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ドガの線といい、ロートレクの線といい対象の様子を瞬時に的確に捉えた絵画的に見事な線です。ルネッサンスから積み上げられた教育の成果として、19世紀にはそうしたデッサンの達人が多く現れました。容易には近づけない何しろ達人の技なのです。彼らに影響を与えた歌麿や北
20世紀の「反絵画」の登場は絵画表現の範囲を一気にグラフィックデザイン全般に広げました。「絵画」の冒険がグラフィックデザインの冒険へと一気に拡大したのです。図像と文字の組み合わせ、印刷物や写真や平らな壁紙や木材や布帛素材のコラージュ、更に画面に張り込めるも
マチスやピカソの絵を指して私が「反絵画」というのは対象を表現する線や色を使った絵という考え方と異なるからです。絵画の遠近法や陰影法という伝統的な3次元を再現するテクニックを避けて、対象を表現しようとしました。もともと画面といいうものは平面ですから平面上での
20世紀になると「反絵画」が現れます。先鞭をつけたのはセザンヌやアンリ・ルソーでした。対象を十分に反映していない絵画にモチーフの属性を巧みに描写する対象性絵画とは別の魅力が現れていることをマティスやピカソらは気づき、新しい絵画を模索していた彼らは絵画的には
絵画的に美しい線とカリグラフィの美しい線とは別のものです。だからといって両者が対立しているわけではありません。エゴン・シーレの線もクリムトの線もともに絵画的に美しい線です。エゴン・シーレはゴシック的な線ですし、クリムトは明朝体風の線です。ミケランジェロは
20世紀初頭にピカソやマティスが絵画でやったことは絵画を対象を描くことから開放して、自由に線や色彩を操り、新たな秩序だった画面を作ることでした。それを「現代絵画」と位置づけたことです。すなわち、対象に従属していた線や色彩を対象から切り離し、文字デザインのフ
書道やカリグラフィの美しい線は装飾的美です。装飾には滑らかなものもあれば角張ったもの、勢いで描いたものから幾何学的に精巧に描いたもの、どれも描かれた文字に趣味や品格を添えるデザインです。それらの装飾的線がある一方で絵画的な美しい線もあります。装飾的線が作
バッテリィズが観たくて大須演芸場へ!「大須よしもと漫才ライブ」2025年1月25日
普段、漫才やコントの番組って見ないのですが、去年のM-1を義実家で夫が見ていたのを眺めていたら、めちゃめちゃ面白いコンビが☆初めて見た「バッテリィズ」にくぎ付け☆ 審査員の総評も楽しくて 柴田英嗣(アンタッチャブル):「こんなにクリティカル
『ザ・ナイト・シップ』— ジェシー・バートンが描く時を超えた冒険と葛藤
ジェシー・バートンの『ザ・ナイト・シップ』は、17世紀と20世紀を舞台にした歴史小説。壮大な冒険と人間ドラマが絡み合う感動作で、時代を超えた普遍的テーマが描かれています。
20世紀になって、特別な文化的偏向を避けてユニバーサルな文化の地平を目指そうとする一傾向が現れて、ルネッサンス以来の絵画伝統を一面的と断じました。それによってアカデミズム的な教育は消え、絵画を未文化的な創造の地平へと広げました。素朴派、グラフィックデザイン
原始の洞窟絵画などを見ますと対象のシンボリックなアイコンが文字の様に並べられ、事柄を物語っています。それは児童画などにも共通です。「視覚の描写」という特別な文化を習得しなければ、視覚の役割はアイコンと物語に集中します。視覚が第一に認めるのは大小関係や明暗
~あなたは風のごとく、私はライオンのごとし。 あなたは嵐を巻き起こし、砂塵は私の眼を刺し、大地は渇き切っている。 私はライオンのごとく己の場所に留まるしかない…
世の中には子どものように「絵」が好きな人がいます。絵から発展して漫画やカリカチュアに向かうことも、色彩やデザインの面白さに向けて展開することも出来ますが、それらを「絵」を使ってする人が「絵」の好きな人です。具象が正しいか抽象が正しいかではなく、絵でより具
平面が表現媒体として使われる表現は全て絵画だとするのは誤りです。対象性を失ったペインティングやドローイングは絵画ではありません。絵画でないものを絵画と主張する理由は歴史的に生じた絵画の社会的地位の格別な高位にあります。16世紀から19世紀にかけて宮廷や教会は
ポップアート以前のモダンアートは単純な軌道を歩みました。絵画が3次元のイルージョンを中心としているに対して2次元の画面の主張を革新と捉えていました。「絵画から画面へ」、3次元の虚構から2次元の実在へ、すなわち風景や器物のイルージョンを配していた画面から絵の具
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
新幹線の旅は味気ない、乗る度に毎度毎度思っていたのですが、味のあった時代の面影を感じさせてくれるコーナーに出会ってちょっと癒されました。携帯いじってりゃすぐに着くわい、そんな時代じゃなかったんですよねぇ。時は金なり、とはいうけれど、お金以外のいろいろを得られていたような気がするのは気のせいではないでしょう。
絵画が個人のものではなかった19世紀以前、絵の話題は主に「何を描いているか」でした。絵画力は専門家としての当然の描写力があり、構図においても、色彩においても他者と遜色のないものでした。それを可能にしたのは絵画の技術水準が一般の人が考えるのと画家が提示するも
20世紀に絵画を解体してゆく必要はあったのでしょうか。20世紀初頭は新聞批評がある程度で、社会的なメディアがまだ十分に発達していなくて、メディアの黎明期でした。写真の記録の重要性が認められ、映画がジャーナリズムや娯楽として登場してきます。それでも時代精神の精
二次元の視覚効果を考えるのは20世紀絵画の特徴と言えるでしょう。形態認識の視覚効果を研究するゲシュタルト心理学の実証実験なども20世紀の科学としての心理学の成果なのでしょう。19世紀までの線遠近法の絶対が崩れ、様々な前後関係の視覚心理が空間的なイルージョンを生
1狼の遠吠えが聞こえ、サーナは窓を見た。「近い」おもては夜の闇で暗い。ガラスに近づくと月明かりの雪景色がわずかに見える。しかし動きはない。「だいじょう…
旗や標識、ポスターや看板などのグラフィックデザインは現実の世界での有効性を競い生まれたデザインです。それらは視覚の認識機能と結びついて、実証的に探求された視覚効果です。絵画が三次元の虚構であるとはいえその実態は二次元の画面平面上の表現です。そこで画面も二
今日もオットは休み。もちろんワタシも休み。水曜だからね。昨日プンプンだったワタシは「明日の朝はオマエがコーヒー淹れろよ!梨も剥け!」とわめいてました。ウン...
絵画を非絵画の領域にまで広げることは作品の可能性を無限に広げることになります。それが非絵画であることを認めながら、絵画として扱えば、絵画は元の意味を失います。20世紀美術に起きたことは単純に言えばこのようなことです。絵画をアートとカテゴライズしてアートの
絵画は三次元の世界を二次元に落とし込んだものとの考えからは自ずと絵画の限界が見えてきます。絵画は無限に周辺領域を拡大できるのではありません。美術的な創作の中の極めて限定的な分野が絵画なのです。模様とか、サインとか、二次元上の美術的な表現は多くあり、二次元
今どきの人には絵は純粋に視覚的な情報として体験されるようです。純粋に視覚的な体験であれば、目を瞑れば見なかったことになりますので見たくないものは見ないで、自分の体験の中には入れないということができます。絵は多様な視覚体験の中に埋没してしまいます。絵も山火
私がCDアルバムを買う時はライブを観て良いと思った バンドの物やクラッシックカントリーなどで流れていた物です。 勿論ジャケ買いが私の一丁目一番地ですよ! と言っても調べて大物バンドそしてこれは国や州または そのジャンルの押しを感じた物は買わないようにしています。 好みでなくともテレビやラジオがかけまくる事によって 良いものに聴こえる!なんて事は良くある話ですからね。 嘘も10回言えばなんて言葉もそれに当てはまるものですね。 1998年1999年2000年2001年とこの辺りはコンスタントに 渡米することが出来た時期でその殆どが 私がやっていたバーのお客さんたちとの旅でした。 98年はLAからテ…
「物語についてのエッセイ」の中から、新作【遥か彼方へ】に関連したものを集めました。【遥か彼方へ】のシナリオはこのブログで連載中のほか、HPでも全文公開していま…
新作の設定について少し申し上げると、架空の世界を舞台にしてます。日本ではないどこかの国。時代は20世紀に入ったあたり。しかしそこらはすべて曖昧です。それはあえ…
抽象絵画が既存の具象絵画へのアンチテーゼとして出てきた事情はわかるのですが、進化論の形を取るとまるで具象絵画が発展して抽象へと進化したと勘違いしそうです。抽象絵画は広義のグラフィックデザインであって、グラフィックデザインを内包しない絵画はありません。具象
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
絵画の透視図法的な古典主義は16世紀の近代的な知性の産物です。美術が大衆に向けて開かれる時、すべての人に認められる合理性のことを知性と感じたのでしょう。すべての人が理解できる説明が合理性です。美術の豪奢をその人の人生において経験したことのない人に伝えるのは
絵の原点は一人ひとり異なるでしょうから、描く動機を以て絵画の定義とは言えないでしょう。そもそも、20世紀以降の美術の流れは全体として「表現主義」と言えるものなので、描く動機や、表現しようとする気持ちや環境や動機を作品と結びつけて「鑑賞する価値」として来まし
20世紀は矛盾に誰もが気づかないふりをする不思議な時代でした。バウハウス、シュプレマティズム、ミニマリズム、抽象絵画が根拠とした造形主義は絵画の造形的な価値を追求しようとしたものであったはずが、いつの間にか歴史的な価値に置き換えられてしまいました。20世紀
ステイタス・クオー 『フェイマス・イン・ザ・ラスト・センチュリー(Famous in the Last Century)』
壮大なる20世紀ロック曲のオンパレード盤 ステイタス・クオー(Status Quo)は、イギリスのロック・バンドで、すでに半世紀を超える活動歴を持つ。ブギー・ロックの代名詞的なバンドで、本邦ではなぜだか知名