絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
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絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
画面では不安定な形ほど目を引きます。倒れそうな花瓶や斜めに置かれたテーブル、崩れかかった果物や、投げ出された布など、日常では整理整頓され、一定の規則で置かれているものが自らの位置を逸脱して配置されていたら気にかかって当然です。画面に平行な形は秩序を表現
絵画は対象を描きますが、そこで表現されるのは対象だけではなくそれを観察し、表現しようとする画家の肖像です。顔貌や容姿はわかりませんが画家がどのような感覚で対象と向き合ったか、また作品を通してどのようなものとして表現したかで、その人の人間性が知れるからです
現代美術の解説では作品の意味、成立の意義が多く語られます。作品からは容易に理解できないからでしょう。理解し難いことを知っているからこそ詳述しなければならないのです。現代美術はイラストレーションではないので、提示された具体物はそのものなのか、意味のある反証
グラフィックデザインはインターフェイスなのでそれのみでは意味内容を持ちません。そこでデザインはわかりやすい対象を写真やイラストレーションから引用します。イラストレーションは作者の対象に対する視点を表現しています。時代性や個人的執着、好悪の感情を媒介させて
イラストレーションは対象を図示したものです。コトバは対象の言語表現ですが、イラストレーションは視覚的な対象表現です。対象を特定し、対象を視覚的に形容します。グラフィックデザインは知覚の機能だけなので、意味や具体的な対象が決められていません。グラフィックデ
抽象絵画が既存の具象絵画へのアンチテーゼとして出てきた事情はわかるのですが、進化論の形を取るとまるで具象絵画が発展して抽象へと進化したと勘違いしそうです。抽象絵画は広義のグラフィックデザインであって、グラフィックデザインを内包しない絵画はありません。具象
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
絵画の透視図法的な古典主義は16世紀の近代的な知性の産物です。美術が大衆に向けて開かれる時、すべての人に認められる合理性のことを知性と感じたのでしょう。すべての人が理解できる説明が合理性です。美術の豪奢をその人の人生において経験したことのない人に伝えるのは
通説の美術史はどこか意図的で強引な進化論的妄想の産物と思っています。美術について語るのに、それぞれの画家や時代を特定する見出しとしては便利に分類されている一般の美術史の名称を利用しますが、各用語の美術史の一般論を解説しようとは思いませんし、その知識もあり
ドラマや映画に出てくる画家の姿は現在一般に絵画や画家と思われているものを暗に示しているのでしょう。専門家の主張はどうあれ、画家はモデルにポーズを付け、画架を据えて、一筆、一筆モデルを観察しながら絵を描いてゆくと思われています。確かに画家はモデルをみてスケ
ラシーヌなどの古典主義演劇の理論に「三一致の法則』というのがあります。「時の単一」「場の単一」「筋の単一」の3つの要素を入れた舞台を古典主義演劇といいます。ラシーヌのような厳密な理論家になると、「時の単一」ではパフォーマンスの経過する実際の時間と、演劇が進
美術の社会的な役割が大きく変化したのが20世紀です。美術以外の多くのメディアが生まれ、美術が担っていた役割の多くを代行するようになります。写真の登場、それに続く写真ジャーナリズムの成立、映像の登場、放送、テレビの普及、雑誌と様々な視覚的なメディアが現れます
テレビを見ていて久しぶりの感動です。昨日、NHKが「日曜美術館」で、東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」を紹介していました。エゴン・シーレのデッサンはゾンビの様に強烈に死の匂いがするので敬遠していましたが、シーレのデッサンをそのまま人形にした宮崎
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
印象派には2つの方向性があります。一つは感覚、視覚の印象です。これは絵画を抽象へと導きました。もう一つは事柄の印象です。事柄の印象とは今自分の身の回りで起きていることの印象です。大げさに言えば自分をも巻き込んで起きている時代性というものでしょうか。馬車が汽
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
絵を描く人は通常の概念的な情報収集のための視覚と純粋な視覚とを行き来します。口元やひげなど対象の認識に必要な部位から衣装や紋章などから始まり、次第に人物の威厳を表すガッチリとした骨格やや包容力を暗示するふくよかな佇まいなどを表現するようになります。画家は
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の自由な発想が面白いと思ったことはありません。子供が素晴らしいのは子どもたちが導き出した具体的な結果ではなく、子どもたちが向き合った対象に寄せた興味関心の新鮮さです。未知の世界を良きものとして立ち向かうその心の元気さを羨ましく思います。児童画では絵の
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を