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みなさんこんにちは!今年初めのスケッチは、京都市動物園に行きました。スケッチというよりは、写真を撮影したり動物クロッキーを行う取材です。京都に着くと吹雪で⛄辺りは真っ白。視界は遠景が見えないくらい。平安神宮も雪景色。これはまた絵にしたい。白川沿い。もっと
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
今回はクロッキーに色を塗った作品を掲載しました。 自分の中では、クロッキーそのもの(線質)も 色彩表現についても、とても気に入っている作品の一つです。 …
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
今回は、クロッキー作品を掲載しました。 今回掲載した作品は、かなり前に描いた作品ですが、 この頃の私のクロッキーは、さまざまな技法や画材を試しながら 自分なりの表現というものを模索していた時代(時期)だった と思います。
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
クロッキー753 時代の反映美術の楽しみに「時代の反映」があります。ギリシャの彫刻を見てその時代の知的理想と人間性を感じます。またルネッサンスの作品に触れるとその時代の剛毅と豪華さに圧倒されます。19世紀の美術の多様さと個人の趣味の徹底ぶりに感服します。美術作
絵画は遊びの一種です。鳥の鳴き声を真似てみるとか動物の咆哮を真似てみるとかといったトリックの遊びです。二次元がどうのとか半立体がどうのとかいう議論は絵画が体制として成立していることへの反発で、絵画の楽しさ、面白さの問題ではありません。絵画とは2次元画面での
「抽象絵画」というと『絵画』を抽象しているのだと思っていました。「抽象」の意味を対象から本質を抽出して形に表すとして、絵画の本質だけを取り出した「純粋な絵画」の意味だと少年の頃に思っていたのです。そして何年もその動向を観察しても「絵画」は現れてきませんで
古典主義という考え方は古代ギリシャから始まっていますが、その美術的な力は今も生きています。ローマ期におけるギリシャ美術の退廃を指摘して古典主義の終了として一時代の様式のように捉える見方があるかもしれません。西欧の美術の歴史の中でローマがギリシャを手本とし
絵画展で時折、絵画作品以外に画家が使用していたパレットなどが展示されることがあります。遺跡や遺品の価値はそれを遺した文明や故人に思いをはせる人には非常に価値があります。その画業やその人の人生、その時代の象徴としてそのオブジェが存在しているからです。そのオ
今回は抽象画を掲載しました。 制作当初考えていたイメージとは異なる 結果(作品)となりましたが、自分としては いい感じに仕上がってくれたと思っています。
絵画作品は単なる描写ではなくて表現だというので、表現こそ藝術だと叫んだ人がいます。表現と言っても様々です。役者が役を表現するというのと役者が自己を表現するというのでは意味が大部違います。物語のドラマの表現、物語に接した受手の感情の表現、調和や美と思われる
絵画の世界は虚構です。装飾は実質です。絵画の世界はそこにないものを示し、装飾は直接感覚に訴えます。虚構の世界を現実の世界に居場所をつくるのが絵画です。そこで絵画は装飾を装い虚構を滑り込ませます。表面は壁に掛けられた装飾品ですが、そこには別の世界が開けてい
絵画は伝説や神話などの物語を語り伝える手段として発展してきました。誰が、何時、何処で、何をしたのかを伝えようとしたのです。そのために必要な表現方法が工夫され、踏襲され、改革され、発展してきました。はじめは基本関係が図示されただけでしたが、次第に具体的な場
絵は言葉の文化と同じように単語が生まれ、文法が生じ、語法、論法が発展して様々な事情が表現されます。文化は蓄積してゆくものです。そこには歴史があります。15世紀から19世紀にかけてヨーロッパで展開されたものが三次元空間の有り様を二次元の平面画面上に表現すると
まず、裸婦デッサン といっても、暫く裸婦デッサンや屋外スケッチが野暮用やら雨で参加できずネタ切れになってきたので、家で描いた髙塚省吾氏の作品模写です。 B4ス…
今回はクロッキー着彩作品を掲載しました。 この作品は、けっこう前に一度 色を塗りましたが、 最近になって大幅に加筆修正(色の塗り直し) をしたものです。 自分の中では、けっこういい感じに仕上がってくれた と思っています。
お誘いを受けて着衣のデッサン会に初参加。 最初にモデルさんの名前が紹介されると小さなどよめきが。その名前とは、なっ、何と、村田彩さん。 といっても、ほとんどの…
絵画作品を画家の創作行為の痕跡と位置づけて、作品の価値を構図や描写や3次元性から切り離して再定義したのが1940年代、50年代のアメリカ現代美術でした。抽象表現主義と名付けられましたが、絵画の様相を著しく歪めました。絵画という枠組みを解体して、作品は行為の痕跡と
絵画には画家の痕跡があらわれます。絵画に限らず、手仕事には制作者の痕跡があらわれます。しかし、多くの手仕事のもの、家具とか什器とかケーキとか被服といったものは極力痕跡を残さないように作られます。絵画ももともとは痕跡を消すように制作されましたが、それでも筆
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
古くなった絵や、描きかけで断念した画面などを破棄するために裁断していると、美しい断片がしばしば現れます。色の混ざり合いや明暗の配分などが意図したときよりも美しく感じられます。意図的な配置を離れて、無意識の領域には美しさがしばしば現れます。何らかの対象を意
<映画レビュー追加> 今日は裸婦デッサン ブロ智さんからのコメントがきっかけで描き始めた髙塚省吾氏の裸婦模写、原画があまりにも魅力的で、すいすい描けてストレス…
絵画から物語的な要素を取り去り、純粋な造形的な要素だけで感覚を満たすのが絵画の本来の姿だと主張する人たちに反して、絵を鑑賞するには物語が必要となることに最も気づいたのがシュールレアリズムの人たちでしょう。謎の物語を通してその謎の世界に身を置いてみようとす
生まれつき人間に備わっている行動は文化の中にも組み入れられていますが、それだけでは文化ではありません。食事や排泄、睡眠や休息など生まれつきの行動は文化ではありません。しかし、食事の仕方は手で食べる人たち、フォークとナイフの人たち、箸を使う人達、更にディナ
20世紀になって、特別な文化的偏向を避けてユニバーサルな文化の地平を目指そうとする一傾向が現れて、ルネッサンス以来の絵画伝統を一面的と断じました。それによってアカデミズム的な教育は消え、絵画を未文化的な創造の地平へと広げました。素朴派、グラフィックデザイン
原始の洞窟絵画などを見ますと対象のシンボリックなアイコンが文字の様に並べられ、事柄を物語っています。それは児童画などにも共通です。「視覚の描写」という特別な文化を習得しなければ、視覚の役割はアイコンと物語に集中します。視覚が第一に認めるのは大小関係や明暗
今日は裸婦デッサン 多数決で4番のポーズで. 面白かったのは、私を含め真中から右側に陣取った人はほぼ全員2番、左側にいる人はほぼ全員4番に挙手。描く位置でこ…
絵を描くために見るのは対象そのものではなく対象が映り込んでいる画面平面です。カメラではフィルム面すなわち画面平面に映し出される画像を見ているのと同じで、窓ガラスのように平面に想定された画面平面を観察しているのです。視覚を観察していることに無意識にでも気づ
人間とて生物で、生物の視力は対象を認識するために発達したのですから、対象を認識してしまえばそれ以上の視力による認識の必要はない訳です。眼の前に現れた動物や虫が危険なのか役立つのか、植物が食べられるのか食べられないのか。それらを判断する機能として視覚が発達
絵の訓練で必要なのが視覚の観察です。子供の絵やキュビズムはこれを省きましたが、絵画的な描写の基礎になります。視覚の観察などは絵画以外では使いませんので、ある種、特別な感覚であるかもしれません。手前は大きく見えて離れると幾分小さく見えるとか、目の高さに水平
絵を描こうとしてはじめにやることは対象の観察ですね。対象を観察すると言っても対象が何かを観察するのではなく、対象を見ている視覚を観察して絵にします。ここが結構、勘違いをし易いのですが、対象が何かを観察する、例えば本であるとかギターであるとか楽譜であるとか
今回はクロッキーに色を塗ったものを 掲載しました。 かなり前のものですが、自分の中では 気に入っている作品の一つです。 にほんブログ村に参加しています。 …
絵の「良さ」は鑑賞のされ方によって大いに異なります。絵を音楽の様に感覚的な要素を複合的に構成した刺激物として発展させ、その感覚を味わうのを絵画鑑賞だとするものと、精神の真実の象徴として画像を据えその意味する真実を鑑賞するイコンの鑑賞とがあります。美術史の
日本にはゴッホの絵が好きな人が多くいます。ゴッホの「ひまわり」を見て芸術の形を感じ、「星月夜」に感動します。それって日本独特の事があるように思えます。絵はもともと対象を表現する工夫で発展してきました。ゴッホが好んで模写した広重の風景画やミレーの絵にしても
太古の昔、絵が生まれた時に、多分絵にとっていちばん大切な要素が記録されているのではないでしょうか。狩りの図であったり、祈りの図でであったりした、我々人間の姿と行為が描かれています。祈りとしては狩りの獲物のたくましい姿や、多産を祈る女性像であったり、自らの
若い人たちが触れる美術史の問題点は歴史の基本的な概念が問題とされていないことです。若い人たちは産業の近代化のように歴史を弁証法的展開と思い込んでいます。それであれば新しいものを捉えて、そこに反論と可能性を見つければ次の段階に登れると考えるのも無理はありま
今回は抽象画を掲載しました。 「偶然」を上手く拾えたかなと思っています。 にほんブログ村に参加しています。 ランキングにご協力いただけたらうれしいです! …