小中学校時代の初恋、別れ、学校生活や悲しい出来事、大人になってからの実体験、孫の成長、経理業務等に関するレポートなどを綴っています。それぞれのエピソードが皆さんの心の琴線に触れ、ひと時でも思いを共有出来たら、これに勝る喜びはありません。
私は、勉強も運動もできないヤセたチビでした。お調子者のくせに神経が細かく、小さなことですぐ落ち込んでばかり。社会に出てからは自己啓発本を読み漁り、資格試験に挑戦し、50歳で独立しました。高齢者となった今、子ども時代に伝えられなかった思いや、苦労して得た知識を社会に還元したいと思っています。
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この絵は、少女の手から風船が離れてしまったのではなく、少女のもとへ飛んできた風船を掴もうとしているのだと、私は思いたい。 でも、少女の髪やスカートは風で前になびいている。 ならば風船は少女から離れていくと見るのが、自然ではないか。 悲しげな少女の顔、風に乗って舞い上がろうとする赤いハート。 赤いハートは、自分ではコントロールできない感情的な心や胸の内、気持ちを表したものだろう。 ハートをなくすことは、感情をなくすことでもある。 感情がなくなれば、胸がギュッとなったり、やきもちを妬いたり、苦しい思いをしないで済むが、音楽を聴いて感動したり、花を愛でたりできなくなる。空の青さ、星の輝きも美しいと思えなくなる。 ロシアの侵攻で親を亡くしたウクライナの子供たちのハートは、赤い風船のように飛んで行ってしまうのだろうか。 近親者やペットなどを亡くし、喪失感を味わった人は、「胸にポッカリ穴が開いたようだ」という。この穴って、飛んで行ったハートが入ってた場所のこと? 無邪気な少女に戻って欲しいから、私はやっぱり風船は少女へ飛んできた、このあと少女は風船を掴む、と思いたいのだ。
今夜は山本五十六元帥が語った、リーダーとしての心得を紹介します。 1.ティーチング(新人教育)の基本 やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。 2.コーチング(自主性を育てる)基本 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 3.コーチング(自己実現の欲求を育む)基本 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。 新人からベテランへ、職能の発展段階に応じて、育成の仕方が異なることを見事に示した教えだと思います。 これは、職場だけでなく、子育てにも生かしたい基本です。 ぜひ、意識してやってみてください。 人を変えたいと思ったら、自らが変わることが、最も簡単で、手っ取り早いことです。
また、ポケカラの話題です。フォロワーのAさんがYOASOBIの「群青」という難しい曲を歌っていました。一曲に歌詞をたくさん詰め込んでいるので、早口言葉のようになるし、歌詞に合わせて曲調が変わるので、歌うには難しい曲です。 Aさんのリード文 *鬼練した曲アップしちゃう。歌い過ぎで嫌いになりそうだよ(笑)。メロディーがいくつもあるし、高いし、一番と二番違うところもあって。一度断念してたけどチャレンジしましたよ。でもね、凄くいい曲だし、メッセージありありだよ。 *鬼錬…「鬼のようになって練習した」という意味です。 としぼう(私) う~ん、これは確かに難しいけど、惹かれる曲ですね。好きなことなら苦労をいとわず、頑張るから自分のものになる。それが自信になって、強く生きられる。そんなメッセージが変化の激しいメロディーに乗って、モグラ叩きのように素早く出ては消える。いい歌ですね。 Aさん としさん、こんにちは。いつもしっかりと聞いていただき、素晴らしいコメント、嬉しいです。いい曲は歌えるまで練習しちゃいますよ。 としぼう スゴイ。鬼練。歌えた時の達成感がたまらないでしょうね。 「群青」の歌詞 ※正確
私は、"ポケカラ"というアプリで歌った曲をアップロードしたり、他のユーザーが投稿した歌を聴いたりしています。昨年から始め、今日まで200曲超を投稿、相互にやり取りをする友達(フォロワー)が134人になりました。過日は、かぐや姫の「神田川」を歌ってアップしたところ、数人からコメントが届きました。今日は、これを以下に紹介させて頂きます。 因みに私は、アプリ内で「としぼう」というニックネームを使っています。 としぼう 今の季節にピッタリなフォークの名曲、かぐや姫の「神田川」🌟洗い髪が芯まで冷えて・・・♬♪🌟聴いて頂けると嬉しいです。 Aさん 1973年・・・名曲ですね。若い恋人同士の情景が浮かんでくる心に染みる曲ですね。素直に歌われていて素敵でした。 としぼう ずいぶん昔の歌になっちゃいました。侘しさ、切なさの一方で、二人で暮らせる小さな幸せ、すぐにも壊れてしまいそうな、か弱いひと時、ひと時を生きる二人を応援したくなります。 Bさん 昭和の名曲ですね。こういう世界観の歌って、今だとどういう歌になるんだろう・・・って考えちゃいました。 としぼう 私の現代版のイメージは、又吉さんの小説を映画
孫を東京ディズニーランドへ連れて行くことになったので、代表的なディズニーソング「いつか王子様が…」を練習してみました。白雪姫が7人の小人の家で白馬に乗った王子様を待つ、というロマンチックな物語のテーマソング。歌詞は次のとおりです。 いつの日にか 王子様が 来てくれるその日を 私は夢に見る 夢に見るの 王子様が 白い馬に乗って 迎えに来てくれる その日 Someday My Prince will come Someday We’ll meet again And away to His Castle We’ll go To be happy forever I know Someday When Spring is here We’ll find our love anew And the Birds will sing And Wedding bells will ring Someday when My Dreams come true ロマンチックな歌詞ですね。 白雪姫がなぜ森にいるかというと、継母に疎まれ、森に捨てられたからなんですね。 この継母は嫉妬心が強く、自分より美しいも
私の次男は理容師と美容師の資格を持ち、子どもの時から通っていた理容店で働いた後、昨年の7月に円満退職し、9月に船橋市でSWITCHという自分の店を始めました。これがとてもユニークで、看板も、理容店を示すクルクルポールもないので、外見では何のお店か分かりません。新京成線の二和向台駅の南口から商店街を通り、京葉銀行の前の幹線道路を渡って、細い路地を入った10mほど先の右手にコバルトブルー色の外壁に白い縁取りの出窓のついた2階建ての店舗があります。玄関扉も白い格子に透明のガラスがはめ込まれていて、小さなペンションか、喫茶店のようにも見えますが、中を覗くと理美容室であることが分かります。大きな鏡と専用の椅子が目に入るからです。 前の路地は住宅街に通じているので、人通りが多く、開店当初は物珍しさから「何屋さんですか?」とよく聞かれたといいます。この店から、半径100mほどの間に理容店が5店舗もあり、いずれも1500円から2200円という低価格を売りにしています。こんな激戦地で大丈夫なのかしらと心配する私に、息子は平然として客層が違うから平気と意に介しませんでした。私はこの店の経理を任されており、
地域タグ:船橋市
1. お得な情報 中秋の名月を過ぎ、朝晩は涼しさを感じるようになりました。夕方、散歩をしていても、暗くなる時間が早くなって来ています。そろそろライトを点けて歩かないと、暗い夜道は危なそうです。 さて中小企業診断士は、資格更新のために毎年1回、4時間余りの研修を受けなければなりません。先日この研修があり、コロナ禍のため、昨年に続いてリモート開催となり、自宅のパソコンで受講しました。 第1講義では、千葉県商工労働部の担当者が「新しい中小企業政策について」というテーマで講演されました。この中で皆さんに情報提供したい内容がありましたので、ご報告します。 11月に千葉県がキャッシュレス決済に対して、最大10%のポイント還元を行います。au Pay、d払い、PayPay、楽天ペイでの支払が対象になります。キャッシュレス決済サービスの導入をお考えのお店は、9/16までにwebから申し込むと対象店舗になるので、お急ぎください。 1店舗あたり5,000円が限度です。このため11月に入ったらすぐに利用した方がよいでしょう。予算が40億円なので、11/30の前に予算額に達した場合、その時点でキャンペーンが終
昨日、セリア(百円均一)に買い物に行ったら、入ってすぐのゴンドラにハロウィンのグッズが並んでいた。えぇ~?!ちょっと早いんじゃないの、と思ったが、いえいえ、もう肌は秋の涼しげな風を感じているし、アブラゼミのトーンが下がってツクツクホウシの声がよく聞こえるようになった。秋は足早に訪れ、夏に選手交代を迫っている。パシオス(衣料品店)の店内はアウトドアスタイルのファッションで一杯だ。田舎道では、いつの間にか稲の穂が黄金色に変わり、黄色い絨毯のようになっていた。のんびりしてはいられない。私の心も秋仕様に変えなければ。 カラオケを始めて約3ヶ月、家族や近所の迷惑にならないよう声を潜めて練習しているが、一向に上手くならない。伴奏付きの曲に歌を録音してネットにアップし、みんなで感想を伝えあい、評価の高い歌唱にはアイテムを送るというものだが、50曲ほどアップし、ネタが尽きてしまった。昭和の懐メロばかりだから仕方がない。先日、小三の孫に学校で流行っている「踊るエジソン」とかいう歌を教えてもらったが、セリフのような歌詞が難しくて覚えられない。 新境地をと英語の歌を練習している。クリーデンス・クリアウォータ
一昨日の昼、テレビのワイドショーで、ITを駆使して被爆の記録を後世に残そうとする渡邉東大教授の取り組みが放映されていた。私たちは原爆が落とされた時の巨大なキノコ雲をモノクロ写真でしか見ていないが、これに人工知能(AI)で色を付けると、雲の上部は薄いピンク、下の約9割が灰色という2色になっていた。灰色は、地上の建物などの破壊された塵芥が吸い上げられたものだとコメンテーターが語っていた。渡邉教授はカラー化の狙いを「過去のできごとと現在の日常との心理的な距離を近づけ、鑑賞者どうしの対話を誘発する」ことだと明かしている。確かにカラーで見ると、遠い昔の他人事のようであったものが、とても身近に感じられた。ロシアによるウクライナ侵攻によって核の脅威が現実のものとして迫ってきている折でもある。 ネットによると、当時の広島市の推定人口35万人のうち,9万〜16万6千人が,被爆から2〜4か月以内に死亡したという。テレビでは、77年前の東京大空襲で戦争孤児となった海老名香代子さん(83歳)がビデオ出演して、当時の体験を語っていた。 私の叔父(父の兄)は、東南アジアに出征し、戦死したという。祖父はこの叔父と叔
1.中二の頃の緑のシャツと黄色いカーディガン 中二になると、男女とも異性を意識して髪型や服装などの身なりを気にし始めた。私も頻繁に松戸の長崎屋へ服を買いに行くようになった。当時はグループサウンズの全盛期で、タイガースやテンプターズ、オックスなどが女性を虜にしており、女生徒の中にも熱狂的なファンがいて、ジュリーについて熱く語っていた。彼らは総じて王子様のような衣装に身を包み、花の首飾り、亜麻色の髪の少女、君に会いたい、銀河のロマンスなどのロマンチックな曲目で女の子を魅了していた。 私も彼らにあやかりたいと、思い切って目立つ色の服を購入したものの、緑のボタンダウンのシャツと黄色いカーディガンを着る機会も勇気もなく、整理ダンスに入れたままだった。緑と黄色という原色の組み合わせは、自分でも趣味が悪いと感じていた。 そこへ遂にこれを着る機会がやってきた。クラスの女子から誕生会に誘われたのだ。イヤみのない、誰からも好かれる素直な子だった。以前に男女のグループで丸の内に映画「猿の惑星」を見に行ったりもしていた。 彼女の自宅に伺うと、誕生会に呼ばれたのは私一人だけだった。他にも何人か呼ばれているだろう
1.飛べないカラス 今日は午前中にブログを書いて、午後は歯の治療に出掛けた。数十年前に虫歯を削って詰めたアマルガムが取れたので、埋め直す必要が生じたためである。治療は、残った詰め物を削り取り、新しいものを埋め直すという簡単な作業で、5分程で終了。痛い思いをせずにホッとした。支払いを済ませて医院を出るとまだ午後3時前。日差しが照り付ける暑い中だが、折角外に出たのだからダイソーに行こうと西白井駅の陸橋を渡り、南口にやってきた。すると西白井グランメッセの前で1羽のカラスがピョンピョンと所在無げに飛び跳ねている。何をしているんだろうと観察すると、仲間に羽をつつかれたのか、毛並みが乱れ、中の白い産毛が見えていた。動物的な勘なのか、危険を回避するために右に左にと向きを変えるが飛び立とうとはしない。そこで初めてコイツは飛べないのだとわかった。 暑さを避けて早朝に散歩を始めると、ケヤキ並木の遊歩道に方々から大きな鳴き声を上げながらカラスが集まっていることが多い。朝の5時前は人気がないのでカラスの天下である。昼間は高い木の上から周囲を警戒するカラスが、何羽も堂々と地面を歩いている。私がそばに近づくまで逃
私の新聞の読み方は、天声人語だ、社説だ、社会面だ、というように読む順番を決め、どこかを注視するのではなく、見出しを中心に興味ある話題を探しながら「見る」という方が正しい。スポーツ面では大谷選手など気になる選手の成績はチェックするし、「ひととき」欄の感動する記事には目を止める。また、「判官ひいき(弱者・敗者に同情し声援する感情)」というのか、弱いものに焦点を当てた記事も気になるが、最近は「経済的困窮者」に関する内容が増えているような気がしてならない。 1.時間ではなく、成果が賃金に反映される時代 高度成長期と今を比べてみたい。昔はタイムレコーダーというのがあって、出社時と退社時にこれにカードを通して時刻を記録し、働いた時間に応じて賃金が支払われた。今も時給制の企業は多いが、IT企業などは「時間」ではなく、「成果」を買うので、たとえどんなに時間をかけても成果がなければ報酬はゼロだ。エクセルは同じアウトプットでも、使い方によってかかる時間が大きく異なるのは周知のとおりだ。他社より一足でも早く結果を出したい研究開発型企業では、成果報酬の方が公平で働き手のモチベーションが上がり、生産性や企業業績
猛暑が衰えを見せない。午後6時になってもアブラゼミが泣き止まず、耳が騒々しい鳴き声に慣れてしまった。昨日も今日も、午前中から市役所が防災無線で熱中症に注意を呼び掛けている。連日、コロナの感染者数とともに最高気温の予想がニュースで報じられる。 それに交じってロシアや中国の不穏な動き。ペロシ下院議長が台湾を訪問し、蔡英文総統と会談を行った。中国はかなり前からこれをけん制し、台湾海峡へ空母を派遣し軍事演習をしていたので強く反発するのは必至だ。暑くて不安な日々が続く。 そういえば昨日、90歳になる水戸の叔母から夜の8時半頃、私の携帯に電話が入った。弟や母のことを言っているらしいのだが、初めは何のことか要領を得なかった。傾聴していくと、私の弟から今日、3~4回電話があった。内容は電車の中にお金の入ったカバンを置き忘れ、鉄道会社に問合わせたが、戻ってこなかった。カバンには従業員の給料200万円が入っており、至急お金を工面しなければならないので、一時的に立て替えて欲しい。ついては、会社の管理センターの者をそちらに行かせるので、その者に200万円を渡して欲しいと言われたというのだ。 「どこの電車で置き
1. コロナの猛威が白井にも 6月に昔の同僚2人と茅場町のイタリアンで会食したとき、 2人ともコロナにかかって1週間程高熱が続いたと聞き、東京の感染拡大に驚いたものだが、2ヶ月を経て白井も同じような状況になってきた。白井市の毎日の感染状況は、一桁からせいぜい二桁だったものが三桁になっている。千葉、船橋、市川、松戸、柏の首都圏組は千人前後となってきた。 先週の28日に白井市内の事務所で仕事関係者の4人にお会いしたが、そのうちの一人は娘さんがコロナに感染し、濃厚接触者であるため1時間ほどで早めに帰った。しかし昨日、残り3人の内の1人がコロナの陽性になったとの連絡を受けた。濃厚接触者の方から感染したのだろうか。 私は29日に4回目のワクチンを接種したが、熱はないものの倦怠感や咳のため昨日の午前中にかかりつけ医で診察してもらい、薬を飲んでいる。検査はしていないが、私もコロナにかかっているのかもしれない。この医院では、熱や咳といった風邪の症状のある患者は診察を断わっていた。私は咳が出ていないにもかかわらず、「気管支がムズムズして倦怠感がある」と自己申告しただけで、暑い中を待合室に入れてもらえず、
2歳の孫娘がハンドル付の足蹴り車に乗っている様子を動画に撮り、真夜中にBGM付きでインスタのリール動画に投稿したところ、海外から「いいね」が瞬く間に千件以上も寄せられ、コメントは30件を超えた。息子からは、「娘の顔を世界にさらしてどうしてくれるのだ!」と激しく怒られる。私はコメントへの返信に追われるが、そのうち携帯にBBCやCNNから取材の依頼が来る。しかし息子に叱られそうなので断る。 夜が明けると、ロシア大使館から、ウクライナが孫娘を人質にとる恐れがあるので保護したいとの電話がある。しかし私はウクライナがそんなことをするはずがないと言って電話を切る。 息子にロシア大使館からの電話の内容を話すと、ロシアに守ってもらうべきだと言ってきかない。核保有国だから安心だというのだ。 続いてアメリカ大使館から電話があり、「ロシアの言うことは全部嘘なので信じないように」というブリンケン国務長官からのメッセージを伝えられる。孫娘はアメリカが守るので、横田基地からヘリをそちらに派遣するという。 私はアメリカに守ってもらうべきだと思い、家内にそのことを話す。家内は涙を流しながら、孫娘を危険にさらした私を激
4回目のワクチン接種 1. 4回目のワクチン接種 昨日の午後3時30分に4回目のコロナワクチンを接種した。3回目は2月末だったが、この時は当日の夜から8度5分の熱が出て、翌日は食欲がなく、倦怠感で寝込んでしまった。今回は幸い発熱しなかったが、接種して2時間後くらいから倦怠感が現れた。丁度散歩中で、午後6時を過ぎ、幾分か風に爽やかさを感じる中、歩幅が狭くなり、足元がふらつき、何かに寄りかかりたい、杖でもあったらと思うようになった。途中までスタスタと速歩で来たのに突然、スピードダウンし、さらに歩くのが億劫になってしまった。自宅へは最短距離で2キロ程ある。腰掛けて休むベンチもない田舎道で、何回か立ち止まってみたが、調子は良くならない。小型犬を散歩させるお婆さんに追い越される始末。ワクチンごときで何を弱気になっているのだ。「しっかりしろ!」と自らを奮い立たせてみようとするが、ボーっとする頭は言う事を聞いてくれない。 この時、試しに歌を口ずさんでみた。折角だから元気の出る曲がいいと、「三百六十五歩のマーチ」を選んだ。「幸せは、歩いてこない、だーから歩いて行くんだね♬」と歌い出すと、なぜだか倦怠感
日本は、人口に占める高齢者の割合が増加する「高齢化」と、出生率の低下により若年者人口が減少する「少子化」が同時に進行する少子高齢化社会となっています(財務省のHP)。 内閣府は少子化の原因を「①未婚化」や「②晩婚化」の進展、「③夫婦の出生力の低下」と言い、背景に「A.仕事と子育てを両立できる環境整備の遅れ」、「B.高学歴化」、「C.結婚・出産に対する価値観の変化」、「D.子育てに対する負担感の増大」、「E.経済的不安定の増大等」があると分析しています。 このうち本ブログでは①の未婚化を取り上げましょう。私の知る50歳を過ぎて独身の男性のパターンは、「ア.農家の長男で家を継いでいる」、「イ.一人暮らしが性に合っている」、「ウ.一度結婚して懲りた」になります。アは、女性から見ると、農家に嫁ぐ=老親との同居、家事プラス農作業、家庭や親族・近隣との付き合いといった負のイメージがあること。また、嫁いでも仕事を続けたい女性にとって、都会から遠い田舎は二の足を踏むからと私は考えています。(農家の皆さん、ごめんなさい。一昔前の私の古いイメージかもしれません) 。 イは、几帳面で炊事・洗濯・掃除などの家
「高齢者」と言われる年齢になって、過去を振り返ってみると、「この時が人生の分岐点」或いは「運命の分かれ道」と思える場面がいくつかあったことがわかる。今回はそのうちの一つを紹介したい。 小中の義務教育時代の私の成績は、体育や音楽、技術家庭を含めて落ちこぼれ寸前の状態だった。始まりは、小学5年生に入ってすぐに、東京から千葉の学校へ転校したことにある。これまでの教科書がほぼ全て使えなくなり、新しい教科書がすぐに届かず、授業中はしばらく隣の席の児童に見せてもらっていたが、授業は上の空で前の学校のことばかり考えていた。1年を通せば同じことを学習するのだろうが、教科書が違うので習う順番が異なり、算数などはチンプンカンプンだった。もともと理解力や集中力が弱いところに持ってきて、大変な環境の変化が加わり、私は精神的に参ってしまった。給食室からの調理の匂い、下駄箱の靴の匂い、廊下や階段のかび臭い匂いなど、吐き気を催す要因は枚挙に暇がない。土の校庭にも違和感を覚えたし、校歌が歌えず口をパクパクしているのもイヤだった。今から思うと土の校庭のどこが悪かったのかわからないが、前の小学校と違うもの全てが気に入らな
経理業務で数字が合わない時は、「・・・のはず」「・・・に違いない」という根拠のない思い込みが根っこにあることが多い。思い込みが強く根を張っていると、いつまでたっても原因が見つからず、大変苦労する。 当期の収支を正しく入力すれば、正しい「収支差=当期損益」が出るという思い込みは、複式簿記では大変な過ちを引き起こす。家計簿は全てが現金取引なので、給与収入から生活費を差し引いた残りが現預金残高と一致すれば、記帳と収支計算が正しいことがわかる。しかし複式簿記では、買掛金や未払金など、現金支払いが済んでいないものも費用に計上するし、売掛金や未収金など、入金のないものも収入に含めるので、当期の損益と現預金残高は一致せず、記帳や損益計算の正誤を確認することができない。 このため期末日において、勘定科目の借方及び貸方の合計残高が貸借一致していることを確認したうえで、「収支(損益計算書)」と「資産・負債及び資本(貸借対照表)」を作成する。そして2つの貸借の差額が一致したとき、はじめてこの差額が当期損益となる。 期中に行った仕訳は、勘定科目ごとに分類され、総勘定元帳に綴られる。この元帳の各勘定の借方と貸方
次男の一家は長女8歳、次女4歳、三女2歳、長男10ヶ月の子沢山で、手の掛かる年頃の子たちが揃っているため育児が大変だ。平日は学校や幼稚園、保育園に通うので一息つけるが、夏季は学校と幼稚園が休みのため、嫁にとっては地獄の日々となる。 次女と三女がiPadを取り合って喧嘩になり、次女が三女から無理やりこれを取り上げ、三女が大泣きする。これを見ていた長女が次女に足蹴りをくらわし、次女がさらに大声で泣き叫ぶ。三女が長男の腕を噛み、歯形が腕に残る…。 「天国と地獄」というクラシック曲があるが、この曲がBGMにふさわしい光景が頻繁に繰り広げられる。 子供たちには、家に籠っていることがストレスとなって、騒ぎが起きやすくなる。コロナは衰えを見せないが、規制は緩和されている。このため今年は、嫁の実家の札幌に一家で帰省することになった。昨年の10月に長男が生まれたので、実家のお母さんに会わせたいという思いもあるだろう。 夏休みに入る1日前の19日、航空券が高くなる前日に一家で成田から旅立った。次男は仕事があるので1泊して戻ったが、嫁たちは2週間滞在の予定だ。実家のお母さんは孫に会えてうれしい反面、2週間も
私は、ロシアのミサイル攻撃でウクライナの市民が亡くなるニュースを見るたび、何もしてあげられず、切なく悲しい気持ちになる。 金子みすゞもそんな気持ちで「お魚」というタイトルの詩を創作したのだろうか。 お魚 海の魚はかわいそう。 お米は人につくられる、 牛は牧場で飼われてる、 鯉もお池で麩を貰う。 けれども海のお魚は なんにも世話にならないし いたずら一つしないのに こうして私に食べられる。 ほんとに魚はかわいそう。 専門家は、ロシアの行為は、武力行使を禁じる国連憲章に明確に違反する侵略であり、禁止の例外である自衛権の行使にはあたらないと言う。私もそう思う。また、ロシア軍の撤退後、ロシア軍が占領していた各地で、住民の大量殺害が報道されている。ロシア軍への敵対行為に参加していない文民を殺害したのであれば、国際人道法に照らして、ロシアは厳しく非難されるべきであるとも専門家は言う。これもまた然りである。こんな当たり前のことが、ロシアでは通用しないのだろうか。いったいどうなっているのだ。 民主主義国と独裁国家との違いだとも専門家は言う。独裁国家では、金子みすゞのような感性を持つ人間は生まれないのだ
RCCの記事タイトルの文字化け
にほんブログ村に投稿した記事のタイトルが文字化けしてしまい、ご迷惑をおかけしました。現在、改善作業中ですので、よろしくお願い致します。 取り急ぎ、お詫びとご報告まで。
私が生まれ育った場所
1.埋立地の家 今から60年位前の話です。私は、港区南部のJR品川駅東側、東京港に面した沿岸の埋立地に生まれ育ちました。この地域は港区の南にあることから「港南」と呼ばれ、戦前から東京都の施設(東京都下水道局芝浦水再生センター・都建設局の倉庫・都再生油工場・都家畜飼育場・都芝浦屠場など)が立ち並び、品川駅に近い割には人家がほとんどなく、人通りの少ない寂しい場所でした。そこに父の勤める東京都水道局の工場と私たちの住む官舎がありました。埋立地なので自然と言えば他から種が飛んできて自生するたんぽぽやペンペン草くらいで、高木や灌木などの緑は極めて少なく、動物はありんこ、ナメクジ、ダンゴムシ程度で、カタツムリやカマキリ、クワガタ、カブトムシなどは私にとって絵本の中の想像上の昆虫でした。 2.運動場 小学校の運動場も雨の日にぬかるまないようにするためか、アスファルトで舗装されており、運動神経の悪い私は、よく転んで膝小僧をすりむいていました。このように無機質な風景ですが、「住めば都」で私は小5で千葉に引っ越すまでは、これが当たり前だと思っていました。 3.品川練炭 品川駅の東口から旧海岸通りに出ると、
動脈硬化の疑い
昨日は上の血圧が95、下が55と低く、午前中は起きていられず寝込んでしまった。 普段は高血圧のため薬を飲んでいるのだが、寝不足や暑さ、寒さといった気温の影響から、薬が効きすぎたり、効かなかったりする。子供のころ、朝礼のとき貧血で立っていられなくなくなることがあった。昨日もそんな状態で、昨晩は薬を控えたところ、今朝の血圧が上160、下101と急上昇していた。これまでも同様のことがあり、その都度、薬を変えてもらっている。今回の薬は体に合っていると思ったのだが・・・。 高血圧は徐々に血管を傷つけ、心筋梗塞や脳梗塞を引き起こすらしいが、平時は自覚症状がなく、むしろ低血圧の方が生活に支障をきたす。明日は大事な決算報告の仕事があるので、薬を控えるようにしよう。 今日は30℃を超える暑さだが、体調がいいので毎月通院している呼吸器科のクリニックへ自転車で出かけた。家から2.5キロあるので、徒歩では時間がかかるためだ。暑い中でも自転車は風を切るので徒歩よりずっと楽。 午後の診察は3時からだが、受付は2時半からなので、2時7分に着いたら誰もおらず1番乗りだった。当クリニックは患者が多く、早く来て外のベンチ
企業会計原則に準拠した経理処理の中には、一般の人には理解しにくいケースが多い。 たとえば、返さなくてもいいお金が他社から振り込まれたら、貴方はどのように扱うだろうか。恐らく10人のうち9人までが収入扱いされるだろう。 次の2つのケースを見て頂きたい。 〈ケース1〉 県民共済では、掛金の割合に応じて年に一度、割戻金が支給される。 これは、「決算で利益が出ると、共済組合が加入者に取り過ぎた掛金を払い戻す」ものだ。 共済組合の場合、こうした事業利用分量配当金は税制上で損金算入が認められている。 これによりMさん(個人事業主)は組合から2,000円を受け取った。 〈ケース2〉 A社は2018年の1/1にB社との間で自社工場に5年間(2018年~2022年まで)の火災及び地震保険契約を結び、保険料500万円を一括で支払った。 しかし2021年にC社が割安な保険料を呈示してきたので、12/31にB社の保険を解約して、2022年1/1からはC社の保険に乗り換えることにした。 これにより、B社からA社に未経過となる2022年の1年分の保険料100万円のうち、解約手数料を差し引いた90万円の解約返戻金が
昨晩は白井市でも雨が音を立てて激しく降った。午前中も雨模様なので外出する気がせず、6月決算の衣料品店さんの帳簿の確認と仮決算をやった。未確定なのは在庫の棚卸高。これが決まれば売上原価がわかり、粗利益→営業利益→経常利益→税引き前利益というように損益計算書の各段階の利益が確定するのだが、移動・保管中に損傷したものや、陳腐化して商品にならないものは棚卸減耗損として処分する必要がある。6/30に倉庫の棚卸をしたのだが、こうした見切り品の判断が難しい。仕入先が赤伝を切って引き取ってくれればよいが、再流通しないものはそうはいかない。 暑い中、クーラーの効いていない倉庫で作業するのは大変だ。じっとしていても汗が額からポタポタ垂れて、バインターに挟んだ記録簿を濡らしてしまう。つい先日、団地の防災倉庫で備品の在庫確認をしたときはサウナに入っているようだった。 倉庫といえば椎名誠の短編小説に「倉庫作業員」というのがある。これをもとに山田洋次監督は「息子」という映画を製作した。東北の片田舎から東京に出てきた青年は、純真で気が優しいのだが、飽きっぽい性格のため仕事を転々とする。亡くなった母親の法事で帰省する
選挙は予想通り与党の勝利。しかし8日の悲報の後だけに岸田総理に笑顔はない。でも、安倍さんはきっとあちらで喜んでいると思う。あれだけ選挙応援を頑張っていたんだから。 朝のワイドショーでは、専門家が警護の問題について語り、警察が発表した山上容疑者に関する情報を伝えている。 梅茶漬けと目玉焼きの朝食を済ませた私は、ここ数日、1日当たり2,000歩程しか歩いていないことが頭に引っ掛かり、今日こそ7,000歩を目指そうと暑い中だがTシャツに短パンを穿き、野球帽をかぶって外に出た。 保育園通りを渡ると、車が入れないケヤキ並木の遊歩道が清水口から七次台、さらに野口台までの約2キロに渡って続いている。ケヤキは秋に大量の枯葉を落とすので処分に困るが、夏は日差しを適度に遮ってくれ大変ありがたい。反対に冬は葉が落ちるので日が差し込むことから、生活環境にふさわしい植栽として利用されている。 そんなことを考えながら歩いていると、どこからか「ヤーレンソーラン ソーランソーラン ソーランソーラン♪」とソーラン節が流れてきた。音源を辿っていくと、まどか幼稚園からだった。この時期だから、盆踊りの練習をしているのだろう。
今日は参議院選挙の日。投票所に向かう途中の七次第一公園では、キョウチクトウが赤や白の花を咲かせていた。 安倍元首相が凶弾に倒れて2日が過ぎたが、参議院選挙を混乱なく終わらせた後は、事件の検証をしっかり行い、今後二度と同じことが繰り返されないようにして欲しい。 居合わせたマスコミや市民が撮影した動画が繰り返しTVで流され、一般国民が元首相の最後の瞬間を目にすることとなった。山上容疑者は車道に出て元首相の背後、約5メートルまで近づき、ショルダーバッグから手製の銃を取り出して発砲している。しかし、歩みは速くなく、むしろゆっくり近づくように見えた。山上容疑者ひとりが車道に出て近づいてきている。事件後に動画を見た誰の目にも不審な動きに映ったことだろう。 結果論かも知れないが、SPはなぜ容疑者に気付けなかったのだろうか。SPは容疑者が銃を2発撃ってから取り押さえているが、2発目までに1~2秒くらいの間があったように見えた。1発目で元首相は後ろを振り返ったが立ったままで、かつ容疑者との距離が近く、2発目の格好の的となってしまった。1発目の時点でSPは、元首相と容疑者との間に立って盾になること。元首相
7月8日の午前11時30分頃、貴方は奈良市で応援演説を始めて間もなく、暴漢の凶弾に倒れ、心肺停止となりました。暴漢は貴方の背後から近づきながら手製の銃を手提げかばんから取り出し、両手を使って狙いを定めて引き金を引きました。その時、貴方は目の前の聴衆に向けて熱心に語りかけていて、背後から真っ暗な闇が迫っていることなど、知る由もなかったでしょう。時計は無情にも時を刻み、「ズドン」という大きな音で貴方は後ろを振り向きますが、その瞬間に闇夜が貴方を包み込み、遥か遠くの銀河の向こうへと連れ去ろうとしていました。 私はこの事件をSNSで知り、初めはフェイクだろうと思いました。しかしその後、ネットニュースやテレビでも報道され、事実とわかると、言葉にならない怒りと悲しみがこみ上げ、ただただ貴方の回復を祈りました。 貴方は1954年9月生まれですから、私より1歳5か月お兄さんです。しかし、戦後の高度経済成長期という同じ時代に育った点は共通しています。東京タワーができ、新幹線が通り、首都高速が走り、アジアで初めてのオリンピックが開催されました。大阪万博の時、貴方は高校1年生でしたね。私は中3の時に修学旅行
今日は7月7日で七夕だが、私にとってはブログを開設して丁度1ヶ月の記念日である。本稿が29本目なので、ほぼ1日1本になる。4年後の古希にこれを編集して本を製作し、知り合いにお配りすることを目標にしている。当初の方針にないテーマも何本か組み込んだが、記念の本稿では原点に返って小学校低学年の頃の思い出を披露したい。私は昭和31年に生まれ、日本の高度成長期に育ったので、当時の雰囲気を感じてもらえると嬉しい。 小学1年生の頃だろうか。うちの近くには公園はなかったが、なぜか私は同年代の女の子とブランコで遊んだことをたまに思い出す。彼女はスラッとした背丈で身長が私より高く、地味なワンピースにピンク色のサンダルを履いていた。大変おマセな子で、「大人になったら二人は結婚するんだよ」と言うので、地味な雰囲気があまり好きではなかったけれど、「いいよ」と返事をした記憶がある。一緒に遊ぶといっても、かけっこや砂遊びなどではなく、ただブランコを漕ぎながら隣同士でいろんな話をするだけ。8割くらいを彼女が話し、私は聞き役であった。彼女の話は、大人になったら何になるとか、両親は見合い結婚だとか、空飛ぶ絨毯で遠い国へ行
私は昭和53年3月に大学を卒業して、JR山手線「代々木駅」前のミヤタビル8階にあった財団法人K学院に就職しました。当学院の前身は中小企業診断協会の付属機関として発足し、中小企業診断士の受験参考書を販売していました。しかし受験者の増加に伴って売上も増え、中小企業診断士試験の実施機関が受験対策本を販売するのは好ましくないので分離独立したようです。財団の組織構成は診断協会の事務局長だったT氏が専務理事、理事長は元中小企業庁長官で参議院議員のK氏、学院長は一橋大学教授で経営学者のY氏、理事は早稲田大学教授で会計学者のA氏を始めとした試験委員の経験者が名を連ねていました。そして理事の皆さんの協力の下、中小企業診断士試験の受験対策テキストや添削課題、カリキュラムなどを企画・制作し、1年コースの通信教育講座として開講したわけです。私が入職した頃はM社やS大学の通信教育部などが参入していましたが、当初は独占状態のため、かなりの売上があったものと推察されます。 昭和53年当時のK学院は、中小企業診断士のほか、日本商工会議所の販売士検定や簿記3級と2級検定の通信教育講座も持っていました。私は編集課の所属で
私は高校時代、英語の授業が好きでしたが、他の科目には身が入らず、受験勉強は英語だけしかやりませんでした。特に頑張ったのは「英文読解」と「英単語や英熟語の暗記」です。しかし塾に通わず独学で、しかも勉強を始めたのが高三の夏休みからなので、模擬試験の結果は散々で、どの大学もC判定かD判定で、合格には程遠い状態でした。 父親から、「浪人は絶対にダメだ」言われていたので、受験は背水の陣で臨まざるを得ませんでしたが、幸先よく、模試がC判定だったT大学の法学部に合格しました。浪人を嫌っていた父は大変喜び、入学金の30万円をすぐに納めてくれました。ところが、次に受けたチャレンジ校にも合格してしまいます。D大学の外国語学部英語学科は、模試がD判定でしたが、受験科目が「英語」と「作文」だけなのがよかったのでしょう。どちらも私が好きな科目です。 二つとも合格してしまったので、どちらに行くか迷いました。D大学の場合は、「英語学科」ということで、職業の選択も英語の先生や商社などをイメージしやすい反面、私は英会話が苦手で、国際的な分野にも関心が薄いため、選択肢の幅が狭い点が気になりました。一方のT大学は、数多くの
私は築43年、174戸、人口約400人の分譲住宅に26年間住んでいる。管理組合の役員は輪番制となっており、昨年度は順番により私が理事を務めた。この経験から、管理組合のような生活共同体でどのようにリーダーシップを発揮していくべきかを考えてみたい。これは、自治会やPTAなどの組織にも当てはまると思う。 管理組合は「共同利益の増進」を目的として、区分所有法等の法律と組合員の3/4以上の賛成で作成された「規約」に基づき、総会決議事項を組合員から付託を受けた理事会が執行するものだ。したがって、リーダーは「規約」に基づいて意思決定することが必須となる。「規約」に則って行った行為に対して、組合員から不満や反対意見が出た場合は、「理事会は現行規約に基づいて業務を執行しています」「あなたのお考えが正しいと思うなら、あなたご自身で規約を変えるよう組合員に働きかけてみてはいかがですか」と返せば済むことになる。このためリーダーは「規約」を熟知しておくことが重要である。 管理組合は理事長、副理事長、総務理事といった役職が規約で決められている。しかし生活共同体である管理組合は、リーダーの持つ「情報量」が他を圧倒し
私は昨年度、11階建て2棟、8階建て3棟、2階建て共同住宅12棟、合計174世帯、築43年の団地組合の総務理事を務め、今年度は防火管理者として、また地区の防災会の役員として住民の防災活動を牽引する立場にある。 今年度に入って私はまず、白井市の危機管理課にお願いして、当地区の人口データを入手した。これによると、15年前と比べ、人口が120人減、世帯当たり人員が3人から2.3人に減り、2人世帯や単身世帯が増えている。住民の年齢も大幅に上がり、70歳以上が121人増、0歳~59歳までが134人減で、少子高齢化が進んだ。65歳以上の高齢者の割合は46.9%と、白井市全体の27.7%を大きく上回っており、介護認定を受けた方が25名いた。 防災訓練では「安否確認」を行うが、高齢化の進行が著しい中では、この目的を改めて考え直す必要がある。一つは、倒れた家具の下敷きになっている方がいないか、家財道具の散乱により家から出ることができない状況にある方がいないか、避難が必要な状況で孤立していないかなど、直接の被災を防ぐためである。二つ目は、物資の確保や情報の取得ができないなど、生活の継続や災害関連死などを防
令和4年の上半期を振り返ると、年が明けてもコロナ感染の拡大が収まらない中、2月 24日にはロシアによるウクライナへの侵攻が始まりました。3月16日には福島・宮城で震度6強の地震が発生し、白井市でも震度4を観測するなど、先行きの不安感や不透明感が増しています。わが国経済は、2年以上に及ぶ新型コロナウイルス感染症の流行や原油・原材料価格の高騰、部材調達難、人材不足といった供給面の制約もある中で、中小企業は引き続き厳しい状況にあります。最低賃金は継続的に引き上げられており、2020年を除き、近年は引上げ幅も大きくなっていて、売上原価は年々増加しており、利益の確保が難しい状況です。 先行きの景気の回復が見込めない中で、わが国は低金利政策を継続せざるを得ず、欧米諸国との金利差は広がる一方となり、記録的な円安が続いています。景気の回復には個人消費の伸びが不可欠ですが、年収の低い派遣労働者やシングルマザー、年金生活者は相次ぐ値上げの中で食費を切り詰めて生活する方が増えています。コロナの影響で職を失った方も多いです。欧米では労働人口の移動がわが国に比べスムーズなため、市場の変化に合わせて企業も人もチャ
私の入学した高校は創立2年目の県立高校です。といっても今から50年余り前の当時は、ということです。1期生は校舎が建設中のため、プレハブ教室で授業を受けており、私たち2期生の入学説明会もそこで行われました。S校長先生は、絵本に出てくる「泣いた赤おに」のような顔をして、「本校は文武両道を目指し、これから目覚ましい発展を遂げるのだ」と、力強く語りました。この時はまさか7年後に野球部が銚子商業や習志野などの強豪校を破って、夏の甲子園大会に出場するとは誰も予想していなかったでしょう。この時から20年後にも2回目の出場をしています。この校長が優秀なA監督をスカウトするなど、甲子園への道筋をつけたというわけです。 本校はJRの駅から徒歩で30分弱あります。晴れた日はよいのですが、強い雨だと傘を差しても靴やスラックスがビショビショになってしまいます。また、徒歩だと遅刻しそうになる場合もあります。このような時は、タクシーに相乗りするのですが、「親のスネかじってタクシーなんかに乗って」と説教する者、頼みもしないのにサービスだと言って、演歌を歌う者、私たちの話に加わってくる者など、ユニークな運転手がいました
本稿のテーマについて語る前に、皆さんポケカラってご存知ですか?スマホで一人カラオケができる無料のアプリです。大抵の曲が入っていて、伴奏に合わせて歌えばスマホに録音され、再生できます。そのうえAIによる採点も出て、ネットで公開し、他人に聞いてもらい、反応を確認することもできます。またデュエット曲などは一緒にコラボすることだってできるんですよ!私はこれまで延べ50曲以上を録音しているのですが、採点が全国平均の壁を越えられずにいます。 一番の原因は年齢による肺活量の減少です。これはロングトーンや音程、声のゆらぎなどに影響してきます。また、2番、3番と進むにつれ、声量が減り、声が出なくなってしまうのです。若い頃にこれがあったら95点くらい出せたに違いないのですが・・・。 歌のジャンルはムード歌謡が好きで、ユーチューブでロスインディオス&シルビアの「別れても好きな人」を良く聴いています。「うそよ今夜も」や「それぞれの原宿」も大好きです。「それぞれの原宿」では、「原宿、表参道、ゆれて青山通り♪」というサビの部分で、男性は右手、女性は左手の手のひらを互いに近づけ、音楽に合わせて交互に返すところが堪り
私は15年前の8月に20年8ヶ月勤めた会社を退職し、中小企業大学校で半年間の中小企業診断士養成研修を受け、資格を取得後に独立した。大学校の入学試験で面接官から「これだけ長い間お勤めなら、それなりの地位についているはず。会社を辞めたら、部下にやらせていたルーチンワークも全部自分でやらねばならなくなりますよ」と退職を止められた。 しかし一度しかない人生、これまでとは違う世界を体験してみたかったし、部下にやらせるよりも自分でやりたい性分だったので、試験に合格後、会社を辞めて入校した。 独立後に不退転の決意で臨んだ仕事が中小企業庁の商業課が主管する地域商店街活性化事業(にぎわい補助金)である。これは全国商店街振興組合連合会が国からの助成を得て基金を造成し、商店街組織が行う集客促進のためのイベントの実施を助成するものだ。しかし助成金を交付する作業は、補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律に基づいて厳格に定められている。これを遵守しつつ、応募のあった全国で4千を超える商店街に計画の実施期間までに書類を審査して助成金の交付を決定し、実施後は実績報告書を審査して年度内に助成金を支出しなければなら
有難いことに私は孫を5人も授かった。1男、4女で、8歳が2人、4歳1人、2歳1人、8ヶ月(男児)が1人である。みんな可愛い盛りだが、とりわけ2歳の女児Cは赤ちゃんの頃から保育園に入れたせいか人見知りをせず、誰にでも手を振ったり、話しかけたりして愛嬌を振りまくので、よそ様にも可愛がられることが多い。 Cは食欲旺盛でエネルギーに満ち溢れているのだが、自由奔放、縦横無尽で落ち着きがなく、お姉ちゃんの学校行事などには連れて行けないため、私と家内で預かることになる。 先日の土曜日も、朝の9時にグレーの花柄のニット半袖シャツ、GUチャイルドを着たCがやってきた。家じゅうを「バタバタ」と走り回り、私の書斎の椅子に座ってノートパソコンを開こうとするので、片時も目を離せない。我が家は11階建ての10階のため、階下への配慮も必要になる。昨年のリフォーム時は、業者が誤って配管に穴をあけ、水が階下に漏れてしまった。騒音もクレームになるので、長時間家で遊ばせておくわけにはいかない。ちょうど西白井グランメッセ前で10時半からケーキの出張販売があるので、結婚10周年を迎えた息子夫婦に持たせてやろうと、Cを連れて買い
私は幼い頃、父方の祖父を「水戸のおじいさん」、母方の祖父を「小右衛門町(こえもんちょう)のおじいちゃん」と呼んでいました。小右衛門町の祖父の家は、北千住駅から竹ノ塚駅行の都営バスに乗り、「小右衛門町」バス停で降りてちょっと歩いたところにありました。この地名は、武州(現埼玉県)岩槻城に出仕していた渡辺小右衛門という武士が元和2年(1616)にこの地へ移住し、新田開発に携わったことに由来しているそうです。 おじいちゃんは、まん丸顔に五分刈りの白髪頭で、私が行くと七福神の恵比須様のようなにこやかな笑顔で迎えてくれました。すると私は、いつも祖父の頭を片手で「なでなで」するのですが、祖父は笑顔のまま、黙って孫が飽きるまでさすられていました。祖父はその風貌と同じく、知人から「仏の俊太郎」と呼ばれていたそうです。昔は米屋を営んでいたのですが、その優しさが裏目に出て、知人に騙されお金を失くしたと聞きました。昔、これで米を測ったのでしょうか、物置に天秤量がありました。 私が小学校低学年の頃、おじいちゃんはお風呂屋さんの帰りにバナナの皮に足を滑らせて転び、膝のお皿を割ってしまいました。これをきっかけに、お
港南小学校には25メートルプールがあり、夏になると水泳の授業が行われました。運動神経の鈍い私ですが、小学4年生で50メートルを泳ぐことができました。その一番の理由は水泳帽にあります。当時は「潜水が出来る」「水に浮くことが出来る」「バタ足でプールの横約16mを泳ぎ切れる」「25メートル泳げる」「50メートル泳げる」というように、達成度によって水泳帽に赤い線や黒い線を縫い付ける決まりになっていました。まず線のない状態から始まり、赤い線が1本、2本と徐々に増えていき、50メートルで黒線が1本入ります。これに達すると、区の水泳大会に出場できることになっていました。 4年生の夏休み時は、学校のプールが20日間くらい開放されていました。私は、目標が明確で、努力が帽子の線によって認められ、達成感が得られるので、上級者になりたくて毎回通いました。先生は各児童を観察していて、昇格できそうな子に声をかけ、テストをします。線の色や本数を増やすには、これをクリアしなければなりません。テストに合格すると、私は急いで家に帰り、母に線を帽子に縫ってもらいます。母は裁縫学校に通っていたので簡単にやってくれました。自分
品川駅から東へ向かうと、東洋水産㈱のある旧海岸通りの港南2丁目交差点に至ります。その先の川を渡った右手には東京水産大学(現在の東京海洋大学)、そこからさらに先の海岸通りと交わる交差点の左側に港南小学校があります。小学校のすぐ先には東京モノレールが走っています。 私の生まれ育った所は、旧海岸通りの「港南2丁目交差点」と「新港南橋」の間の東京湾側にあった東京都水道局の官舎です。官舎と地続きで水道局の工場があり、水道メーターなどを作っていたように記憶しています。入り口の門には守衛さんがいて、中には工場の他に事務室や風呂場がありました。広い敷地には子供が入れるくらいの大きさの土管が積み上げられたり、平置きされたりしており、廃車になったダイハツミゼットなども停まっていました。付近に公園などというものはなく、ここが官舎の子供たちの格好の遊び場でした。 私と同学年には隣の純ちゃん、一つ先の路地を入った奥の家には富ちゃんがいて、3人は遊び仲間です。純ちゃんと富ちゃんのお父さんは水道局の工場勤務で、私の父は事務室で働いており、私は午後5時になるとよく門まで父を迎えに行きました。工場勤務の人たちは、油で汚
私の小二の時の担任は、通信簿に「大声出しての暴れん坊。自主・自立性に乏しく情緒的で、改まって釈明するような場合、涙っぽく言い訳する」と書いています。大人を困らせる問題児だったようです。この当時、私はよく短気な父に体を抱えられ押入れの上段に押し込まれました。襖を締められた押入れは、闇が支配する恐怖の世界です。「カチッ、カチッ」と時を刻む時計の音に合わせて、私は鬼たちのいる無間地獄へと落ちて行き、二度とこの世に戻れないのではないかと恐れおののき泣き叫びました。 この経験からか私は「閉所恐怖症」で、MRI検査で放射線遮断扉を閉められ一人になった時や、人身事故で電車が止まり長時間車内に閉じ込められた時などは、暗い闇が押し寄せてくるような恐怖を感じ、心臓がドキドキして脂汗が出るのです。電車が遅延し車内が満員の場合、気分が悪くなった時に奥に押し込まれて降りられないと困るので、ダイヤが正常に戻るまでホームに入って来る車両を何時間も見送ったり、ルートを変えたりしています。新幹線「のぞみ」のように、長時間停車せずに走行する列車も途中で気分が悪くなることがあります。飛行機はなおさらで、海外旅行はしたことが
皆さんは、悲しいドラマを見て泣いた後、心が洗われる気分になりませんか? 大人にとって泣く行為は、心を浄化する作用があるのでしょう。一方、大人に依存する幼児や児童が泣くのは、自分の存在を発信し、助けを求める行為ではないでしょうか。 幼少の頃の私は、弱い自分を見せたくないという思い以上に、不安な気持ちが膨らんでしまったときに泣いていたように感じます。①迷子になったとき、②反対側の自宅に帰りたいのに、車がひっきりなしに通る旧海岸通りを一人で渡れなかったとき、③扁桃腺の切除手術の苦しみに耐えきれなかったとき、などです。特に③はどうにも我慢できない体験でした。 小学校低学年の頃の私は、病院での注射や、歯医者さんで歯を削るときに、じっと我慢していました。すると先生に「えらいね」とか、「我慢強いね」と言われ、親からも褒められるので、「我慢すること」を覚えました。扁桃腺の手術の時も、詳細を知らないまま、褒められたいとの思いと、手術後にアイスクリームが食べられるという親の甘言に惹かれて受けました。しかし手術は今と違い局部麻酔によるため、腕の注射や歯の治療などとは比べ物にならないほどの苦痛を伴うものでした
私が中学3年生の頃は、コント55号というお笑いコンビの全盛期でした。その看板番組が「コント55号の裏番組をぶっとばせ」です。日曜日の夜8時からはNHKの大河ドラマが高視聴率を誇っており、民放は太刀打ちできない時間帯でした。それをぶっ飛ばそうと始めたのが本番組で、一時は大河を上回る視聴率を取ることもありました。その中で行われる「野球拳」は、観客を舞台に上げて、じゃんけんに参加させる企画で、美人女優がじゃんけんに負けると服を1枚ずつ脱いでいき、最後は水着になるという、ちょっとエッチなコーナーです。子供には見せたくないという親が多く、学校でもこの番組を見ていると口にすると、からかわれるようなところがありました。 当番組が松戸市文化会館で観客を集めて収録されることを知り、私はコント55号見たさに友達と二人で新京成電車に乗って松戸まで出かけました。会場は満席です。「野球拳」のコーナーになると舞台の真ん中に6畳ほどのスペースが設けられ、その背後にひな壇が設置されました。このひな壇に一般客100人位が座ってじゃんけんに参加します。早い者勝ちだったでしょうか、私たちは素早く舞台に上がり、ひな壇の3段目
私が中学生の頃は、1学期と2学期の中間と期末に2回ずつ、そして3学期に1回、計5回の校内テストがありました。校内テストは教科担任が出題・採点する試験です。これに加え、模擬試験会社の早稲田進学会による「早進テスト」が5月、7月、10月、12月、2月に、進学研究会による「進研テスト」が6月と11月にあり、テストのない月は1月、4月、8月、9月だけという有様でした。模擬試験会社が行う試験は標準学力テスト(アチーブメントテスト)と呼ばれ、偏差値が算出されて校外の生徒との比較ができました。念のため申し上げますが、私の中学校は公立校です。 校内テストの結果は廊下に張り出され、氏名と学年順位がその都度公表されます。全学年は約200名ですが、私の最高順位は100番で、2ケタには届きませんでした。結果が出ると、氏名と順位を書いた模造紙を先生が廊下の掲示板に貼るのですが、それを素早く見つけて確認するのが成績優秀者たちです。彼ら、彼女らは○○高校から△△大学、さらに✕✕職というように将来の目標をしっかり持っていて、受験競争の中に積極的に身を投じており、試験はスポーツ選手が記録に挑戦するのと同じで、優秀な生徒
中2のクラス担任のMS先生は若くて独身で、黒縁のやや度が強い眼鏡に、当時流行していた東京ロマンチカの三條正人のように髪を七三に分け、ドライヤーをかけて油で固めていました。ジャージで教壇に立つ先生もいる中、たいてい紺のスーツにネクタイを締め、銀行員のようにも見えました。バスで遠足に行った時は、車内で当時流行りの「ブルーライトヨコハマ」を低音で歌われたのが印象に残っています。先生は私たちと年齢が近いせいもあって、生徒から人気がありました。おませな女生徒からは、よく「先生は何で結婚しないの?」とか、「どんな女性が好みですか?」などとからかうような質問をされていました。これに対して先生はまじめに、「現在の顔で結婚相手を決めてはいけない。いずれ後悔する。年を取ればだれでも老けて昔の面影が亡くなるものだ。だから親の顔を見て決めなさい」と言うのです。口の動きに合わせて動く先生の喉仏を見ながら、あこがれのKMさんがおばさんになる姿は想像したくないなぁと、私はひそかに思うのでした。 MS先生は数学を教えているので、私が5月のテストで0点を取ったことを気に掛けているようでした。私を職員室に呼び、家庭訪問が
中学3年になると、難関校を目指す生徒たちはパワー全開です。先生方も進学実績を上げようと、授業中は優秀な生徒に難しい質問をよくするようになりました。これに対して生徒会長のK君は、難なく答えてみんなを驚かせました。彼はクラスのみんなから一目置かれる存在で、理数科が志望なのか、休み時間はよく理科年表を開いていました。ある日、彼は勉強に疲れたのか、机に脚を投げ出した状態で本を読んでいました。休み時間が過ぎても姿勢を改めようとしません。大丈夫かな?と思って見ていると、程なくクラス担任のSK先生が入って来て、K君を見るなり、普段は温厚な先生の顔色がサッと変わりました。K君が厳しく注意されたのは言うまでもありません。一つの点が優れていると、他の面もよく見えてしまう現象を「ハロー効果」と言います。私はこれによって、「頭のいい生徒=全ての面で優秀」と思っていたのが、この一件で、秀才にも欠点のあることを知りました。 夏休み前、学校から3年生全員に主要5教科の要点を1冊に納めたサブノートと呼ばれる書き込み式の学習用補助ノートが配られました。机に積まれた「自由自在」などの分厚い参考書は、基礎から応用に至る全て
朝日新聞の朝刊に「ひととき」という女性投稿欄があります。暮らしのなかで感じたことを投稿するコーナーです。私は43年前から当欄の愛読者なのですが、読み始めるきっかけになったのが1979年5月5日に掲載された「こどもの日」というタイトルの投稿でした。投稿者は中年女性のAさんで、初めての子を授かって間もない頃を振り返る内容です。Aさん宅の隣にも同じ年頃の乳児がいて、両家の庭には、互いに競い合うようにオムツが干されました。 ところが突然、お隣の赤ちゃんが亡くなってしまいます。それを知ったAさんは、お隣を気遣ってオムツ干しを見えない場所に移しました。これまでは、いちばん陽の当たる南側に干していたに違いありませんが、東や西、或いは北に移したのでしょう。乾きが遅く、不便だったはずです。私は、お隣の悲しみに寄り添うAさんの優しさに胸を打たれました。そのうちお隣はどこかへ引っ越し、Aさんも別の家に移り住んだが、このことは「こどもの日」になると思い出すというのです。5月5日は、わが子の成長を祝う日だけれど、祝えない人にとっては辛い日でしょうね。投稿から、こどもの健康に感謝しつつ、赤ちゃんを失ったお母さんを
中学3年で私はまた生徒会の副会長に立候補しました。その時の演説では、「昨年の落選にめげず、再度、立候補させて頂きました」と捲土重来をアピールし、前年の立候補による知名度とお情けから、晴れて副会長に就任しました。 就任してすぐ、私は大失敗をやらかしました。 昼休みだったでしょうか。私は生徒会からのお知らせを全校生徒に伝えるため、放送室に向かいました。放送室に入ったのは初めてで、音声チューナーやマイク、レコードなどの見慣れない機器を見ると、何だか不安な気持ちになりました。そばには放送部員や顧問のMS先生がいて、緊張感が漂っています。程なく私の話す番となりました。マイクの前に座り、「生徒会からお知らせします」と言った後、頭が真っ白になり、肝心のお知らせ内容が出て来ません。MS先生が目を丸くしてこちらを見ています。全校生徒もどうしたんだと思っているに違いありません。あせればあせるほど混乱してきて、無言でマイクの前にかたまっていました。その後どうなったかを覚えてないのは、ショックが大きすぎたからでしょうか。MS先生はあきれ返ったような顔で「あの時は驚いたよ」と私に言ったことだけが記憶に残っていま
中学2年のとき、私は友達におだてられ、面白半分で生徒会の副会長に立候補しました。応援演説はテニス部の先輩が、これも面白半分で引き受けてくれました。生徒会と言えば、文武両道で他の模範となる清廉潔白な生徒たちというイメージですが、私は真逆の存在です。私を良く知る人、特に担任の先生はびっくりしたに違いありません。 友達とのちょっとした会話からの勢いで立候補したものの、そんな器でない自分が200人余の前で演説することを考えると不安になり、引き返したい気持ちにかられました。ひょっとしたら先生が止めてくれるかも、との期待もむなしく選挙の手続きは厳かに進められ、大した準備もしないまま、演説の日を迎えました。 演説は全校生徒が校庭に集合し、朝礼で使う演台の上で生徒を見下ろす形で行います。こうなったらやるしかありません。劣等生の自分が票を集めるには、面白い奴だと印象付ける以外にないと腹をくくりました。幸い、先に応援演説をした先輩はお調子者で、みんなの笑いを誘い、ムードを作ってくれています。演台の上は想像以上に高く、全体が見下ろせるので、偉い人になったような錯覚に陥り、チビであることを逆手に「山椒は小粒で
私は今年の2月で66歳になりました。還暦を迎えたと思ったら、アッという間に高齢者の仲間入りです。母方の祖父は同じ年齢の時に脳梗塞で倒れ、施設に入った後で肺炎を患って亡くなりました。家内のお父さんは同じく胃がんで亡くなっています。66歳は私にとっての鬼門であり、以降はいつ死んでもおかしくないような気がしています。お知り合いからも近年、喪中の挨拶状が増え、年賀状を送った後にご遺族から逝去の知らせを頂くこともあります。 実父は91歳まで長生きしましたが、フランクな人ではなく、自分のことはあまり語りたがりませんでした。子や孫に知識や経験、知恵を残さず、存在の薄いままに世を去りました。私は、死んだ後も子や孫、関係した方々の記憶に残る存在でありたいと思っています。このため関連する皆さんの個人情報に配慮しつつ、私の実体験をお伝えするつもりです。このブログが皆さんの心の琴線に触れることで、新しいエネルギーが湧き立つことを願っています。 令和4年6月10日
小学6年生のとき、互いのクラスを訪問し合い、展示された図工作品を鑑賞する行事があり、1クラス当たり43名✕6組で258名が一斉に移動しました。作品は教室の後ろのロッカーの上や、壁に掲示されたりしていたため、どうしても児童が集中し、満員電車の中のようになりました。周囲の児童に押されるまま移動していると、突如、視界にルノアールの絵画のような美少女が現れたのです。雷に打たれたようになった私は、人ごみに押されて一瞬、彼女と密着しました。これがKMさんとの最初の出会いです。 中学に上がると、親友からKMさんに関する情報が入るようになりました。彼女の写真が小学校近くの写真館のショーウインドに飾られていること。テニス部の先輩が彼女に告白したが断られたこと。男子の多くは彼女にあこがれているが、しょせん高嶺の花とあきらめていること。彼女は大人びていて、男子を弄ぶようなところがあること。などです。 さて、何と中二で彼女とクラスが一緒になるという奇跡が起きました。しかも机が隣り合わせです。彼女は私のことを「池ちゃん」と呼び、気軽に話しかけてくれ、互いに冗談を言い合い、夢のような日々を過ごしました。当時の私は
6年生のクラスは6組まであり、私は5組。担任はベテランのYK先生です。両端がややつり上がったデザインの眼鏡が特徴的で、髪は着物に似合うようなまとめ髪、小太りの身体にややきつめのスーツが定番でした。360ccのマツダキャロルで通勤しており、家庭訪問の時は窮屈な先生の車の後部座席に乗って自宅まで案内しました。先生の運転は超がつくほどのろのろで、初心者だったのかもしれません。 彼女は長崎出身の被爆者で、よく私たちに原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さを話してくれました。私が授業中に気分が悪くなった時、先生は「なーんね(そうだったの)、具合悪かったとね」と言って、大柄でスポーツマンのK君に私をおぶって保健室に連れていくよう指示しました。K君は躊躇することなく私を軽々と背負い、階段を駆け下りて保健室まで運んでくれました。中学になると、野球部の彼がグラウントでピッチング練習する姿をよく見かけました。キャッチャーミットの「パーン!」という乾いたような高い音を聴くたび、日陰のもやしのような自分を情けなく思いました。 5組では、各自がかくし芸を披露する「お楽しみ会」があります。この時、先生は教室の引き戸の一枚を
私が中学生の頃の出来事です。自宅は千葉県内の私鉄駅から徒歩約15分、地元の不動産屋が分譲した30戸程が並ぶ戸建て住宅にありました。それぞれ30坪から40坪ほどの土地に家が立ち並び、隣家とは近接していました。 ある冬の寝静まった夜、父が私の部屋の扉を勢いよく開け、「火事だ!起きろ!!」と叫びました。私は父の顔が恐ろしく見え、怒られているように感じて飛び起きました。玄関を開けて外を見ると、4軒ほど先に真っ赤な火柱が上がっており、風向きによってはこちらへ火の手が迫ってもおかしくないように感じ、貴重品を持ち出さねばと思うのですが、足がすくんで動けませんでした。 その後、消防隊が駆けつけて延焼は免れましたが、幼児2人が亡くなったと聞き、胸が痛みました。出火元のお宅は母子家庭で、母親は子供たちを寝かしつけて風俗関係にお勤めのようでした。出火の原因は仏壇のろうそくの火が倒れたことによるらしく、子供が夜中に起きて火をつけたのではと推測されていました。 私には幼い孫が5人います。次男の家庭は8歳を頭に4歳、2歳、8ヶ月の1男3女です。夜は家族が1つの部屋で寝るのですが、乳児は離せないので、母親の横は1ヶ
30数年前に簿記2級や1級販売士、中小企業診断士の1次試験に合格しましたが、難しいことはすっかり忘れました。しかし有難いことに基本は身についていて、いま、事業協同組合や個人事業主の帳簿作成や決算、確定申告のお手伝いをしていますが、数字が合わないといった問題に直面する都度、過去の知識が蘇り、解決できています。 複式簿記が難しいのは、現金主義ではなく、発生主義によるためです。 企業間では現金取引はまれで、20日締めの翌月末払いなどの掛け取引がメインです。仕入代金の後払いは「買掛金勘定」で支出計上し、売上代金の後払いは「売掛金勘定」で収益を計上します。いずれも現金が動かない伝票上の操作なので、大変分かりにくいです。 5年分の保険料50万円を一括支払いした場合は、初年度の保険料10万円を経費とし、残りの40万円は「前払保険料」としておき、毎年、10万円ずつを「保険料(経費)」に振り替えます。このため、決算をして当期純利益が100万円出たとしても、現金が100万円あるわけではありません。 売り上げがあっても大半が売掛金で、その決済より早く仕入代金の支払い期日を迎え、期日に現金がなかったら、黒字倒
小学5年生になって間もなく、東京都港区から千葉県松戸市に越してきた私は、東京の小学校との違いに戸惑い、新しい環境に順応できずにいました。その中で一つの救いが、KTさんからの手紙です。 彼女は港南小学校の同級生で、白く清潔なブラウスにひだのついたプリーツスカートを穿いた姿が目に焼き付いています。ブラウスは襟にフリルのついたものや、肩から肘の上にかけての二の腕の部分が大きく膨らんだちょうちん袖などを身に着け、お嬢様風の着こなしが清楚なイメージを醸し出していました。指先の爪は爪噛み癖によって短く、顔立ちはふっくらとしており、下半分の輪郭に対して、控えめな目や口、鼻、右目の下の泣きぼくろが特徴的で、感情が爆発すると顔をクシャクシャにして泣くのですが、それが私の目には何ともかわいらしく映りました。 片思いだと思っていた彼女から手紙をもらった時は、胸が高鳴りました。幼友達と別れ、新しい環境になじめず、寂しい思いをしていた11歳は、クラスの近況を知らせてくれる彼女の手紙の中でだけ、仲間とつながることが出来たのです。ところが、何回かやり取りをした後、突然、彼女からの返事が来なくなりました。こちらから手
昨年の4月26日に父が91歳で亡くなりました。高齢で体力が衰弱し、肺炎を患ったものと思われます。以下に、棺に納めた亡き父への手紙の一部を紹介します。 お父さんの還暦の祝いに南柏の「しちりん」で一杯やりましたね。魚介類をしちりんで焼いてビールを飲んだのを覚えています。何を話したかはすっかり忘れてしまいましたが、お父さんのうれしそうな顔がおぼろげながら浮かんできます。 学生時代には、お父さんの勤務先がある有楽町で、ランチバイキングをご馳走してくれましたね。中華だったかな。ごちそうさまでした。 芝浦にいた頃は、よく怒られて押し入れに閉じ込められました。台風が来たら飛ばされそうなトタン屋根の家で暑さ寒さに耐え、10年以上もよく我慢しましたね。風呂場では、ネズミがチョロチョロしていました。大きな台風で屋根が飛ばされた時、水道局の守衛さんが泊まる部屋に避難して、お母さんと一緒に不安な夜を過ごしましたね。私は怖いもの知らずで、ろうそくの灯りと大人たちのいつもとは違う様子にワクワクドキドキしたものでした。 松戸に越してからは、親しかった友達と別れ、環境になじめず、体調不良と精神的な不安定で小学校に行け
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