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小学生の頃は宿題も無く、仕事もせず、毎日ブラブラしてる年寄をみて随分羨ましく思ったものです。今では自分がそんな年寄になってしまいました。
小学生の頃の思い出で1番印象に残っている事は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう 私が小学生の時は、分校が途中から出来た事かな それと校…
また新しい動画を出してしまったZE!(ドン☆) それがこの無茶な動画である。その名も「世界☆名作☆王デュエルモ
世界名作劇場名言(名台詞)集!【皆様からの投稿もお待ちしております】
大昔にこんな動画を出したことがあります。 これは動画且つ「あいうえお順」という関係上、あまり名言を載せられなか
ゴルベーザ四天王(FINAL FANTASY IV)【悪役図鑑】
土のスカルミリョーネ「ゼムス様より…」水のカイナッツォ「授かった命で!」風のバルバリシア「お前達を殺す!」火の
職場異動前に残った書類を捌く!バレンタインで思い出す過去の出来事!
過去の自分が残した遺産 来月から職場が変わるため、今残してある仕事を順々に終わらせていってます 一日の業務終わりに取り掛かったのは計画書の作成、確認 デイサービスは計画書や報告書などの書類がめちゃくちゃあります 利用者の数も120人以上もお
昨日のハロウィン、全く通常運転の生活をしておりました… 一日遅れですが、お題が出ていたので書いてみようと思います。 落とし穴掘りました。 今でこそ、家…
久しぶりに実家へいきましたらこんなのでてきたわよ!となかなか色彩感覚いいじゃない!上組小学校一年生のわたし母との写真がない?母は教師でしたから入学式や授業参観…
今日は7月7日で七夕だが、私にとってはブログを開設して丁度1ヶ月の記念日である。本稿が29本目なので、ほぼ1日1本になる。4年後の古希にこれを編集して本を製作し、知り合いにお配りすることを目標にしている。当初の方針にないテーマも何本か組み込んだが、記念の本稿では原点に返って小学校低学年の頃の思い出を披露したい。私は昭和31年に生まれ、日本の高度成長期に育ったので、当時の雰囲気を感じてもらえると嬉しい。 小学1年生の頃だろうか。うちの近くには公園はなかったが、なぜか私は同年代の女の子とブランコで遊んだことをたまに思い出す。彼女はスラッとした背丈で身長が私より高く、地味なワンピースにピンク色のサンダルを履いていた。大変おマセな子で、「大人になったら二人は結婚するんだよ」と言うので、地味な雰囲気があまり好きではなかったけれど、「いいよ」と返事をした記憶がある。一緒に遊ぶといっても、かけっこや砂遊びなどではなく、ただブランコを漕ぎながら隣同士でいろんな話をするだけ。8割くらいを彼女が話し、私は聞き役であった。彼女の話は、大人になったら何になるとか、両親は見合い結婚だとか、空飛ぶ絨毯で遠い国へ行
港南小学校には25メートルプールがあり、夏になると水泳の授業が行われました。運動神経の鈍い私ですが、小学4年生で50メートルを泳ぐことができました。その一番の理由は水泳帽にあります。当時は「潜水が出来る」「水に浮くことが出来る」「バタ足でプールの横約16mを泳ぎ切れる」「25メートル泳げる」「50メートル泳げる」というように、達成度によって水泳帽に赤い線や黒い線を縫い付ける決まりになっていました。まず線のない状態から始まり、赤い線が1本、2本と徐々に増えていき、50メートルで黒線が1本入ります。これに達すると、区の水泳大会に出場できることになっていました。 4年生の夏休み時は、学校のプールが20日間くらい開放されていました。私は、目標が明確で、努力が帽子の線によって認められ、達成感が得られるので、上級者になりたくて毎回通いました。先生は各児童を観察していて、昇格できそうな子に声をかけ、テストをします。線の色や本数を増やすには、これをクリアしなければなりません。テストに合格すると、私は急いで家に帰り、母に線を帽子に縫ってもらいます。母は裁縫学校に通っていたので簡単にやってくれました。自分
私が中学生の頃は、1学期と2学期の中間と期末に2回ずつ、そして3学期に1回、計5回の校内テストがありました。校内テストは教科担任が出題・採点する試験です。これに加え、模擬試験会社の早稲田進学会による「早進テスト」が5月、7月、10月、12月、2月に、進学研究会による「進研テスト」が6月と11月にあり、テストのない月は1月、4月、8月、9月だけという有様でした。模擬試験会社が行う試験は標準学力テスト(アチーブメントテスト)と呼ばれ、偏差値が算出されて校外の生徒との比較ができました。念のため申し上げますが、私の中学校は公立校です。 校内テストの結果は廊下に張り出され、氏名と学年順位がその都度公表されます。全学年は約200名ですが、私の最高順位は100番で、2ケタには届きませんでした。結果が出ると、氏名と順位を書いた模造紙を先生が廊下の掲示板に貼るのですが、それを素早く見つけて確認するのが成績優秀者たちです。彼ら、彼女らは○○高校から△△大学、さらに✕✕職というように将来の目標をしっかり持っていて、受験競争の中に積極的に身を投じており、試験はスポーツ選手が記録に挑戦するのと同じで、優秀な生徒
皆さんは、悲しいドラマを見て泣いた後、心が洗われる気分になりませんか? 大人にとって泣く行為は、心を浄化する作用があるのでしょう。一方、大人に依存する幼児や児童が泣くのは、自分の存在を発信し、助けを求める行為ではないでしょうか。 幼少の頃の私は、弱い自分を見せたくないという思い以上に、不安な気持ちが膨らんでしまったときに泣いていたように感じます。①迷子になったとき、②反対側の自宅に帰りたいのに、車がひっきりなしに通る旧海岸通りを一人で渡れなかったとき、③扁桃腺の切除手術の苦しみに耐えきれなかったとき、などです。特に③はどうにも我慢できない体験でした。 小学校低学年の頃の私は、病院での注射や、歯医者さんで歯を削るときに、じっと我慢していました。すると先生に「えらいね」とか、「我慢強いね」と言われ、親からも褒められるので、「我慢すること」を覚えました。扁桃腺の手術の時も、詳細を知らないまま、褒められたいとの思いと、手術後にアイスクリームが食べられるという親の甘言に惹かれて受けました。しかし手術は今と違い局部麻酔によるため、腕の注射や歯の治療などとは比べ物にならないほどの苦痛を伴うものでした
品川駅から東へ向かうと、東洋水産㈱のある旧海岸通りの港南2丁目交差点に至ります。その先の川を渡った右手には東京水産大学(現在の東京海洋大学)、そこからさらに先の海岸通りと交わる交差点の左側に港南小学校があります。小学校のすぐ先には東京モノレールが走っています。 私の生まれ育った所は、旧海岸通りの「港南2丁目交差点」と「新港南橋」の間の東京湾側にあった東京都水道局の官舎です。官舎と地続きで水道局の工場があり、水道メーターなどを作っていたように記憶しています。入り口の門には守衛さんがいて、中には工場の他に事務室や風呂場がありました。広い敷地には子供が入れるくらいの大きさの土管が積み上げられたり、平置きされたりしており、廃車になったダイハツミゼットなども停まっていました。付近に公園などというものはなく、ここが官舎の子供たちの格好の遊び場でした。 私と同学年には隣の純ちゃん、一つ先の路地を入った奥の家には富ちゃんがいて、3人は遊び仲間です。純ちゃんと富ちゃんのお父さんは水道局の工場勤務で、私の父は事務室で働いており、私は午後5時になるとよく門まで父を迎えに行きました。工場勤務の人たちは、油で汚
私は幼い頃、父方の祖父を「水戸のおじいさん」、母方の祖父を「小右衛門町(こえもんちょう)のおじいちゃん」と呼んでいました。小右衛門町の祖父の家は、北千住駅から竹ノ塚駅行の都営バスに乗り、「小右衛門町」バス停で降りてちょっと歩いたところにありました。この地名は、武州(現埼玉県)岩槻城に出仕していた渡辺小右衛門という武士が元和2年(1616)にこの地へ移住し、新田開発に携わったことに由来しているそうです。 おじいちゃんは、まん丸顔に五分刈りの白髪頭で、私が行くと七福神の恵比須様のようなにこやかな笑顔で迎えてくれました。すると私は、いつも祖父の頭を片手で「なでなで」するのですが、祖父は笑顔のまま、黙って孫が飽きるまでさすられていました。祖父はその風貌と同じく、知人から「仏の俊太郎」と呼ばれていたそうです。昔は米屋を営んでいたのですが、その優しさが裏目に出て、知人に騙されお金を失くしたと聞きました。昔、これで米を測ったのでしょうか、物置に天秤量がありました。 私が小学校低学年の頃、おじいちゃんはお風呂屋さんの帰りにバナナの皮に足を滑らせて転び、膝のお皿を割ってしまいました。これをきっかけに、お
私の小二の時の担任は、通信簿に「大声出しての暴れん坊。自主・自立性に乏しく情緒的で、改まって釈明するような場合、涙っぽく言い訳する」と書いています。大人を困らせる問題児だったようです。この当時、私はよく短気な父に体を抱えられ押入れの上段に押し込まれました。襖を締められた押入れは、闇が支配する恐怖の世界です。「カチッ、カチッ」と時を刻む時計の音に合わせて、私は鬼たちのいる無間地獄へと落ちて行き、二度とこの世に戻れないのではないかと恐れおののき泣き叫びました。 この経験からか私は「閉所恐怖症」で、MRI検査で放射線遮断扉を閉められ一人になった時や、人身事故で電車が止まり長時間車内に閉じ込められた時などは、暗い闇が押し寄せてくるような恐怖を感じ、心臓がドキドキして脂汗が出るのです。電車が遅延し車内が満員の場合、気分が悪くなった時に奥に押し込まれて降りられないと困るので、ダイヤが正常に戻るまでホームに入って来る車両を何時間も見送ったり、ルートを変えたりしています。新幹線「のぞみ」のように、長時間停車せずに走行する列車も途中で気分が悪くなることがあります。飛行機はなおさらで、海外旅行はしたことが
小学5年生になって間もなく、東京都港区から千葉県松戸市に越してきた私は、東京の小学校との違いに戸惑い、新しい環境に順応できずにいました。その中で一つの救いが、KTさんからの手紙です。 彼女は港南小学校の同級生で、白く清潔なブラウスにひだのついたプリーツスカートを穿いた姿が目に焼き付いています。ブラウスは襟にフリルのついたものや、肩から肘の上にかけての二の腕の部分が大きく膨らんだちょうちん袖などを身に着け、お嬢様風の着こなしが清楚なイメージを醸し出していました。指先の爪は爪噛み癖によって短く、顔立ちはふっくらとしており、下半分の輪郭に対して、控えめな目や口、鼻、右目の下の泣きぼくろが特徴的で、感情が爆発すると顔をクシャクシャにして泣くのですが、それが私の目には何ともかわいらしく映りました。 片思いだと思っていた彼女から手紙をもらった時は、胸が高鳴りました。幼友達と別れ、新しい環境になじめず、寂しい思いをしていた11歳は、クラスの近況を知らせてくれる彼女の手紙の中でだけ、仲間とつながることが出来たのです。ところが、何回かやり取りをした後、突然、彼女からの返事が来なくなりました。こちらから手
6年生のクラスは6組まであり、私は5組。担任はベテランのYK先生です。両端がややつり上がったデザインの眼鏡が特徴的で、髪は着物に似合うようなまとめ髪、小太りの身体にややきつめのスーツが定番でした。360ccのマツダキャロルで通勤しており、家庭訪問の時は窮屈な先生の車の後部座席に乗って自宅まで案内しました。先生の運転は超がつくほどのろのろで、初心者だったのかもしれません。 彼女は長崎出身の被爆者で、よく私たちに原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さを話してくれました。私が授業中に気分が悪くなった時、先生は「なーんね(そうだったの)、具合悪かったとね」と言って、大柄でスポーツマンのK君に私をおぶって保健室に連れていくよう指示しました。K君は躊躇することなく私を軽々と背負い、階段を駆け下りて保健室まで運んでくれました。中学になると、野球部の彼がグラウントでピッチング練習する姿をよく見かけました。キャッチャーミットの「パーン!」という乾いたような高い音を聴くたび、日陰のもやしのような自分を情けなく思いました。 5組では、各自がかくし芸を披露する「お楽しみ会」があります。この時、先生は教室の引き戸の一枚を
学校の運動会ではないのだけど・・・ 昔住んでいた地域というか町内運動会の事なんだけど、当時住んでいたから公園が見えてて、その周辺ではかなり大きな公園…