すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
きれいな形、美しい形は受け手によって、また表現者によって様々です。何が綺麗かを定義することはできません。作り手と受け手とが同じ綺麗さを感じているかを確かめることもできません。表現者は一方的に表現し、それを美しいとして受け取る人が多くいれば美しい絵となりま
いつも絵の協力者のモデルを前に絵を描いていると、モデルが裸であるという意識が後退して、絵作りのためにポーズをとって努力してくれる人としての姿の方に意識が移ってしまいます。モデルが工夫してくれたポーズを作画の素材として無機的なオブジェのように見たり、表情の
12月ももう十日を過ぎ、年の瀬が迫ってきましたね。秋も見納めです。暮れゆく秋、暮色。今年はたくさんの喪中はがきが来ました。一つの時代が去ってゆくような気がしています。追憶の秋です。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラン
12月に入っても暖かい日が続きますね。低い日差しから明暗のはっきりした景色が広がっています。見慣れた場所も秋になると印象深い景色へと変わって見えます。いつもの新宿御苑です。人物では出番が少ない色が自由に使える秋景色は描いていて楽しいですね。by カネダオサム
秋の日差しは強烈です。地平線近くから強く、強く射し込みます。夏の影の濃い景色から一変して、幹に強烈に射し込みます。強い秋の日差しを受けて、枯れ葉を踏みながら散歩する、季節の変化を五感で確かめながら。刻一刻と変化する日差しを捉えるにはパステルが一番です。枯
秋の景色は素晴らしい。あたり一面が黄金色に輝き、大気を満ち足りた気分に染め上げます。いつもは人物ばかりを描いていても、秋になると戸外を描きたくなります。スケッチブック一冊を持って飛び出すといたるところで実りの秋に出会います。作品をつくるというよりも、秋に
季節が変わり、陽が傾いてくるとあたりが黄金色に輝きます。温かい冬の日は野外スケッチが気持ちが良いです。黄色い輝きの時間がゆっくりと過ぎてゆきます。このブログ、いつもは思考の備忘録として、簡単なメモとして記しているのです。スケッチ日記のスケッチとは思考のス
モノについての価値と言うものは多様です。何のために必要かによって価値が生まれます。必要のないものにははじめから価値がありません。「気分が楽しくなるから」とか「気持ちが慰められるから」とか「落ち着いた静かさが伝わって来るから」といった気持ちは純粋であるかも
絵画が個人のものではなかった19世紀以前、絵の話題は主に「何を描いているか」でした。絵画力は専門家としての当然の描写力があり、構図においても、色彩においても他者と遜色のないものでした。それを可能にしたのは絵画の技術水準が一般の人が考えるのと画家が提示するも
文章に上手い下手があります。それが日記調のものであれ記録ものであれ小説であれ、井伏鱒二の文章ように虚構でも臨場感があり、瑞々しい文章とする技術があるのでしょう。それがドキュメンタリーになるとたどたどしいい拙文が返って事実としての説得力を持ったりします。絵
人間の活動には行動と思いとがあります。行動は思いを実際の行為に移したものですが、行動に移さない思いもたくさんあります。いやむしろその方が多いでしょう。思いだけで活き活きしたり、悲しんだり、落胆したりと行為として現れなくても、それなりにエネルギーを使った活
大倉山秋の芸術祭に参加して、ミニ個展をしています。横浜市大倉山記念館ギャラリーにて壁面の一部を借りて、「家族の詩」15点の油彩画展示をしています。今日ですでに3日目で5日(日曜)までです。天気も良いので、お近くの方、観にいらしてください。by カネダオサム ht
絵画を作る道具や素材、アクションやストロークを画面づくりの本質と捉えて、それらを表現材料として構成したものを「抽象画」といいます。「絵画」ではありません。平面を創作する工芸の一種です。それが意味を持つとすれば、工芸の分野が広がったということで、テキスタイ
20世紀に絵画を解体してゆく必要はあったのでしょうか。20世紀初頭は新聞批評がある程度で、社会的なメディアがまだ十分に発達していなくて、メディアの黎明期でした。写真の記録の重要性が認められ、映画がジャーナリズムや娯楽として登場してきます。それでも時代精神の精
二次元の視覚効果を考えるのは20世紀絵画の特徴と言えるでしょう。形態認識の視覚効果を研究するゲシュタルト心理学の実証実験なども20世紀の科学としての心理学の成果なのでしょう。19世紀までの線遠近法の絶対が崩れ、様々な前後関係の視覚心理が空間的なイルージョンを生
旗や標識、ポスターや看板などのグラフィックデザインは現実の世界での有効性を競い生まれたデザインです。それらは視覚の認識機能と結びついて、実証的に探求された視覚効果です。絵画が三次元の虚構であるとはいえその実態は二次元の画面平面上の表現です。そこで画面も二
長い間西洋美術が絵画で見失っていたものが二次元の視覚効果です。19世紀末に日本の版画美術と出会うことで、失っていたものに気づいたのでしょう。かつてルネッサンス前期までは基本的な要素と考えられていた装飾的な美が忘れられ、描写的な緻密な美に取って代わられました
絵画は二次元の画面に描かれる三次元の仮象表現ですが、二次元の直接的なオブジェとしての強さを利用することもあります。画面を強くするために絵画での二次元の利用は絵画の始まりより常にありました。色面や柄、正方形や円といった幾何形体の二次元での形、紋章や文字とい
絵画を非絵画の領域にまで広げることは作品の可能性を無限に広げることになります。それが非絵画であることを認めながら、絵画として扱えば、絵画は元の意味を失います。20世紀美術に起きたことは単純に言えばこのようなことです。絵画をアートとカテゴライズしてアートの
絵画は三次元の世界を二次元に落とし込んだものとの考えからは自ずと絵画の限界が見えてきます。絵画は無限に周辺領域を拡大できるのではありません。美術的な創作の中の極めて限定的な分野が絵画なのです。模様とか、サインとか、二次元上の美術的な表現は多くあり、二次元
グラフィックデザインには絵も文字も図も含まれますし、基底材のテクスチャーや形状もデザインの範囲に含まれます。20世紀に絵画が急速に変貌したのは絵画の周辺を拡大してグラフィックデザインすべてを創作的な平面として絵画と呼んだからです。名称のすり替えです。グラフ
絵画を成立させている基盤は虚構性です。牛が小さな牛型の模様で描かれたり、人がどこかに向かって歩いてるような形の模様であったり、遠くの山や木があるように見えたりするのが虚構性です。実際の実物ではないのになにかに見えるのを仮象性もしくは虚構性と言います。時々
ギリシャ美術が西欧絵画の源泉となっていますが、ギリシャの絵画はアペレスに関するいくつかの逸話が残っている限りで絵画はすべて失われ、実際を知ることはできません。アッティカの壺絵や数少ないモザイクなどの工芸品からうかがえるのは、人物のフォルムの明確さで、彫刻
絵画でムーブマン、動勢をテーマとするとそれは主体的な感情の動きになります。悲しむ人を見るのと悲しみを感じるのとでは客体と主体との違いがあります。力む動作のムーブマンを作り上げればそれは見る人の側に力む感情が湧き上がります。ドラクロワの「ライオン狩り」はそ
絵は視覚で受け止めるのですが、その時純粋に視覚的な経験として記憶から照合するのか、自己の運動感覚として照合するのかで主題が大きく変わります。純粋な視覚には自己は含まれないので他者や自然、環境への視線として記憶されているでしょう。視覚から運動感覚として情報
絵は目で見て鑑賞するものですが、絵は見える以上のものを表現しようとします。光の輝きであるとか、風のそよぎにとどまらず、触れたときの感触や重量感までも表現しようとします。そのため絵は彫刻のテーマを模倣します。彫刻が表現する物体の存在感や重量感運動感などを取
今どきの人には絵は純粋に視覚的な情報として体験されるようです。純粋に視覚的な体験であれば、目を瞑れば見なかったことになりますので見たくないものは見ないで、自分の体験の中には入れないということができます。絵は多様な視覚体験の中に埋没してしまいます。絵も山火
スポーツを鑑賞するときのように、力や技の美しさを称賛し、その技を生み出した肉体への称賛をするといった姿勢が失われると、裸に近い競技者は好色な視線にさらされることになります。前回のオリンピックの女子体操でドイツの選手たちが長いジャージで出場したのはそのよう
休暇が長く取れたので、色々とユウチューブなどを覗いて、ルネッサンス絵画関連の動画を見ていました。裸婦のルーツはジョルジョーネの「横たわるヴィーナス」で、それを発展させたのがティツィアーノの「ビーナス」で、当時としてはエロを求めて注文が殺到したそうな・・・
人生をかけて自己の真実を追求するという芸術は信仰に近いものかもしれません。それでも信仰には常に二種の専門家がいます。僧侶のような社会的な職業人と修道士のように信仰のみによって生き、人生を見つめるのも専門家です。両方の立場を共存させる専門家もいるかも知れま
一地方の文化水準はその地域の人々の平均的総意です。一地方で「そっくり」とか「写真みたい」とか言う絵が目標になるとしたら、それは画家個人の責任ではなく、画家は人々の要求に従っただけです。多分多くの人が欧米の観光旅行で美術館などを巡った事があるでしょうが、そ
専門の画家は市場的な価値を追求して生活しています。市場的な価値には絵以外の多くの要素があり、また絵を心から愛している人の少ないこともあり、売れてる画家、専門の画家が必ずしも良い絵を描いているとはいえないのは仕方のないことです。もちろん絵は趣味のものですか
絵画の起源を考古学などにたづねると、シンボルとイラストレーションになります。失われた偉人とか愛する人達とか、神が宿ると信じられる動物など意識の対象となるものを示すのがシンボルで、物語や事件、狩りや戦の状況を図で示すのがイラストレーションです。シンボルは対
我々の経験する事柄には瞬間的なものもあり、長い期間、場合によっては一生をかけて経験するような事柄もあります。虚構が必要なのはそれら一つ一つを経験としてまとめることができるからです。デルボーの絵には夜汽車と裸婦と停車場の絵がたくさんあります。「こうもり傘と
絵画は虚構の世界です。現実を美化したり、現実から逃避したり、見えない存在を白日に晒したり、ことさらに現実を掘り下げたりもやはり非現実の世界です。虚構の世界は物理的な限界を超えて無限の可能性の世界です。現実の世界は確定した世界ですので、何らかの具体的なア
新しいものが現れた時、新しいものがそれ以前のものを全否定しているのか、部分的な否定なのかを問題にしなければなりません。二元論はそのような時に新しいものの意義を唱えてそれ以前のものを全否定してしまう傾向があります。マチスの絵は三次元の対象のデッサンを否定し
「新しい」「古い」とか「本物」「偽物」とか事物を勝手な断面で二分する二元論は物事を分断して、短絡的に結論を導き出し、事物を説明し理解したかのように見せかける手段です。実際は事物の概念は集合体を理解するときのように適合する状態が全体か一部分か内包かイコール
現代に、同時代に制作される作品はどのようなかたちであれ現代なのです。現代性を主張する論には改革をのみ真実とする隠れた主張があります。ローマ時代、多くの彫刻が制作されましたが、それらの大半がギリシャ時代の名作の模刻かアレンジでした。しかしビーナス像の変遷で
現代性と言う時、現代の物質文明を指して現代というのか、現代人の意識を以て現代というのか異なる現代があるようにも思えます。精神は必ずしも完全に物質の制約下にあるのでもありません。ルネッサンスにおいて古代への憧れはなぜ起きたのか、18世紀のシノワズリー、19世紀
芸術というコトバは尊大な印象を与えます。ただの上手ではない、人間の尊厳をかけたビジョンを形あるものとして表現したものでしょうか。制作当時は芸術という意識でなくても尊大なビジョンのもとに制作された創作物には芸術というコトバがふさわしいのでしょう。なので、「
芸術というのは造語です。ArtとかKunstとか一般語だったものをことさら尊いものとして位置づけた造語です。この造語に多くの日本人は振り回されている感じがします。現代の日本の芸術は匠と同じような意味ですが、戦前までは匠とは違う特別な意味を持たされていたように感じ
美術の役割が時代の技術の提示であり、話題の中心を示したものである点はファッションと同じです。ファッションは時代とともに話題の中心になることを意図しています。時代性、すなわち話題性こそ美なのです。どの時代の美術においても、時代を先取りした技術と意識とで造形
古典古代の造形が優れているのは普遍を目指していたからです。アフリカの仮面などと並べて考えてみてください。アフリカの仮面は誇張した表現の中に造形の面白さを見せてくれます。表現力のある意外な誇張が随所にあります。多様な造形美を作り出しています。スタイル、個性
絵の市場的な価値はオリジナリティーにあります。個性的で、独自のスタイルやテーマを持っている画家の作品が常に絵の価値を決めています。個性の最もよく現れた作品に市場的な価値があります。画集で紹介されるのも主にそうした作品です。しかし、絵を描く者の側からはそれ
一絵画の絵画全体の価値と絵柄の価値とは別のものです。絵画作品の現実社会での価値は絵で決まるものではありません。絵は口実という場合の方が実際には多いのです。作品の真贋、成立事情、所有者の来歴、歴史的価値、論述論文の多少、工芸的意匠の卓越、制作の密度、堅牢性
ボリュームは存在です。存在するものは対象化しえるものです。対象化されて観察され、位置や大きさや様態が特定されるものです。絵は観察しうるものを用いて構成されます。そこで絵はボリュームを描くことを第一義とします。ボリュームを端的に作り出す線もしくは色面の輪郭
絵は何らかの対象を示したものです。対象を示す方法は形態や様態の特定で、地と図の関係で地と異なる図を示します。図になる条件は形や大きさが限定されることですので、線で囲まれた形態がわかりやすいでしょう。線にはボリュームを形成する力があります。直線はその線の左
絵を成立させるには範囲と形体とを示す必要があります。線や輪郭で囲まれ大きさや範囲が限定されたものが形です。その形が何らかの対象のイメージを形成するときにその対象の絵となります。イメージとは連想や想像を誘うものと言うことで、時代、地域、生活習慣、文化の階層
このブログの作り方は、前日の話題の中から尻取りのようにして次の日の話題を決めて一時考えてみるというものです。今は語り合う仲間もいないものですから、簡単すぎても、そうでもしないと何も考えずに日々が過ぎ去ってしまいます。PCR検査のような自己培養を繰り返している
絵画は自分たちが物理的に存在しているのとは別の空間です。絵の中に描かれた人物はその空間の中では我々と同じ大きさを持った存在として映ります。小さな画面であっても人物の大きさから広い場所にもなります。絵画は積極的に虚構を作り出す手段です。物理的に我々の前に存
17世紀の啓蒙の時代に写実絵画は発展しました。ルネッサンスの現実主義から生まれた様々の手法のうちから、科学的な論証可能、再現可能な知恵が抽出され、機械的な遠近法と陰影法とが広がりました。写実を支持するのは科学や理性を支持するのと同じ立場でした。それが「美」
画面では不安定な形ほど目を引きます。倒れそうな花瓶や斜めに置かれたテーブル、崩れかかった果物や、投げ出された布など、日常では整理整頓され、一定の規則で置かれているものが自らの位置を逸脱して配置されていたら気にかかって当然です。画面に平行な形は秩序を表現
絵画は対象を描きますが、そこで表現されるのは対象だけではなくそれを観察し、表現しようとする画家の肖像です。顔貌や容姿はわかりませんが画家がどのような感覚で対象と向き合ったか、また作品を通してどのようなものとして表現したかで、その人の人間性が知れるからです
現代美術の解説では作品の意味、成立の意義が多く語られます。作品からは容易に理解できないからでしょう。理解し難いことを知っているからこそ詳述しなければならないのです。現代美術はイラストレーションではないので、提示された具体物はそのものなのか、意味のある反証
グラフィックデザインはインターフェイスなのでそれのみでは意味内容を持ちません。そこでデザインはわかりやすい対象を写真やイラストレーションから引用します。イラストレーションは作者の対象に対する視点を表現しています。時代性や個人的執着、好悪の感情を媒介させて
イラストレーションは対象を図示したものです。コトバは対象の言語表現ですが、イラストレーションは視覚的な対象表現です。対象を特定し、対象を視覚的に形容します。グラフィックデザインは知覚の機能だけなので、意味や具体的な対象が決められていません。グラフィックデ
抽象絵画が既存の具象絵画へのアンチテーゼとして出てきた事情はわかるのですが、進化論の形を取るとまるで具象絵画が発展して抽象へと進化したと勘違いしそうです。抽象絵画は広義のグラフィックデザインであって、グラフィックデザインを内包しない絵画はありません。具象
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
絵画の透視図法的な古典主義は16世紀の近代的な知性の産物です。美術が大衆に向けて開かれる時、すべての人に認められる合理性のことを知性と感じたのでしょう。すべての人が理解できる説明が合理性です。美術の豪奢をその人の人生において経験したことのない人に伝えるのは
通説の美術史はどこか意図的で強引な進化論的妄想の産物と思っています。美術について語るのに、それぞれの画家や時代を特定する見出しとしては便利に分類されている一般の美術史の名称を利用しますが、各用語の美術史の一般論を解説しようとは思いませんし、その知識もあり
ドラマや映画に出てくる画家の姿は現在一般に絵画や画家と思われているものを暗に示しているのでしょう。専門家の主張はどうあれ、画家はモデルにポーズを付け、画架を据えて、一筆、一筆モデルを観察しながら絵を描いてゆくと思われています。確かに画家はモデルをみてスケ
ラシーヌなどの古典主義演劇の理論に「三一致の法則』というのがあります。「時の単一」「場の単一」「筋の単一」の3つの要素を入れた舞台を古典主義演劇といいます。ラシーヌのような厳密な理論家になると、「時の単一」ではパフォーマンスの経過する実際の時間と、演劇が進
美術の社会的な役割が大きく変化したのが20世紀です。美術以外の多くのメディアが生まれ、美術が担っていた役割の多くを代行するようになります。写真の登場、それに続く写真ジャーナリズムの成立、映像の登場、放送、テレビの普及、雑誌と様々な視覚的なメディアが現れます
テレビを見ていて久しぶりの感動です。昨日、NHKが「日曜美術館」で、東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」を紹介していました。エゴン・シーレのデッサンはゾンビの様に強烈に死の匂いがするので敬遠していましたが、シーレのデッサンをそのまま人形にした宮崎
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
印象派には2つの方向性があります。一つは感覚、視覚の印象です。これは絵画を抽象へと導きました。もう一つは事柄の印象です。事柄の印象とは今自分の身の回りで起きていることの印象です。大げさに言えば自分をも巻き込んで起きている時代性というものでしょうか。馬車が汽
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
絵を描く人は通常の概念的な情報収集のための視覚と純粋な視覚とを行き来します。口元やひげなど対象の認識に必要な部位から衣装や紋章などから始まり、次第に人物の威厳を表すガッチリとした骨格やや包容力を暗示するふくよかな佇まいなどを表現するようになります。画家は
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の自由な発想が面白いと思ったことはありません。子供が素晴らしいのは子どもたちが導き出した具体的な結果ではなく、子どもたちが向き合った対象に寄せた興味関心の新鮮さです。未知の世界を良きものとして立ち向かうその心の元気さを羨ましく思います。児童画では絵の
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を
絵の原点は一人ひとり異なるでしょうから、描く動機を以て絵画の定義とは言えないでしょう。そもそも、20世紀以降の美術の流れは全体として「表現主義」と言えるものなので、描く動機や、表現しようとする気持ちや環境や動機を作品と結びつけて「鑑賞する価値」として来まし
人生を作品と同一視する『no Art,no Life』という美術の捉え方は社会的には素晴らしいと思えますが、それは他人が鑑賞するものではないようにも思えます。一人ひとりの生きている空間が一人ひとりのアートなのですが、それはその人が満足でき、安心できる空間で、生きている
今の時代、活字や絵はあふれているので、それらが初めて人類にもたらされた時の感動を理解するのは難しいかもしれません。幼少期の記憶にもそれらはありふれていてほとんど感動の記憶はないでしょう。稀に特別な図鑑とか絵本とかで絵との出会いを覚えている人がいるかも知れ
絵画はこの国には根付かなかった。素晴らしい名画に触れても、それをほしいとまでは思わなかった。初めから、自分たちとは縁のないものと思いながら展覧会に足を運んでいた。それに反して、写真のような緻密で丹念な写実画には人々が集まり、市場も広がっています。これが我
文化は作り手と受け手の共同の成果です。受け手がいくら文化を要求しても作り手が提供しなければ文化という形を取りません。一定の地域につくり手が居なければその地域の外から文化を移入することが可能です。これは限定的、暫定的な文化の形です。ブロードウェイミュージカ
美術の盛んな時を歴史的に眺めてみますと、画家同士が互いに影響しあい、良いアイディアは盗み合い、互いの才能を認めオマージュとしてもコピーし合いました。アントネル・ダ・メッシーナのナチュラルな絵画がなければそれに続くヴェネティア派の輝きも生まれなかったでしょ
20世紀の絵画鑑賞は展覧会と美術画集です。展覧会で本物に接し、画集で記憶をたどりながら絵画を味わうといったもので、絵の具で直に描かれた絵画を手元において鑑賞する人よりも遥かに多くの鑑賞姿勢です。ペットショップで犬や猫を眺めて飼ったつもりになるのと、拾った猫
20世紀は矛盾に誰もが気づかないふりをする不思議な時代でした。バウハウス、シュプレマティズム、ミニマリズム、抽象絵画が根拠とした造形主義は絵画の造形的な価値を追求しようとしたものであったはずが、いつの間にか歴史的な価値に置き換えられてしまいました。20世紀
美術品とパトロンの関係を歴史を読み解く資料と位置付けると、美術品の造形的価値すなわち普遍的価値から目をそらすようになります。美術作品の鑑賞が歴史学の資料的な関心を生み、更にそのような鑑賞、すなわちこの歴史学的価値を評価する受容者によって歴史観の投影が作品
教会や王侯をパトロンとした絵では描かれる人物は自ら光り輝く存在として描かれます。市民をパトロンとした絵では窓から射し入る光が人々を照らします。作品が受容者によって支えられていると考えると作品の持つ性質と受容者の持つ性質に類似があると考えることができるかも
絵画作品の個体としての価値は古典古代の作品やルネサンスの作品と現代の作品では比べようもないぐらい貧弱になっています。その貧弱な現代の作品を高く評価する理由は文化に時代性をよみとっているからです。時代性を離れて作品を比べたら一目瞭然、ほとんど無価値とも言え
絵画は読み方を知らないと面白さを鑑賞することが難しい分野です。文化には現在何が問題で、それがどのように解決されてゆくかが問題なのですが、絵の解説となると画題の物語の解説や作者の奮闘ぶりなどを伝えるものが中心で、文化を読むという姿勢が希薄です。文化を自然な
ある国で、ある地域で誰が評価されているかはその地域の民度と言えます。民度には受容できる上限と下限があります。その範囲内にその地域での専門画家がいることになります。民度を超えるものも、民度に及ばないものもその文化圏からは排除されます。不思議なことにギリシャ
美術史における19世紀は絵画を高級な陶磁器のような丁寧な仕上げの美しさやペルシャ絨毯のように緻密で手作業の丹念な描写の積み上げといった工芸品の評価と同じような家具としての見方から、絵画独自の美的価値や視覚体験の伝達の場にしようとしたものです。先鞭をきった印
19世紀にヨーロッパで起こった印象派の意味は何だったのでしょう。印象派が光がきれいで、アカデミー派は肌がなめらかということでしょうか。するとラファエル・コランの絵は光がきれいで肌がなめらかな絵なので両派の良いとこ取りで結論だとなるのでしょうか。それは意味が
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すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
きれいな形、美しい形は受け手によって、また表現者によって様々です。何が綺麗かを定義することはできません。作り手と受け手とが同じ綺麗さを感じているかを確かめることもできません。表現者は一方的に表現し、それを美しいとして受け取る人が多くいれば美しい絵となりま
いつも絵の協力者のモデルを前に絵を描いていると、モデルが裸であるという意識が後退して、絵作りのためにポーズをとって努力してくれる人としての姿の方に意識が移ってしまいます。モデルが工夫してくれたポーズを作画の素材として無機的なオブジェのように見たり、表情の
12月ももう十日を過ぎ、年の瀬が迫ってきましたね。秋も見納めです。暮れゆく秋、暮色。今年はたくさんの喪中はがきが来ました。一つの時代が去ってゆくような気がしています。追憶の秋です。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラン
12月に入っても暖かい日が続きますね。低い日差しから明暗のはっきりした景色が広がっています。見慣れた場所も秋になると印象深い景色へと変わって見えます。いつもの新宿御苑です。人物では出番が少ない色が自由に使える秋景色は描いていて楽しいですね。by カネダオサム
秋の日差しは強烈です。地平線近くから強く、強く射し込みます。夏の影の濃い景色から一変して、幹に強烈に射し込みます。強い秋の日差しを受けて、枯れ葉を踏みながら散歩する、季節の変化を五感で確かめながら。刻一刻と変化する日差しを捉えるにはパステルが一番です。枯
秋の景色は素晴らしい。あたり一面が黄金色に輝き、大気を満ち足りた気分に染め上げます。いつもは人物ばかりを描いていても、秋になると戸外を描きたくなります。スケッチブック一冊を持って飛び出すといたるところで実りの秋に出会います。作品をつくるというよりも、秋に
ドラマや映画に出てくる画家の姿は現在一般に絵画や画家と思われているものを暗に示しているのでしょう。専門家の主張はどうあれ、画家はモデルにポーズを付け、画架を据えて、一筆、一筆モデルを観察しながら絵を描いてゆくと思われています。確かに画家はモデルをみてスケ
ラシーヌなどの古典主義演劇の理論に「三一致の法則』というのがあります。「時の単一」「場の単一」「筋の単一」の3つの要素を入れた舞台を古典主義演劇といいます。ラシーヌのような厳密な理論家になると、「時の単一」ではパフォーマンスの経過する実際の時間と、演劇が進
美術の社会的な役割が大きく変化したのが20世紀です。美術以外の多くのメディアが生まれ、美術が担っていた役割の多くを代行するようになります。写真の登場、それに続く写真ジャーナリズムの成立、映像の登場、放送、テレビの普及、雑誌と様々な視覚的なメディアが現れます
テレビを見ていて久しぶりの感動です。昨日、NHKが「日曜美術館」で、東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」を紹介していました。エゴン・シーレのデッサンはゾンビの様に強烈に死の匂いがするので敬遠していましたが、シーレのデッサンをそのまま人形にした宮崎
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
印象派には2つの方向性があります。一つは感覚、視覚の印象です。これは絵画を抽象へと導きました。もう一つは事柄の印象です。事柄の印象とは今自分の身の回りで起きていることの印象です。大げさに言えば自分をも巻き込んで起きている時代性というものでしょうか。馬車が汽
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
絵を描く人は通常の概念的な情報収集のための視覚と純粋な視覚とを行き来します。口元やひげなど対象の認識に必要な部位から衣装や紋章などから始まり、次第に人物の威厳を表すガッチリとした骨格やや包容力を暗示するふくよかな佇まいなどを表現するようになります。画家は
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の自由な発想が面白いと思ったことはありません。子供が素晴らしいのは子どもたちが導き出した具体的な結果ではなく、子どもたちが向き合った対象に寄せた興味関心の新鮮さです。未知の世界を良きものとして立ち向かうその心の元気さを羨ましく思います。児童画では絵の
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を
絵の原点は一人ひとり異なるでしょうから、描く動機を以て絵画の定義とは言えないでしょう。そもそも、20世紀以降の美術の流れは全体として「表現主義」と言えるものなので、描く動機や、表現しようとする気持ちや環境や動機を作品と結びつけて「鑑賞する価値」として来まし
人生を作品と同一視する『no Art,no Life』という美術の捉え方は社会的には素晴らしいと思えますが、それは他人が鑑賞するものではないようにも思えます。一人ひとりの生きている空間が一人ひとりのアートなのですが、それはその人が満足でき、安心できる空間で、生きている
今の時代、活字や絵はあふれているので、それらが初めて人類にもたらされた時の感動を理解するのは難しいかもしれません。幼少期の記憶にもそれらはありふれていてほとんど感動の記憶はないでしょう。稀に特別な図鑑とか絵本とかで絵との出会いを覚えている人がいるかも知れ
絵画はこの国には根付かなかった。素晴らしい名画に触れても、それをほしいとまでは思わなかった。初めから、自分たちとは縁のないものと思いながら展覧会に足を運んでいた。それに反して、写真のような緻密で丹念な写実画には人々が集まり、市場も広がっています。これが我
文化は作り手と受け手の共同の成果です。受け手がいくら文化を要求しても作り手が提供しなければ文化という形を取りません。一定の地域につくり手が居なければその地域の外から文化を移入することが可能です。これは限定的、暫定的な文化の形です。ブロードウェイミュージカ
美術の盛んな時を歴史的に眺めてみますと、画家同士が互いに影響しあい、良いアイディアは盗み合い、互いの才能を認めオマージュとしてもコピーし合いました。アントネル・ダ・メッシーナのナチュラルな絵画がなければそれに続くヴェネティア派の輝きも生まれなかったでしょ
20世紀の絵画鑑賞は展覧会と美術画集です。展覧会で本物に接し、画集で記憶をたどりながら絵画を味わうといったもので、絵の具で直に描かれた絵画を手元において鑑賞する人よりも遥かに多くの鑑賞姿勢です。ペットショップで犬や猫を眺めて飼ったつもりになるのと、拾った猫
20世紀は矛盾に誰もが気づかないふりをする不思議な時代でした。バウハウス、シュプレマティズム、ミニマリズム、抽象絵画が根拠とした造形主義は絵画の造形的な価値を追求しようとしたものであったはずが、いつの間にか歴史的な価値に置き換えられてしまいました。20世紀
美術品とパトロンの関係を歴史を読み解く資料と位置付けると、美術品の造形的価値すなわち普遍的価値から目をそらすようになります。美術作品の鑑賞が歴史学の資料的な関心を生み、更にそのような鑑賞、すなわちこの歴史学的価値を評価する受容者によって歴史観の投影が作品