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絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
心に浮かんだ形や色を表出するのが抽象ですが、抽象だけでは絵画ではありません。絵画は対象を持ちますが、その対象とは現実の世界に存在するものです。一角獣のように想像の動物が絵には現れますが、角や面は既存の形体から取られ組み合わされたものです。姿は女性で体はラ
絵画にはかたちがあります。絵画は何らかのもののかたちについての絵なのです。ものの仮象性が絵画と他の造形物とを分けています。しかし、その仮象性は表面的な視覚の描写から観念的な形まで含まれます。太陽は円で描かれ、月は三日月、星は五角形で描かれるのは視覚である
遠くの丘が亀の形に見えたり、空の雲がラクダに見えたり、古い木の瘤が人の顔に見えたりするのを仮象性といいます。青い壁が海原に感じたり、青空に感じたりするのも色彩の仮象性です。実在しない対象をその場に表現できるのが仮象性です。絵画の面白さはこの仮象性に基づい
絵画は遊びの一種です。鳥の鳴き声を真似てみるとか動物の咆哮を真似てみるとかといったトリックの遊びです。二次元がどうのとか半立体がどうのとかいう議論は絵画が体制として成立していることへの反発で、絵画の楽しさ、面白さの問題ではありません。絵画とは2次元画面での
絵画の世界は虚構です。装飾は実質です。絵画の世界はそこにないものを示し、装飾は直接感覚に訴えます。虚構の世界を現実の世界に居場所をつくるのが絵画です。そこで絵画は装飾を装い虚構を滑り込ませます。表面は壁に掛けられた装飾品ですが、そこには別の世界が開けてい
本当のところ、絵画が表現するのはモチーフとなった対象物の再現ではありません。モチーフが何であるのか伝わらなければ画家が描いた世界への物語がわかりませんから、モチーフが何であるのかはわからなければなりません。そこで絵画ではモチーフが何であるのか分からせるた
絵を描くために見るのは対象そのものではなく対象が映り込んでいる画面平面です。カメラではフィルム面すなわち画面平面に映し出される画像を見ているのと同じで、窓ガラスのように平面に想定された画面平面を観察しているのです。視覚を観察していることに無意識にでも気づ
人間とて生物で、生物の視力は対象を認識するために発達したのですから、対象を認識してしまえばそれ以上の視力による認識の必要はない訳です。眼の前に現れた動物や虫が危険なのか役立つのか、植物が食べられるのか食べられないのか。それらを判断する機能として視覚が発達
絵の訓練で必要なのが視覚の観察です。子供の絵やキュビズムはこれを省きましたが、絵画的な描写の基礎になります。視覚の観察などは絵画以外では使いませんので、ある種、特別な感覚であるかもしれません。手前は大きく見えて離れると幾分小さく見えるとか、目の高さに水平
太古の昔、絵が生まれた時に、多分絵にとっていちばん大切な要素が記録されているのではないでしょうか。狩りの図であったり、祈りの図でであったりした、我々人間の姿と行為が描かれています。祈りとしては狩りの獲物のたくましい姿や、多産を祈る女性像であったり、自らの
「絵という概念は必要ない、面白ければそれで十分」と若い人が語りました。そこからも現代美術の地平がみえてきます。画面で面白いものを見せるのが興味ある絵だと言うのです。蚤の市で面白いものを探すように、雑多なオブジェから刺激を受けるので良いのではないかと言うの
絵画は「表現」と言われます。かつて絵画が扱う「表現」は対象の表現でしたが、いつの間にか「自己表現」へとすり替えられました。自己の感情や感覚、テイストやユーモア、自分の出自や政治姿勢などを「表現」するメディアとなったのです。「表現」の拡大解釈です。過去の
平面が表現媒体として使われる表現は全て絵画だとするのは誤りです。対象性を失ったペインティングやドローイングは絵画ではありません。絵画でないものを絵画と主張する理由は歴史的に生じた絵画の社会的地位の格別な高位にあります。16世紀から19世紀にかけて宮廷や教会は
絵のテーマは常に「どのように絵にするのか」です。これは描く側の常なるテーマです。絵を作るために、モチーフを選び、物語を探し、場面を設定します。室内であれ、卓上の静物であれ、屋外の風景であれ、良い絵を作るための口実です。木々を描こうが、動物や花々を描こうが
絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
絵画が個人のものではなかった19世紀以前、絵の話題は主に「何を描いているか」でした。絵画力は専門家としての当然の描写力があり、構図においても、色彩においても他者と遜色のないものでした。それを可能にしたのは絵画の技術水準が一般の人が考えるのと画家が提示するも
絵画を作る道具や素材、アクションやストロークを画面づくりの本質と捉えて、それらを表現材料として構成したものを「抽象画」といいます。「絵画」ではありません。平面を創作する工芸の一種です。それが意味を持つとすれば、工芸の分野が広がったということで、テキスタイ
絵画は三次元の世界を二次元に落とし込んだものとの考えからは自ずと絵画の限界が見えてきます。絵画は無限に周辺領域を拡大できるのではありません。美術的な創作の中の極めて限定的な分野が絵画なのです。模様とか、サインとか、二次元上の美術的な表現は多くあり、二次元
グラフィックデザインには絵も文字も図も含まれますし、基底材のテクスチャーや形状もデザインの範囲に含まれます。20世紀に絵画が急速に変貌したのは絵画の周辺を拡大してグラフィックデザインすべてを創作的な平面として絵画と呼んだからです。名称のすり替えです。グラフ
絵画を成立させている基盤は虚構性です。牛が小さな牛型の模様で描かれたり、人がどこかに向かって歩いてるような形の模様であったり、遠くの山や木があるように見えたりするのが虚構性です。実際の実物ではないのになにかに見えるのを仮象性もしくは虚構性と言います。時々
絵画の起源を考古学などにたづねると、シンボルとイラストレーションになります。失われた偉人とか愛する人達とか、神が宿ると信じられる動物など意識の対象となるものを示すのがシンボルで、物語や事件、狩りや戦の状況を図で示すのがイラストレーションです。シンボルは対
我々の経験する事柄には瞬間的なものもあり、長い期間、場合によっては一生をかけて経験するような事柄もあります。虚構が必要なのはそれら一つ一つを経験としてまとめることができるからです。デルボーの絵には夜汽車と裸婦と停車場の絵がたくさんあります。「こうもり傘と
絵画は虚構の世界です。現実を美化したり、現実から逃避したり、見えない存在を白日に晒したり、ことさらに現実を掘り下げたりもやはり非現実の世界です。虚構の世界は物理的な限界を超えて無限の可能性の世界です。現実の世界は確定した世界ですので、何らかの具体的なア
ボリュームは存在です。存在するものは対象化しえるものです。対象化されて観察され、位置や大きさや様態が特定されるものです。絵は観察しうるものを用いて構成されます。そこで絵はボリュームを描くことを第一義とします。ボリュームを端的に作り出す線もしくは色面の輪郭