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これまでの内容をまとめてみます。武田信玄ゆかりの埋蔵金が埋まっているとされるのは、鶏冠山麓の花魁淵の近く、笹子峠の地蔵小坂、身延山麓の3カ所となります。花魁淵は、グーグルマップでも表示されますが、本当の花魁淵は柳沢川を上流へ1kmほど上った藤尾橋の近くで、
穴山梅雪の埋蔵金の続きです。(この話は少々長いです)大正2(1913)年、横浜の花咲橋に三影丹波という優れた霊術師がいると聞いた諸澄吉朗は、丹波のもとを訪ね、埋蔵場所を示した紙片の解読を依頼します。丹波は二日後に亡くなりますが、妹の留子が解読結果と霊視内容を
最後は穴山梅雪の埋蔵金です。といっても、もともとは信玄の軍用金で、信玄の命で元亀4(1573)年に柳沢峠(山梨県甲州市)に埋めたものを、織田・徳川軍に寝返った後に居城の下山城(同県身延町)に移し、さらに某所に埋めたとされるものです。天正10(1582)年の武田氏の
続いて武田信玄の後を継いだ武田勝頼の埋蔵金です。織田・徳川連合軍の猛攻と、重臣の穴山梅雪らの寝返りで窮地に追い込まれた勝頼は、未完成の新府城(山梨県韮崎市)に火を放つと、主従40人で天目山(甲州市大和町)へと逃れて自害します。自害の直前、勝頼は「敵に渡すの
最初に取り上げるのは、武信玄が黒川金山(山梨県甲州市塩山)の坑道に隠したとされる埋蔵金です。近くを流れる柳沢川に「花魁(おいらん)淵」と呼ばれる滝がありますが、これは信玄時代に、この上に釣屋台を設けて坑夫相手の遊女55人を集め、宴会のさなかに藤蔓を切り落と
埋蔵金マニアの間で、三大埋蔵金に劣らぬ人気を持つ武田信玄の埋蔵金について、情報をまとめてみたいと思います。戦国時代に一大勢力を誇った信玄が、金山の開発・経営を積極的に行い、独自の甲州金を発行して軍用金や恩賞に用いたことは有名です。そして、軍用金の一部は万