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先の日曜日に放映がなされました・・・。60分の拡大枠で放映されました。 前半戦は、大阪夏の陣のクライマックス。真田幸村よりも、大野治長よりも、そして豊臣秀頼よりも、北川景子さん演じる淀君の壮絶なラストという感じでした・・・・(^^;)。 そして後半は、家康の死と物語のエンデ...
大掃除終了 今週もあと十日余り これから人と会う機会も増えるので、 朝イチで白髪染めのヘナを塗ってから、 先週やり残した大掃除に着手 先週、台所と洗面所の水周りは終了したので、 残りの寝室と個室に取りかかった 寝室には夫婦それぞれのクロゼッ
上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の徳川家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と天海に遺言し、寛永4年(1627年)、上野の高虎の敷地内に創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。現在の社殿は慶安4年(1651年)徳川家光が改築したもの...
ポンコツ神君,ずーっとあのまま遊んでいられたらよかったのにね・・・ 檄を飛ばす茶々サン,千姫チャンが凛々しい。 茶臼山のポンコツ神君,これまでの集大成のような迫力がありましたな。鬼気迫るというか。 戦が終わって老人二人。こういうのは今までなかったな。病床でもしんみりと交流してたし,美味しいところを持っていきましたな, 詐欺師 謀臣の正信サン。最後まで生き残った者の特権(微笑) 千姫チャン,気持ちはわかるけど,...
「どうする家康」の最終回で、小栗旬さんが天海役でサプライズゲスト出演をされたので、今日は天海中心の記事をアップします。1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言。 天海は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に多くの伽藍や子院が建立しました。上野の寛永寺は、天台宗関東総本山の寺...
今から10年以上前のことになりますが、紅葉の季節で賑わう日光へ旅行して来ました。日光といえば日光東照宮徳川家康を神と祀る日光山内の最も有名な寺社です。五重塔三神庫には、狩野探幽が実物を見ることなく描いたという「想像の像」が見られます。そして神厩舎には、誰もが知っている三猿があります。「悪事は見ざる、聞かざる、言わざる」は、8枚の彫刻の中の2枚目に当たり、人の人生の移り変わりを描いています。通称「うっ...
久能山東照宮に行くには、「静岡鉄道日本平ロープウェイを利用する方法と「久能山下からの徒歩ルート」があります。車:東名静岡・清水インターより日本平山頂(約40分)⇒ 山頂より日本平ロープウェイ(5分)バス:JR静岡駅より、しずてつジャストライン日本平線(約50分)終点「日本平」で下車すると、ロープウェイ乗場入口です。私はロープウェイを利用しました。この前の台風で山肌が削られたり、崩れたりしたところがあるそう...
【どうする家康】#47 「乱世の亡霊の王」を育てた拗らせ茶々、過ちに気づくも遅かった
罪なのは、美しき「憧れの君」松潤家康だった NHK大河ドラマ「どうする家康」ラスト前の第47回「乱世の亡霊」が12/10に放送された。前回は冬の陣、今回は夏の陣かと思ったら、講和と夏の陣に向かうまでの話だった。となると、次の最終回は夏の陣と家康の終活か。 まずは公式サイトからあらすじを引用させていただく。 家康(松本潤)の大筒による攻撃で難攻不落の大坂城は崩壊。茶々(北川景子)の妹・初(鈴木杏)と阿茶(松本若菜)が話し合い、秀頼(作間龍斗)が大坂に留まることと引き換えに、城の堀を埋めることで和議が成立する。だが乱世を望む荒武者たちは全国から大坂城に集まり続け、豊臣を滅ぼすまで平穏は訪れないと、…
田中城は、静岡県藤枝市田中にあった輪郭式の平城で、江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた城です。駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は、鷹狩りのため、度々田中城を訪れたといわれています。家康は元和2年(1616)4月巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳で死去しましたが、鯛の天ぷらが原因という説があります。同年1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は御用商人茶屋四郎次郎清次に上方での流行を...
本丸堀 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 銀座の柳 二...
徳川家康は、天正14年(1586年)12月4日、17年間過ごした浜松城から本拠を駿河国の駿府城へ移しました。これは、出奔した石川数正が、浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説があるそうです。駿府城は、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川家の居館(今川館)が築かれ、今川家の居城となっていました。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領...
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。栖霞観跡本堂(釈迦堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まり、また...
大阪の谷町9丁目駅から徒歩5分ほどのところにある生国魂神社(いくたまじんじゃ)生魂(イクタマ)とは、生まれたばかりの魂という意味があるそうです。社伝によれば、神武東征の際、神武天皇が、生島神・足島(たるしま)神を、現在の大阪城付近に祀ったのに始まると伝えています。戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失。天正11年(1583年)豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を...
1615年(慶長20年)徳川家康は浪人解雇と豊臣家の移封を要求しましたが、豊臣秀頼は父の城を捨てるわけにはいかないと拒否し、大坂夏の陣が始まりました。淀殿は、女性でありながら、甲冑に身を包み、豊臣方の総大将として徳川との戦に臨みましたが、堀を埋められた豊臣に勝ち目はなく、ついに大阪城は落城。淀殿は、秀頼の「豊臣の人間として果てたい」という言葉で、自分もともに自刃することを決めました。家臣に救出された千姫...
何度見ても,茶々サンが千姫に覆い被さるシーンは,よきですな・・・。 お初サン,最初の印象よりもしたたかでございますね。で,大蔵卿局が表情演技でセリフなしってのが贅沢だな(笑)。・・・天命に逆らうなってお告げですか?(苦笑)茶々サンの中の何か・・・ね。 「あるいは大御所様かも」の言葉が,痛い。ここに来て,ポンコツ神君に重い荷物を背負わせましたな。今作で,多分一番重い「回収」じゃないか? 千姫の親別れの場面,...
大坂冬・夏の陣ゆかりの地 どんどろ大師~堀越神社~四天王寺庚申堂~徳川家康本陣跡
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康の嫡男で、慶長12年(1607年)、父親の遺領を継いで越前北庄(福井)68万石の当主となりました。慶長16年(1611年)には徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、二万以上の兵を率いて、真田丸の攻撃を行いましたが、進撃命令が出ないのに、無理な突撃を敢行して、真田信繁の罠に嵌り、真田勢の攻撃により大敗。軍令違反の攻撃のうえに大敗という...
大阪の平野区にある志紀長吉神社は、古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社で、真田信繁(幸村)ゆかりの神社です。大坂夏の陣の時、信繁は道明寺の戦いから退却の途中で当社に立ち寄り、軍刀や軍旗を奉納して戦勝を祈願しました。志紀長吉神社の境内ではなく、南側の鳥居のある交差点より少し南に入ったところに、真田幸村休憩所跡があります。門を開けると石碑があります。信繁が、大坂夏の陣の時、南河内誉田において東軍伊...
【港区散歩その4】「NHKキャラクター展」でいろんなキャラクターに見入る!
2023年11月3日、前回の記事からの続きです。「NHKキャラクター展」を開催中でした!開催期間は2023年10月17日(火)~2024年1月28日(日)どーもくんの口が入口になっています。昭和50年代から現在までのキャラクターが集結!どーも、どーも!!「ニャンちゅう」「ねほりん」「ぱほりん」は期間限定の展示(~11月26日)「ぬっしー」「いないいないばあっ!」の「わんわん」「うーたん」懐かしい~!2003年から約20年間活躍して...
大坂夏の陣、いよいよ最終決戦・天王寺・岡山の戦いです。慶長20年(1615年)5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布き、幕府方は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。豊臣軍は、天王寺口には真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣。幕府方の配置は、大...
【どうする家康】#46 家康不在で豊臣が勝利したら、秀頼はプーチンのようになったのか
砲撃にさらされ過呼吸の千姫。秀忠も泣く NHK大河ドラマ「どうする家康」は大詰めの第46回「大坂の陣」を12/3に放送した。あらすじを公式サイトから引用する。 豊臣家復活を願う方広寺の鐘に、家康(松本潤)を呪う言葉が刻まれたという。家康は茶々(北川景子)が徳川に従い、人質として江戸に来ることを要求。激怒した大野治長(玉山鉄二)は、両家の仲介役・片桐且元(川島潤哉)の暗殺を計画。家康はついに14年ぶりの大戦に踏み切る。全国大名に呼びかけ、30万の大軍で大坂城を包囲、三浦按針(村雨辰剛)に用意させたイギリス製大筒を配備。そんな徳川の前に真田丸が立ちはだかる。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「ど…
東大阪市の蓮城寺は、豊臣方武将・木村重成の菩提寺で、若江の戦いの際、重成はこの辺りに布陣しました。 母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれています。 慶長19年 (1614) 大坂冬の陣には玉造口を守備し奮戦。 元和1 年(1615) の大坂夏の陣で、長宗我部盛親らと出撃し、八尾・若江で井伊直孝、藤堂高虎と戦って戦死しました。 境内には重成の位牌堂があ...
道明寺合戦は、真田信繁(幸村)軍と伊達政宗軍が激突。片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人が激突しました。2014年11月、道明寺駅前に建立された道明寺合戦記念碑当時の道明寺は、現在の道明寺天満宮の階段下南側にあり、この辺りに西軍が陣を布き、真田信繁は、後藤又兵衛、毛利勝永と打倒徳川の誓いの盃を交わしたと伝えられ、道明寺の戦いの舞台になったといいます。道明寺天満宮道明寺天満宮は、土師氏の氏神として創建され、の...
大阪市城東区の白山神社の創建年月は不詳ですが、明治5年までは、白山権現と称し、応永(1394年)の頃から中浜・鴫野・森の諸村の氏神でした。 天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺を攻撃した時、社殿を焼失しましたが、慶長8年(1603年) 豊臣秀頼により再建されました。 拝殿の見事な彫刻 同19年、大阪冬の陣による兵火で再び焼失し、元和3年(1617年)大坂城代内藤紀伊守により再建されました。 歯痛治癒に霊効があることで...
大阪市城東区今福に鎮座する三郷橋稲荷神社この辺りは、大坂冬の陣で、後藤又兵衛(基次)、木村重成、が、佐竹義宣、上杉景勝と戦った激戦地でした。神社の前に、「大坂冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦い跡」の碑があります。側面には、木村重成・後藤基次奮戦の跡地と書かれています。慶長19年(1614年)、大坂城攻撃のため、現在の天王寺、茶白山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生は秋田城主佐竹義宣、鴫野には...
大阪天王寺のJR玉造駅から約5分、真田山丘陵に鎮座している三光神社反正天皇時代の創建と伝えられ、天照大神、月読尊、素戔嗚尊を祀り、日本全国で唯一の中風除の神として広く知られています。 「真田丸」が放送された年に行ったので、真田信繁を演じた堺雅人さんのポスターが飾られていました。境内には「真田の抜け穴」といわれる石室状の横穴が残されています。当社は、大坂城の出城(真田丸)のあったところで、慶長19年(1614)...
アヴァン,崇伝と羅山の掛け合い,笑える〜。前回,呼び出されただけで横から鐘銘にオチが付けられてたんで,セリフなしかと心配してますたw 且元サン,例によって胃が痛い演出であります。「豊臣秀頼」を生きる秀頼クンのビミョーな表情が,悪くない。 総大将を勧める江サンの表情,娘を案じる故とは言え,血は争えませんな(苦笑) ところで,バックで遊んでるお子たちを見守ってるボヤけた姿は,もしかしてあのお方ですか? 織田...
お日様がのぼります12月4日(月)みなさま おはようございます 大河ドラマ ご覧になりましたか 千姫の上から天井が崩れ落ちてくるのを茶々が身を挺して救いましたどのような気持ちをもったのでしょう茶々に人のこころが見えました涙が出てきました・・・・・ ”大坂の陣”朝ドラ ご覧になりましたか すず子の楽団は どうなるのでしょうね月曜日 しょっぱなから 六郎に関する知らせが入りましたね・・・・・厳し...
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。豊臣家は、浪人を集める策を採り、九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈り、信繁に九度山を出るように説得します。信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の大助幸昌と共に大坂城に入場しました。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたといいます。信繁は、大坂城の最弱部であ...
【どうする家康】#45 涙のプリンス秀忠こそが、戦を求めない「王道」を成す者
サブタイトルは「二人のプリンス」でも NHK大河ドラマ「どうする家康」第45回「二人のプリンス」が11/26に放送された。いやあ、11月もこれで終わり、残るは12月の3回分だけ。視聴者側のこちらの気持ちも急いてくる気がする。まずはあらすじを公式サイトから引用する。 関ケ原で敗れ、牢人となった武士が豊臣の下に集結していた。憂慮した家康(松本潤)は、秀頼(作間龍斗)を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとする。しかし、初めて世間に姿を見せた秀頼の麗しさに人々は熱狂。脅威を感じた家康は、秀忠(森崎ウィン)の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようとする。そんな中、豊臣…
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
1614年(慶長19)年、方広寺鐘銘事件により、豊臣方と徳川方と対立が激化すると、両家の調整役の片桐且元は、戦争を避けるために徳川家康との和平交渉に奔走しましたが、家康と交渉している間に、大野治長や淀から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を追放されてしまいました。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となり、家康は総勢20万の大軍で、秀頼のいる大阪城を包囲させました。片桐且元一方、豊臣方は、旧豊臣系の大名に味...
以心崇伝(いしん すうでん)は、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれています。京都南禅寺金地院の慶長10年(1605)の住持となり、徳川家康に仕え、外交事務、方広寺鐘銘事件や寺社行政、寺院法度、禁中並公家諸法度などの起草、キリスト教の禁圧、紫衣事件に関与し、幕府の基礎づくりに貢献しました。黒衣(こくえ)の宰相とも称されましたが、称されましたが、家康の死...
かつて方広寺の大仏の台座があったとされているところは、「大仏殿跡緑地公園」として整備されています。中央の盛り上がったところに、大仏が安置されていたそうです。 大仏殿跡緑地 かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。現在の緑地はその中央部にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。調査...
京都国立博物館の平成知新館は、昭和41年に建てられた平常展示館をリニューアルしたもので、2014年9月に開館しました。設計は、谷口吉生氏。ニューヨーク近代美術館 新館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、豊田市美術館などを手がけた世界的建築家です。庭を眺望できるレストラン広々としたロビーや展示場は解放感があって、ゆったりとできる空間です。庭園には噴水もあります。この噴水の辺りに、あの問題の方広寺の鐘があったそう...
京都の東山にある方広寺は、天台宗山門派の寺で、豊臣秀吉により建立されました。しかし、「方広寺」という寺号は、江戸時代初期の文献には見られず、自然発生的なものとされています。方広寺大仏を発願した秀吉は、正式な寺号を定めておらず、当時は単に大仏(殿)、新大仏(殿)・京大仏(殿)・東山大仏(殿)・京東大仏(殿)・洛東大仏(殿)などと呼ばれていたそうです。天正14年(1586年)大仏殿の造営が開始され、文禄4年(...
のっけから出た,茶々サマのパワハラ〜www あ,オープニング元に戻った。あの回だけだったんか〜い! 結構気に入ったんだけどな〜。最終回とかで,も一度やってくれんかしら。 豊臣公家化戦略・・・頭の切れる息子は,飄々とした親父には勝てないんだよな〜。 清正クン,かっこい〜(笑) 秀頼クン,若いながら凄みを出してるのが,よき。偉大なる凡庸・秀忠クンとはえらい違い。 最初の対面の場から,和やかに火花散ってるし。 ど...
【どうする家康】#44 家康が徳川SDGsに目覚めた10年、秀頼は大成長
母に欺かれていた家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」は第44回「徳川幕府誕生」が特別なオープニングと共に11/19に放送された。今回だけのスペシャルバージョンだそうな。今回は1600年の関ケ原の戦いが終わってのひととき、というよりも1611年に手が届く10年もの期間がブワーッと一気に巻き気味に描かれ、家康の母・於大、股肱の臣の平平コンビ(本多忠勝、榊原康政)、そしてドラマでは出てこなかったが家康の息子らが死んでいった。 この間、大坂方の豊臣秀頼が確実に成長していく。一方、家康は天下を返さぬための手を打っていった。 あらすじを公式サイトから引用する。 家康(松本潤)は大坂城で、関ヶ原の戦勝報告…
元離宮二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が京都の守護および上洛じょうらく時の居城として築城した城で、慶長16年(1611)3月28日、家康と豊臣秀頼の会見が行われました。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいましたが、家康は織田有楽や高台院を仲介として上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功しました。Wikipediaによると、「前日の27日未明に、福島正則などを留守居役として秀...
愛知県知多郡阿久比町の洞雲院は、徳川家康の生母である於大の方の菩提寺です。948年(天暦2年)、菅原道真の孫である菅原雅規が開基となり、洞雲院の前身となる久松寺を創建したと伝わります。1494年(明應3年)、雅規の後裔である久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建しました。1547年(天文16年)、久松俊勝のもとに於大の方が再嫁され、坂部城に在城の15年間に三男四女の子女が出生しています。寺伝によれば、平安時代、天暦2...
岡崎の大泉寺は、徳川家康が生まれた翌年、母・於大の方によって創建された寺院です。於大の方が懐妊した際、俊恵蔵主という名僧が岡崎城内の持佛堂薬師如来前で毎日安産の祈願を行いました。家康が無事誕生したことから、俊恵蔵主を開基、安産を祈願した持佛堂の薬師如来を本尊とし、城の東北にあたる場所に大泉寺が建立され、以来安産祈願の信仰を集めるようになりました。開山時の表記は「大仙寺」でしたが、慶長6年(1602)に...
伝通院(傳通院)は、東京都文京区小石川三丁目にある徳川将軍家の菩提寺です。慶長7年(1602)に徳川家康の生母・於大の方が逝去し、伝通院を菩提寺としました。伝通院の墓地の北側に徳川家の墓域があり、於大の方、千姫などの墓が建っています。於大の方の墓家康の生母で、法名は伝通院。於大の方は享禄元年(1528)三河刈屋城主・水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚し、竹千代、後の徳川家康...
今回は、関ヶ原で勝利した後の10年が一気に描かれました(^^;)。 やはり、家康の75年の生涯を描ききるには、1年の大河ドラマをしても、短いと言わざるを得ないという感想です。 家康の生涯を50回分の放送でどう割り振るかは脚本家の腕の見せ所でしょうが、このたびのドラマは家康の...
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。五重塔は、天慶5年(942)平公雅が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭いましたたが、その都度再建されました。境内からスカイツリーが見えます。平公雅 たいらの-きみまさ平安時代中期の武人。平良兼(よしかね)の子。平将門(まさかど)の従兄弟。一族と抗争していた将門と対立,天慶(...
富士見櫓から蓮池濠の石垣沿いに遊歩道を北に進むと、植込みの中に松の大廊下跡の標石があります。松の大廊下跡忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が殿中で吉良上野介義央への刃傷事件を起こした場所です。廊下に沿った襖戸に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれ、江戸城で2番目に長い廊下でした。石室抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが...
戦勝報告の時の茶々サンのお顔が,コワイんだわ・・・。治部ドノに続いて,息子にまで不信感を吹き込むなど,ラスボス活動に余念がありません(笑) 詐欺師,違った謀臣正信サンも,他の皆も年取ったのぉ。まあ,しょっちゅう戦さに出てれば,体の傷みも増えるわけだし・・・その筆頭が万千代だよなぁ。語り死に・・・。 タイトル音楽,ピアノ主体に編曲が変わりましたな。映像も変わってるし,終盤へ向けての助走ですか〜。 息子に...
現在の江戸城の前身は、 1457年 に 麹町台地の東端に太田道灌 が築いた 平山城 です。 1590年 に 徳川家康 が江戸城に入城してからは、徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が行われました。3代・徳川家光に至る数回の工事で完成し、その後、数度の火災と改修を繰り返しましたが、本丸は幕末に焼失。明治になって皇居となり、西の丸跡に宮殿が建てられました。現存建造物としては、本丸の富士見櫓、宝蔵、...
こんなに凛々しい小早川秀秋、見たこと無い NHK大河ドラマ「どうする家康」もいよいよの第43回「関ヶ原の戦い」が11/12に放送された。最近は関ヶ原の戦い周辺の研究が特に進展しているそうで、昔のドラマや映画で慣れ親しんできた戦いの様相は、まさに様変わりの勢いだそうな。 そんな中での「どう家」だ。注目のひとりは何といっても小早川秀秋(嘉島陸)。お約束の家康からの「問い鉄砲」はどうした?無いじゃないか。 ドラマの秀秋は、家臣に徳川方に付いたと言いふらされていると聞かされても「気にするな。戦の成り行きのみを見極めよ」と冷静さを発揮。家康が桃配山から陣を進めた絶好タイミングを見て取ってから凛々しく采配…
彦根市中央町の長松院は、井伊直政が荼毘に付されたところです。慶長7年(1602年)直政は、関ヶ原の戦いで受けた戦傷で、破傷風にかかり病没。その遺意により当時暴れ川であった芹川の三角州にて荼毘に付されました。その跡地に創建された寺院が長松院です。故事によると、善利川(現芹川)の中州において、慶長7年2月1日、井伊直政が42歳にして死去、生前より遺言されていた当地において火化し骨灰遺物を埋葬、塚を建立しその傍に...
慶長5年(1600年)井伊直政は、徳川家康から佐和山18万石を拝領し、井伊家を彦根へと移しました。直政は生前、彦根にも龍潭寺を建立するよう言い残し、井伊谷・龍潭寺の五代目の住職となった昊天が遠江国から分寺し、彦根の龍潭寺を開山しました。龍潭寺の建立されている佐和山は、石田三成の居城・佐和山城があった地でもあることから、参道の入り口近くに石田三成の像があります。いつものように、石田様にご挨拶して、緑に囲まれ...