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・桐島聡容疑者と名乗る人物 死亡を確認 入院先の病院で(NHKニュース)/余命幾ばくもないという話は出てましたが、本当に急転直下で。しかし結局50年近く逃げ切られた警察当局や公安は少しは反省しろ(呆)
B008【お釈迦様との密談⑧】故・池田大作氏はどこの世界へ?【お釈迦様との密談⑧】池田大作氏はどこの世界へ?阿山>池田大作氏についてどのように思われていますか?お釈迦様>思うところはあり昨今の状態においていくつかの問題により世情が騒がしくなっているこの者の責任とでも言うことであろう悟りとは常に何者にも得難いエネルギーを持っている他者のエネルギー、他者の物を奪うという事は神域ではない。何かを得なければ悟りを得られない何かを得なければ功徳は得られないというものでもないその点に関しては何かを得なければなれないとか何かを集めなければこのようなくらいになれないということが横行しているように見受けられる。それは如何ばかりか仏の領域とは違うと見受けられる。それによっていくつかの階層がありいくつかの人々がそうなりたいと支...【お釈迦様との密談⑧】故・池田大作氏はどこの世界へ?
あのインタビューからはや6年が過ぎた。 あの日、あの喫茶店の個室で、鈴木邦男は最後まで笑顔を絶やさず、僕のしつこい取材に付き合ってくれた。 しかし、核心に触れる話はとうとう最後までしてくれなかった。 店の前で礼を言って別れた後、高田馬場駅の改札まで歩きながら無念さで天を仰いだ記憶が今も頭に焼き付いている。 それから1年近く経った2018年(平成30年)1月、NHKが「未解決事件 file.06 赤報隊事件」と題したドキュメンタリー番組を放送した。 NHKスペシャル「未解決事件file06 赤報隊事件」 警察庁広域重要指定116号事件の捜査に携わった元警察幹部や、捜査対象となった右翼活
インタビューの開始からすでに2時間が過ぎていた。 鈴木邦男は本当に赤報隊に会ったのか――――。 この疑問に何としてでも答えを出してやろうと意気込んで臨んだインタビューだったが、それは簡単な仕事ではなかった。 これまでのやりとりを通じて、鈴木が過去に書いた赤報隊に関するエピソードの中に、数多くのフィクションが混入しているという心証が得られた。 しかしその一方で、鈴木があくまで「実体験」だと主張するエピソードもあった。 朝日新聞阪神支局襲撃事件の後、差出人不明の手紙で呼び出され、指定された場所から2度3度と移動させられ末に謎の男が現れ、「中曽根康弘を全生庵で狙う」と予告されたという話。 ま
2017年(平成29年)春のある日。 僕は東京・高田馬場駅の近くにある喫茶店の個室で、鈴木邦男と向かい合っていた。 彼は当時、73歳。 僕にとっては父親よりも少し上の世代だが、スーツに身を包んだ鈴木は年齢よりずっと若く見えた。頭髪こそすっかり薄くなっているが、肌に色艶があり、その表情にはまだまだ気力が充実している様子がうかがえる。 同席者は誰もいない。1対1の対面取材である。 警察庁指定第116号事件の発生から今年で30年になります。この節目の機会に、この事件に対する鈴木さんの見方、考え方を忌憚なく聞かせていただけませんか。 こんな内容の手紙を鈴木のもとへ送ったのは、この数週間前だ
以下は、警察庁広域重要指定116号事件と鈴木邦男氏に関連する出来事を時系列でまとめた年表です。グレーの網掛け部分は、客観的な裏付けのない鈴木氏の告白内容です。本連載の補足資料として参照していただければと思います。 〈赤報隊・鈴木邦男〉関連年表 1981年(昭和56年) 12月 日本民族独立義勇軍による米国総領事館放火事件。 同月 警視庁が一水会を家宅捜索し、令状を破った容疑で鈴木を逮捕。 (※23日間拘留されるも不起訴に) 1982年(昭和57年) 1月 一水会が機関紙に日本民族独立義勇軍の犯行声明文を掲載。 (※以後、公安警察から関係を疑われるようになる)
【赤報隊に会った男】⑥ 時効後の再告白~「関西のホテルで会った」
赤報隊を名乗るグループが朝日新聞社などを襲撃した警視庁広域重要指定116号事件は、2003年(平成15年)3月に全ての犯行が公訴時効を迎えた。 その翌年の10月、鈴木邦男は筑摩書房から「公安警察の手口」という新書を出版した。 鈴木の著書「公安警察の手口」(ちくま新書) タイトルの通り、日本の公安警察の捜査手法や組織構造、その問題点を体系的に論じたこの本の中で、鈴木は116号事件に言及して次のような文章を書いている。彼の胸の内を探るうえで非常に重要な資料だと思うので、少し長めに引用してみよう。 赤報隊は、朝日新聞の記者を殺害し、東京、名古屋などの朝日新聞社の本社、支局、寮などを襲撃し
【赤報隊に会った男】⑤ トーンダウン~「あれは文学的な表現」
鈴木邦男が連載「夕刻のコペルニクス」でつづった赤報隊との接触エピソードは大きく4つ。その内容を整理するとこうなる。 〈第1の接触〉 1982年(昭和57年)秋~1983年(昭和58年)春ごろ、一水会メンバーによるリンチ殺人事件で窮地に陥った鈴木の前に謎の男が現れ、「警察に逮捕された見沢知廉を奪還してやろう」と持ちかけてきた。鈴木が断ると、男は別れ際に「今後僕らは朝日新聞をやる」と予告した。 〈第2の接触〉 1987年(昭和62年)5~11月ごろ、謎の男が差出人不明の手紙で鈴木を呼び出し、電話連絡で2度3度場所を変えさせた末に姿を現した。男は靖国参拝を中止した中曽根康弘総理(当時)
ああ、鈴木さんはとうとう、あの話の真相を墓場まで持っていってしまったのか………。 その訃報に接したとき、まずそう思った。そして、言いようのない落胆に打ちのめされた。 新右翼団体「一水会」の創設者で思想家の鈴木邦男が世を去ったのは今年1月。79歳だった。 想像するに、僕のような元新聞記者や元警察関係者の中には、同じような落胆を覚えた者が幾人もいたのではないだろうか。 なぜなら、彼が墓場に持っていった秘密というのは、昭和の終わりから平成の初めにかけて日本社会を震撼させた、ある未解決事件の真相を解明する糸口になったかもしれない性質のものだからだ。 「私は赤報隊に会ったことがある」 好々爺