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絵を描く動機には自己表現しようとする方向とひたすら美しいものを作ろうとする方向がある様に思えます。様々のメディアをみると近年は自己表現が大部分を占めるようになっています。ところで、あらゆる人間の行為の根底には自己表現があります。スポーツでも文筆でもファッ
現代の文化の問題点は特別な趣味として在った文化が大衆のものとしての文化に改変される過程で大きく変質していった点です。文化はそれを生きている、実践している人たちの間から生じたものでしたが、実践しないのであれば知る必要もないものでした。絵の場合、自分の趣味で
自然発生的に起こったかのように見せて、流行は作られるものです。必ず何らかのメディアが関係しています。印象派が現れ古典派の因習を払い除け新鮮な光と風とをもたらしました。印象派に見慣れたら、セザンヌやフォービズムが現れます。もう印象派は退屈だとばかりにゴーギ
大衆の面白いところは、知らないことに興味を持つことです。自分にとって大切なものに興味を持つのなら解りますが、知らない話題に夢中にになれます。自我よりも群れの動きや変化に興味があるのです。そこで人々がどの様に感じているのか考えているのかが自分がどの様に感じ
絵画の大衆化で得られたものは統計的真理です。人間の好き嫌いの感情の底辺には世間の動きについて行こううとして新しい情報を得ようとする新しもの好きな意識と社会のなかでの自己の存在を認めてもらおうとする承認欲求の奇抜さが目立ちます。戦後の現代美術を主導してきた
ルネッサンスは絵画を世俗のものとしました。皆が絵画で生活圏を飾ろうとしたのです。目的は部屋を豊かに飾るため。装飾は元々非日常、非現実なのですからファンタジーです。非日常、非現状なのですから現実を否定的に捉え理想なり希望なり夢なりを肯定した時に装飾たり得る
ルネッサンス期の絵画には複製画や工房作と言う模倣画が多くあります。ダ・ヴィンチの「聖母子」は2枚ありますし、クラーナハの「ヴィーナス」は数十枚あります。絵画の複製では便利な木版画やエッチングも多く作られています。絵画を絵画として求めれば複製品でも大いに助け
絵について語ろうとすると結局は自分の好みの表明になります。時代性だの革新だの進歩とか発見だのという気持は全くありません。民芸を見るように、時代に洗われた形態、手にした時の和み、人々の温かみが素直に感じられるかたちが好きなのです。当たり前の構図、使い古され
色々の図や絵の中で「絵画」は特別で、芸術で最も高い精神性、人間の知性を示すものだとの設定は時代とともに壊れています。なぜそこまで高慢になれたのかは時代と文明のメディアとの関係で仕方なかったのでしょう。視覚メディアを絵画が独占していた時代があったのですが、
絵画の歴史から見てみると、記念的絵画の殆どは人物画です。画中の人物は何等かある出来事の場面を演じています。場面には物語があり、勝者や敗者、救済者や病者等が描かれますが、立場の違いは顔の表情によって表されることが多いのです。大画面の絵であっても中央の人物の
色彩や構図などグラフィックな効果をもって純粋な絵画だとするのは一面的に過ぎます。鴨川沿いの京都の旅館に泊まったとき、ふすまに描かれた緩やかな山の影の上に小さく風で流されたような「月」という字が描かれていました。しばらく戸外の景色とふすまとをぼんやりと眺め
クラシック音楽の演奏家の位置を羨ましく思うことがあります。絵画の中では存在しないポジションに思えるからです。一人の演奏家がモーツアルトとシューマンを演奏したり、バッハやラベルを演奏したり、更に本人のオリジナル曲を演奏したり。クラシック音楽が蓄えた音楽の豊
線描きに陰影を入れると突然生暖かい実在感が浮かび上がってきます。線描きは記号のようでいかにも仮象ですが、影は意味ではなく体感として存在を感じさせます。重量と容積を持ったものが存在すると感じさせるのです。陰影は線描とは異次元なのです。線は実在を感じさせるよ
文字が濃淡を織り交ぜた模様である以前に、記号であり、意味であるように、絵画も装飾である以前に意味です。絵画の本質を考える人には絵画作品が提示する意味に作品の本質があるかもしれないと考えるのは当然かもしれません。ここで言う意味とは絵画が描き出しているストー
絵の起源は具象的な模倣から始まりますが、工芸品は絵画とは別の脈絡があり、生活の必要品として生活の用途に応じて基本的な形が生まれました。食器や器、椅子や寝台、カーペットや布地などから始まり、次第に生活に潤いをもたらす装飾性を加えてゆきます。土器に線状の模様
造形作品の構成要素は使用用途とデザインです。食器であればそれぞれの料理の盛皿としての意味合いとカジュアルからフォーマルまでの目的別用途があります。工芸品の場合、意味するものは食器としての在り様であり、家具の場合椅子やテーブル、食器棚とか照明器具とかの目的
絵画と抽象画とは別のものです。絵画を抽象画のように鑑賞することはできます。色とか大胆な構図とか筆さばきの勢いとか抽象画として鑑賞出来るところは様々あるのですが、絵画が具象に見えだすと抽象的な鑑賞は色褪せてしまいます。例えば人の話し声が高く優しく魅力的でも
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
古くなった絵や、描きかけで断念した画面などを破棄するために裁断していると、美しい断片がしばしば現れます。色の混ざり合いや明暗の配分などが意図したときよりも美しく感じられます。意図的な配置を離れて、無意識の領域には美しさがしばしば現れます。何らかの対象を意
絵画が終了した後の美術、とりわけ平面を土台とした創作はどうなっているのだろうかと東京藝術大学の卒業制作展を見に行った。ある者は素材のマチエールで、ある者は色彩のニュアンスで、ある者は行為の痕跡で大胆な創作を試みている。懐かしい記憶の断片の不確定な形や色、
もうすぐ終わるでしょうが、オルセー美術館所蔵印象派展で示された19世紀の美術状況、だれもが絵画を愛している中での印象派の輝きを見ることができました。20世紀に宣伝される「絵画を超えてアートへ」向かうという筋道は20世紀を革命の世紀としようとするプロパガンダに見
現代の用語で「アート」と「絵画」は別次元の用語です。「アート」と「写真」とか、「アート」と「ダンス」とか「アート」と「料理」どこにもアートはあります。こうしたアートは「上級の」とか「洗練された」とか「先駆的」とか「独創的」とかの意味で使われるのでしょう。
下手な絵とは上手くない絵のことです。上手い絵とはだれが見ても判る絵のことです。絵に客観性があるということです。客観性を得るためには上手いと言われる絵に似ている必要があります。似ているか更にそれ以上かなのです。それはだれが描いたかではなく、だれが描いたにし
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。ケネス・クラークの『絵画の見方』を何十年ぶりにか読み直し、ワトーやラファエロの色彩の美しさが言葉になっているのに感動しています。絵は固定して動かないから対話が出来るのだと当たり前のことを
職業画家にとっては絵画は時代のものだとするのは当然のことでしょう。売れなければ生活ができませんから売れるものを描く必要が職業画家には生じます。ルネッサンス期のルーカス・クラナッハの場合、主なテーマとしてきた聖像画が宗教改革の時代に出くわし、注文がなくな
美術の流れは人によって違います。美術史は時代史に即して描写されていますので、時代が美術を作ったかのように考えがちですが、個人の視点からすれば歴史的な時間は個人と関わりなく流れているように思えます。ギリシャ古典美術を後の時代のローマやルネッサンスが超えたか
19世紀の末に、絵画が独占だった視覚メディアに写真や映像などの新たなメディアが加わったことで、不必要な議論が始まりました。その結果絵画の記録性や具象性は確かな証拠を揃えての形で他のメディアの占有事項となりました。絵画の骨格だった具体的な事物の記憶が絵画に不
対象のはっきりしない絵、表情の無い人物、空気の中に溶け込む風景など、対象を曖昧にすることで鑑賞者の積極性を引き出す手法は印象派に依ってはっきりと意識されます。画題に対する解りやすい対象が描かれていないことで、画面全体を注意深く観察し、ヒントを得ようとしま
上手い絵というのは誰が見ても対象がわかる絵のことで、その対象が何であるかだけではなくどのような状態の対象であるのか、どのように感じる対象であるのか一目瞭然といった具象性を備えたものをさします。更にその描線が流麗精緻であって心にスッと入ってくるようなのが最
時代は新しさを求めます。既定値からはみ出したものを新時代の予言、先行作品として評価しようとします。セザンヌの作品が現れたとき、次の時代を目指す人たちはそこから次の時代を読み取ろうとしました。セザンヌの作品の印象からキュビズムやフォービズムが生まれます。セ
絵画は絵に依る装飾です。抽象画も装飾ですが絵を使わない装飾ですから、もともとの装飾です。壁面に色を塗ったり、布を垂らしたり、花を飾ったり、動物の皮を掲げたり、標語を掲げたりどれも装飾です。気分を高揚させ、場の雰囲気を作り出す道具です。抽象を絵画と位置づけ
抽象絵画は具体的な対象を忠実には描かないがゆえに、本物そっくりが絵だという先入観から解放されて、対象性のない絵画を絵画として鑑賞する新しい絵画観へと向かいます。対象の再現性には価値をおかず、もっぱら描かれた色彩や描かれた形態に面白さや美しさを感じ始めたの
デッサンとは何でしょう。線とトーンで表現された三次元の物体であり空間です。抽象絵画では絵の中心のデッサンをあえて使わず「絵画」を表現しましたが、それは絵と同義のデッサンが出てくると「絵画」の解明が必要なくなってしまうからです。抽象絵画は「絵画」を探査する
抽象絵画とは何でしょう。なにが抽象されるのでしょうか。犬が抽象される、山が抽象される、森が抽象される、街が抽象される、女性が抽象される、というのではありません。対象の特徴が抽出されるのは絵では当たり前で元々絵画は具体的な対象から要素を抽出して特徴を捉えて
点は零次元、直線は一次元、曲線は二次元と言われますが、点も線も強弱をくわえると三次元の様相を呈してきます。強い点と弱い点、太い線と細い線、これらは理念としての線や点ではなく三次元の現実世界で造られる線や点ですから様々に強弱が生まれます。絵画の始まりとな
実際の現実世界は厚みや奥行きのある三次元世界です。絵画はその三次元世界を2次元で再現もしくは表現したものです。その手段として用いられたのは輪郭線やシルエットでした。輪郭線やシルエットが何も無い二次元の空間に配されると存在が現れます。それは三次元世界での存在
絵画を鑑賞する楽しさは様々ありますが、スケッチは作者と極めて近いので、絵画の生成に関わる重要箇所を見せている点で特別です。スケッチから得られるのは作者の美の気付きです。ある細部に美が宿しているのを見つけた喜びが伝わってきます。ミケランジェロが筋肉の描写か
完成作ばかりでなく、画家のスケッチを見るのは楽しいものです。画家の観察の機微を感じ、感受性を共有できるという訳です。画家のスケッチと本画で比べて見ても、関心はむしろスケッチに向かいます。たとえば、絵画の下準備としてできる限りの情報を瞬時に押さえるホルバイ
絵画展を開催します10/1~6まで大倉山記念館ギャラリーにて絵画展を開催します。今回は教室の会員作品と並べて、音楽をテーマとした作品を並べようと思っています。場所 横浜市大倉山記念館ギャラリー期間 10/1~6開場時間 11:00~19:00 (最終日は
ここしばらく考えてきたことを要約すると、「公共の場に芸術は必要か」「芸術は教育的か」という設問への答えとなります。芸術はリアルを認める、リアルは猥雑、猥雑は猥褻、猥褻は教育上好ましくない。花々の受粉、鳥や虫への誘惑の仕組み、鳥たちの求愛動作、鮭の遡上と受
絵画の具象的な形は象徴的な図像に比べれば猥雑なものです。それは現実の猥雑さからとられているからです。現実にある、存在する猥雑さを無視して、形式的なレッテルで対象を見るのが象徴的な図像です。現実の対象物は美も醜も、要も不要も、善も悪も渾然と混ざり合い、そ
裸が基本的な人間の姿でなくなったのは急速な都市化によるものではないでしょうか。都市という見ず知らずの他人が接近し寄り集まる社会での倫理的な混乱、無秩序で猥褻な視線、他人と近接する生活状況での警戒、性犯罪、性暴力、プライバシーの侵害、デマの拡散、そしてあら
最近の話題で、全国で公共の場から裸婦像が次々と撤去されているといいます。理由は「時代にそぐわない」。そもそも裸婦像が設置されたのは戦後、平和の象徴として健康な裸婦がシンボリックに解されて増えていったのだといいます。小学生たちは「気持ち悪い」といいます。そ
絵の一部にはのびのびした絵が良いという評価があります。カジュアルな服が楽だというのと同じで、楽であるに違いありません。しかし、常にカジュアルな格好しかしないというのでは生活にメリハリが無くなってしまいます。1日中、一年中、寝間着のような楽な格好でいるのでは
未知の領域が自分たちを支配している。例えば無意識と言う意識や、レアアースという物質や、マイノリティという見えざる存在が世界を支え、ある意味自分たちの生存を支配しているとするある種の知性が20世紀を誕生させました。確かに微少のビタミンや微量の放射線が欠ければ
絵画は広範な文化です。自然や人物を観察して保存したり、物語を人物や場面で語ったり、今起こったことや甞てあったことを記録する等様々ですが、20世紀になって顕著になったのは、自己を表現する、自己の理念を表現する、自己の物質感を表現する、自己の世界観や特異性を表
絵画についての様々な仮説、イズムが実験されるのが20世紀絵画が直面した事態でした。プリミティヴィズム、造形主義、表現主義、構成主義、キュビズム、シュールレアリスム、フォービズムと次々と現れ、絵画を理解しようとする人はそれぞれの主張を丁寧に観察してその論理
どんな絵でも見慣れてくると馴染んでくるものです。ピカソのような絵でも、児童画でも、また印象派でもバロックでさえ見慣れてしまえばその場への愛着が生まれてきます。落書きでも色紙でもその場の雰囲気になくてはならないものになります。視覚は環境に順応しやすいのです
具体的な事物への執着が希薄になると絵画の具象性は失われてゆくでしょう。手仕事で生活する一次産業の従事者が減り、統計だの関数だの変化率だのといったことを監視したり操作したりの産業分野の人口が増えてゆくとその文化圏では抽象的な思考が多くなるでしょう。自分たち
誰もが自分の写真アルバムを持っているでしょう。それを開けて見れば赤ん坊の時の写真や小学校の入学の頃や高校時代の修学旅行や大学のスナップや初めての海外旅行の風景や結婚式の写真、それから子育ての陽気なてんやわんやといったもので埋め尽くされているでしょう。写真
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