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池永敏之 中小企業診断士のブログ https://www.toshi-sindansi.com

初恋、別れ、学校生活や悲しい出来事などの実体験を綴っています。それぞれのエピソードが皆さんの心の琴線に触れることで、新たなエネルギーが湧き立つことを願っています。

池永敏之
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住所
白井市
出身
港区
ブログ村参加

2022/06/23

1件〜100件

  • K学院の上司は詩人だった

    私は昭和53年3月に大学を卒業して、JR山手線「代々木駅」前のミヤタビル8階にあった財団法人K学院に就職しました。当学院の前身は中小企業診断協会の付属機関として発足し、中小企業診断士の受験参考書を販売していました。しかし受験者の増加に伴って売上も増え、中小企業診断士試験の実施機関が受験対策本を販売するのは好ましくないので分離独立したようです。財団の組織構成は診断協会の事務局長だったT氏が専務理事、理事長は元中小企業庁長官で参議院議員のK氏、学院長は一橋大学教授で経営学者のY氏、理事は早稲田大学教授で会計学者のA氏を始めとした試験委員の経験者が名を連ねていました。そして理事の皆さんの協力の下、中小企業診断士試験の受験対策テキストや添削課題、カリキュラムなどを企画・制作し、1年コースの通信教育講座として開講したわけです。私が入職した頃はM社やS大学の通信教育部などが参入していましたが、当初は独占状態のため、かなりの売上があったものと推察されます。 昭和53年当時のK学院は、中小企業診断士のほか、日本商工会議所の販売士検定や簿記3級と2級検定の通信教育講座も持っていました。私は編集課の所属で

  • NHKアナウンサーの先輩

    私は高校時代、英語の授業が好きでしたが、他の科目には身が入らず、受験勉強は英語だけしかやりませんでした。特に頑張ったのは「英文読解」と「英単語や英熟語の暗記」です。しかし塾に通わず独学で、しかも勉強を始めたのが高三の夏休みからなので、模擬試験の結果は散々で、どの大学もC判定かD判定で、合格には程遠い状態でした。 父親から、「浪人は絶対にダメだ」言われていたので、受験は背水の陣で臨まざるを得ませんでしたが、幸先よく、模試がC判定だったT大学の法学部に合格しました。浪人を嫌っていた父は大変喜び、入学金の30万円をすぐに納めてくれました。ところが、次に受けたチャレンジ校にも合格してしまいます。D大学の外国語学部英語学科は、模試がD判定でしたが、受験科目が「英語」と「作文」だけなのがよかったのでしょう。どちらも私が好きな科目です。 二つとも合格してしまったので、どちらに行くか迷いました。D大学の場合は、「英語学科」ということで、職業の選択も英語の先生や商社などをイメージしやすい反面、私は英会話が苦手で、国際的な分野にも関心が薄いため、選択肢の幅が狭い点が気になりました。一方のT大学は、数多くの

  • マンション管理組合の特徴とその運営

    私は築43年、174戸、人口約400人の分譲住宅に26年間住んでいる。管理組合の役員は輪番制となっており、昨年度は順番により私が理事を務めた。この経験から、管理組合のような生活共同体でどのようにリーダーシップを発揮していくべきかを考えてみたい。これは、自治会やPTAなどの組織にも当てはまると思う。 管理組合は「共同利益の増進」を目的として、区分所有法等の法律と組合員の3/4以上の賛成で作成された「規約」に基づき、総会決議事項を組合員から付託を受けた理事会が執行するものだ。したがって、リーダーは「規約」に基づいて意思決定することが必須となる。「規約」に則って行った行為に対して、組合員から不満や反対意見が出た場合は、「理事会は現行規約に基づいて業務を執行しています」「あなたのお考えが正しいと思うなら、あなたご自身で規約を変えるよう組合員に働きかけてみてはいかがですか」と返せば済むことになる。このためリーダーは「規約」を熟知しておくことが重要である。 管理組合は理事長、副理事長、総務理事といった役職が規約で決められている。しかし生活共同体である管理組合は、リーダーの持つ「情報量」が他を圧倒し

  • 災害への「備え」について

    私は昨年度、11階建て2棟、8階建て3棟、2階建て共同住宅12棟、合計174世帯、築43年の団地組合の総務理事を務め、今年度は防火管理者として、また地区の防災会の役員として住民の防災活動を牽引する立場にある。 今年度に入って私はまず、白井市の危機管理課にお願いして、当地区の人口データを入手した。これによると、15年前と比べ、人口が120人減、世帯当たり人員が3人から2.3人に減り、2人世帯や単身世帯が増えている。住民の年齢も大幅に上がり、70歳以上が121人増、0歳~59歳までが134人減で、少子高齢化が進んだ。65歳以上の高齢者の割合は46.9%と、白井市全体の27.7%を大きく上回っており、介護認定を受けた方が25名いた。 防災訓練では「安否確認」を行うが、高齢化の進行が著しい中では、この目的を改めて考え直す必要がある。一つは、倒れた家具の下敷きになっている方がいないか、家財道具の散乱により家から出ることができない状況にある方がいないか、避難が必要な状況で孤立していないかなど、直接の被災を防ぐためである。二つ目は、物資の確保や情報の取得ができないなど、生活の継続や災害関連死などを防

  • 令和4年の上期を振り返って

    令和4年の上半期を振り返ると、年が明けてもコロナ感染の拡大が収まらない中、2月 24日にはロシアによるウクライナへの侵攻が始まりました。3月16日には福島・宮城で震度6強の地震が発生し、白井市でも震度4を観測するなど、先行きの不安感や不透明感が増しています。わが国経済は、2年以上に及ぶ新型コロナウイルス感染症の流行や原油・原材料価格の高騰、部材調達難、人材不足といった供給面の制約もある中で、中小企業は引き続き厳しい状況にあります。最低賃金は継続的に引き上げられており、2020年を除き、近年は引上げ幅も大きくなっていて、売上原価は年々増加しており、利益の確保が難しい状況です。 先行きの景気の回復が見込めない中で、わが国は低金利政策を継続せざるを得ず、欧米諸国との金利差は広がる一方となり、記録的な円安が続いています。景気の回復には個人消費の伸びが不可欠ですが、年収の低い派遣労働者やシングルマザー、年金生活者は相次ぐ値上げの中で食費を切り詰めて生活する方が増えています。コロナの影響で職を失った方も多いです。欧米では労働人口の移動がわが国に比べスムーズなため、市場の変化に合わせて企業も人もチャ

  • 箸が転んでもおかしい年頃

    私の入学した高校は創立2年目の県立高校です。といっても今から50年余り前の当時は、ということです。1期生は校舎が建設中のため、プレハブ教室で授業を受けており、私たち2期生の入学説明会もそこで行われました。S校長先生は、絵本に出てくる「泣いた赤おに」のような顔をして、「本校は文武両道を目指し、これから目覚ましい発展を遂げるのだ」と、力強く語りました。この時はまさか7年後に野球部が銚子商業や習志野などの強豪校を破って、夏の甲子園大会に出場するとは誰も予想していなかったでしょう。この時から20年後にも2回目の出場をしています。この校長が優秀なA監督をスカウトするなど、甲子園への道筋をつけたというわけです。 本校はJRの駅から徒歩で30分弱あります。晴れた日はよいのですが、強い雨だと傘を差しても靴やスラックスがビショビショになってしまいます。また、徒歩だと遅刻しそうになる場合もあります。このような時は、タクシーに相乗りするのですが、「親のスネかじってタクシーなんかに乗って」と説教する者、頼みもしないのにサービスだと言って、演歌を歌う者、私たちの話に加わってくる者など、ユニークな運転手がいました

  • 演歌とJ-POPとの本質的な違い

    本稿のテーマについて語る前に、皆さんポケカラってご存知ですか?スマホで一人カラオケができる無料のアプリです。大抵の曲が入っていて、伴奏に合わせて歌えばスマホに録音され、再生できます。そのうえAIによる採点も出て、ネットで公開し、他人に聞いてもらい、反応を確認することもできます。またデュエット曲などは一緒にコラボすることだってできるんですよ!私はこれまで延べ50曲以上を録音しているのですが、採点が全国平均の壁を越えられずにいます。 一番の原因は年齢による肺活量の減少です。これはロングトーンや音程、声のゆらぎなどに影響してきます。また、2番、3番と進むにつれ、声量が減り、声が出なくなってしまうのです。若い頃にこれがあったら95点くらい出せたに違いないのですが・・・。 歌のジャンルはムード歌謡が好きで、ユーチューブでロスインディオス&シルビアの「別れても好きな人」を良く聴いています。「うそよ今夜も」や「それぞれの原宿」も大好きです。「それぞれの原宿」では、「原宿、表参道、ゆれて青山通り♪」というサビの部分で、男性は右手、女性は左手の手のひらを互いに近づけ、音楽に合わせて交互に返すところが堪り

  • お二人との再会

    私は15年前の8月に20年8ヶ月勤めた会社を退職し、中小企業大学校で半年間の中小企業診断士養成研修を受け、資格を取得後に独立した。大学校の入学試験で面接官から「これだけ長い間お勤めなら、それなりの地位についているはず。会社を辞めたら、部下にやらせていたルーチンワークも全部自分でやらねばならなくなりますよ」と退職を止められた。 しかし一度しかない人生、これまでとは違う世界を体験してみたかったし、部下にやらせるよりも自分でやりたい性分だったので、試験に合格後、会社を辞めて入校した。 独立後に不退転の決意で臨んだ仕事が中小企業庁の商業課が主管する地域商店街活性化事業(にぎわい補助金)である。これは全国商店街振興組合連合会が国からの助成を得て基金を造成し、商店街組織が行う集客促進のためのイベントの実施を助成するものだ。しかし助成金を交付する作業は、補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律に基づいて厳格に定められている。これを遵守しつつ、応募のあった全国で4千を超える商店街に計画の実施期間までに書類を審査して助成金の交付を決定し、実施後は実績報告書を審査して年度内に助成金を支出しなければなら

  • 西白井グランメッセ前のご婦人

    有難いことに私は孫を5人も授かった。1男、4女で、8歳が2人、4歳1人、2歳1人、8ヶ月(男児)が1人である。みんな可愛い盛りだが、とりわけ2歳の女児Cは赤ちゃんの頃から保育園に入れたせいか人見知りをせず、誰にでも手を振ったり、話しかけたりして愛嬌を振りまくので、よそ様にも可愛がられることが多い。 Cは食欲旺盛でエネルギーに満ち溢れているのだが、自由奔放、縦横無尽で落ち着きがなく、お姉ちゃんの学校行事などには連れて行けないため、私と家内で預かることになる。 先日の土曜日も、朝の9時にグレーの花柄のニット半袖シャツ、GUチャイルドを着たCがやってきた。家じゅうを「バタバタ」と走り回り、私の書斎の椅子に座ってノートパソコンを開こうとするので、片時も目を離せない。我が家は11階建ての10階のため、階下への配慮も必要になる。昨年のリフォーム時は、業者が誤って配管に穴をあけ、水が階下に漏れてしまった。騒音もクレームになるので、長時間家で遊ばせておくわけにはいかない。ちょうど西白井グランメッセ前で10時半からケーキの出張販売があるので、結婚10周年を迎えた息子夫婦に持たせてやろうと、Cを連れて買い

  • 蝶になったおじいちゃん

    私は幼い頃、父方の祖父を「水戸のおじいさん」、母方の祖父を「小右衛門町(こえもんちょう)のおじいちゃん」と呼んでいました。小右衛門町の祖父の家は、北千住駅から竹ノ塚駅行の都営バスに乗り、「小右衛門町」バス停で降りてちょっと歩いたところにありました。この地名は、武州(現埼玉県)岩槻城に出仕していた渡辺小右衛門という武士が元和2年(1616)にこの地へ移住し、新田開発に携わったことに由来しているそうです。 おじいちゃんは、まん丸顔に五分刈りの白髪頭で、私が行くと七福神の恵比須様のようなにこやかな笑顔で迎えてくれました。すると私は、いつも祖父の頭を片手で「なでなで」するのですが、祖父は笑顔のまま、黙って孫が飽きるまでさすられていました。祖父はその風貌と同じく、知人から「仏の俊太郎」と呼ばれていたそうです。昔は米屋を営んでいたのですが、その優しさが裏目に出て、知人に騙されお金を失くしたと聞きました。昔、これで米を測ったのでしょうか、物置に天秤量がありました。 私が小学校低学年の頃、おじいちゃんはお風呂屋さんの帰りにバナナの皮に足を滑らせて転び、膝のお皿を割ってしまいました。これをきっかけに、お

  • 50メートル平泳ぎ

    港南小学校には25メートルプールがあり、夏になると水泳の授業が行われました。運動神経の鈍い私ですが、小学4年生で50メートルを泳ぐことができました。その一番の理由は水泳帽にあります。当時は「潜水が出来る」「水に浮くことが出来る」「バタ足でプールの横約16mを泳ぎ切れる」「25メートル泳げる」「50メートル泳げる」というように、達成度によって水泳帽に赤い線や黒い線を縫い付ける決まりになっていました。まず線のない状態から始まり、赤い線が1本、2本と徐々に増えていき、50メートルで黒線が1本入ります。これに達すると、区の水泳大会に出場できることになっていました。 4年生の夏休み時は、学校のプールが20日間くらい開放されていました。私は、目標が明確で、努力が帽子の線によって認められ、達成感が得られるので、上級者になりたくて毎回通いました。先生は各児童を観察していて、昇格できそうな子に声をかけ、テストをします。線の色や本数を増やすには、これをクリアしなければなりません。テストに合格すると、私は急いで家に帰り、母に線を帽子に縫ってもらいます。母は裁縫学校に通っていたので簡単にやってくれました。自分

  • N君との別れ

    品川駅から東へ向かうと、東洋水産㈱のある旧海岸通りの港南2丁目交差点に至ります。その先の川を渡った右手には東京水産大学(現在の東京海洋大学)、そこからさらに先の海岸通りと交わる交差点の左側に港南小学校があります。小学校のすぐ先には東京モノレールが走っています。 私の生まれ育った所は、旧海岸通りの「港南2丁目交差点」と「新港南橋」の間の東京湾側にあった東京都水道局の官舎です。官舎と地続きで水道局の工場があり、水道メーターなどを作っていたように記憶しています。入り口の門には守衛さんがいて、中には工場の他に事務室や風呂場がありました。広い敷地には子供が入れるくらいの大きさの土管が積み上げられたり、平置きされたりしており、廃車になったダイハツミゼットなども停まっていました。付近に公園などというものはなく、ここが官舎の子供たちの格好の遊び場でした。 私と同学年には隣の純ちゃん、一つ先の路地を入った奥の家には富ちゃんがいて、3人は遊び仲間です。純ちゃんと富ちゃんのお父さんは水道局の工場勤務で、私の父は事務室で働いており、私は午後5時になるとよく門まで父を迎えに行きました。工場勤務の人たちは、油で汚

  • 幼児教育について考える

    私の小二の時の担任は、通信簿に「大声出しての暴れん坊。自主・自立性に乏しく情緒的で、改まって釈明するような場合、涙っぽく言い訳する」と書いています。大人を困らせる問題児だったようです。この当時、私はよく短気な父に体を抱えられ押入れの上段に押し込まれました。襖を締められた押入れは、闇が支配する恐怖の世界です。「カチッ、カチッ」と時を刻む時計の音に合わせて、私は鬼たちのいる無間地獄へと落ちて行き、二度とこの世に戻れないのではないかと恐れおののき泣き叫びました。 この経験からか私は「閉所恐怖症」で、MRI検査で放射線遮断扉を閉められ一人になった時や、人身事故で電車が止まり長時間車内に閉じ込められた時などは、暗い闇が押し寄せてくるような恐怖を感じ、心臓がドキドキして脂汗が出るのです。電車が遅延し車内が満員の場合、気分が悪くなった時に奥に押し込まれて降りられないと困るので、ダイヤが正常に戻るまでホームに入って来る車両を何時間も見送ったり、ルートを変えたりしています。新幹線「のぞみ」のように、長時間停車せずに走行する列車も途中で気分が悪くなることがあります。飛行機はなおさらで、海外旅行はしたことが

  • 扁桃腺摘出手術

    皆さんは、悲しいドラマを見て泣いた後、心が洗われる気分になりませんか? 大人にとって泣く行為は、心を浄化する作用があるのでしょう。一方、大人に依存する幼児や児童が泣くのは、自分の存在を発信し、助けを求める行為ではないでしょうか。 幼少の頃の私は、弱い自分を見せたくないという思い以上に、不安な気持ちが膨らんでしまったときに泣いていたように感じます。①迷子になったとき、②反対側の自宅に帰りたいのに、車がひっきりなしに通る旧海岸通りを一人で渡れなかったとき、③扁桃腺の切除手術の苦しみに耐えきれなかったとき、などです。特に③はどうにも我慢できない体験でした。 小学校低学年の頃の私は、病院での注射や、歯医者さんで歯を削るときに、じっと我慢していました。すると先生に「えらいね」とか、「我慢強いね」と言われ、親からも褒められるので、「我慢すること」を覚えました。扁桃腺の手術の時も、詳細を知らないまま、褒められたいとの思いと、手術後にアイスクリームが食べられるという親の甘言に惹かれて受けました。しかし手術は今と違い局部麻酔によるため、腕の注射や歯の治療などとは比べ物にならないほどの苦痛を伴うものでした

  • 裏番組をぶっとばせ

    私が中学3年生の頃は、コント55号というお笑いコンビの全盛期でした。その看板番組が「コント55号の裏番組をぶっとばせ」です。日曜日の夜8時からはNHKの大河ドラマが高視聴率を誇っており、民放は太刀打ちできない時間帯でした。それをぶっ飛ばそうと始めたのが本番組で、一時は大河を上回る視聴率を取ることもありました。その中で行われる「野球拳」は、観客を舞台に上げて、じゃんけんに参加させる企画で、美人女優がじゃんけんに負けると服を1枚ずつ脱いでいき、最後は水着になるという、ちょっとエッチなコーナーです。子供には見せたくないという親が多く、学校でもこの番組を見ていると口にすると、からかわれるようなところがありました。 当番組が松戸市文化会館で観客を集めて収録されることを知り、私はコント55号見たさに友達と二人で新京成電車に乗って松戸まで出かけました。会場は満席です。「野球拳」のコーナーになると舞台の真ん中に6畳ほどのスペースが設けられ、その背後にひな壇が設置されました。このひな壇に一般客100人位が座ってじゃんけんに参加します。早い者勝ちだったでしょうか、私たちは素早く舞台に上がり、ひな壇の3段目

  • 受験競争

    私が中学生の頃は、1学期と2学期の中間と期末に2回ずつ、そして3学期に1回、計5回の校内テストがありました。校内テストは教科担任が出題・採点する試験です。これに加え、模擬試験会社の早稲田進学会による「早進テスト」が5月、7月、10月、12月、2月に、進学研究会による「進研テスト」が6月と11月にあり、テストのない月は1月、4月、8月、9月だけという有様でした。模擬試験会社が行う試験は標準学力テスト(アチーブメントテスト)と呼ばれ、偏差値が算出されて校外の生徒との比較ができました。念のため申し上げますが、私の中学校は公立校です。 校内テストの結果は廊下に張り出され、氏名と学年順位がその都度公表されます。全学年は約200名ですが、私の最高順位は100番で、2ケタには届きませんでした。結果が出ると、氏名と順位を書いた模造紙を先生が廊下の掲示板に貼るのですが、それを素早く見つけて確認するのが成績優秀者たちです。彼ら、彼女らは○○高校から△△大学、さらに✕✕職というように将来の目標をしっかり持っていて、受験競争の中に積極的に身を投じており、試験はスポーツ選手が記録に挑戦するのと同じで、優秀な生徒

  • 独身先生の結婚観

    中2のクラス担任のMS先生は若くて独身で、黒縁のやや度が強い眼鏡に、当時流行していた東京ロマンチカの三條正人のように髪を七三に分け、ドライヤーをかけて油で固めていました。ジャージで教壇に立つ先生もいる中、たいてい紺のスーツにネクタイを締め、銀行員のようにも見えました。バスで遠足に行った時は、車内で当時流行りの「ブルーライトヨコハマ」を低音で歌われたのが印象に残っています。先生は私たちと年齢が近いせいもあって、生徒から人気がありました。おませな女生徒からは、よく「先生は何で結婚しないの?」とか、「どんな女性が好みですか?」などとからかうような質問をされていました。これに対して先生はまじめに、「現在の顔で結婚相手を決めてはいけない。いずれ後悔する。年を取ればだれでも老けて昔の面影が亡くなるものだ。だから親の顔を見て決めなさい」と言うのです。口の動きに合わせて動く先生の喉仏を見ながら、あこがれのKMさんがおばさんになる姿は想像したくないなぁと、私はひそかに思うのでした。 MS先生は数学を教えているので、私が5月のテストで0点を取ったことを気に掛けているようでした。私を職員室に呼び、家庭訪問が

  • 合格発表

    中学3年になると、難関校を目指す生徒たちはパワー全開です。先生方も進学実績を上げようと、授業中は優秀な生徒に難しい質問をよくするようになりました。これに対して生徒会長のK君は、難なく答えてみんなを驚かせました。彼はクラスのみんなから一目置かれる存在で、理数科が志望なのか、休み時間はよく理科年表を開いていました。ある日、彼は勉強に疲れたのか、机に脚を投げ出した状態で本を読んでいました。休み時間が過ぎても姿勢を改めようとしません。大丈夫かな?と思って見ていると、程なくクラス担任のSK先生が入って来て、K君を見るなり、普段は温厚な先生の顔色がサッと変わりました。K君が厳しく注意されたのは言うまでもありません。一つの点が優れていると、他の面もよく見えてしまう現象を「ハロー効果」と言います。私はこれによって、「頭のいい生徒=全ての面で優秀」と思っていたのが、この一件で、秀才にも欠点のあることを知りました。 夏休み前、学校から3年生全員に主要5教科の要点を1冊に納めたサブノートと呼ばれる書き込み式の学習用補助ノートが配られました。机に積まれた「自由自在」などの分厚い参考書は、基礎から応用に至る全て

  • こどもの日

    朝日新聞の朝刊に「ひととき」という女性投稿欄があります。暮らしのなかで感じたことを投稿するコーナーです。私は43年前から当欄の愛読者なのですが、読み始めるきっかけになったのが1979年5月5日に掲載された「こどもの日」というタイトルの投稿でした。投稿者は中年女性のAさんで、初めての子を授かって間もない頃を振り返る内容です。Aさん宅の隣にも同じ年頃の乳児がいて、両家の庭には、互いに競い合うようにオムツが干されました。 ところが突然、お隣の赤ちゃんが亡くなってしまいます。それを知ったAさんは、お隣を気遣ってオムツ干しを見えない場所に移しました。これまでは、いちばん陽の当たる南側に干していたに違いありませんが、東や西、或いは北に移したのでしょう。乾きが遅く、不便だったはずです。私は、お隣の悲しみに寄り添うAさんの優しさに胸を打たれました。そのうちお隣はどこかへ引っ越し、Aさんも別の家に移り住んだが、このことは「こどもの日」になると思い出すというのです。5月5日は、わが子の成長を祝う日だけれど、祝えない人にとっては辛い日でしょうね。投稿から、こどもの健康に感謝しつつ、赤ちゃんを失ったお母さんを

  • 放送事故と竣工式

    中学3年で私はまた生徒会の副会長に立候補しました。その時の演説では、「昨年の落選にめげず、再度、立候補させて頂きました」と捲土重来をアピールし、前年の立候補による知名度とお情けから、晴れて副会長に就任しました。 就任してすぐ、私は大失敗をやらかしました。 昼休みだったでしょうか。私は生徒会からのお知らせを全校生徒に伝えるため、放送室に向かいました。放送室に入ったのは初めてで、音声チューナーやマイク、レコードなどの見慣れない機器を見ると、何だか不安な気持ちになりました。そばには放送部員や顧問のMS先生がいて、緊張感が漂っています。程なく私の話す番となりました。マイクの前に座り、「生徒会からお知らせします」と言った後、頭が真っ白になり、肝心のお知らせ内容が出て来ません。MS先生が目を丸くしてこちらを見ています。全校生徒もどうしたんだと思っているに違いありません。あせればあせるほど混乱してきて、無言でマイクの前にかたまっていました。その後どうなったかを覚えてないのは、ショックが大きすぎたからでしょうか。MS先生はあきれ返ったような顔で「あの時は驚いたよ」と私に言ったことだけが記憶に残っていま

  • 初めての選挙演説

    中学2年のとき、私は友達におだてられ、面白半分で生徒会の副会長に立候補しました。応援演説はテニス部の先輩が、これも面白半分で引き受けてくれました。生徒会と言えば、文武両道で他の模範となる清廉潔白な生徒たちというイメージですが、私は真逆の存在です。私を良く知る人、特に担任の先生はびっくりしたに違いありません。 友達とのちょっとした会話からの勢いで立候補したものの、そんな器でない自分が200人余の前で演説することを考えると不安になり、引き返したい気持ちにかられました。ひょっとしたら先生が止めてくれるかも、との期待もむなしく選挙の手続きは厳かに進められ、大した準備もしないまま、演説の日を迎えました。 演説は全校生徒が校庭に集合し、朝礼で使う演台の上で生徒を見下ろす形で行います。こうなったらやるしかありません。劣等生の自分が票を集めるには、面白い奴だと印象付ける以外にないと腹をくくりました。幸い、先に応援演説をした先輩はお調子者で、みんなの笑いを誘い、ムードを作ってくれています。演台の上は想像以上に高く、全体が見下ろせるので、偉い人になったような錯覚に陥り、チビであることを逆手に「山椒は小粒で

  • ブログの開設に当たって

    私は今年の2月で66歳になりました。還暦を迎えたと思ったら、アッという間に高齢者の仲間入りです。母方の祖父は同じ年齢の時に脳梗塞で倒れ、施設に入った後で肺炎を患って亡くなりました。家内のお父さんは同じく胃がんで亡くなっています。66歳は私にとっての鬼門であり、以降はいつ死んでもおかしくないような気がしています。お知り合いからも近年、喪中の挨拶状が増え、年賀状を送った後にご遺族から逝去の知らせを頂くこともあります。 実父は91歳まで長生きしましたが、フランクな人ではなく、自分のことはあまり語りたがりませんでした。子や孫に知識や経験、知恵を残さず、存在の薄いままに世を去りました。私は、死んだ後も子や孫、関係した方々の記憶に残る存在でありたいと思っています。このため関連する皆さんの個人情報に配慮しつつ、私の実体験をお伝えするつもりです。このブログが皆さんの心の琴線に触れることで、新しいエネルギーが湧き立つことを願っています。 令和4年6月10日

  • ルノアールの「イレーヌ カーン ダンヴェール嬢」

    小学6年生のとき、互いのクラスを訪問し合い、展示された図工作品を鑑賞する行事があり、1クラス当たり43名✕6組で258名が一斉に移動しました。作品は教室の後ろのロッカーの上や、壁に掲示されたりしていたため、どうしても児童が集中し、満員電車の中のようになりました。周囲の児童に押されるまま移動していると、突如、視界にルノアールの絵画のような美少女が現れたのです。雷に打たれたようになった私は、人ごみに押されて一瞬、彼女と密着しました。これがKMさんとの最初の出会いです。 中学に上がると、親友からKMさんに関する情報が入るようになりました。彼女の写真が小学校近くの写真館のショーウインドに飾られていること。テニス部の先輩が彼女に告白したが断られたこと。男子の多くは彼女にあこがれているが、しょせん高嶺の花とあきらめていること。彼女は大人びていて、男子を弄ぶようなところがあること。などです。 さて、何と中二で彼女とクラスが一緒になるという奇跡が起きました。しかも机が隣り合わせです。彼女は私のことを「池ちゃん」と呼び、気軽に話しかけてくれ、互いに冗談を言い合い、夢のような日々を過ごしました。当時の私は

  • 信じられない噂

    6年生のクラスは6組まであり、私は5組。担任はベテランのYK先生です。両端がややつり上がったデザインの眼鏡が特徴的で、髪は着物に似合うようなまとめ髪、小太りの身体にややきつめのスーツが定番でした。360ccのマツダキャロルで通勤しており、家庭訪問の時は窮屈な先生の車の後部座席に乗って自宅まで案内しました。先生の運転は超がつくほどのろのろで、初心者だったのかもしれません。 彼女は長崎出身の被爆者で、よく私たちに原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さを話してくれました。私が授業中に気分が悪くなった時、先生は「なーんね(そうだったの)、具合悪かったとね」と言って、大柄でスポーツマンのK君に私をおぶって保健室に連れていくよう指示しました。K君は躊躇することなく私を軽々と背負い、階段を駆け下りて保健室まで運んでくれました。中学になると、野球部の彼がグラウントでピッチング練習する姿をよく見かけました。キャッチャーミットの「パーン!」という乾いたような高い音を聴くたび、日陰のもやしのような自分を情けなく思いました。 5組では、各自がかくし芸を披露する「お楽しみ会」があります。この時、先生は教室の引き戸の一枚を

  • 50数年前の悲しい出来事

    私が中学生の頃の出来事です。自宅は千葉県内の私鉄駅から徒歩約15分、地元の不動産屋が分譲した30戸程が並ぶ戸建て住宅にありました。それぞれ30坪から40坪ほどの土地に家が立ち並び、隣家とは近接していました。 ある冬の寝静まった夜、父が私の部屋の扉を勢いよく開け、「火事だ!起きろ!!」と叫びました。私は父の顔が恐ろしく見え、怒られているように感じて飛び起きました。玄関を開けて外を見ると、4軒ほど先に真っ赤な火柱が上がっており、風向きによってはこちらへ火の手が迫ってもおかしくないように感じ、貴重品を持ち出さねばと思うのですが、足がすくんで動けませんでした。 その後、消防隊が駆けつけて延焼は免れましたが、幼児2人が亡くなったと聞き、胸が痛みました。出火元のお宅は母子家庭で、母親は子供たちを寝かしつけて風俗関係にお勤めのようでした。出火の原因は仏壇のろうそくの火が倒れたことによるらしく、子供が夜中に起きて火をつけたのではと推測されていました。 私には幼い孫が5人います。次男の家庭は8歳を頭に4歳、2歳、8ヶ月の1男3女です。夜は家族が1つの部屋で寝るのですが、乳児は離せないので、母親の横は1ヶ

  • 当期純利益額と現預金残高は一致しない

    30数年前に簿記2級や1級販売士、中小企業診断士の1次試験に合格しましたが、難しいことはすっかり忘れました。しかし有難いことに基本は身についていて、いま、事業協同組合や個人事業主の帳簿作成や決算、確定申告のお手伝いをしていますが、数字が合わないといった問題に直面する都度、過去の知識が蘇り、解決できています。 複式簿記が難しいのは、現金主義ではなく、発生主義によるためです。 企業間では現金取引はまれで、20日締めの翌月末払いなどの掛け取引がメインです。仕入代金の後払いは「買掛金勘定」で支出計上し、売上代金の後払いは「売掛金勘定」で収益を計上します。いずれも現金が動かない伝票上の操作なので、大変分かりにくいです。 5年分の保険料50万円を一括支払いした場合は、初年度の保険料10万円を経費とし、残りの40万円は「前払保険料」としておき、毎年、10万円ずつを「保険料(経費)」に振り替えます。このため、決算をして当期純利益が100万円出たとしても、現金が100万円あるわけではありません。 売り上げがあっても大半が売掛金で、その決済より早く仕入代金の支払い期日を迎え、期日に現金がなかったら、黒字倒

  • 初恋の人からの手紙

    小学5年生になって間もなく、東京都港区から千葉県松戸市に越してきた私は、東京の小学校との違いに戸惑い、新しい環境に順応できずにいました。その中で一つの救いが、KTさんからの手紙です。 彼女は港南小学校の同級生で、白く清潔なブラウスにひだのついたプリーツスカートを穿いた姿が目に焼き付いています。ブラウスは襟にフリルのついたものや、肩から肘の上にかけての二の腕の部分が大きく膨らんだちょうちん袖などを身に着け、お嬢様風の着こなしが清楚なイメージを醸し出していました。指先の爪は爪噛み癖によって短く、顔立ちはふっくらとしており、下半分の輪郭に対して、控えめな目や口、鼻、右目の下の泣きぼくろが特徴的で、感情が爆発すると顔をクシャクシャにして泣くのですが、それが私の目には何ともかわいらしく映りました。 片思いだと思っていた彼女から手紙をもらった時は、胸が高鳴りました。幼友達と別れ、新しい環境になじめず、寂しい思いをしていた11歳は、クラスの近況を知らせてくれる彼女の手紙の中でだけ、仲間とつながることが出来たのです。ところが、何回かやり取りをした後、突然、彼女からの返事が来なくなりました。こちらから手

  • 天国へ旅立つお父さんへ

    昨年の4月26日に父が91歳で亡くなりました。高齢で体力が衰弱し、肺炎を患ったものと思われます。以下に、棺に納めた亡き父への手紙の一部を紹介します。 お父さんの還暦の祝いに南柏の「しちりん」で一杯やりましたね。魚介類をしちりんで焼いてビールを飲んだのを覚えています。何を話したかはすっかり忘れてしまいましたが、お父さんのうれしそうな顔がおぼろげながら浮かんできます。 学生時代には、お父さんの勤務先がある有楽町で、ランチバイキングをご馳走してくれましたね。中華だったかな。ごちそうさまでした。 芝浦にいた頃は、よく怒られて押し入れに閉じ込められました。台風が来たら飛ばされそうなトタン屋根の家で暑さ寒さに耐え、10年以上もよく我慢しましたね。風呂場では、ネズミがチョロチョロしていました。大きな台風で屋根が飛ばされた時、水道局の守衛さんが泊まる部屋に避難して、お母さんと一緒に不安な夜を過ごしましたね。私は怖いもの知らずで、ろうそくの灯りと大人たちのいつもとは違う様子にワクワクドキドキしたものでした。 松戸に越してからは、親しかった友達と別れ、環境になじめず、体調不良と精神的な不安定で小学校に行け

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