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絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
二次元の視覚効果を考えるのは20世紀絵画の特徴と言えるでしょう。形態認識の視覚効果を研究するゲシュタルト心理学の実証実験なども20世紀の科学としての心理学の成果なのでしょう。19世紀までの線遠近法の絶対が崩れ、様々な前後関係の視覚心理が空間的なイルージョンを生
絵画を非絵画の領域にまで広げることは作品の可能性を無限に広げることになります。それが非絵画であることを認めながら、絵画として扱えば、絵画は元の意味を失います。20世紀美術に起きたことは単純に言えばこのようなことです。絵画をアートとカテゴライズしてアートの
絵は視覚で受け止めるのですが、その時純粋に視覚的な経験として記憶から照合するのか、自己の運動感覚として照合するのかで主題が大きく変わります。純粋な視覚には自己は含まれないので他者や自然、環境への視線として記憶されているでしょう。視覚から運動感覚として情報
絵は目で見て鑑賞するものですが、絵は見える以上のものを表現しようとします。光の輝きであるとか、風のそよぎにとどまらず、触れたときの感触や重量感までも表現しようとします。そのため絵は彫刻のテーマを模倣します。彫刻が表現する物体の存在感や重量感運動感などを取
今どきの人には絵は純粋に視覚的な情報として体験されるようです。純粋に視覚的な体験であれば、目を瞑れば見なかったことになりますので見たくないものは見ないで、自分の体験の中には入れないということができます。絵は多様な視覚体験の中に埋没してしまいます。絵も山火
絵画の起源を考古学などにたづねると、シンボルとイラストレーションになります。失われた偉人とか愛する人達とか、神が宿ると信じられる動物など意識の対象となるものを示すのがシンボルで、物語や事件、狩りや戦の状況を図で示すのがイラストレーションです。シンボルは対
絵の市場的な価値はオリジナリティーにあります。個性的で、独自のスタイルやテーマを持っている画家の作品が常に絵の価値を決めています。個性の最もよく現れた作品に市場的な価値があります。画集で紹介されるのも主にそうした作品です。しかし、絵を描く者の側からはそれ
ボリュームは存在です。存在するものは対象化しえるものです。対象化されて観察され、位置や大きさや様態が特定されるものです。絵は観察しうるものを用いて構成されます。そこで絵はボリュームを描くことを第一義とします。ボリュームを端的に作り出す線もしくは色面の輪郭
絵は何らかの対象を示したものです。対象を示す方法は形態や様態の特定で、地と図の関係で地と異なる図を示します。図になる条件は形や大きさが限定されることですので、線で囲まれた形態がわかりやすいでしょう。線にはボリュームを形成する力があります。直線はその線の左
絵を成立させるには範囲と形体とを示す必要があります。線や輪郭で囲まれ大きさや範囲が限定されたものが形です。その形が何らかの対象のイメージを形成するときにその対象の絵となります。イメージとは連想や想像を誘うものと言うことで、時代、地域、生活習慣、文化の階層
このブログの作り方は、前日の話題の中から尻取りのようにして次の日の話題を決めて一時考えてみるというものです。今は語り合う仲間もいないものですから、簡単すぎても、そうでもしないと何も考えずに日々が過ぎ去ってしまいます。PCR検査のような自己培養を繰り返している
絵画は自分たちが物理的に存在しているのとは別の空間です。絵の中に描かれた人物はその空間の中では我々と同じ大きさを持った存在として映ります。小さな画面であっても人物の大きさから広い場所にもなります。絵画は積極的に虚構を作り出す手段です。物理的に我々の前に存
イラストレーションは対象を図示したものです。コトバは対象の言語表現ですが、イラストレーションは視覚的な対象表現です。対象を特定し、対象を視覚的に形容します。グラフィックデザインは知覚の機能だけなので、意味や具体的な対象が決められていません。グラフィックデ
絵画をただ見ているだけが好きだ。何年か前に連れていってもらった大塚国際美術館では、あまりの壮大さ、美しさの前に涙したこともあった。すべてレプリカでできているこの美術館では、ホンモノをみるよりも近くでみることができる。すべて贋作であるとわかっていても、何年、何十年、何百年と昔に生きた人が、「確かにそこにいた」という痕跡の一部だからかもしれない。 好きになれない絵画。 絵が好きだといっても、何でもいいわけではない。目が肥えているわけでもないのに、それなりに絵に対して好き嫌いがある。そしてその中で、どうしても好きになれないのがゴッホの絵なのだ。 何故苦手なのかと言われると正確に言語化することはできな…
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を
絵の原点は一人ひとり異なるでしょうから、描く動機を以て絵画の定義とは言えないでしょう。そもそも、20世紀以降の美術の流れは全体として「表現主義」と言えるものなので、描く動機や、表現しようとする気持ちや環境や動機を作品と結びつけて「鑑賞する価値」として来まし
今の時代、活字や絵はあふれているので、それらが初めて人類にもたらされた時の感動を理解するのは難しいかもしれません。幼少期の記憶にもそれらはありふれていてほとんど感動の記憶はないでしょう。稀に特別な図鑑とか絵本とかで絵との出会いを覚えている人がいるかも知れ
絵画はこの国には根付かなかった。素晴らしい名画に触れても、それをほしいとまでは思わなかった。初めから、自分たちとは縁のないものと思いながら展覧会に足を運んでいた。それに反して、写真のような緻密で丹念な写実画には人々が集まり、市場も広がっています。これが我
美術の盛んな時を歴史的に眺めてみますと、画家同士が互いに影響しあい、良いアイディアは盗み合い、互いの才能を認めオマージュとしてもコピーし合いました。アントネル・ダ・メッシーナのナチュラルな絵画がなければそれに続くヴェネティア派の輝きも生まれなかったでしょ
20世紀の絵画鑑賞は展覧会と美術画集です。展覧会で本物に接し、画集で記憶をたどりながら絵画を味わうといったもので、絵の具で直に描かれた絵画を手元において鑑賞する人よりも遥かに多くの鑑賞姿勢です。ペットショップで犬や猫を眺めて飼ったつもりになるのと、拾った猫
20世紀は矛盾に誰もが気づかないふりをする不思議な時代でした。バウハウス、シュプレマティズム、ミニマリズム、抽象絵画が根拠とした造形主義は絵画の造形的な価値を追求しようとしたものであったはずが、いつの間にか歴史的な価値に置き換えられてしまいました。20世紀
美術品とパトロンの関係を歴史を読み解く資料と位置付けると、美術品の造形的価値すなわち普遍的価値から目をそらすようになります。美術作品の鑑賞が歴史学の資料的な関心を生み、更にそのような鑑賞、すなわちこの歴史学的価値を評価する受容者によって歴史観の投影が作品
教会や王侯をパトロンとした絵では描かれる人物は自ら光り輝く存在として描かれます。市民をパトロンとした絵では窓から射し入る光が人々を照らします。作品が受容者によって支えられていると考えると作品の持つ性質と受容者の持つ性質に類似があると考えることができるかも
絵画作品の個体としての価値は古典古代の作品やルネサンスの作品と現代の作品では比べようもないぐらい貧弱になっています。その貧弱な現代の作品を高く評価する理由は文化に時代性をよみとっているからです。時代性を離れて作品を比べたら一目瞭然、ほとんど無価値とも言え
絵画は読み方を知らないと面白さを鑑賞することが難しい分野です。文化には現在何が問題で、それがどのように解決されてゆくかが問題なのですが、絵の解説となると画題の物語の解説や作者の奮闘ぶりなどを伝えるものが中心で、文化を読むという姿勢が希薄です。文化を自然な
美術史における19世紀は絵画を高級な陶磁器のような丁寧な仕上げの美しさやペルシャ絨毯のように緻密で手作業の丹念な描写の積み上げといった工芸品の評価と同じような家具としての見方から、絵画独自の美的価値や視覚体験の伝達の場にしようとしたものです。先鞭をきった印
先日バルベリーニ宮殿で行われている『カラヴァッジョとアルテミシア』展のガイディングをさせて頂きました。 この記事を書いている次の日に展覧会は終わってしまうため…
芸術を定義するのに「自己目的」というのがありますが、これは「芸術のための芸術」という標語が独り歩きしたものです。はじめは社会性や宗教や人生などの有用性から切り離した目的性を言いました。詩人のテオフィール・ゴーチエは「芸術のための芸術」を自己の創作の立場と
裸体画について世間の反応を考えると、黒田清輝の『朝粧』が腰を布で覆って展示された明治時代と現代も大差がありません。今でも覚えているのですが、1981年NHK主催で『アングル展』が西洋美術館で開催されました。主催のNHKの本社入り口に等身大のアングルの『泉』が掲げら
人間は自己を投企する存在だとどこかの哲学者が言っていました。自己は現在あるがままの自己、今まで存在し続けた結果としての自己だけには留まりません。自己を未来に投げ出し、自己を自己として獲得してゆく。そこに事実と真実の違いが見えてきます。そこまで行っても足り
女王の死去に伴う葬儀や居城などの有様を見ていると美術の果たしている役割がよく見えてきます。19世紀美術の大半は新興ブルジョワジーの虚飾だ、キッチュだ、頽廃だと宣伝され、多くは美術の世界から排除されましたが、女王の周辺を見る限りそれらは虚飾ではなく、女王とし
描いた絵が顔に見るか見えないかを問題にすると、上手い下手というのは関係なくなります。囲まれた範囲に同じぐらいの点が2つあればそれだけで顔に見えてしまいます。4つ、5つの点となるとかき消されてしまいますが、2つでは確実に顔に見えます。多分、人間として生まれて
北方ルネッサンスのメムリンクやクラナッハの絵では顔が大きくディフォルメされています。何の不思議もなく、絵は受け入れられます。イタリアルネッサンスでは、特にミケランジェロやティントレットらの絵では顔は極端に小さく描かれていますが、これも問題とはされません。
リアリズムは一つの精神状態です。主観をことさら排除して、普遍妥当性を示そうとします。写真が登場すれば、主観からは距離があるとみなされる機械的過程で生まれる画像をリアルと同等に扱います。写真のメカニズムが捉えるのは対象の物理的な外観です。主観を排して客観に