キュビズムが多視点であるとの観察は的を得ているでしょう。デュシャンの『階段を降りる女』は時間差という運動の変化を多視点で描いたキュビズム作品ですが、ブラックやピカソの作品になると多視点の視点がそれぞれ別のスタイルをもった視点となっています。そのスタイルは
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
キュビズムが多視点であるとの観察は的を得ているでしょう。デュシャンの『階段を降りる女』は時間差という運動の変化を多視点で描いたキュビズム作品ですが、ブラックやピカソの作品になると多視点の視点がそれぞれ別のスタイルをもった視点となっています。そのスタイルは
キュビズムは多面的な技法です。ホックニーが試みたのは、その中でも「多視点」というテーマでした。多視点の結果逆パースが生じると仮定したのでしょう。そこで、他視点を実際にやってみた一連の面白い作品があります。ポラロイド写真を使って、側面は側面から撮影し正面は
ホックニーの作品の中には三次元を自在に二次元に落とし込んだ線描きの肖像画が多数ある一方で、現代絵画の解釈とも思える逆パースを画面全体の透視図空間にはめ込んだ絵画があります。線的透視図法が普遍化する以前のゴシック的図像の表現力を現代絵画は再確認しようとして
「イギリスで最も重要で人気ある画家の一人、デイヴィッド・ホックニー氏が11日に死去した。88歳だった」というニュースが今月入ってきました。ファンの多い作家です。「明るく描いた、自分自身であり続けた、独自のアプローチを貫いた」と言う作品の評価が多く見られます。
美の感覚は失われた時につよく感じるのではないでしょうか。若い世代では喪失感は希薄で、幼年期への回帰あるでしょうが、自らがその世代へ戻る夢となって現れたとしても美という感覚ではないのでしょう。若さが輝いて見えるのは老いを感じ始めてからが格別に思えます。若さ
美しさは何処から来るのか考えてみると、すべて生命の輝きを表現している様に思えます。人間の生命には世代交代と不死への不可能な願いが込められています。美しいかたちは精神が覚醒する感覚を示そうとしたものです。はじめの美は死に近いどんよりとした昏睡状態から目覚め
絵を描く動機には自己表現しようとする方向とひたすら美しいものを作ろうとする方向がある様に思えます。様々のメディアをみると近年は自己表現が大部分を占めるようになっています。ところで、あらゆる人間の行為の根底には自己表現があります。スポーツでも文筆でもファッ
現代の文化の問題点は特別な趣味として在った文化が大衆のものとしての文化に改変される過程で大きく変質していった点です。文化はそれを生きている、実践している人たちの間から生じたものでしたが、実践しないのであれば知る必要もないものでした。絵の場合、自分の趣味で
自然発生的に起こったかのように見せて、流行は作られるものです。必ず何らかのメディアが関係しています。印象派が現れ古典派の因習を払い除け新鮮な光と風とをもたらしました。印象派に見慣れたら、セザンヌやフォービズムが現れます。もう印象派は退屈だとばかりにゴーギ
大衆の面白いところは、知らないことに興味を持つことです。自分にとって大切なものに興味を持つのなら解りますが、知らない話題に夢中にになれます。自我よりも群れの動きや変化に興味があるのです。そこで人々がどの様に感じているのか考えているのかが自分がどの様に感じ
絵画の大衆化で得られたものは統計的真理です。人間の好き嫌いの感情の底辺には世間の動きについて行こううとして新しい情報を得ようとする新しもの好きな意識と社会のなかでの自己の存在を認めてもらおうとする承認欲求の奇抜さが目立ちます。戦後の現代美術を主導してきた
ルネッサンスは絵画を世俗のものとしました。皆が絵画で生活圏を飾ろうとしたのです。目的は部屋を豊かに飾るため。装飾は元々非日常、非現実なのですからファンタジーです。非日常、非現状なのですから現実を否定的に捉え理想なり希望なり夢なりを肯定した時に装飾たり得る
ルネッサンス期の絵画には複製画や工房作と言う模倣画が多くあります。ダ・ヴィンチの「聖母子」は2枚ありますし、クラーナハの「ヴィーナス」は数十枚あります。絵画の複製では便利な木版画やエッチングも多く作られています。絵画を絵画として求めれば複製品でも大いに助け
絵について語ろうとすると結局は自分の好みの表明になります。時代性だの革新だの進歩とか発見だのという気持は全くありません。民芸を見るように、時代に洗われた形態、手にした時の和み、人々の温かみが素直に感じられるかたちが好きなのです。当たり前の構図、使い古され
色々の図や絵の中で「絵画」は特別で、芸術で最も高い精神性、人間の知性を示すものだとの設定は時代とともに壊れています。なぜそこまで高慢になれたのかは時代と文明のメディアとの関係で仕方なかったのでしょう。視覚メディアを絵画が独占していた時代があったのですが、
絵画の歴史から見てみると、記念的絵画の殆どは人物画です。画中の人物は何等かある出来事の場面を演じています。場面には物語があり、勝者や敗者、救済者や病者等が描かれますが、立場の違いは顔の表情によって表されることが多いのです。大画面の絵であっても中央の人物の
色彩や構図などグラフィックな効果をもって純粋な絵画だとするのは一面的に過ぎます。鴨川沿いの京都の旅館に泊まったとき、ふすまに描かれた緩やかな山の影の上に小さく風で流されたような「月」という字が描かれていました。しばらく戸外の景色とふすまとをぼんやりと眺め
クラシック音楽の演奏家の位置を羨ましく思うことがあります。絵画の中では存在しないポジションに思えるからです。一人の演奏家がモーツアルトとシューマンを演奏したり、バッハやラベルを演奏したり、更に本人のオリジナル曲を演奏したり。クラシック音楽が蓄えた音楽の豊
線描きに陰影を入れると突然生暖かい実在感が浮かび上がってきます。線描きは記号のようでいかにも仮象ですが、影は意味ではなく体感として存在を感じさせます。重量と容積を持ったものが存在すると感じさせるのです。陰影は線描とは異次元なのです。線は実在を感じさせるよ
文字が濃淡を織り交ぜた模様である以前に、記号であり、意味であるように、絵画も装飾である以前に意味です。絵画の本質を考える人には絵画作品が提示する意味に作品の本質があるかもしれないと考えるのは当然かもしれません。ここで言う意味とは絵画が描き出しているストー
絵の起源は具象的な模倣から始まりますが、工芸品は絵画とは別の脈絡があり、生活の必要品として生活の用途に応じて基本的な形が生まれました。食器や器、椅子や寝台、カーペットや布地などから始まり、次第に生活に潤いをもたらす装飾性を加えてゆきます。土器に線状の模様
造形作品の構成要素は使用用途とデザインです。食器であればそれぞれの料理の盛皿としての意味合いとカジュアルからフォーマルまでの目的別用途があります。工芸品の場合、意味するものは食器としての在り様であり、家具の場合椅子やテーブル、食器棚とか照明器具とかの目的
絵画と抽象画とは別のものです。絵画を抽象画のように鑑賞することはできます。色とか大胆な構図とか筆さばきの勢いとか抽象画として鑑賞出来るところは様々あるのですが、絵画が具象に見えだすと抽象的な鑑賞は色褪せてしまいます。例えば人の話し声が高く優しく魅力的でも
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
古くなった絵や、描きかけで断念した画面などを破棄するために裁断していると、美しい断片がしばしば現れます。色の混ざり合いや明暗の配分などが意図したときよりも美しく感じられます。意図的な配置を離れて、無意識の領域には美しさがしばしば現れます。何らかの対象を意
絵画が終了した後の美術、とりわけ平面を土台とした創作はどうなっているのだろうかと東京藝術大学の卒業制作展を見に行った。ある者は素材のマチエールで、ある者は色彩のニュアンスで、ある者は行為の痕跡で大胆な創作を試みている。懐かしい記憶の断片の不確定な形や色、
もうすぐ終わるでしょうが、オルセー美術館所蔵印象派展で示された19世紀の美術状況、だれもが絵画を愛している中での印象派の輝きを見ることができました。20世紀に宣伝される「絵画を超えてアートへ」向かうという筋道は20世紀を革命の世紀としようとするプロパガンダに見
現代の用語で「アート」と「絵画」は別次元の用語です。「アート」と「写真」とか、「アート」と「ダンス」とか「アート」と「料理」どこにもアートはあります。こうしたアートは「上級の」とか「洗練された」とか「先駆的」とか「独創的」とかの意味で使われるのでしょう。
下手な絵とは上手くない絵のことです。上手い絵とはだれが見ても判る絵のことです。絵に客観性があるということです。客観性を得るためには上手いと言われる絵に似ている必要があります。似ているか更にそれ以上かなのです。それはだれが描いたかではなく、だれが描いたにし
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。ケネス・クラークの『絵画の見方』を何十年ぶりにか読み直し、ワトーやラファエロの色彩の美しさが言葉になっているのに感動しています。絵は固定して動かないから対話が出来るのだと当たり前のことを
職業画家にとっては絵画は時代のものだとするのは当然のことでしょう。売れなければ生活ができませんから売れるものを描く必要が職業画家には生じます。ルネッサンス期のルーカス・クラナッハの場合、主なテーマとしてきた聖像画が宗教改革の時代に出くわし、注文がなくな
美術の流れは人によって違います。美術史は時代史に即して描写されていますので、時代が美術を作ったかのように考えがちですが、個人の視点からすれば歴史的な時間は個人と関わりなく流れているように思えます。ギリシャ古典美術を後の時代のローマやルネッサンスが超えたか
19世紀の末に、絵画が独占だった視覚メディアに写真や映像などの新たなメディアが加わったことで、不必要な議論が始まりました。その結果絵画の記録性や具象性は確かな証拠を揃えての形で他のメディアの占有事項となりました。絵画の骨格だった具体的な事物の記憶が絵画に不
対象のはっきりしない絵、表情の無い人物、空気の中に溶け込む風景など、対象を曖昧にすることで鑑賞者の積極性を引き出す手法は印象派に依ってはっきりと意識されます。画題に対する解りやすい対象が描かれていないことで、画面全体を注意深く観察し、ヒントを得ようとしま
上手い絵というのは誰が見ても対象がわかる絵のことで、その対象が何であるかだけではなくどのような状態の対象であるのか、どのように感じる対象であるのか一目瞭然といった具象性を備えたものをさします。更にその描線が流麗精緻であって心にスッと入ってくるようなのが最
時代は新しさを求めます。既定値からはみ出したものを新時代の予言、先行作品として評価しようとします。セザンヌの作品が現れたとき、次の時代を目指す人たちはそこから次の時代を読み取ろうとしました。セザンヌの作品の印象からキュビズムやフォービズムが生まれます。セ
絵画は絵に依る装飾です。抽象画も装飾ですが絵を使わない装飾ですから、もともとの装飾です。壁面に色を塗ったり、布を垂らしたり、花を飾ったり、動物の皮を掲げたり、標語を掲げたりどれも装飾です。気分を高揚させ、場の雰囲気を作り出す道具です。抽象を絵画と位置づけ
抽象絵画は具体的な対象を忠実には描かないがゆえに、本物そっくりが絵だという先入観から解放されて、対象性のない絵画を絵画として鑑賞する新しい絵画観へと向かいます。対象の再現性には価値をおかず、もっぱら描かれた色彩や描かれた形態に面白さや美しさを感じ始めたの
デッサンとは何でしょう。線とトーンで表現された三次元の物体であり空間です。抽象絵画では絵の中心のデッサンをあえて使わず「絵画」を表現しましたが、それは絵と同義のデッサンが出てくると「絵画」の解明が必要なくなってしまうからです。抽象絵画は「絵画」を探査する
抽象絵画とは何でしょう。なにが抽象されるのでしょうか。犬が抽象される、山が抽象される、森が抽象される、街が抽象される、女性が抽象される、というのではありません。対象の特徴が抽出されるのは絵では当たり前で元々絵画は具体的な対象から要素を抽出して特徴を捉えて
点は零次元、直線は一次元、曲線は二次元と言われますが、点も線も強弱をくわえると三次元の様相を呈してきます。強い点と弱い点、太い線と細い線、これらは理念としての線や点ではなく三次元の現実世界で造られる線や点ですから様々に強弱が生まれます。絵画の始まりとな
実際の現実世界は厚みや奥行きのある三次元世界です。絵画はその三次元世界を2次元で再現もしくは表現したものです。その手段として用いられたのは輪郭線やシルエットでした。輪郭線やシルエットが何も無い二次元の空間に配されると存在が現れます。それは三次元世界での存在
絵画を鑑賞する楽しさは様々ありますが、スケッチは作者と極めて近いので、絵画の生成に関わる重要箇所を見せている点で特別です。スケッチから得られるのは作者の美の気付きです。ある細部に美が宿しているのを見つけた喜びが伝わってきます。ミケランジェロが筋肉の描写か
完成作ばかりでなく、画家のスケッチを見るのは楽しいものです。画家の観察の機微を感じ、感受性を共有できるという訳です。画家のスケッチと本画で比べて見ても、関心はむしろスケッチに向かいます。たとえば、絵画の下準備としてできる限りの情報を瞬時に押さえるホルバイ
絵画展を開催します10/1~6まで大倉山記念館ギャラリーにて絵画展を開催します。今回は教室の会員作品と並べて、音楽をテーマとした作品を並べようと思っています。場所 横浜市大倉山記念館ギャラリー期間 10/1~6開場時間 11:00~19:00 (最終日は
ここしばらく考えてきたことを要約すると、「公共の場に芸術は必要か」「芸術は教育的か」という設問への答えとなります。芸術はリアルを認める、リアルは猥雑、猥雑は猥褻、猥褻は教育上好ましくない。花々の受粉、鳥や虫への誘惑の仕組み、鳥たちの求愛動作、鮭の遡上と受
絵画の具象的な形は象徴的な図像に比べれば猥雑なものです。それは現実の猥雑さからとられているからです。現実にある、存在する猥雑さを無視して、形式的なレッテルで対象を見るのが象徴的な図像です。現実の対象物は美も醜も、要も不要も、善も悪も渾然と混ざり合い、そ
裸が基本的な人間の姿でなくなったのは急速な都市化によるものではないでしょうか。都市という見ず知らずの他人が接近し寄り集まる社会での倫理的な混乱、無秩序で猥褻な視線、他人と近接する生活状況での警戒、性犯罪、性暴力、プライバシーの侵害、デマの拡散、そしてあら
最近の話題で、全国で公共の場から裸婦像が次々と撤去されているといいます。理由は「時代にそぐわない」。そもそも裸婦像が設置されたのは戦後、平和の象徴として健康な裸婦がシンボリックに解されて増えていったのだといいます。小学生たちは「気持ち悪い」といいます。そ
絵の一部にはのびのびした絵が良いという評価があります。カジュアルな服が楽だというのと同じで、楽であるに違いありません。しかし、常にカジュアルな格好しかしないというのでは生活にメリハリが無くなってしまいます。1日中、一年中、寝間着のような楽な格好でいるのでは
未知の領域が自分たちを支配している。例えば無意識と言う意識や、レアアースという物質や、マイノリティという見えざる存在が世界を支え、ある意味自分たちの生存を支配しているとするある種の知性が20世紀を誕生させました。確かに微少のビタミンや微量の放射線が欠ければ
絵画は広範な文化です。自然や人物を観察して保存したり、物語を人物や場面で語ったり、今起こったことや甞てあったことを記録する等様々ですが、20世紀になって顕著になったのは、自己を表現する、自己の理念を表現する、自己の物質感を表現する、自己の世界観や特異性を表
絵画についての様々な仮説、イズムが実験されるのが20世紀絵画が直面した事態でした。プリミティヴィズム、造形主義、表現主義、構成主義、キュビズム、シュールレアリスム、フォービズムと次々と現れ、絵画を理解しようとする人はそれぞれの主張を丁寧に観察してその論理
どんな絵でも見慣れてくると馴染んでくるものです。ピカソのような絵でも、児童画でも、また印象派でもバロックでさえ見慣れてしまえばその場への愛着が生まれてきます。落書きでも色紙でもその場の雰囲気になくてはならないものになります。視覚は環境に順応しやすいのです
文字で説明しなくても落書きやサインでも伝えたいこと言いたいことの幾分かは伝わります。絵は言語に代わるコミュニケーション手段です。文字にかわるというより、文字以前により直接的に、瞬時に、感覚的に伝える手段です。また伝える人の人柄も同時に伝わってきます。異な
具体的な事物への執着が希薄になると絵画の具象性は失われてゆくでしょう。手仕事で生活する一次産業の従事者が減り、統計だの関数だの変化率だのといったことを監視したり操作したりの産業分野の人口が増えてゆくとその文化圏では抽象的な思考が多くなるでしょう。自分たち
誰もが自分の写真アルバムを持っているでしょう。それを開けて見れば赤ん坊の時の写真や小学校の入学の頃や高校時代の修学旅行や大学のスナップや初めての海外旅行の風景や結婚式の写真、それから子育ての陽気なてんやわんやといったもので埋め尽くされているでしょう。写真
絵には対象を描こうとする作者の対象への執着があるので自己の理念に執着する抽象表現とはまったく別の次元にあります。自己表現よりも、対象の再現を願って一本の線が引かれるのです。芸術は自己表現だというのは結果を見ての判断でしょう。対象を描いていても結局は個人が
絵画に進歩という思想は当てはまるのでしょうか。ギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンス、17世紀とそれぞれに美の典型が現れますが、前の時代を乗り越えたとか進歩したとか言えるのでしょうか。どの時代にも魅力的な名作があり、他の時代には容易に生み出すことができません
ドガの線といい、ロートレクの線といい対象の様子を瞬時に的確に捉えた絵画的に見事な線です。ルネッサンスから積み上げられた教育の成果として、19世紀にはそうしたデッサンの達人が多く現れました。容易には近づけない何しろ達人の技なのです。彼らに影響を与えた歌麿や北
20世紀の「反絵画」の登場は絵画表現の範囲を一気にグラフィックデザイン全般に広げました。「絵画」の冒険がグラフィックデザインの冒険へと一気に拡大したのです。図像と文字の組み合わせ、印刷物や写真や平らな壁紙や木材や布帛素材のコラージュ、更に画面に張り込めるも
マチスやピカソの絵を指して私が「反絵画」というのは対象を表現する線や色を使った絵という考え方と異なるからです。絵画の遠近法や陰影法という伝統的な3次元を再現するテクニックを避けて、対象を表現しようとしました。もともと画面といいうものは平面ですから平面上での
20世紀になると「反絵画」が現れます。先鞭をつけたのはセザンヌやアンリ・ルソーでした。対象を十分に反映していない絵画にモチーフの属性を巧みに描写する対象性絵画とは別の魅力が現れていることをマティスやピカソらは気づき、新しい絵画を模索していた彼らは絵画的には
絵画的に美しい線とカリグラフィの美しい線とは別のものです。だからといって両者が対立しているわけではありません。エゴン・シーレの線もクリムトの線もともに絵画的に美しい線です。エゴン・シーレはゴシック的な線ですし、クリムトは明朝体風の線です。ミケランジェロは
20世紀初頭にピカソやマティスが絵画でやったことは絵画を対象を描くことから開放して、自由に線や色彩を操り、新たな秩序だった画面を作ることでした。それを「現代絵画」と位置づけたことです。すなわち、対象に従属していた線や色彩を対象から切り離し、文字デザインのフ
書道やカリグラフィの美しい線は装飾的美です。装飾には滑らかなものもあれば角張ったもの、勢いで描いたものから幾何学的に精巧に描いたもの、どれも描かれた文字に趣味や品格を添えるデザインです。それらの装飾的線がある一方で絵画的な美しい線もあります。装飾的線が作
上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
4/1~6 恵比寿駅アトレの 有隣堂(本館5F書店入口)カモコラージュさんとのコラボで展示即売会をします。小さな日常をテーマにした小さな油絵です。お近くにいらした方は寄って観てください。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラ
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
絵画は文化の中で多面的な存在です。絵画は美術という芸術分野で代表的な作品群ですし、絵本やお絵かきなど子供の頃から親しんできたエンターテインメントですし、各時代を体験できる歴史史料としても蘊蓄を傾け興味深いものです。「絵が好き」「趣味は絵画鑑賞です」と絵を
人々が怪訝な顔をして作品の前を通り過ぎると、突然、これは素晴らしい、これは斬新だ、アイロニーに満ちてシニカルだと称賛する者が現れます。いち早く作品の意味を理解したのだと宣言します。それに乗り遅れまいと数人が理解を共有します。アートの誕生です。世の中の固定
心に浮かんだ形や色を表出するのが抽象ですが、抽象だけでは絵画ではありません。絵画は対象を持ちますが、その対象とは現実の世界に存在するものです。一角獣のように想像の動物が絵には現れますが、角や面は既存の形体から取られ組み合わされたものです。姿は女性で体はラ
絵画にはかたちがあります。絵画は何らかのもののかたちについての絵なのです。ものの仮象性が絵画と他の造形物とを分けています。しかし、その仮象性は表面的な視覚の描写から観念的な形まで含まれます。太陽は円で描かれ、月は三日月、星は五角形で描かれるのは視覚である
遠くの丘が亀の形に見えたり、空の雲がラクダに見えたり、古い木の瘤が人の顔に見えたりするのを仮象性といいます。青い壁が海原に感じたり、青空に感じたりするのも色彩の仮象性です。実在しない対象をその場に表現できるのが仮象性です。絵画の面白さはこの仮象性に基づい
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
クロッキー753 時代の反映美術の楽しみに「時代の反映」があります。ギリシャの彫刻を見てその時代の知的理想と人間性を感じます。またルネッサンスの作品に触れるとその時代の剛毅と豪華さに圧倒されます。19世紀の美術の多様さと個人の趣味の徹底ぶりに感服します。美術作
絵画は遊びの一種です。鳥の鳴き声を真似てみるとか動物の咆哮を真似てみるとかといったトリックの遊びです。二次元がどうのとか半立体がどうのとかいう議論は絵画が体制として成立していることへの反発で、絵画の楽しさ、面白さの問題ではありません。絵画とは2次元画面での
「抽象絵画」というと『絵画』を抽象しているのだと思っていました。「抽象」の意味を対象から本質を抽出して形に表すとして、絵画の本質だけを取り出した「純粋な絵画」の意味だと少年の頃に思っていたのです。そして何年もその動向を観察しても「絵画」は現れてきませんで
古典主義という考え方は古代ギリシャから始まっていますが、その美術的な力は今も生きています。ローマ期におけるギリシャ美術の退廃を指摘して古典主義の終了として一時代の様式のように捉える見方があるかもしれません。西欧の美術の歴史の中でローマがギリシャを手本とし
絵画展で時折、絵画作品以外に画家が使用していたパレットなどが展示されることがあります。遺跡や遺品の価値はそれを遺した文明や故人に思いをはせる人には非常に価値があります。その画業やその人の人生、その時代の象徴としてそのオブジェが存在しているからです。そのオ
絵画作品は単なる描写ではなくて表現だというので、表現こそ藝術だと叫んだ人がいます。表現と言っても様々です。役者が役を表現するというのと役者が自己を表現するというのでは意味が大部違います。物語のドラマの表現、物語に接した受手の感情の表現、調和や美と思われる
絵画の世界は虚構です。装飾は実質です。絵画の世界はそこにないものを示し、装飾は直接感覚に訴えます。虚構の世界を現実の世界に居場所をつくるのが絵画です。そこで絵画は装飾を装い虚構を滑り込ませます。表面は壁に掛けられた装飾品ですが、そこには別の世界が開けてい
絵画は伝説や神話などの物語を語り伝える手段として発展してきました。誰が、何時、何処で、何をしたのかを伝えようとしたのです。そのために必要な表現方法が工夫され、踏襲され、改革され、発展してきました。はじめは基本関係が図示されただけでしたが、次第に具体的な場
絵は言葉の文化と同じように単語が生まれ、文法が生じ、語法、論法が発展して様々な事情が表現されます。文化は蓄積してゆくものです。そこには歴史があります。15世紀から19世紀にかけてヨーロッパで展開されたものが三次元空間の有り様を二次元の平面画面上に表現すると
絵画作品を画家の創作行為の痕跡と位置づけて、作品の価値を構図や描写や3次元性から切り離して再定義したのが1940年代、50年代のアメリカ現代美術でした。抽象表現主義と名付けられましたが、絵画の様相を著しく歪めました。絵画という枠組みを解体して、作品は行為の痕跡と
絵画には画家の痕跡があらわれます。絵画に限らず、手仕事には制作者の痕跡があらわれます。しかし、多くの手仕事のもの、家具とか什器とかケーキとか被服といったものは極力痕跡を残さないように作られます。絵画ももともとは痕跡を消すように制作されましたが、それでも筆
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
古くなった絵や、描きかけで断念した画面などを破棄するために裁断していると、美しい断片がしばしば現れます。色の混ざり合いや明暗の配分などが意図したときよりも美しく感じられます。意図的な配置を離れて、無意識の領域には美しさがしばしば現れます。何らかの対象を意
絵画から物語的な要素を取り去り、純粋な造形的な要素だけで感覚を満たすのが絵画の本来の姿だと主張する人たちに反して、絵を鑑賞するには物語が必要となることに最も気づいたのがシュールレアリズムの人たちでしょう。謎の物語を通してその謎の世界に身を置いてみようとす
キュビズムが多視点であるとの観察は的を得ているでしょう。デュシャンの『階段を降りる女』は時間差という運動の変化を多視点で描いたキュビズム作品ですが、ブラックやピカソの作品になると多視点の視点がそれぞれ別のスタイルをもった視点となっています。そのスタイルは
キュビズムは多面的な技法です。ホックニーが試みたのは、その中でも「多視点」というテーマでした。多視点の結果逆パースが生じると仮定したのでしょう。そこで、他視点を実際にやってみた一連の面白い作品があります。ポラロイド写真を使って、側面は側面から撮影し正面は
ホックニーの作品の中には三次元を自在に二次元に落とし込んだ線描きの肖像画が多数ある一方で、現代絵画の解釈とも思える逆パースを画面全体の透視図空間にはめ込んだ絵画があります。線的透視図法が普遍化する以前のゴシック的図像の表現力を現代絵画は再確認しようとして
「イギリスで最も重要で人気ある画家の一人、デイヴィッド・ホックニー氏が11日に死去した。88歳だった」というニュースが今月入ってきました。ファンの多い作家です。「明るく描いた、自分自身であり続けた、独自のアプローチを貫いた」と言う作品の評価が多く見られます。
美の感覚は失われた時につよく感じるのではないでしょうか。若い世代では喪失感は希薄で、幼年期への回帰あるでしょうが、自らがその世代へ戻る夢となって現れたとしても美という感覚ではないのでしょう。若さが輝いて見えるのは老いを感じ始めてからが格別に思えます。若さ
美しさは何処から来るのか考えてみると、すべて生命の輝きを表現している様に思えます。人間の生命には世代交代と不死への不可能な願いが込められています。美しいかたちは精神が覚醒する感覚を示そうとしたものです。はじめの美は死に近いどんよりとした昏睡状態から目覚め
絵を描く動機には自己表現しようとする方向とひたすら美しいものを作ろうとする方向がある様に思えます。様々のメディアをみると近年は自己表現が大部分を占めるようになっています。ところで、あらゆる人間の行為の根底には自己表現があります。スポーツでも文筆でもファッ
現代の文化の問題点は特別な趣味として在った文化が大衆のものとしての文化に改変される過程で大きく変質していった点です。文化はそれを生きている、実践している人たちの間から生じたものでしたが、実践しないのであれば知る必要もないものでした。絵の場合、自分の趣味で
自然発生的に起こったかのように見せて、流行は作られるものです。必ず何らかのメディアが関係しています。印象派が現れ古典派の因習を払い除け新鮮な光と風とをもたらしました。印象派に見慣れたら、セザンヌやフォービズムが現れます。もう印象派は退屈だとばかりにゴーギ
大衆の面白いところは、知らないことに興味を持つことです。自分にとって大切なものに興味を持つのなら解りますが、知らない話題に夢中にになれます。自我よりも群れの動きや変化に興味があるのです。そこで人々がどの様に感じているのか考えているのかが自分がどの様に感じ
絵画の大衆化で得られたものは統計的真理です。人間の好き嫌いの感情の底辺には世間の動きについて行こううとして新しい情報を得ようとする新しもの好きな意識と社会のなかでの自己の存在を認めてもらおうとする承認欲求の奇抜さが目立ちます。戦後の現代美術を主導してきた
ルネッサンスは絵画を世俗のものとしました。皆が絵画で生活圏を飾ろうとしたのです。目的は部屋を豊かに飾るため。装飾は元々非日常、非現実なのですからファンタジーです。非日常、非現状なのですから現実を否定的に捉え理想なり希望なり夢なりを肯定した時に装飾たり得る
ルネッサンス期の絵画には複製画や工房作と言う模倣画が多くあります。ダ・ヴィンチの「聖母子」は2枚ありますし、クラーナハの「ヴィーナス」は数十枚あります。絵画の複製では便利な木版画やエッチングも多く作られています。絵画を絵画として求めれば複製品でも大いに助け
絵について語ろうとすると結局は自分の好みの表明になります。時代性だの革新だの進歩とか発見だのという気持は全くありません。民芸を見るように、時代に洗われた形態、手にした時の和み、人々の温かみが素直に感じられるかたちが好きなのです。当たり前の構図、使い古され
色々の図や絵の中で「絵画」は特別で、芸術で最も高い精神性、人間の知性を示すものだとの設定は時代とともに壊れています。なぜそこまで高慢になれたのかは時代と文明のメディアとの関係で仕方なかったのでしょう。視覚メディアを絵画が独占していた時代があったのですが、
絵画の歴史から見てみると、記念的絵画の殆どは人物画です。画中の人物は何等かある出来事の場面を演じています。場面には物語があり、勝者や敗者、救済者や病者等が描かれますが、立場の違いは顔の表情によって表されることが多いのです。大画面の絵であっても中央の人物の
色彩や構図などグラフィックな効果をもって純粋な絵画だとするのは一面的に過ぎます。鴨川沿いの京都の旅館に泊まったとき、ふすまに描かれた緩やかな山の影の上に小さく風で流されたような「月」という字が描かれていました。しばらく戸外の景色とふすまとをぼんやりと眺め
クラシック音楽の演奏家の位置を羨ましく思うことがあります。絵画の中では存在しないポジションに思えるからです。一人の演奏家がモーツアルトとシューマンを演奏したり、バッハやラベルを演奏したり、更に本人のオリジナル曲を演奏したり。クラシック音楽が蓄えた音楽の豊
線描きに陰影を入れると突然生暖かい実在感が浮かび上がってきます。線描きは記号のようでいかにも仮象ですが、影は意味ではなく体感として存在を感じさせます。重量と容積を持ったものが存在すると感じさせるのです。陰影は線描とは異次元なのです。線は実在を感じさせるよ
文字が濃淡を織り交ぜた模様である以前に、記号であり、意味であるように、絵画も装飾である以前に意味です。絵画の本質を考える人には絵画作品が提示する意味に作品の本質があるかもしれないと考えるのは当然かもしれません。ここで言う意味とは絵画が描き出しているストー
文字で説明しなくても落書きやサインでも伝えたいこと言いたいことの幾分かは伝わります。絵は言語に代わるコミュニケーション手段です。文字にかわるというより、文字以前により直接的に、瞬時に、感覚的に伝える手段です。また伝える人の人柄も同時に伝わってきます。異な
具体的な事物への執着が希薄になると絵画の具象性は失われてゆくでしょう。手仕事で生活する一次産業の従事者が減り、統計だの関数だの変化率だのといったことを監視したり操作したりの産業分野の人口が増えてゆくとその文化圏では抽象的な思考が多くなるでしょう。自分たち
誰もが自分の写真アルバムを持っているでしょう。それを開けて見れば赤ん坊の時の写真や小学校の入学の頃や高校時代の修学旅行や大学のスナップや初めての海外旅行の風景や結婚式の写真、それから子育ての陽気なてんやわんやといったもので埋め尽くされているでしょう。写真
絵には対象を描こうとする作者の対象への執着があるので自己の理念に執着する抽象表現とはまったく別の次元にあります。自己表現よりも、対象の再現を願って一本の線が引かれるのです。芸術は自己表現だというのは結果を見ての判断でしょう。対象を描いていても結局は個人が
絵画に進歩という思想は当てはまるのでしょうか。ギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンス、17世紀とそれぞれに美の典型が現れますが、前の時代を乗り越えたとか進歩したとか言えるのでしょうか。どの時代にも魅力的な名作があり、他の時代には容易に生み出すことができません
ドガの線といい、ロートレクの線といい対象の様子を瞬時に的確に捉えた絵画的に見事な線です。ルネッサンスから積み上げられた教育の成果として、19世紀にはそうしたデッサンの達人が多く現れました。容易には近づけない何しろ達人の技なのです。彼らに影響を与えた歌麿や北
20世紀の「反絵画」の登場は絵画表現の範囲を一気にグラフィックデザイン全般に広げました。「絵画」の冒険がグラフィックデザインの冒険へと一気に拡大したのです。図像と文字の組み合わせ、印刷物や写真や平らな壁紙や木材や布帛素材のコラージュ、更に画面に張り込めるも
マチスやピカソの絵を指して私が「反絵画」というのは対象を表現する線や色を使った絵という考え方と異なるからです。絵画の遠近法や陰影法という伝統的な3次元を再現するテクニックを避けて、対象を表現しようとしました。もともと画面といいうものは平面ですから平面上での
20世紀になると「反絵画」が現れます。先鞭をつけたのはセザンヌやアンリ・ルソーでした。対象を十分に反映していない絵画にモチーフの属性を巧みに描写する対象性絵画とは別の魅力が現れていることをマティスやピカソらは気づき、新しい絵画を模索していた彼らは絵画的には
絵画的に美しい線とカリグラフィの美しい線とは別のものです。だからといって両者が対立しているわけではありません。エゴン・シーレの線もクリムトの線もともに絵画的に美しい線です。エゴン・シーレはゴシック的な線ですし、クリムトは明朝体風の線です。ミケランジェロは
20世紀初頭にピカソやマティスが絵画でやったことは絵画を対象を描くことから開放して、自由に線や色彩を操り、新たな秩序だった画面を作ることでした。それを「現代絵画」と位置づけたことです。すなわち、対象に従属していた線や色彩を対象から切り離し、文字デザインのフ
書道やカリグラフィの美しい線は装飾的美です。装飾には滑らかなものもあれば角張ったもの、勢いで描いたものから幾何学的に精巧に描いたもの、どれも描かれた文字に趣味や品格を添えるデザインです。それらの装飾的線がある一方で絵画的な美しい線もあります。装飾的線が作
上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
4/1~6 恵比寿駅アトレの 有隣堂(本館5F書店入口)カモコラージュさんとのコラボで展示即売会をします。小さな日常をテーマにした小さな油絵です。お近くにいらした方は寄って観てください。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラ
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ