絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
画面では不安定な形ほど目を引きます。倒れそうな花瓶や斜めに置かれたテーブル、崩れかかった果物や、投げ出された布など、日常では整理整頓され、一定の規則で置かれているものが自らの位置を逸脱して配置されていたら気にかかって当然です。画面に平行な形は秩序を表現
絵画は対象を描きますが、そこで表現されるのは対象だけではなくそれを観察し、表現しようとする画家の肖像です。顔貌や容姿はわかりませんが画家がどのような感覚で対象と向き合ったか、また作品を通してどのようなものとして表現したかで、その人の人間性が知れるからです
現代美術の解説では作品の意味、成立の意義が多く語られます。作品からは容易に理解できないからでしょう。理解し難いことを知っているからこそ詳述しなければならないのです。現代美術はイラストレーションではないので、提示された具体物はそのものなのか、意味のある反証
グラフィックデザインはインターフェイスなのでそれのみでは意味内容を持ちません。そこでデザインはわかりやすい対象を写真やイラストレーションから引用します。イラストレーションは作者の対象に対する視点を表現しています。時代性や個人的執着、好悪の感情を媒介させて
イラストレーションは対象を図示したものです。コトバは対象の言語表現ですが、イラストレーションは視覚的な対象表現です。対象を特定し、対象を視覚的に形容します。グラフィックデザインは知覚の機能だけなので、意味や具体的な対象が決められていません。グラフィックデ
抽象絵画が既存の具象絵画へのアンチテーゼとして出てきた事情はわかるのですが、進化論の形を取るとまるで具象絵画が発展して抽象へと進化したと勘違いしそうです。抽象絵画は広義のグラフィックデザインであって、グラフィックデザインを内包しない絵画はありません。具象
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
絵画の透視図法的な古典主義は16世紀の近代的な知性の産物です。美術が大衆に向けて開かれる時、すべての人に認められる合理性のことを知性と感じたのでしょう。すべての人が理解できる説明が合理性です。美術の豪奢をその人の人生において経験したことのない人に伝えるのは
通説の美術史はどこか意図的で強引な進化論的妄想の産物と思っています。美術について語るのに、それぞれの画家や時代を特定する見出しとしては便利に分類されている一般の美術史の名称を利用しますが、各用語の美術史の一般論を解説しようとは思いませんし、その知識もあり
ドラマや映画に出てくる画家の姿は現在一般に絵画や画家と思われているものを暗に示しているのでしょう。専門家の主張はどうあれ、画家はモデルにポーズを付け、画架を据えて、一筆、一筆モデルを観察しながら絵を描いてゆくと思われています。確かに画家はモデルをみてスケ
ラシーヌなどの古典主義演劇の理論に「三一致の法則』というのがあります。「時の単一」「場の単一」「筋の単一」の3つの要素を入れた舞台を古典主義演劇といいます。ラシーヌのような厳密な理論家になると、「時の単一」ではパフォーマンスの経過する実際の時間と、演劇が進
美術の社会的な役割が大きく変化したのが20世紀です。美術以外の多くのメディアが生まれ、美術が担っていた役割の多くを代行するようになります。写真の登場、それに続く写真ジャーナリズムの成立、映像の登場、放送、テレビの普及、雑誌と様々な視覚的なメディアが現れます
テレビを見ていて久しぶりの感動です。昨日、NHKが「日曜美術館」で、東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」を紹介していました。エゴン・シーレのデッサンはゾンビの様に強烈に死の匂いがするので敬遠していましたが、シーレのデッサンをそのまま人形にした宮崎
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
印象派には2つの方向性があります。一つは感覚、視覚の印象です。これは絵画を抽象へと導きました。もう一つは事柄の印象です。事柄の印象とは今自分の身の回りで起きていることの印象です。大げさに言えば自分をも巻き込んで起きている時代性というものでしょうか。馬車が汽
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
絵を描く人は通常の概念的な情報収集のための視覚と純粋な視覚とを行き来します。口元やひげなど対象の認識に必要な部位から衣装や紋章などから始まり、次第に人物の威厳を表すガッチリとした骨格やや包容力を暗示するふくよかな佇まいなどを表現するようになります。画家は
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の自由な発想が面白いと思ったことはありません。子供が素晴らしいのは子どもたちが導き出した具体的な結果ではなく、子どもたちが向き合った対象に寄せた興味関心の新鮮さです。未知の世界を良きものとして立ち向かうその心の元気さを羨ましく思います。児童画では絵の
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を
絵の原点は一人ひとり異なるでしょうから、描く動機を以て絵画の定義とは言えないでしょう。そもそも、20世紀以降の美術の流れは全体として「表現主義」と言えるものなので、描く動機や、表現しようとする気持ちや環境や動機を作品と結びつけて「鑑賞する価値」として来まし
人生を作品と同一視する『no Art,no Life』という美術の捉え方は社会的には素晴らしいと思えますが、それは他人が鑑賞するものではないようにも思えます。一人ひとりの生きている空間が一人ひとりのアートなのですが、それはその人が満足でき、安心できる空間で、生きている
今の時代、活字や絵はあふれているので、それらが初めて人類にもたらされた時の感動を理解するのは難しいかもしれません。幼少期の記憶にもそれらはありふれていてほとんど感動の記憶はないでしょう。稀に特別な図鑑とか絵本とかで絵との出会いを覚えている人がいるかも知れ
絵画はこの国には根付かなかった。素晴らしい名画に触れても、それをほしいとまでは思わなかった。初めから、自分たちとは縁のないものと思いながら展覧会に足を運んでいた。それに反して、写真のような緻密で丹念な写実画には人々が集まり、市場も広がっています。これが我
文化は作り手と受け手の共同の成果です。受け手がいくら文化を要求しても作り手が提供しなければ文化という形を取りません。一定の地域につくり手が居なければその地域の外から文化を移入することが可能です。これは限定的、暫定的な文化の形です。ブロードウェイミュージカ
美術の盛んな時を歴史的に眺めてみますと、画家同士が互いに影響しあい、良いアイディアは盗み合い、互いの才能を認めオマージュとしてもコピーし合いました。アントネル・ダ・メッシーナのナチュラルな絵画がなければそれに続くヴェネティア派の輝きも生まれなかったでしょ
20世紀の絵画鑑賞は展覧会と美術画集です。展覧会で本物に接し、画集で記憶をたどりながら絵画を味わうといったもので、絵の具で直に描かれた絵画を手元において鑑賞する人よりも遥かに多くの鑑賞姿勢です。ペットショップで犬や猫を眺めて飼ったつもりになるのと、拾った猫
20世紀は矛盾に誰もが気づかないふりをする不思議な時代でした。バウハウス、シュプレマティズム、ミニマリズム、抽象絵画が根拠とした造形主義は絵画の造形的な価値を追求しようとしたものであったはずが、いつの間にか歴史的な価値に置き換えられてしまいました。20世紀
美術品とパトロンの関係を歴史を読み解く資料と位置付けると、美術品の造形的価値すなわち普遍的価値から目をそらすようになります。美術作品の鑑賞が歴史学の資料的な関心を生み、更にそのような鑑賞、すなわちこの歴史学的価値を評価する受容者によって歴史観の投影が作品
教会や王侯をパトロンとした絵では描かれる人物は自ら光り輝く存在として描かれます。市民をパトロンとした絵では窓から射し入る光が人々を照らします。作品が受容者によって支えられていると考えると作品の持つ性質と受容者の持つ性質に類似があると考えることができるかも
絵画作品の個体としての価値は古典古代の作品やルネサンスの作品と現代の作品では比べようもないぐらい貧弱になっています。その貧弱な現代の作品を高く評価する理由は文化に時代性をよみとっているからです。時代性を離れて作品を比べたら一目瞭然、ほとんど無価値とも言え
絵画は読み方を知らないと面白さを鑑賞することが難しい分野です。文化には現在何が問題で、それがどのように解決されてゆくかが問題なのですが、絵の解説となると画題の物語の解説や作者の奮闘ぶりなどを伝えるものが中心で、文化を読むという姿勢が希薄です。文化を自然な
ある国で、ある地域で誰が評価されているかはその地域の民度と言えます。民度には受容できる上限と下限があります。その範囲内にその地域での専門画家がいることになります。民度を超えるものも、民度に及ばないものもその文化圏からは排除されます。不思議なことにギリシャ
美術史における19世紀は絵画を高級な陶磁器のような丁寧な仕上げの美しさやペルシャ絨毯のように緻密で手作業の丹念な描写の積み上げといった工芸品の評価と同じような家具としての見方から、絵画独自の美的価値や視覚体験の伝達の場にしようとしたものです。先鞭をきった印
19世紀にヨーロッパで起こった印象派の意味は何だったのでしょう。印象派が光がきれいで、アカデミー派は肌がなめらかということでしょうか。するとラファエル・コランの絵は光がきれいで肌がなめらかな絵なので両派の良いとこ取りで結論だとなるのでしょうか。それは意味が
極限の緻密さを名品として称賛し、工程の大変さを説明し、技術の難しさを語り、ギネスブックのような超絶技巧を好むと言うのはどこの文化にもあるでしょう。ペルシャ絨毯やレース織物、機織りなどでの職人の技。それらの品物の技術は具体的で比較しやすいものです。ところが
どうにも最近の絵を見ていると手作リ、手技を競っているような感じがします。それはそれで良いことなのでしょうが、絵のメッセージとしては窮屈な気がします。伝統工芸展などを見ても凝りに凝り、超絶技巧を極めたような作風が多く見られるのですが、おおらかな佇まいの良い
絵の「価値」もしくは「ニーズ」は社会においても個人においても言い尽くせない多様な面を持っています。社会が必要だと思うものにも「価値」があり、誰かがお金を出してでも守りたいもの、また手に入れたいものにも「価値」があり、自分にとって守りたいもの、身辺において
自分の価値観で絵を描くと言った場合でも、必ずしも「美しい」が目標なわけではありません。良い絵には「美しい絵」と「面白い絵」とがあります。「美しい絵」にはバランスが良い、色が綺麗だ、筆使いが気持ち良いという絵画的なものから景色が気持ち良い、顔がきれいだ、と
ネット検索をしてみると、絵画の基本に『画家は自分が描きたいと思ったものを描いてこそ初めて鑑る人を感動させられる』というフレーズがあります。聞こえは良いのですが、今の時代を見るにそれは逆だと思います。社会と画家個人とが同調したときに受け入れられるので好き勝
古本街以外では美術全集という西洋絵画のお手本集のような本が見られなくなりました。普通の街の本屋に行っても昔のように名画を目にすることはなくなりました。現代の絵画の冒険に寄与した画家たちの作品は目にすることがあるのですが、それらは政治的歴史的な意味での名画
近頃しきりに信仰の功罪を社会通念と照らし居合わせてカルト宗教を裁く話題が多出しています。一般の人々の論理を見ていると、生活に必要な事柄と人生に必要な事柄とではスパンが違いすぎて比較ができなくなっているように感じます。どうやって心地よく生活するかと、どうや
「芸術」を大変に位の高いもので、大衆文化なぞ低俗極まりないと考える人は、芸術に触れて特別に感銘を受け感化された経験を持つ人なのでしょう。それは哲学であり、信仰です。自らの存在を高めてくれると信じることができた時代の名残です。現代はおよそ根底が違います。特
芸術を定義するのに「自己目的」というのがありますが、これは「芸術のための芸術」という標語が独り歩きしたものです。はじめは社会性や宗教や人生などの有用性から切り離した目的性を言いました。詩人のテオフィール・ゴーチエは「芸術のための芸術」を自己の創作の立場と
誰も言いませんが、絵で本当は問題になるのは売るためのものなのか、個人のためのものなのかでしょう。不思議なことに、ゲイジュツは自己目的だから商業目的のものではないと言いながらゲイジュツカを目指します。ゲイジュツという商品を作るためにとりあえずの自己目的を作
裸体画について世間の反応を考えると、黒田清輝の『朝粧』が腰を布で覆って展示された明治時代と現代も大差がありません。今でも覚えているのですが、1981年NHK主催で『アングル展』が西洋美術館で開催されました。主催のNHKの本社入り口に等身大のアングルの『泉』が掲げら
いつも裸を描いているのですが、作品にするとなると時代の裸忌避の圧力が気になり出します。現代は自由で人間性が発展して開放されていると宣伝され、信じ込まされていますが、『裸』に関してはルネッサンス以前の中世のような感じがします。行政やメディアの上で『裸』即『
心地よい天気が続き制作意欲が自ずと高まってきます。夏には色々のエスキースが生まれ刺激の多い期間でしたが、秋になるとエスキースよりも、手を動かして絵画を作りたくなってきます。なぐり描きで通していたクロッキーも手直しして、スケッチ風に描き加えてみたり、単純で
人間は自己を投企する存在だとどこかの哲学者が言っていました。自己は現在あるがままの自己、今まで存在し続けた結果としての自己だけには留まりません。自己を未来に投げ出し、自己を自己として獲得してゆく。そこに事実と真実の違いが見えてきます。そこまで行っても足り
女王の死去に伴う葬儀や居城などの有様を見ていると美術の果たしている役割がよく見えてきます。19世紀美術の大半は新興ブルジョワジーの虚飾だ、キッチュだ、頽廃だと宣伝され、多くは美術の世界から排除されましたが、女王の周辺を見る限りそれらは虚飾ではなく、女王とし
芸術と技術は別の事柄です。芸術は信仰と同じで個人のものですが、技術は社会の文明文化に属するものです。創造性と言っても、個人における創造性と社会における創造性では異なります。個人にはその人個人の歴史があり、社会には社会全体の歴史があります。個人が社会の進歩
芸術には精神を刺激し精神を高める目的と慰謝とがあります。何が芸術で重要か、すなわち芸術のプライオリティを考えるとアイデンティティの保護だと思われます。個人は社会的集団の一員であると同時に家族の中でさえ誰とも違う一個人でもあります。集団のアイデンティティと
各自異なる文化を持っている地域で統一した文化行政をするために、政治が既存の文化を失わせて統一的で健全な文化を導入する必要があった場合、文化を否定する概念を文化の上位に置けば実現できます。文化は個人のものですが、文化の上に権威としての芸術を置いて、文化を卑
自己の判断より社会の判断が優先するならば、教養主義的にならざるを得ないでしょう。自分の判断は間違えるかもしれない。正しい判断をしなければこの社会から排除されるかもしれない。それは社会に深く組み込まれた者には恐怖でしょう。もしくは、社会に深く組み込まれてい
リアリズムは一つの精神状態です。主観をことさら排除して、普遍妥当性を示そうとします。写真が登場すれば、主観からは距離があるとみなされる機械的過程で生まれる画像をリアルと同等に扱います。写真のメカニズムが捉えるのは対象の物理的な外観です。主観を排して客観に
北方ルネッサンスのメムリンクやクラナッハの絵では顔が大きくディフォルメされています。何の不思議もなく、絵は受け入れられます。イタリアルネッサンスでは、特にミケランジェロやティントレットらの絵では顔は極端に小さく描かれていますが、これも問題とはされません。
描いた絵が顔に見るか見えないかを問題にすると、上手い下手というのは関係なくなります。囲まれた範囲に同じぐらいの点が2つあればそれだけで顔に見えてしまいます。4つ、5つの点となるとかき消されてしまいますが、2つでは確実に顔に見えます。多分、人間として生まれて
石ころに顔が現れたり、壁のシミに顔が現れ、樹の節に顔が現れたりするのは、口には出しませんが、見つけると楽しいものです。意外なところに意外な人影が現れたりします。簡単な丸や三角や四角に囲まれたところに目立つ点が2つあれば顔は成立します。やけに簡単なのですがそ
絵画は絵画の楽しみを知る人達のものです。公共の施設としてあったり、教育で必須とされたり、各国の文化の尺度とされたり、様々文化的、社会的、政治的な権威とみなされたりするからと言って、絵画が責任を負う必要は無いのです。絵画が自己批判する必要は無いのです。モダ
モダンアートの狂信者たちは絵画を彫刻などの他の分野から切離ししようとしました。絵画の持つ3次元的な奥行きの表現を否定して、できる限り2次元的であることが絵画の色彩やメディウムの直接な表現力を強めると主張しました。それ故、色彩も柔らかくグレイッシュな中間色で
画家が彫刻をやり、建築に興味を持つ、またファッションやテキスタイルに興味を持ったり、デザインに携わったりします。しかし、絵を否定して建築の優位を主張したり、ファッションの優位を主張して絵を否定したりすることは滅多にありません。ロダンもマイヨールも絵を描き
20世紀の急激な変化を考えてみれば、メディアの急激な専横を確立しただけのことで、人々の精神生活が豊かになった証はありません。家庭が崩壊し、地域社会が崩壊し、地方や国の意識が崩壊し、メディアの一方的な論理、価値観が人々の上に覆いかぶさっています。19世紀までの
現代の生活空間を考えるのに、芸術とりわけ絵画を必要としている心を持たない強靭な精神の人たちが考える美はシンプルな方が良いのでしょう。Tシャツを着てジーンズを履き自分の成功談を語る、それで十分なのです。そのスマートさは成功していることが保証しているからです。
文化には社会全体に関わるものと個人に関わるものとがあり、社会全体の前進を指すものが文明で個人の発展成長を指すものが趣味や思想や芸術です。後者をまとめて狭義に文化とも言うでしょう。この二項対立の概念に対して建築は統一を必要としています。建築を美術の概念の中
芸術文化は個人を土台としたものと私は考えますが、現代は社会が主体となっているように感じます。社会が芸術の良否を判断し、美醜を定義するように見えます。その社会の判断がメディアによって自己の文化の形成が曖昧な人を誘導してゆきます。社会の判断はメディアにも依存
どの様な絵画の試みも、過去の豊かさが確保されているならば、新しい試みは称揚されるべきでしょう。たしかに変化のないことは退屈なことです。退屈を取り払うのが絵画の目的だとするならば奇抜な博覧会や各種のイベントを代行しているものが絵画だとなります。テレビなどは
絵画に限らず事物を定義するのは難しいものです。それを取り巻く環境が絶えず変化するからです。定義というものは周辺領域にあるものとの類似や差異によって概念が形成され、対象を特定できるものとなります。それに対し、近代の絵画観は周辺領域を侵食し、パイオニアである
人を引き付ける要素に珍しさがあるのは事実です。巨大なものは常に興味を引きます。りんごほどのいちごがデパートで売られたり、卵ぐらいに大きなダイヤモンドが陳列されたり、通常の大きさの概念を打ち砕く巨大さと言うものがあります。更に、巨大な岩や巨大な樹木が感じさ
20世紀絵画の隠された悪趣味の一つがキャンバスの大きさです。たしかに16世紀のベネティア絵画や17世紀のルーベンスらの宮廷用の絵画には巨大なものが多くあります。教会堂の大空間には大きなキャンバスも必要だったのでしょう。それらには大画面に相当する物語や画面展開が
悪趣味は「 品の悪い趣味や、そのような趣味を持っている状態。また、人のいやがることや道徳に反したことを平気でやること」と説明されています。悪趣味を楽しめる人と芸術を理解して楽しめる人がともにマイノリティーだと言うことは理解できますが、「芸術はマイノリティー
悪趣味が最も洗練された趣味であると考えるようになったのは何時からなのかは知りませんが、体制や一般の多数者の趣味を疑うところに芸術を位置づけたのはゴヤ辺りから始まるのでしょう。ルネッサンスにもグロッタ趣味がありましたが、それらは今とは違い、むしろ過剰であろ
ピカソが20世紀の代表的な画家と言えるのは、20世紀絵画に特徴的なディフォルメ、ディフォルマシオンを造形の中心においた画家だからです。17世紀にもディフォルメを多用した時代がありましたが、20世紀のディフォルメは様式としての引延しや美的誇張とは異なり一種の悪趣味
我が国のピカソの受容体験を振り返ってみますと、ピカソの絵画の奇妙さをピカソの良さとして受け入れたので、ピカソのロジックに目が向けられませんんでした。そのため、ピカソは良し、マティスは良し、とモダンアートは素敵だ、未来はカッコいい、芸術は爆発だとなりました
ピカソが多用したキュビズムでは三次元の対象や空間をバラバラに切り取って再構成します。自然な空間を前提としなくてもモチーフが断片であっても認識可能であれば全体の元の意味を失わないというイコン的な図像の有効性を示しました。絵をアイコンの集合と考えたところがシ
ピカソの絵画への気付きは限定的なマティスとは異なって、シュールレアリストと共有しています。ピカソもマティスも生涯女性を描きましたが、ピカソのアプローチはマティスのように女性を一つの魅惑的な形体としてみるのにとどまらず、意味を持つアイコンの集合体とみなしま
マティスは20世紀絵画の開拓者のひとりですが、ピカソよりも限定的です。そのことは悪い意味ではありません。マティスは関心を常に美術の中にとどめました。二次元平面の絵画としてのイコンを視覚的な模様の美術として利用したものの、何らかのアイコン、意味としては考えま
20世紀の代表的な画家ピカソとマティスを観察してみるといくつものヒントが見えてきます。ピカソとマティスは生涯の友人同士で20世紀絵画を開拓していきました。20世紀絵画はこの二人の絵画についての気付きから始まりました。「絵画は二次元の平面であり、三次元の空間を表
絵画をグラフィックデザインの視点で見ると、具象性はアイコンであればどのようなディフォルメがされてあっても問題にはなりません。ただの円を「私」、三角を「あなた」にしても良いのです。イコンの絵画とリアリズムの絵画がチラチラと反転しあって不条理な意識や詩的感覚
三次元の絵画空間に象徴画像のアイコンが登場するとポエジーが生まれるということを明確にしたのがデルボーの絵です。それは紛れもなく20世紀の絵です。20世紀の絵画の次元は科学趣味の透視図法的な3次元に有史以前の絵や文様や中世のイコンに見られるようなアイコンによる造
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絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で
画面では不安定な形ほど目を引きます。倒れそうな花瓶や斜めに置かれたテーブル、崩れかかった果物や、投げ出された布など、日常では整理整頓され、一定の規則で置かれているものが自らの位置を逸脱して配置されていたら気にかかって当然です。画面に平行な形は秩序を表現
絵画は対象を描きますが、そこで表現されるのは対象だけではなくそれを観察し、表現しようとする画家の肖像です。顔貌や容姿はわかりませんが画家がどのような感覚で対象と向き合ったか、また作品を通してどのようなものとして表現したかで、その人の人間性が知れるからです
現代美術の解説では作品の意味、成立の意義が多く語られます。作品からは容易に理解できないからでしょう。理解し難いことを知っているからこそ詳述しなければならないのです。現代美術はイラストレーションではないので、提示された具体物はそのものなのか、意味のある反証
グラフィックデザインはインターフェイスなのでそれのみでは意味内容を持ちません。そこでデザインはわかりやすい対象を写真やイラストレーションから引用します。イラストレーションは作者の対象に対する視点を表現しています。時代性や個人的執着、好悪の感情を媒介させて
イラストレーションは対象を図示したものです。コトバは対象の言語表現ですが、イラストレーションは視覚的な対象表現です。対象を特定し、対象を視覚的に形容します。グラフィックデザインは知覚の機能だけなので、意味や具体的な対象が決められていません。グラフィックデ
抽象絵画が既存の具象絵画へのアンチテーゼとして出てきた事情はわかるのですが、進化論の形を取るとまるで具象絵画が発展して抽象へと進化したと勘違いしそうです。抽象絵画は広義のグラフィックデザインであって、グラフィックデザインを内包しない絵画はありません。具象
20世紀の本当の絵画はイラストレーションとグラフィックデザインです。それが20世紀の絵画美術の姿です。過去の時代の美術を語るときに持ち出されるのはその時代に享受された美術作品です。ギリシャ・ローマ時代は神像や室内装飾でしたし、ルネッサンス時代には王宮や教会
絵画の透視図法的な古典主義は16世紀の近代的な知性の産物です。美術が大衆に向けて開かれる時、すべての人に認められる合理性のことを知性と感じたのでしょう。すべての人が理解できる説明が合理性です。美術の豪奢をその人の人生において経験したことのない人に伝えるのは
通説の美術史はどこか意図的で強引な進化論的妄想の産物と思っています。美術について語るのに、それぞれの画家や時代を特定する見出しとしては便利に分類されている一般の美術史の名称を利用しますが、各用語の美術史の一般論を解説しようとは思いませんし、その知識もあり
ドラマや映画に出てくる画家の姿は現在一般に絵画や画家と思われているものを暗に示しているのでしょう。専門家の主張はどうあれ、画家はモデルにポーズを付け、画架を据えて、一筆、一筆モデルを観察しながら絵を描いてゆくと思われています。確かに画家はモデルをみてスケ
ラシーヌなどの古典主義演劇の理論に「三一致の法則』というのがあります。「時の単一」「場の単一」「筋の単一」の3つの要素を入れた舞台を古典主義演劇といいます。ラシーヌのような厳密な理論家になると、「時の単一」ではパフォーマンスの経過する実際の時間と、演劇が進
美術の社会的な役割が大きく変化したのが20世紀です。美術以外の多くのメディアが生まれ、美術が担っていた役割の多くを代行するようになります。写真の登場、それに続く写真ジャーナリズムの成立、映像の登場、放送、テレビの普及、雑誌と様々な視覚的なメディアが現れます
テレビを見ていて久しぶりの感動です。昨日、NHKが「日曜美術館」で、東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」を紹介していました。エゴン・シーレのデッサンはゾンビの様に強烈に死の匂いがするので敬遠していましたが、シーレのデッサンをそのまま人形にした宮崎
明文化されたものではないとしても、古典主義には古典主義の論理があり、ロマン主義にはロマン主義の論理があります。印象派にも印象派の論理があります。いずれにしても創作は現在感じていることの表現ですから、古典主義であるならば、現在の感情を神話や人々の知っている
印象派には2つの方向性があります。一つは感覚、視覚の印象です。これは絵画を抽象へと導きました。もう一つは事柄の印象です。事柄の印象とは今自分の身の回りで起きていることの印象です。大げさに言えば自分をも巻き込んで起きている時代性というものでしょうか。馬車が汽
日常の視覚は対象を認識し特定する役割をしています。視覚はすべてを知覚するのではなく、対象に必要と思われるものに特化して認識します。人であれば、大人か子供か、怒り顔か笑顔か、親か他人か、といった情報を瞬時に見分けるのです。視覚は予めある概念と対象の特徴を確
絵を描く人は通常の概念的な情報収集のための視覚と純粋な視覚とを行き来します。口元やひげなど対象の認識に必要な部位から衣装や紋章などから始まり、次第に人物の威厳を表すガッチリとした骨格やや包容力を暗示するふくよかな佇まいなどを表現するようになります。画家は
表現主義の考えもしくは論理では絵画が対象の印象から離れてその絵画を見る者の印象を作品の目標とするような脱絵画を良しとしました。美術における絵画の対象性を持つという特殊性を無視し始めたのです。脱絵画の兆候からその発展、歩みを高く評価しました。それらの作品は
子供の自由な発想が面白いと思ったことはありません。子供が素晴らしいのは子どもたちが導き出した具体的な結果ではなく、子どもたちが向き合った対象に寄せた興味関心の新鮮さです。未知の世界を良きものとして立ち向かうその心の元気さを羨ましく思います。児童画では絵の
子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに心奪われもしました。無垢で純粋な感動が世界を