記事については、この僕も大いに興味をそそられ、前回の投稿で詳しく紹介した経緯がある。なので、今回は樋田の異論をじっくり読み解いてみることにしよう。

  • 文藝春秋がつかんだ赤報隊事件の新証言

    昨日発売された 文藝春秋 2023年6月号に、〈 朝日襲撃「赤報隊」の正体〉と題した特集記事が掲載されている。同誌取材班が20年にわたって進めてきた取材の成果を一挙に吐き出した25ページにわたる渾身のレポートだ。(ウェブ版はこちら) その核心部分を要約すると―――― 1987年 5月の朝日新聞阪神支局襲撃事件の発生直後、東京・浜松町に事務所を構えていた大物右翼・野村秋介から、彼のスポンサーである盛田正敏なる人物に電話が入った。「 急いで3000万ほど現金で持ってきてくれないか。えらいことになった。もう後には引けない」という内容だった。 当時、六本木で「サム・エンタープライズ」という不

  • 【赤報隊に会った男】(番外) 鈴木邦男語録

    この記事では、連載本編で取り上げることができなかった鈴木邦男氏(以下、敬称略)の赤報隊に関する発言を紹介する。 ご存じの通り、この連載では「鈴木邦男は本当に赤報隊に会ったのか」という謎をテーマに据え、生前の彼の言葉の数々を検証してきた。しかし、そこで取り上げた発言以外にも、彼は赤報隊に関して膨大な文章を書き残している。 その中から特に興味深い言葉を幾つかピックアップしたので、連載本編を読了した方々には、是非これらの言葉にも目を通してほしい。そして、彼の胸の奥底を推し量る材料にしていただきたい。 右翼・民族派のしわざとは思えない レコンの原稿を全て印刷所に入れて、初校をやっている時

  • 【赤報隊に会った男】⑫(最終回) 解けた謎と解けざる謎

    あのインタビューからはや6年が過ぎた。 あの日、あの喫茶店の個室で、鈴木邦男は最後まで笑顔を絶やさず、僕のしつこい取材に付き合ってくれた。 しかし、核心に触れる話はとうとう最後までしてくれなかった。 店の前で礼を言って別れた後、高田馬場駅の改札まで歩きながら無念さで天を仰いだ記憶が今も頭に焼き付いている。 それから1年近く経った2018年(平成30年)1月、NHKが「未解決事件 file.06 赤報隊事件」と題したドキュメンタリー番組を放送した。 NHKスペシャル「未解決事件file06 赤報隊事件」 警察庁広域重要指定116号事件の捜査に携わった元警察幹部や、捜査対象となった右翼活

  • 【赤報隊に会った男】⑪ インタビューの結末

    インタビューの開始からすでに2時間が過ぎていた。 鈴木邦男は本当に赤報隊に会ったのか――――。 この疑問に何としてでも答えを出してやろうと意気込んで臨んだインタビューだったが、それは簡単な仕事ではなかった。 これまでのやりとりを通じて、鈴木が過去に書いた赤報隊に関するエピソードの中に、数多くのフィクションが混入しているという心証が得られた。 しかしその一方で、鈴木があくまで「実体験」だと主張するエピソードもあった。 朝日新聞阪神支局襲撃事件の後、差出人不明の手紙で呼び出され、指定された場所から2度3度と移動させられ末に謎の男が現れ、「中曽根康弘を全生庵で狙う」と予告されたという話。 ま

  • 【赤報隊に会った男】⑩ 本命の男

    鈴木邦男が「この男が赤報隊に違いない」と考えている本命の人物は、見沢知廉の奪還を持ちかけてきた〈第1の接触〉の男ではなく、中曽根総理襲撃を予告した〈第2の接触〉の男だった――――。 そのことを悟った僕は当然、この人物に質問の矛先を向けることにした。   ――――この人とは1度しか会わなかったんですか? 「もう1回会ったのかな。なんか、ものすごく慎重でしたね」   そう、この〈第2の接触〉の男はものすごく慎重な人物なのだ。 繰り返しになるが、改めて説明しておこう。 鈴木が1995年(平成7年)に「SPA!」の連載コラム「夕刻のコペルニクス」につづったところによると、朝

  • 【赤報隊に会った男】⑨ 覆された事実関係

    鈴木さんはかつて、「SPA!」の連載で「赤報隊に会ったことがある」と書きましたよね? 僕がこう問いかけると、鈴木邦男は「ありましたねえ……」と頷いた。表情はあくまで穏やかだ。 ――――会っただけじゃなく、かなりやり取りを書いていますね。ただ、その後、朝日新聞や週刊文春の取材に「あれは文学的表現」「筆が滑った」などとコメントしています。 「ははは……」 ――――実際のところはどうなんでしょうか? 「赤報隊でしょう、多分。僕は結構、いろんな犯罪者と会っているんですよ。それはどこか信用されているのか、何かあったら殺すよと脅されてるのか、分からないんだけども」 鈴木はこともなげに言った。

  • 【赤報隊に会った男】⑧ 実現したインタビュー

    2017年(平成29年)春のある日。 僕は東京・高田馬場駅の近くにある喫茶店の個室で、鈴木邦男と向かい合っていた。 彼は当時、73歳。 僕にとっては父親よりも少し上の世代だが、スーツに身を包んだ鈴木は年齢よりずっと若く見えた。頭髪こそすっかり薄くなっているが、肌に色艶があり、その表情にはまだまだ気力が充実している様子がうかがえる。 同席者は誰もいない。1対1の対面取材である。 警察庁指定第116号事件の発生から今年で30年になります。この節目の機会に、この事件に対する鈴木さんの見方、考え方を忌憚なく聞かせていただけませんか。 こんな内容の手紙を鈴木のもとへ送ったのは、この数週間前だ

  • 【赤報隊に会った男】関連年表

    以下は、警察庁広域重要指定116号事件と鈴木邦男氏に関連する出来事を時系列でまとめた年表です。グレーの網掛け部分は、客観的な裏付けのない鈴木氏の告白内容です。本連載の補足資料として参照していただければと思います。 〈赤報隊・鈴木邦男〉関連年表 1981年(昭和56年) 12月 日本民族独立義勇軍による米国総領事館放火事件。 同月 警視庁が一水会を家宅捜索し、令状を破った容疑で鈴木を逮捕。 (※23日間拘留されるも不起訴に) 1982年(昭和57年) 1月 一水会が機関紙に日本民族独立義勇軍の犯行声明文を掲載。 (※以後、公安警察から関係を疑われるようになる)

  • 【赤報隊に会った男】⑦ 鈴木証言の疑問点

    鈴木邦男が生前に繰り返し書いていた「赤報隊に会ったことがある」という体験談。その信憑性を検証するうえで、必ず踏まえておきたいことがある。 それはこういう事実だ。 鈴木は週刊「SPA!」の連載「夕刻のコペルニクス」で赤報隊との接触を告白するより前に、赤報隊について考察した著書を2冊出版しているが、これらの本の中には「赤報隊に会った」という話が一切出てこないーーーー。 普通に考えれば、これは非常に不自然な話である。 その2冊の著書とは、朝日新聞阪神支局襲撃事件の翌年に出版された「テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊」(1988年、彩流社)と、そのさらに2年後に出版された「赤報隊の秘密 朝日

  • 【赤報隊に会った男】⑥ 時効後の再告白~「関西のホテルで会った」

    赤報隊を名乗るグループが朝日新聞社などを襲撃した警視庁広域重要指定116号事件は、2003年(平成15年)3月に全ての犯行が公訴時効を迎えた。 その翌年の10月、鈴木邦男は筑摩書房から「公安警察の手口」という新書を出版した。 鈴木の著書「公安警察の手口」(ちくま新書) タイトルの通り、日本の公安警察の捜査手法や組織構造、その問題点を体系的に論じたこの本の中で、鈴木は116号事件に言及して次のような文章を書いている。彼の胸の内を探るうえで非常に重要な資料だと思うので、少し長めに引用してみよう。 赤報隊は、朝日新聞の記者を殺害し、東京、名古屋などの朝日新聞社の本社、支局、寮などを襲撃し

  • 【赤報隊に会った男】⑤ トーンダウン~「あれは文学的な表現」

    鈴木邦男が連載「夕刻のコペルニクス」でつづった赤報隊との接触エピソードは大きく4つ。その内容を整理するとこうなる。 〈第1の接触〉 1982年(昭和57年)秋~1983年(昭和58年)春ごろ、一水会メンバーによるリンチ殺人事件で窮地に陥った鈴木の前に謎の男が現れ、「警察に逮捕された見沢知廉を奪還してやろう」と持ちかけてきた。鈴木が断ると、男は別れ際に「今後僕らは朝日新聞をやる」と予告した。 〈第2の接触〉 1987年(昭和62年)5~11月ごろ、謎の男が差出人不明の手紙で鈴木を呼び出し、電話連絡で2度3度場所を変えさせた末に姿を現した。男は靖国参拝を中止した中曽根康弘総理(当時)

  • 【赤報隊に会った男】④ 第3の接触~「統一教会は僕らの敵だ」

    前回までの記事で、鈴木邦男がかつて週刊誌「SPA!」の連載「夕刻のコペルニクス」で「告白」した、赤報隊との2度にわたる接触について紹介した。しかし、話はこれだけで終わらない。 彼は連載の中で、さらにこんな文章をつづっている。 阪神支局で朝日の記者が殺傷され、しばらくしたころだった。神田の喫茶店で本を読んでいた。その時、店の電話で呼び出された。ここにいるのは誰も知らないはずなのに変だなーと思いながら電話に出た。ギクッとした。例の男だった。また仲間に僕を尾行させていたのだろう。 「SPA!」1995年10月11日号「夕刻のコペルニクス」第49回 赤報隊からの抗議電話 この電話で謎の

  • 【赤報隊に会った男】③ 第2の接触~「中曽根を全生庵で狙う」

    鈴木邦男が「SPA!」の連載コラム「夕刻のコペルニクス」で描いた赤報隊との〈第2の接触〉。それはこんな書き出しで始まる。 中曽根康弘が首相の時だったから今から8年ほど前のことだ。“赤報隊”から手紙が来た。差出人の所には何も書かれてないが、「彼だ!」とピンときた。封を開けると、「次のどれかの方法で会いたい」と、日時と場所が3つ指定してあった。このうち都合のつく場所にいれくれ、そこに電話をするというのだ。今回は随分と警戒していると思った。朝日の記者を殺した“犯人”として全国手配されているのだから、それも当然だろうが。 「SPA!」1995年9月13日号「夕刻のコペルニクス」第45回よ

  • 【赤報隊に会った男】② 第1の接触~「今後僕らは朝日新聞をやる」

    1995年(平成7年)は、阪神大震災や地下鉄サリン事件、国松孝次・警察庁長官狙撃事件といった戦後史に残る出来事が続発した激動の年だった。 私は赤報隊に会ったことがあるという鈴木邦男の「告白」は、この年の6月、扶桑社が発行する週刊誌「SPA!」の誌面で唐突に始まった。 警察庁広域重要指定116号事件の発生からすでに8年。捜査にめぼしい進展はなく、迷宮入りしたとみなされるようになっていた頃の話である。 「夕刻のコペルニクス」という連載 鈴木は当時、「SPA!」誌上で「夕刻のコペルニクス」と題したコラムを連載していた。その連載の中で彼は、自分が代表を務める新右翼団体「一水会」の十数年前の

  • 【赤報隊に会った男】① 鈴木邦男が墓場まで持っていった秘密

    ああ、鈴木さんはとうとう、あの話の真相を墓場まで持っていってしまったのか………。 その訃報に接したとき、まずそう思った。そして、言いようのない落胆に打ちのめされた。 新右翼団体「一水会」の創設者で思想家の鈴木邦男が世を去ったのは今年1月。79歳だった。 想像するに、僕のような元新聞記者や元警察関係者の中には、同じような落胆を覚えた者が幾人もいたのではないだろうか。 なぜなら、彼が墓場に持っていった秘密というのは、昭和の終わりから平成の初めにかけて日本社会を震撼させた、ある未解決事件の真相を解明する糸口になったかもしれない性質のものだからだ。 「私は赤報隊に会ったことがある」 好々爺

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