上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
4/1~6 恵比寿駅アトレの 有隣堂(本館5F書店入口)カモコラージュさんとのコラボで展示即売会をします。小さな日常をテーマにした小さな油絵です。お近くにいらした方は寄って観てください。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラ
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
絵画は文化の中で多面的な存在です。絵画は美術という芸術分野で代表的な作品群ですし、絵本やお絵かきなど子供の頃から親しんできたエンターテインメントですし、各時代を体験できる歴史史料としても蘊蓄を傾け興味深いものです。「絵が好き」「趣味は絵画鑑賞です」と絵を
人々が怪訝な顔をして作品の前を通り過ぎると、突然、これは素晴らしい、これは斬新だ、アイロニーに満ちてシニカルだと称賛する者が現れます。いち早く作品の意味を理解したのだと宣言します。それに乗り遅れまいと数人が理解を共有します。アートの誕生です。世の中の固定
心に浮かんだ形や色を表出するのが抽象ですが、抽象だけでは絵画ではありません。絵画は対象を持ちますが、その対象とは現実の世界に存在するものです。一角獣のように想像の動物が絵には現れますが、角や面は既存の形体から取られ組み合わされたものです。姿は女性で体はラ
絵画にはかたちがあります。絵画は何らかのもののかたちについての絵なのです。ものの仮象性が絵画と他の造形物とを分けています。しかし、その仮象性は表面的な視覚の描写から観念的な形まで含まれます。太陽は円で描かれ、月は三日月、星は五角形で描かれるのは視覚である
遠くの丘が亀の形に見えたり、空の雲がラクダに見えたり、古い木の瘤が人の顔に見えたりするのを仮象性といいます。青い壁が海原に感じたり、青空に感じたりするのも色彩の仮象性です。実在しない対象をその場に表現できるのが仮象性です。絵画の面白さはこの仮象性に基づい
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
クロッキー753 時代の反映美術の楽しみに「時代の反映」があります。ギリシャの彫刻を見てその時代の知的理想と人間性を感じます。またルネッサンスの作品に触れるとその時代の剛毅と豪華さに圧倒されます。19世紀の美術の多様さと個人の趣味の徹底ぶりに感服します。美術作
絵画は遊びの一種です。鳥の鳴き声を真似てみるとか動物の咆哮を真似てみるとかといったトリックの遊びです。二次元がどうのとか半立体がどうのとかいう議論は絵画が体制として成立していることへの反発で、絵画の楽しさ、面白さの問題ではありません。絵画とは2次元画面での
「抽象絵画」というと『絵画』を抽象しているのだと思っていました。「抽象」の意味を対象から本質を抽出して形に表すとして、絵画の本質だけを取り出した「純粋な絵画」の意味だと少年の頃に思っていたのです。そして何年もその動向を観察しても「絵画」は現れてきませんで
古典主義という考え方は古代ギリシャから始まっていますが、その美術的な力は今も生きています。ローマ期におけるギリシャ美術の退廃を指摘して古典主義の終了として一時代の様式のように捉える見方があるかもしれません。西欧の美術の歴史の中でローマがギリシャを手本とし
絵画展で時折、絵画作品以外に画家が使用していたパレットなどが展示されることがあります。遺跡や遺品の価値はそれを遺した文明や故人に思いをはせる人には非常に価値があります。その画業やその人の人生、その時代の象徴としてそのオブジェが存在しているからです。そのオ
絵画作品は単なる描写ではなくて表現だというので、表現こそ藝術だと叫んだ人がいます。表現と言っても様々です。役者が役を表現するというのと役者が自己を表現するというのでは意味が大部違います。物語のドラマの表現、物語に接した受手の感情の表現、調和や美と思われる
絵画の世界は虚構です。装飾は実質です。絵画の世界はそこにないものを示し、装飾は直接感覚に訴えます。虚構の世界を現実の世界に居場所をつくるのが絵画です。そこで絵画は装飾を装い虚構を滑り込ませます。表面は壁に掛けられた装飾品ですが、そこには別の世界が開けてい
絵画は伝説や神話などの物語を語り伝える手段として発展してきました。誰が、何時、何処で、何をしたのかを伝えようとしたのです。そのために必要な表現方法が工夫され、踏襲され、改革され、発展してきました。はじめは基本関係が図示されただけでしたが、次第に具体的な場
絵は言葉の文化と同じように単語が生まれ、文法が生じ、語法、論法が発展して様々な事情が表現されます。文化は蓄積してゆくものです。そこには歴史があります。15世紀から19世紀にかけてヨーロッパで展開されたものが三次元空間の有り様を二次元の平面画面上に表現すると
絵画作品を画家の創作行為の痕跡と位置づけて、作品の価値を構図や描写や3次元性から切り離して再定義したのが1940年代、50年代のアメリカ現代美術でした。抽象表現主義と名付けられましたが、絵画の様相を著しく歪めました。絵画という枠組みを解体して、作品は行為の痕跡と
絵画には画家の痕跡があらわれます。絵画に限らず、手仕事には制作者の痕跡があらわれます。しかし、多くの手仕事のもの、家具とか什器とかケーキとか被服といったものは極力痕跡を残さないように作られます。絵画ももともとは痕跡を消すように制作されましたが、それでも筆
断片は常に美しい。目的も、用途も、善悪も不明な断片は常に美しいのです。人の手の入らない自然が常に美しいようにです。抽象的な美しさもこの断片の美に似ています。絵画のストーリーを離れて、目的も、用途も、善悪もなく制作された作品は第二の自然のように美しいので
古くなった絵や、描きかけで断念した画面などを破棄するために裁断していると、美しい断片がしばしば現れます。色の混ざり合いや明暗の配分などが意図したときよりも美しく感じられます。意図的な配置を離れて、無意識の領域には美しさがしばしば現れます。何らかの対象を意
絵画から物語的な要素を取り去り、純粋な造形的な要素だけで感覚を満たすのが絵画の本来の姿だと主張する人たちに反して、絵を鑑賞するには物語が必要となることに最も気づいたのがシュールレアリズムの人たちでしょう。謎の物語を通してその謎の世界に身を置いてみようとす
色彩や描線等による完全に抽象的な作品は現実のオブジェであって絵画の虚構ではありません。現実のものは現実で驚かせなければ観客の注目を集めませんから、巨大化したり、極端に緻密精工であったり、過度に乱暴であったり、最先端の科学を装ったり、ブランドをアピールした
本当のところ、絵画が表現するのはモチーフとなった対象物の再現ではありません。モチーフが何であるのか伝わらなければ画家が描いた世界への物語がわかりませんから、モチーフが何であるのかはわからなければなりません。そこで絵画ではモチーフが何であるのか分からせるた
生まれつき人間に備わっている行動は文化の中にも組み入れられていますが、それだけでは文化ではありません。食事や排泄、睡眠や休息など生まれつきの行動は文化ではありません。しかし、食事の仕方は手で食べる人たち、フォークとナイフの人たち、箸を使う人達、更にディナ
20世紀になって、特別な文化的偏向を避けてユニバーサルな文化の地平を目指そうとする一傾向が現れて、ルネッサンス以来の絵画伝統を一面的と断じました。それによってアカデミズム的な教育は消え、絵画を未文化的な創造の地平へと広げました。素朴派、グラフィックデザイン
原始の洞窟絵画などを見ますと対象のシンボリックなアイコンが文字の様に並べられ、事柄を物語っています。それは児童画などにも共通です。「視覚の描写」という特別な文化を習得しなければ、視覚の役割はアイコンと物語に集中します。視覚が第一に認めるのは大小関係や明暗
絵を描くために見るのは対象そのものではなく対象が映り込んでいる画面平面です。カメラではフィルム面すなわち画面平面に映し出される画像を見ているのと同じで、窓ガラスのように平面に想定された画面平面を観察しているのです。視覚を観察していることに無意識にでも気づ
人間とて生物で、生物の視力は対象を認識するために発達したのですから、対象を認識してしまえばそれ以上の視力による認識の必要はない訳です。眼の前に現れた動物や虫が危険なのか役立つのか、植物が食べられるのか食べられないのか。それらを判断する機能として視覚が発達
絵の訓練で必要なのが視覚の観察です。子供の絵やキュビズムはこれを省きましたが、絵画的な描写の基礎になります。視覚の観察などは絵画以外では使いませんので、ある種、特別な感覚であるかもしれません。手前は大きく見えて離れると幾分小さく見えるとか、目の高さに水平
絵を描こうとしてはじめにやることは対象の観察ですね。対象を観察すると言っても対象が何かを観察するのではなく、対象を見ている視覚を観察して絵にします。ここが結構、勘違いをし易いのですが、対象が何かを観察する、例えば本であるとかギターであるとか楽譜であるとか
絵の「良さ」は鑑賞のされ方によって大いに異なります。絵を音楽の様に感覚的な要素を複合的に構成した刺激物として発展させ、その感覚を味わうのを絵画鑑賞だとするものと、精神の真実の象徴として画像を据えその意味する真実を鑑賞するイコンの鑑賞とがあります。美術史の
日本にはゴッホの絵が好きな人が多くいます。ゴッホの「ひまわり」を見て芸術の形を感じ、「星月夜」に感動します。それって日本独特の事があるように思えます。絵はもともと対象を表現する工夫で発展してきました。ゴッホが好んで模写した広重の風景画やミレーの絵にしても
太古の昔、絵が生まれた時に、多分絵にとっていちばん大切な要素が記録されているのではないでしょうか。狩りの図であったり、祈りの図でであったりした、我々人間の姿と行為が描かれています。祈りとしては狩りの獲物のたくましい姿や、多産を祈る女性像であったり、自らの
若い人たちが触れる美術史の問題点は歴史の基本的な概念が問題とされていないことです。若い人たちは産業の近代化のように歴史を弁証法的展開と思い込んでいます。それであれば新しいものを捉えて、そこに反論と可能性を見つければ次の段階に登れると考えるのも無理はありま
「絵という概念は必要ない、面白ければそれで十分」と若い人が語りました。そこからも現代美術の地平がみえてきます。画面で面白いものを見せるのが興味ある絵だと言うのです。蚤の市で面白いものを探すように、雑多なオブジェから刺激を受けるので良いのではないかと言うの
世の中には子どものように「絵」が好きな人がいます。絵から発展して漫画やカリカチュアに向かうことも、色彩やデザインの面白さに向けて展開することも出来ますが、それらを「絵」を使ってする人が「絵」の好きな人です。具象が正しいか抽象が正しいかではなく、絵でより具
絵画は「表現」と言われます。かつて絵画が扱う「表現」は対象の表現でしたが、いつの間にか「自己表現」へとすり替えられました。自己の感情や感覚、テイストやユーモア、自分の出自や政治姿勢などを「表現」するメディアとなったのです。「表現」の拡大解釈です。過去の
平面が表現媒体として使われる表現は全て絵画だとするのは誤りです。対象性を失ったペインティングやドローイングは絵画ではありません。絵画でないものを絵画と主張する理由は歴史的に生じた絵画の社会的地位の格別な高位にあります。16世紀から19世紀にかけて宮廷や教会は
ポップアート以前のモダンアートは単純な軌道を歩みました。絵画が3次元のイルージョンを中心としているに対して2次元の画面の主張を革新と捉えていました。「絵画から画面へ」、3次元の虚構から2次元の実在へ、すなわち風景や器物のイルージョンを配していた画面から絵の具
前衛美術は時代の風です。見たこともない表現に出会う楽しさに満ちています。何でも未知のもの、未知の体験には心踊るものがあります。テレビでクイズ番組が視聴率を上げるように、どんなものであれ未知のものを知ることには先天的快感が伴うのでしょう。そこで未知のものを
絵の好きな人が絵に興味を持ち、絵について考え、様々その魅力ある絵を学ぼうとします。発端は目にした絵が好きなのです。その人の好きな絵はかつて誰かによって描かれた絵画やスケッチなどだったでしょう。その誰かが描いたものを見てオモシロイと思ったのでしょう。絵がオ
美術の抽象表現は20世紀初頭絵画も彫刻も同時期に始まったのに、一般に受け入れられるのは絵画よりも彫刻が早く、公園や広場、ビルの正面などに抽象物が多く置かれました。彫刻では抽象に移行する直前の状態が、裸体を中心とする抽象概念の表現でした。抽象概念を表現するの
絵のテーマは常に「どのように絵にするのか」です。これは描く側の常なるテーマです。絵を作るために、モチーフを選び、物語を探し、場面を設定します。室内であれ、卓上の静物であれ、屋外の風景であれ、良い絵を作るための口実です。木々を描こうが、動物や花々を描こうが
絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
きれいな形、美しい形は受け手によって、また表現者によって様々です。何が綺麗かを定義することはできません。作り手と受け手とが同じ綺麗さを感じているかを確かめることもできません。表現者は一方的に表現し、それを美しいとして受け取る人が多くいれば美しい絵となりま
いつも絵の協力者のモデルを前に絵を描いていると、モデルが裸であるという意識が後退して、絵作りのためにポーズをとって努力してくれる人としての姿の方に意識が移ってしまいます。モデルが工夫してくれたポーズを作画の素材として無機的なオブジェのように見たり、表情の
12月ももう十日を過ぎ、年の瀬が迫ってきましたね。秋も見納めです。暮れゆく秋、暮色。今年はたくさんの喪中はがきが来ました。一つの時代が去ってゆくような気がしています。追憶の秋です。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラン
12月に入っても暖かい日が続きますね。低い日差しから明暗のはっきりした景色が広がっています。見慣れた場所も秋になると印象深い景色へと変わって見えます。いつもの新宿御苑です。人物では出番が少ない色が自由に使える秋景色は描いていて楽しいですね。by カネダオサム
秋の日差しは強烈です。地平線近くから強く、強く射し込みます。夏の影の濃い景色から一変して、幹に強烈に射し込みます。強い秋の日差しを受けて、枯れ葉を踏みながら散歩する、季節の変化を五感で確かめながら。刻一刻と変化する日差しを捉えるにはパステルが一番です。枯
秋の景色は素晴らしい。あたり一面が黄金色に輝き、大気を満ち足りた気分に染め上げます。いつもは人物ばかりを描いていても、秋になると戸外を描きたくなります。スケッチブック一冊を持って飛び出すといたるところで実りの秋に出会います。作品をつくるというよりも、秋に
季節が変わり、陽が傾いてくるとあたりが黄金色に輝きます。温かい冬の日は野外スケッチが気持ちが良いです。黄色い輝きの時間がゆっくりと過ぎてゆきます。このブログ、いつもは思考の備忘録として、簡単なメモとして記しているのです。スケッチ日記のスケッチとは思考のス
モノについての価値と言うものは多様です。何のために必要かによって価値が生まれます。必要のないものにははじめから価値がありません。「気分が楽しくなるから」とか「気持ちが慰められるから」とか「落ち着いた静かさが伝わって来るから」といった気持ちは純粋であるかも
絵画が個人のものではなかった19世紀以前、絵の話題は主に「何を描いているか」でした。絵画力は専門家としての当然の描写力があり、構図においても、色彩においても他者と遜色のないものでした。それを可能にしたのは絵画の技術水準が一般の人が考えるのと画家が提示するも
文章に上手い下手があります。それが日記調のものであれ記録ものであれ小説であれ、井伏鱒二の文章ように虚構でも臨場感があり、瑞々しい文章とする技術があるのでしょう。それがドキュメンタリーになるとたどたどしいい拙文が返って事実としての説得力を持ったりします。絵
人間の活動には行動と思いとがあります。行動は思いを実際の行為に移したものですが、行動に移さない思いもたくさんあります。いやむしろその方が多いでしょう。思いだけで活き活きしたり、悲しんだり、落胆したりと行為として現れなくても、それなりにエネルギーを使った活
大倉山秋の芸術祭に参加して、ミニ個展をしています。横浜市大倉山記念館ギャラリーにて壁面の一部を借りて、「家族の詩」15点の油彩画展示をしています。今日ですでに3日目で5日(日曜)までです。天気も良いので、お近くの方、観にいらしてください。by カネダオサム ht
絵画を作る道具や素材、アクションやストロークを画面づくりの本質と捉えて、それらを表現材料として構成したものを「抽象画」といいます。「絵画」ではありません。平面を創作する工芸の一種です。それが意味を持つとすれば、工芸の分野が広がったということで、テキスタイ
20世紀に絵画を解体してゆく必要はあったのでしょうか。20世紀初頭は新聞批評がある程度で、社会的なメディアがまだ十分に発達していなくて、メディアの黎明期でした。写真の記録の重要性が認められ、映画がジャーナリズムや娯楽として登場してきます。それでも時代精神の精
二次元の視覚効果を考えるのは20世紀絵画の特徴と言えるでしょう。形態認識の視覚効果を研究するゲシュタルト心理学の実証実験なども20世紀の科学としての心理学の成果なのでしょう。19世紀までの線遠近法の絶対が崩れ、様々な前後関係の視覚心理が空間的なイルージョンを生
旗や標識、ポスターや看板などのグラフィックデザインは現実の世界での有効性を競い生まれたデザインです。それらは視覚の認識機能と結びついて、実証的に探求された視覚効果です。絵画が三次元の虚構であるとはいえその実態は二次元の画面平面上の表現です。そこで画面も二
長い間西洋美術が絵画で見失っていたものが二次元の視覚効果です。19世紀末に日本の版画美術と出会うことで、失っていたものに気づいたのでしょう。かつてルネッサンス前期までは基本的な要素と考えられていた装飾的な美が忘れられ、描写的な緻密な美に取って代わられました
絵画は二次元の画面に描かれる三次元の仮象表現ですが、二次元の直接的なオブジェとしての強さを利用することもあります。画面を強くするために絵画での二次元の利用は絵画の始まりより常にありました。色面や柄、正方形や円といった幾何形体の二次元での形、紋章や文字とい
絵画を非絵画の領域にまで広げることは作品の可能性を無限に広げることになります。それが非絵画であることを認めながら、絵画として扱えば、絵画は元の意味を失います。20世紀美術に起きたことは単純に言えばこのようなことです。絵画をアートとカテゴライズしてアートの
絵画は三次元の世界を二次元に落とし込んだものとの考えからは自ずと絵画の限界が見えてきます。絵画は無限に周辺領域を拡大できるのではありません。美術的な創作の中の極めて限定的な分野が絵画なのです。模様とか、サインとか、二次元上の美術的な表現は多くあり、二次元
グラフィックデザインには絵も文字も図も含まれますし、基底材のテクスチャーや形状もデザインの範囲に含まれます。20世紀に絵画が急速に変貌したのは絵画の周辺を拡大してグラフィックデザインすべてを創作的な平面として絵画と呼んだからです。名称のすり替えです。グラフ
絵画を成立させている基盤は虚構性です。牛が小さな牛型の模様で描かれたり、人がどこかに向かって歩いてるような形の模様であったり、遠くの山や木があるように見えたりするのが虚構性です。実際の実物ではないのになにかに見えるのを仮象性もしくは虚構性と言います。時々
ギリシャ美術が西欧絵画の源泉となっていますが、ギリシャの絵画はアペレスに関するいくつかの逸話が残っている限りで絵画はすべて失われ、実際を知ることはできません。アッティカの壺絵や数少ないモザイクなどの工芸品からうかがえるのは、人物のフォルムの明確さで、彫刻
絵画でムーブマン、動勢をテーマとするとそれは主体的な感情の動きになります。悲しむ人を見るのと悲しみを感じるのとでは客体と主体との違いがあります。力む動作のムーブマンを作り上げればそれは見る人の側に力む感情が湧き上がります。ドラクロワの「ライオン狩り」はそ
「ブログリーダー」を活用して、ハルさんをフォローしませんか?
上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
4/1~6 恵比寿駅アトレの 有隣堂(本館5F書店入口)カモコラージュさんとのコラボで展示即売会をします。小さな日常をテーマにした小さな油絵です。お近くにいらした方は寄って観てください。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラ
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
絵画は文化の中で多面的な存在です。絵画は美術という芸術分野で代表的な作品群ですし、絵本やお絵かきなど子供の頃から親しんできたエンターテインメントですし、各時代を体験できる歴史史料としても蘊蓄を傾け興味深いものです。「絵が好き」「趣味は絵画鑑賞です」と絵を
人々が怪訝な顔をして作品の前を通り過ぎると、突然、これは素晴らしい、これは斬新だ、アイロニーに満ちてシニカルだと称賛する者が現れます。いち早く作品の意味を理解したのだと宣言します。それに乗り遅れまいと数人が理解を共有します。アートの誕生です。世の中の固定
心に浮かんだ形や色を表出するのが抽象ですが、抽象だけでは絵画ではありません。絵画は対象を持ちますが、その対象とは現実の世界に存在するものです。一角獣のように想像の動物が絵には現れますが、角や面は既存の形体から取られ組み合わされたものです。姿は女性で体はラ
絵画にはかたちがあります。絵画は何らかのもののかたちについての絵なのです。ものの仮象性が絵画と他の造形物とを分けています。しかし、その仮象性は表面的な視覚の描写から観念的な形まで含まれます。太陽は円で描かれ、月は三日月、星は五角形で描かれるのは視覚である
遠くの丘が亀の形に見えたり、空の雲がラクダに見えたり、古い木の瘤が人の顔に見えたりするのを仮象性といいます。青い壁が海原に感じたり、青空に感じたりするのも色彩の仮象性です。実在しない対象をその場に表現できるのが仮象性です。絵画の面白さはこの仮象性に基づい
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で