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「べらぼう」第6回、面白かったですね 地本問屋の鱗形屋のもとで本の制作を続けていくことを決意した蔦重。 鱗形屋が偽版を作っていると証拠を掴んだ蔦重だったが、…
台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからという...
江戸城の平川門から一ツ橋まで散策した時のこと。平川門にかかる平川橋の近くに、太田道灌の追慕の碑があります。太田道灌の没後450年にあたる1936年(昭和11年)に建立されました。この石碑には江戸城の石が使われているそうです。江戸城築城 550年に当たって 左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550...
浄閑寺に残されている様々な史跡を紹介します。若紫(わかむらさき)の墓明治時代に吉原随一と言われた角海老楼の遊女「若紫」こと勝田信子の墓明治26年、客に心中を強いられて死亡。本庄兄弟侠客濡髪長五郎墓江戸時代の浄瑠璃の登場人物。モデルは享保年間(1716~36)の相撲取り。山城国八幡の浪人都 倉与惣兵衛の子。生来相撲を好み、相撲仲間の親仁分だった八幡の荒石斧右衛門の養子となり荒石 長五郎と名乗った。若さゆえの血気...
東京都荒川区南千住の浄閑寺(じょうかんじ)は、吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺としても知られています。投込寺と呼ばれるようになったのは、安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際、この寺に投げ込むように葬られたことによるそうです。また、「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に『~売女』という戒名で文字通り投げ込まれた」という説も。地名の三ノ輪から「三ノ輪の浄閑寺」とも。 投込寺(なげ...
1月4日にアップした大円寺(1)明和の大火と大円寺の続きです。http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-5095.html当寺は、八百屋お七と吉三(西運)ゆかりのお寺でもあります。八百屋お七と吉三(西運) 江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(一六八二)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三は十八才でした。恋こがれたお七...
奥まで進むと、吉原弁財天があります。吉原弁財天の本宮平成24年に改修工事が行われ、壁一面には東京芸術大学の学生による壁画が描かれました。弁天池敷地には、観音像の他、所狭しと石仏やお地蔵様が祀られています。「この廓や月花雪も三菩薩」浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑観世音菩薩像弥勒菩薩遊女の墓阿弥陀如来千手観音にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援...
『歌麿をめぐる五人の女』・五人の女たちの生きざまを描いて・溝口健二監督・1946年度
『歌麿をめぐる五人の女』 大河ドラマ ≪べらぼう≫の影響か、各局で蔦重の出てくるドラマ、映画が競って放映されている。NHKの『眩(くら…
隅田川の堤防である日本堤から、吉原遊廓(新吉原)へ下る坂を「衣紋坂(えもんさか)」といいます。衣紋坂から曲がりくねった「五十間道(ごじゅっけんみち)」が吉原の入口の大門まで続いており、この道の入口にあるの柳は、見返り柳(みかえりやなぎ)と呼ばれています。見返り柳は、遊廓の入り口付近に生えた柳のことで、遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名がついたそ...
新吉原は、江戸時代、浅草の北部(東京都台東区千束四丁目)にあった遊郭で、明暦三年(1657)の大火後、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が移転してできました。蔦屋重三郎はこの地で育ち、新吉原に詳しく、彼の作った吉原細見は、従来のものとは異なり、大変評判になりました。吉原大門跡 吉原大門と耕書堂 吉原大門と耕書堂 明暦三年(1657年)の大火後、日本橋にあった吉原遊郭は幕府の命により浅草千束村(現台東区千束)に移され、「...
*2025年新春に始まるNHK大河ドラマの主人公が歌麿、北斎、写楽を世に送り出した出版プロデューサー蔦屋重三郎と知り、興味がわいた。「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」主役は横浜流星。『蔦重』モノで江戸の雰囲気でも味わいたい、且つ軽く読めるのがいいと選んだのがコレ__吉森大祐著「蔦重」...