メインカテゴリーを選択しなおす
こんなのがあったらしい、江戸の町触をちょっとした洒落で現代のお役所文書風に再現してみました。 洒落とはいっても、おもしろおかしく書いたものではありませんし、…
側衆の子弟や小姓・小納戸など、中奥の昵近衆がその筋の推薦を得て、表の役人に転じることがありました。そういう人を表では「坊さん」といったようです。要するに、世間を知らないお坊ちゃんというわけです。 中奥から出た町奉行といえば、下情に通じた刺
明治元年(1868)、新政府は一六ノ日(※1)を休みとし、同六年には年末年始等の休日を制定しました。また、同九年四月から一六日の休暇を日曜日および土曜日の午後に改めます。では、それ以前、江戸幕府の役人、たとえば町奉行所の組与力同心たちはい
時代劇などで、定(町)廻同心が自身番屋を巡回したり、拠点にしている様子がよく描かれます。では、自身番屋とはどのような場所だったのでしょうか。 江戸には、町奉行と町人たちとのあいだに、惣町を支配する三人の町年寄がいました。それが樽屋、奈良屋
かつてテレビで大ヒットした、必殺シリーズの中村家では主水の出世をめぐって、せんとりつが嫌味をいったり、ぼやいたりする様子がコミカルに描かれ、人気を博していました。しかし、現実の江戸社会ではどうだったのかと疑問を抱いたことのある人も少なくな
一時期、江戸には中町奉行と呼ばれる役人がいました。十七年ほどのあいだ、江戸に町奉行は三人いたのです。 元禄十五年(1702)、丹羽遠江守(長守)が増員となる形で三人目の町奉行になると、番所の位置関係から中町奉行と呼ばれました。ところが、宝
天保三年(1832)五月九日夜、浜町にある松平宮内少輔(忠恵)の屋敷へ盗みに入った鼠小僧治郎吉が捕らえられ、翌十日、北町奉行榊原主計頭(忠之)組同心大八木七兵衛に門前捕りされました。『甲子夜話』に、治郎吉に関する記録が出ています。&nbs
俗に江戸八百八町といいますが、延享年間(1744〜48)に寺社門前地が町奉行支配になると、江戸の町数は千六百余に及びました。江戸惣町の頂点に君臨していたのが三人の町年寄、すなわち本町一丁目の奈良屋(舘)市右衛門、同二丁目の樽藤左衛門(また
嘉永六年六月三日、米東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが軍艦四隻を率い、浦賀沖に現れました。いわゆる黒船来航です。 同じ年の九月に実施された(江戸の町人の)人口調査の結果をご紹介します。 1.町方支配場町人惣人数 492,31
江戸は身分社会でしたから、今日よりもずっと軽い命にも軽重がありました。夫婦間の事件を見ていると、しばしばそれを痛感します。 「名奉行」といわれる根岸肥前守(鎮衛)が寛政十二年(1800)に判決を下した事件(※1)もそんな一つでした。新吉原
(本編はこちら) 1.東條八太夫父子のその後 鈴木藤吉郎と対立し、先手組に左遷された東條八太夫父子はその後どうなったのでしょうか。 万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子はそろって長崎奉行支配調役並を