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画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
絵画は文化の中で多面的な存在です。絵画は美術という芸術分野で代表的な作品群ですし、絵本やお絵かきなど子供の頃から親しんできたエンターテインメントですし、各時代を体験できる歴史史料としても蘊蓄を傾け興味深いものです。「絵が好き」「趣味は絵画鑑賞です」と絵を
人々が怪訝な顔をして作品の前を通り過ぎると、突然、これは素晴らしい、これは斬新だ、アイロニーに満ちてシニカルだと称賛する者が現れます。いち早く作品の意味を理解したのだと宣言します。それに乗り遅れまいと数人が理解を共有します。アートの誕生です。世の中の固定
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
クロッキー753 時代の反映美術の楽しみに「時代の反映」があります。ギリシャの彫刻を見てその時代の知的理想と人間性を感じます。またルネッサンスの作品に触れるとその時代の剛毅と豪華さに圧倒されます。19世紀の美術の多様さと個人の趣味の徹底ぶりに感服します。美術作
絵画は遊びの一種です。鳥の鳴き声を真似てみるとか動物の咆哮を真似てみるとかといったトリックの遊びです。二次元がどうのとか半立体がどうのとかいう議論は絵画が体制として成立していることへの反発で、絵画の楽しさ、面白さの問題ではありません。絵画とは2次元画面での
「抽象絵画」というと『絵画』を抽象しているのだと思っていました。「抽象」の意味を対象から本質を抽出して形に表すとして、絵画の本質だけを取り出した「純粋な絵画」の意味だと少年の頃に思っていたのです。そして何年もその動向を観察しても「絵画」は現れてきませんで
古典主義という考え方は古代ギリシャから始まっていますが、その美術的な力は今も生きています。ローマ期におけるギリシャ美術の退廃を指摘して古典主義の終了として一時代の様式のように捉える見方があるかもしれません。西欧の美術の歴史の中でローマがギリシャを手本とし
絵画展で時折、絵画作品以外に画家が使用していたパレットなどが展示されることがあります。遺跡や遺品の価値はそれを遺した文明や故人に思いをはせる人には非常に価値があります。その画業やその人の人生、その時代の象徴としてそのオブジェが存在しているからです。そのオ
絵画作品は単なる描写ではなくて表現だというので、表現こそ藝術だと叫んだ人がいます。表現と言っても様々です。役者が役を表現するというのと役者が自己を表現するというのでは意味が大部違います。物語のドラマの表現、物語に接した受手の感情の表現、調和や美と思われる
絵画の世界は虚構です。装飾は実質です。絵画の世界はそこにないものを示し、装飾は直接感覚に訴えます。虚構の世界を現実の世界に居場所をつくるのが絵画です。そこで絵画は装飾を装い虚構を滑り込ませます。表面は壁に掛けられた装飾品ですが、そこには別の世界が開けてい
絵画は伝説や神話などの物語を語り伝える手段として発展してきました。誰が、何時、何処で、何をしたのかを伝えようとしたのです。そのために必要な表現方法が工夫され、踏襲され、改革され、発展してきました。はじめは基本関係が図示されただけでしたが、次第に具体的な場
絵は言葉の文化と同じように単語が生まれ、文法が生じ、語法、論法が発展して様々な事情が表現されます。文化は蓄積してゆくものです。そこには歴史があります。15世紀から19世紀にかけてヨーロッパで展開されたものが三次元空間の有り様を二次元の平面画面上に表現すると
絵画作品を画家の創作行為の痕跡と位置づけて、作品の価値を構図や描写や3次元性から切り離して再定義したのが1940年代、50年代のアメリカ現代美術でした。抽象表現主義と名付けられましたが、絵画の様相を著しく歪めました。絵画という枠組みを解体して、作品は行為の痕跡と
絵画には画家の痕跡があらわれます。絵画に限らず、手仕事には制作者の痕跡があらわれます。しかし、多くの手仕事のもの、家具とか什器とかケーキとか被服といったものは極力痕跡を残さないように作られます。絵画ももともとは痕跡を消すように制作されましたが、それでも筆
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
絵画から物語的な要素を取り去り、純粋な造形的な要素だけで感覚を満たすのが絵画の本来の姿だと主張する人たちに反して、絵を鑑賞するには物語が必要となることに最も気づいたのがシュールレアリズムの人たちでしょう。謎の物語を通してその謎の世界に身を置いてみようとす
色彩や描線等による完全に抽象的な作品は現実のオブジェであって絵画の虚構ではありません。現実のものは現実で驚かせなければ観客の注目を集めませんから、巨大化したり、極端に緻密精工であったり、過度に乱暴であったり、最先端の科学を装ったり、ブランドをアピールした
本当のところ、絵画が表現するのはモチーフとなった対象物の再現ではありません。モチーフが何であるのか伝わらなければ画家が描いた世界への物語がわかりませんから、モチーフが何であるのかはわからなければなりません。そこで絵画ではモチーフが何であるのか分からせるた
原始の洞窟絵画などを見ますと対象のシンボリックなアイコンが文字の様に並べられ、事柄を物語っています。それは児童画などにも共通です。「視覚の描写」という特別な文化を習得しなければ、視覚の役割はアイコンと物語に集中します。視覚が第一に認めるのは大小関係や明暗
絵を描くために見るのは対象そのものではなく対象が映り込んでいる画面平面です。カメラではフィルム面すなわち画面平面に映し出される画像を見ているのと同じで、窓ガラスのように平面に想定された画面平面を観察しているのです。視覚を観察していることに無意識にでも気づ
人間とて生物で、生物の視力は対象を認識するために発達したのですから、対象を認識してしまえばそれ以上の視力による認識の必要はない訳です。眼の前に現れた動物や虫が危険なのか役立つのか、植物が食べられるのか食べられないのか。それらを判断する機能として視覚が発達
絵の訓練で必要なのが視覚の観察です。子供の絵やキュビズムはこれを省きましたが、絵画的な描写の基礎になります。視覚の観察などは絵画以外では使いませんので、ある種、特別な感覚であるかもしれません。手前は大きく見えて離れると幾分小さく見えるとか、目の高さに水平
絵を描こうとしてはじめにやることは対象の観察ですね。対象を観察すると言っても対象が何かを観察するのではなく、対象を見ている視覚を観察して絵にします。ここが結構、勘違いをし易いのですが、対象が何かを観察する、例えば本であるとかギターであるとか楽譜であるとか
絵の「良さ」は鑑賞のされ方によって大いに異なります。絵を音楽の様に感覚的な要素を複合的に構成した刺激物として発展させ、その感覚を味わうのを絵画鑑賞だとするものと、精神の真実の象徴として画像を据えその意味する真実を鑑賞するイコンの鑑賞とがあります。美術史の
日本にはゴッホの絵が好きな人が多くいます。ゴッホの「ひまわり」を見て芸術の形を感じ、「星月夜」に感動します。それって日本独特の事があるように思えます。絵はもともと対象を表現する工夫で発展してきました。ゴッホが好んで模写した広重の風景画やミレーの絵にしても
太古の昔、絵が生まれた時に、多分絵にとっていちばん大切な要素が記録されているのではないでしょうか。狩りの図であったり、祈りの図でであったりした、我々人間の姿と行為が描かれています。祈りとしては狩りの獲物のたくましい姿や、多産を祈る女性像であったり、自らの
若い人たちが触れる美術史の問題点は歴史の基本的な概念が問題とされていないことです。若い人たちは産業の近代化のように歴史を弁証法的展開と思い込んでいます。それであれば新しいものを捉えて、そこに反論と可能性を見つければ次の段階に登れると考えるのも無理はありま
世の中には子どものように「絵」が好きな人がいます。絵から発展して漫画やカリカチュアに向かうことも、色彩やデザインの面白さに向けて展開することも出来ますが、それらを「絵」を使ってする人が「絵」の好きな人です。具象が正しいか抽象が正しいかではなく、絵でより具
ポップアート以前のモダンアートは単純な軌道を歩みました。絵画が3次元のイルージョンを中心としているに対して2次元の画面の主張を革新と捉えていました。「絵画から画面へ」、3次元の虚構から2次元の実在へ、すなわち風景や器物のイルージョンを配していた画面から絵の具
絵の好きな人が絵に興味を持ち、絵について考え、様々その魅力ある絵を学ぼうとします。発端は目にした絵が好きなのです。その人の好きな絵はかつて誰かによって描かれた絵画やスケッチなどだったでしょう。その誰かが描いたものを見てオモシロイと思ったのでしょう。絵がオ
絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし