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現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
今回掲載した作品は、私がクロッキーを始めた 初期の頃に手本としていた 私の先生(師匠?)の 作品模写です。 初めてこの作品を見た時、すごく良い作品だなぁと 思いましたが、その後、これを10分以内で描いていると いうことを知り二重に驚きました。 この内容のクロッキーを10分以内で描くのか!?と。。。 これはさすがに私には無理だなぁと半ば諦めつつも、 繰り返し訓練を続けていくうちに、最…
きれいな形、美しい形は受け手によって、また表現者によって様々です。何が綺麗かを定義することはできません。作り手と受け手とが同じ綺麗さを感じているかを確かめることもできません。表現者は一方的に表現し、それを美しいとして受け取る人が多くいれば美しい絵となりま
いつも絵の協力者のモデルを前に絵を描いていると、モデルが裸であるという意識が後退して、絵作りのためにポーズをとって努力してくれる人としての姿の方に意識が移ってしまいます。モデルが工夫してくれたポーズを作画の素材として無機的なオブジェのように見たり、表情の
~ 職場で 鯖戸 ~ あの…… マグロの相手って…… やっぱり…… 嫌ですか?…… そりゃ…… つまんないし…… 疲れるから……ね………… でも…… 偶にだけど例外も在るし…… 私が惹かれた女性のパーツ - 証券会社で働いて居ます (hatenablog.com) でもさ…… これが私の仕事なんだから…… 仕方無いって…… 割り切るしか無いんだよ………… そりゃ…… 小魚のほーが楽に決まってるけどさ…… TO BE COMUGIKO
~ クラスメイト ~ ピコピコハンマーくらいの雰囲気で……… 表情ひとつ変えずに 片手でヒョイッと持ち上げるもんだから……… 私は少し…… 驚いた………… いや…… けっこう驚いた………… 彼女の腕は 白くて細い…… とてもじゃないけれどそんな力が在るようには見えなかった…… 後から聞いたらヘッドを持ち上げようとしても 絶対上がらないけれど 肘を下げれば片手でも 簡単に上がるのだ と 教えてくれた…………. マネしても私には上げることなど出来なかったけれど………… 彼女がハンマーを振り下ろす そう思った時 まるでザクロのように と言う言葉が浮んだ……… イメージは出来たけれど 実物を見るのは …
モノについての価値と言うものは多様です。何のために必要かによって価値が生まれます。必要のないものにははじめから価値がありません。「気分が楽しくなるから」とか「気持ちが慰められるから」とか「落ち着いた静かさが伝わって来るから」といった気持ちは純粋であるかも
今日は、裸婦 デッサン四切 画用紙 / 鉛筆 日本人離れしたスタイルの良いモデルさんでした。あまりに感心したせいか目がくらんで、バランス崩してしまいました。…
絵画が個人のものではなかった19世紀以前、絵の話題は主に「何を描いているか」でした。絵画力は専門家としての当然の描写力があり、構図においても、色彩においても他者と遜色のないものでした。それを可能にしたのは絵画の技術水準が一般の人が考えるのと画家が提示するも
文章に上手い下手があります。それが日記調のものであれ記録ものであれ小説であれ、井伏鱒二の文章ように虚構でも臨場感があり、瑞々しい文章とする技術があるのでしょう。それがドキュメンタリーになるとたどたどしいい拙文が返って事実としての説得力を持ったりします。絵
人間の活動には行動と思いとがあります。行動は思いを実際の行為に移したものですが、行動に移さない思いもたくさんあります。いやむしろその方が多いでしょう。思いだけで活き活きしたり、悲しんだり、落胆したりと行為として現れなくても、それなりにエネルギーを使った活
今回は抽象画作品と雑誌に色を塗ったもの2点を 掲載しました。 抽象画については、少し前に制作しましたが、 雑誌に色を塗ったものについては、最近になって 着彩しました。 色を塗る楽しみは、日々増しているような気がします。
20世紀に絵画を解体してゆく必要はあったのでしょうか。20世紀初頭は新聞批評がある程度で、社会的なメディアがまだ十分に発達していなくて、メディアの黎明期でした。写真の記録の重要性が認められ、映画がジャーナリズムや娯楽として登場してきます。それでも時代精神の精
二次元の視覚効果を考えるのは20世紀絵画の特徴と言えるでしょう。形態認識の視覚効果を研究するゲシュタルト心理学の実証実験なども20世紀の科学としての心理学の成果なのでしょう。19世紀までの線遠近法の絶対が崩れ、様々な前後関係の視覚心理が空間的なイルージョンを生
長い間西洋美術が絵画で見失っていたものが二次元の視覚効果です。19世紀末に日本の版画美術と出会うことで、失っていたものに気づいたのでしょう。かつてルネッサンス前期までは基本的な要素と考えられていた装飾的な美が忘れられ、描写的な緻密な美に取って代わられました
絵画は二次元の画面に描かれる三次元の仮象表現ですが、二次元の直接的なオブジェとしての強さを利用することもあります。画面を強くするために絵画での二次元の利用は絵画の始まりより常にありました。色面や柄、正方形や円といった幾何形体の二次元での形、紋章や文字とい
今回は、クロッキー作品を3点掲載しました。 できるだけ異なる表現方法の作品を ピックアップして掲載したつもりです。 3点とも所要時間は、5分以内で サイズはA3サイズの紙を使っています。
絵画を非絵画の領域にまで広げることは作品の可能性を無限に広げることになります。それが非絵画であることを認めながら、絵画として扱えば、絵画は元の意味を失います。20世紀美術に起きたことは単純に言えばこのようなことです。絵画をアートとカテゴライズしてアートの
絵画は三次元の世界を二次元に落とし込んだものとの考えからは自ずと絵画の限界が見えてきます。絵画は無限に周辺領域を拡大できるのではありません。美術的な創作の中の極めて限定的な分野が絵画なのです。模様とか、サインとか、二次元上の美術的な表現は多くあり、二次元
グラフィックデザインには絵も文字も図も含まれますし、基底材のテクスチャーや形状もデザインの範囲に含まれます。20世紀に絵画が急速に変貌したのは絵画の周辺を拡大してグラフィックデザインすべてを創作的な平面として絵画と呼んだからです。名称のすり替えです。グラフ
絵画を成立させている基盤は虚構性です。牛が小さな牛型の模様で描かれたり、人がどこかに向かって歩いてるような形の模様であったり、遠くの山や木があるように見えたりするのが虚構性です。実際の実物ではないのになにかに見えるのを仮象性もしくは虚構性と言います。時々
ギリシャ美術が西欧絵画の源泉となっていますが、ギリシャの絵画はアペレスに関するいくつかの逸話が残っている限りで絵画はすべて失われ、実際を知ることはできません。アッティカの壺絵や数少ないモザイクなどの工芸品からうかがえるのは、人物のフォルムの明確さで、彫刻
銀座で永山裕子さんと 広田稔さん・岡田高弘さん・上田耕造さん、アトリエ21三巨頭の作品展が開催中で、11:30~と14:00~の2回クロッキーのデモンストレー…
絵画でムーブマン、動勢をテーマとするとそれは主体的な感情の動きになります。悲しむ人を見るのと悲しみを感じるのとでは客体と主体との違いがあります。力む動作のムーブマンを作り上げればそれは見る人の側に力む感情が湧き上がります。ドラクロワの「ライオン狩り」はそ
絵は視覚で受け止めるのですが、その時純粋に視覚的な経験として記憶から照合するのか、自己の運動感覚として照合するのかで主題が大きく変わります。純粋な視覚には自己は含まれないので他者や自然、環境への視線として記憶されているでしょう。視覚から運動感覚として情報
絵は目で見て鑑賞するものですが、絵は見える以上のものを表現しようとします。光の輝きであるとか、風のそよぎにとどまらず、触れたときの感触や重量感までも表現しようとします。そのため絵は彫刻のテーマを模倣します。彫刻が表現する物体の存在感や重量感運動感などを取
今どきの人には絵は純粋に視覚的な情報として体験されるようです。純粋に視覚的な体験であれば、目を瞑れば見なかったことになりますので見たくないものは見ないで、自分の体験の中には入れないということができます。絵は多様な視覚体験の中に埋没してしまいます。絵も山火
スポーツを鑑賞するときのように、力や技の美しさを称賛し、その技を生み出した肉体への称賛をするといった姿勢が失われると、裸に近い競技者は好色な視線にさらされることになります。前回のオリンピックの女子体操でドイツの選手たちが長いジャージで出場したのはそのよう
休暇が長く取れたので、色々とユウチューブなどを覗いて、ルネッサンス絵画関連の動画を見ていました。裸婦のルーツはジョルジョーネの「横たわるヴィーナス」で、それを発展させたのがティツィアーノの「ビーナス」で、当時としてはエロを求めて注文が殺到したそうな・・・
今回はクロッキー着彩作品を2点掲載しました。 1枚目は、クロッキーに色を塗り始めた初期の頃の作品です。 2枚目は、比較的 最近になって色を塗ったものですが、 少し前に改めて加筆修正しました。 (さらに色を塗りかさねました)
人生をかけて自己の真実を追求するという芸術は信仰に近いものかもしれません。それでも信仰には常に二種の専門家がいます。僧侶のような社会的な職業人と修道士のように信仰のみによって生き、人生を見つめるのも専門家です。両方の立場を共存させる専門家もいるかも知れま
一地方の文化水準はその地域の人々の平均的総意です。一地方で「そっくり」とか「写真みたい」とか言う絵が目標になるとしたら、それは画家個人の責任ではなく、画家は人々の要求に従っただけです。多分多くの人が欧米の観光旅行で美術館などを巡った事があるでしょうが、そ
ギャラリーペロタン東京にてクリスティーナ・バンバン氏の個展「FIGURA」抽象化された女性像を描く。色彩と抽象化された形式の組み合わせに目がひきつけられる。2023年7月5日(水)~2023年8月19日(土)にほんブログ村
絵画の起源を考古学などにたづねると、シンボルとイラストレーションになります。失われた偉人とか愛する人達とか、神が宿ると信じられる動物など意識の対象となるものを示すのがシンボルで、物語や事件、狩りや戦の状況を図で示すのがイラストレーションです。シンボルは対
我々の経験する事柄には瞬間的なものもあり、長い期間、場合によっては一生をかけて経験するような事柄もあります。虚構が必要なのはそれら一つ一つを経験としてまとめることができるからです。デルボーの絵には夜汽車と裸婦と停車場の絵がたくさんあります。「こうもり傘と
今回は、クロッキー着彩作品等を使った コラージュ作品(部分)と古本雑誌に 色を塗ったものを掲載しました。 コラージュ風作品については、以前、 制作途中のまま中断していたものに、 今回いろいろ手を加えて完成させました。
今日は、裸婦デッサン デッサンの日は、最初にモデルさんに4ポーズをしてもらって、その中から多数決で選んだ1ポーズで固定デッサン(四切画用紙 / 鉛筆)します。…
新しいものが現れた時、新しいものがそれ以前のものを全否定しているのか、部分的な否定なのかを問題にしなければなりません。二元論はそのような時に新しいものの意義を唱えてそれ以前のものを全否定してしまう傾向があります。マチスの絵は三次元の対象のデッサンを否定し
「新しい」「古い」とか「本物」「偽物」とか事物を勝手な断面で二分する二元論は物事を分断して、短絡的に結論を導き出し、事物を説明し理解したかのように見せかける手段です。実際は事物の概念は集合体を理解するときのように適合する状態が全体か一部分か内包かイコール
現代に、同時代に制作される作品はどのようなかたちであれ現代なのです。現代性を主張する論には改革をのみ真実とする隠れた主張があります。ローマ時代、多くの彫刻が制作されましたが、それらの大半がギリシャ時代の名作の模刻かアレンジでした。しかしビーナス像の変遷で
現代性と言う時、現代の物質文明を指して現代というのか、現代人の意識を以て現代というのか異なる現代があるようにも思えます。精神は必ずしも完全に物質の制約下にあるのでもありません。ルネッサンスにおいて古代への憧れはなぜ起きたのか、18世紀のシノワズリー、19世紀