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子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を
人生を作品と同一視する『no Art,no Life』という美術の捉え方は社会的には素晴らしいと思えますが、それは他人が鑑賞するものではないようにも思えます。一人ひとりの生きている空間が一人ひとりのアートなのですが、それはその人が満足でき、安心できる空間で、生きている
絵画はこの国には根付かなかった。素晴らしい名画に触れても、それをほしいとまでは思わなかった。初めから、自分たちとは縁のないものと思いながら展覧会に足を運んでいた。それに反して、写真のような緻密で丹念な写実画には人々が集まり、市場も広がっています。これが我
どうにも最近の絵を見ていると手作リ、手技を競っているような感じがします。それはそれで良いことなのでしょうが、絵のメッセージとしては窮屈な気がします。伝統工芸展などを見ても凝りに凝り、超絶技巧を極めたような作風が多く見られるのですが、おおらかな佇まいの良い
古本街以外では美術全集という西洋絵画のお手本集のような本が見られなくなりました。普通の街の本屋に行っても昔のように名画を目にすることはなくなりました。現代の絵画の冒険に寄与した画家たちの作品は目にすることがあるのですが、それらは政治的歴史的な意味での名画
描いた絵が顔に見るか見えないかを問題にすると、上手い下手というのは関係なくなります。囲まれた範囲に同じぐらいの点が2つあればそれだけで顔に見えてしまいます。4つ、5つの点となるとかき消されてしまいますが、2つでは確実に顔に見えます。多分、人間として生まれて
北方ルネッサンスのメムリンクやクラナッハの絵では顔が大きくディフォルメされています。何の不思議もなく、絵は受け入れられます。イタリアルネッサンスでは、特にミケランジェロやティントレットらの絵では顔は極端に小さく描かれていますが、これも問題とはされません。