メインカテゴリーを選択しなおす
馬国憲法についての投稿です。憲法の来歴、そして、根幹にあるイスラム教と国民の自由との関係を紐解きます。筆者は、馬国憲法が、けしてイスラム優位ではなく、むしろ人間に公平な来歴を持っていると理解しました。
20回の連載で紹介してきた19世紀クアラルンプールの最終回です。戦後の葉亞來の活躍と、有能な行政官だったFrank Swettenhamの尽力で、KLは立派な近代都市に成長し、19世紀末の1989年に初期マレー連邦の首都になったのです。
初代レジデントのJ.G. Davidsonが1875年にKLを視察「殆ど全ての錫鉱区は水没。建屋・機器・資材は焼失・破壊。鉱業は借金で建て直していたが、返済は滞り、債権者の圧力が強い中、商社からの資金調達もほぼ不可能。それがKLだった。
葉亞來が、屈強な戦争請負人であるSyed Masshhorを撃破できた背景は、Tungku Kuding総督の全面的な信頼と協力、Pahang軍との連携、そして葉亞來本人の戦略力でした。今回は、これまでのあらすじも載せました。
KLの父と呼ばれた華人リーダーの葉亞來の生涯の物語で、主人公が体験した最も悲惨で最も屈辱的な年は西暦1872年でした。この年に彼は、守ってきたクアラルンプールを宿敵に奪われてしまいます。しかもその原因は王族の利権争いであり、華人集団には責任はありませんでした。
Selangor Sultan の名代、そしてセランゴール戦争の正規軍の総督であるTungku Kudinは、これまで一枚岩で戦ってきた葉亞來軍の上に、欧州人の司令官を配置して、葉亞來たちを当惑させます。一方、頼りのKLの同胞領主が次々に敵側に寝返ります。
Ampang地区での勝利で得た反省点から、葉亞來軍は、さらに組織力を強めます。敵がRawang地区で新たな紛争を開始しましたが、複数の中隊(200〜300人規模)を器用に動かす葉亞來軍の頭脳戦の前に崩壊しています。
KLが首都になる10年以上前、数千人規模の軍事衝突が1870年の9月から10月に発生しました。葉亞來がKapitan(いわば華人行政長官)をつとめた華人クアラルンプールは、大きな人的被害を受けながらも、領地を奪われずに生きながらえます。
今週(2024,3.11-15)は注目すべき話題が3つありましたので、まとめてお伝えします。考古学的発見、政府が払う?巨額のキャンセル料、そしてシンガポールの最新イミグレ・テックが始動
クラン戦争とセランゴール戦争は同意ですが、クラン戦争というと、戦場がクランだけだったかの印象を与えます。しかし、この戦争(1866-1873) はマレーシア史上に残るスケールでセランゴール州全体の覇権をかけた数千人規模の戦争だったのです。
宿命とも運命とも言える史実の流れの中で、葉亞來が率いていた恵州華人集団は、張昌が率いる嘉応州客家集団との武力衝突だけでなく、KL地区のKapitan China としてTungku Kudinの陣営の支援部隊の立場に立たされます。
本来、葉亞來の同郷であり「仲間」であったはずの恵州客家の「張昌」が深い悲しみと恨みの果てに、セランゴール北部の嘉応州客家を動かして葉亞來を徹底攻撃した背景を探ります。葉亞來を本気で怒らせた宿敵でした。
葉亞來がKL甲必丹への就任した年1989年は、皮肉なことに、親友が殺害されたり、クランバレーの小さな利権争いが、近隣のKedahの皇室を巻き込む戦争に拡大した悲惨な事件ばかりの年でした。普通の人なら逃げ出すような社会環境です。
1862年.葉亜來は劉壬光が仕切っていたKLの行政および錫鉱区の管理業務を手伝い始めました。そして、前任者の健康が優れず、最終的にKLのすべての業務を引き受けることになります。これをやってのけた葉亜來は当時の華人社会では無双の実力者だったのです。
1862年、葉亜来は劉壬光の招きに応じてクアラルンプールにやってきて地元の管理を手伝い始めます。彼の到着以降、小さな集落であった華人のクアラルンプールの開発は進み、葉亜来自身も2箇所の錫鉱区を任されて躍進します。
最初にクアラルンプールに入植した華人商人はHie Siew(丘秀)と Yap Ah Sze (葉亞世?)の2名です。彼らは錫鉱業で成功していたLukut で鉱区の設備を所有していましたが、Ampang で錫鉱脈発見のニュースを聞いて、彼らのリソースを提供しに来たのです。
残念なことは、日本の観光ガイドやWikipedia の情報(日・英)では、有名な「仙四師爺廟」がどのような経緯で、何故建立されて、何故大切に保守管理されているかについて「充分説明されていない」ということです。この記事をご一読ください。
全く無名であった葉亞來が、英領マラッカに移民してから僅か7年で、錫鉱業地域のひとつであった芙蓉(Sungei Ujong)の中国人の首長に就任したという史実は、当時は大変な快挙だったといえます。葉亞來は当時24歳です。
現在のマレーシアのヌグリ・スンビラン州ポート・ディクソンの北東に位置する町「ルクト」で錫鉱脈が発見されたのは1840年です。若き「葉亜來」が滞在したのは1856年頃から3年間。利権争いの暴力沙汰に巻き込まれず、3年間しっかり働けたのは幸運でした。
「葉亞來」が英領マレーに到着した最初の2年間は、仕事も手につかず、ギャンブルで有り金を使い果たすという親戚泣かせの「情けない」青年の話なのですが、これが彼の本質でないことは、やがて明らかになってきます。
KLを含むセランゴールの動乱の背景には、英国の海峡i植民地時代の華僑の豪族と英国の経済支配がありました。その支配層はマレーの領地の内部ではなく、外側から資本を打ち込んで糸を引くような動きをしていました。
ひとりの華人が、19世紀の大英帝国に現在のムルデカ広場を提供し、セントラル・マーケットの建造を指揮し、今でも保全されているKL最古の道教の寺をチャイナタウンに建て、洪水や火事で何度も崩壊しかけたクアラルンプールを守り続けたと言われています。