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彦根城跡から夢京橋キャッスルロードに出ると、通りの真ん中に浄土宗の宗安寺があります。井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。赤門は、石田三成の佐和山城の表門を移築したものと伝えられています。現在の本堂は、...
彦根市栄町の蓮成寺が、この地に建立されたのは1602年のことで、前身は石田三成の居城佐和山城にありました。1559年、当時の城主・磯崎丹波守員昌(かずまさ)が織田信長の命により法華丸を建立したのが始まりです。1600年の関ヶ原の戦いで三成が敗れると、法華丸も廃寺となりました。しかし、彦根藩初代藩主・井伊直政の命令により現在の地に蓮成寺として再建されました。蓮成寺の正面側には彦根藩の足軽屋敷が立ち並び、彼らの檀...
慶長5年(1600)10月1日、石田三成は、徳川家康の命により、京の六条河原で斬首されました。享年41。辞世は筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり三成の首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られました。大徳寺山門(金毛閣)大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑こちらには、石田三成の墓所があります。こちらの塔頭は、一般公開されておらず...
前回の補遺:稲チャンの「一歩も通しませぬ」って・・・通せんぼは本多家のお家芸かッ(笑) で,アヴァンでこれまでの戦のおさらいね。幾つも泣かせるシーンが;;; 輝元サン,もう最初から最後まで目が泳ぎまくって,まあ。そりゃ,茶々サンもイラつきますわな(笑)何度もタイトル回収すんなよ〜♪ 開戦前の静かなモノローグが,いいですな。 で,先陣のお墨付き,出すのねえ。口実に使った忠吉クンは,どこ? 今回の脚本,とにかくポン...
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れました。その後、姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入り、小谷山の谷口から古橋に逃れました。しかし9月21日、徳川家康の命令を受け、三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは殺害されました。9月22日、三成派大津城に...
関ヶ原には戦死者を葬った首塚が2つあり、そのひとつがこの東首塚で、JR関ヶ原駅から歩いてすぐのところにあります。朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。この首塚に、当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。首洗いの...
寝かしつけの小話として家康や秀吉の話をした 家康の話は川の石投げの話、秀吉の話は信長の草履の話をした 4才長男は聞いた後、気持ち良さそうに眠りについた 2才長女は冒頭で寝た
【どうする家康】#42 関が原前夜。これが見たかった!の鳥居元忠&千代の伏見籠城戦
「彦」鳥居元忠の幸せな最期 NHK大河ドラマ「どうする家康」は第42回「天下分け目」が11/5に放送された。 関が原前哨戦と言えば、待ってましたの伏見籠城戦。2万5千の三成方に囲まれた2千の徳川方は、元武田忍者の千代が加わって鳥居元忠(彦)と夫婦で戦うという「どう家」ならではの変調バージョンで描かれた。 「逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」と家康に言われた元忠の最期は既に見えていたが、お涙頂戴のコレが見たかった。あらすじを公式サイトから引用する。 上杉征伐に向かう家康(松本潤)のもとに、三成(中村七之助)挙兵の知らせが届いた。小山で軍議が開かれ、西国大名の多くが三成に付く中、家康は天下分け目…
陣場野公園に「徳川家康最後陣跡」があります。関ケ原合戦の午前11時ごろ、家康は本陣を桃配山から三成本陣の笹尾山のすぐ下(直線距離にて500~600m)へ移動させ、ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、関ケ原合戦を勝利へと導いたのでした。合戦後この場にて引見が行われ、敵の首実検が行われました。家康は真っ先に現れた黒田長政に慰労の言葉を惜しまず、腰の吉光の銘刀を与えたといいます。 その後、幕府の命...
笹尾山の石田三成陣跡へ島左近陣跡ここから笹尾山に上ります。わずか5分ほどで山頂へ。石田三成陣跡見晴の良いところで、休憩するのは良いのですが、撮影スポットである石碑の前に荷物を置いたり、座り込むのはちょっと・・・(-_-;)三成の兜のモニュメントここから次の目的地まで1.1km歩きます!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加し...
関ヶ原の戦い(1)「本多忠勝陣跡~徳川家康最初陣地~決戦地」
2015年に関ヶ原に行った時の記事を再アップします。この日は、JRのさわやかウォーキングに参加しました。駅からすでに合戦がスタートしているようです。最初の陣跡は、駅から0.7kmの本多忠勝陣跡ここから1.8km先には徳川家康最初陣地「桃配山」は二大戦の陣跡と言われています。壬申の乱にて、勝者の大海人皇子が野上行宮より出陣し、陣を敷いたという言い伝えがあり、家康は縁起を担ぎこの場所に陣を置いたといわれています。家康...
関ケ原の戦いの本戦の舞台となるはずだったこの大垣城の展示室には、当時の戦国武将たちの貴重な資料や、江戸以降、実際に戸田氏が使用した甲冑、石田三成をはじめとする西軍・東軍の武将による連署禁制の書が見られます。(複製なので撮影OKです)石田三成が本拠地を置いたこの大垣城から、東軍が陣をおいた岡山(現在のお勝山)までは約5キロあります。(赤で囲んであるところが、東軍が陣をおいた岡山)当時はここからお勝山を見...
大垣城は、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたとも、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれ、この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされています。1544年(天文13年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務め、その後、竹越尚光、氏家直元、池田恒興らが城主となりました。1588年(天正16年)一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛...
阿茶サンを保護した寧々サン,貫禄♪ そーして,調略に入る正信サンがまぁた楽しそうで。一体,何人に声かけしたの?(笑) 秀忠チンはちょい凡庸って描き方ですのね。その分,秀康チンが際立つのぉ。 じいじの孫別れ,稲チャンの凛々しい成長ぶり,よき。おっと,トメがじいじになってた。確かに,本軍足止めのキーマンだもんね。次回は,また寧々サンに戻るのかしら? あ,やっぱり妻子のことを言い出した。そこで,誰かさんに「妻子のことな...
石田三成の居城だった佐和山城を再現した「佐和山一夜城石造」が、彦根市古沢町の佐和山ふもとにある佐和山会館の敷地内に設置されています。 2012年彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業により、彦根市の石材店が、地元の寺に残っていた古図などを参考に制作したそうです。平成19年に開かれた彦根城築城400年祭の時に、同祭実行委員長だった北村昌造・彦根商工会議所会頭の提案で、高宮町の田中家石材(田中寿信・代表取...
【どうする家康】第41話ネタバレあらすじ「逆襲の三成」再放送は?どこで見れる?
2023年大河ドラマ「どうする家康」第41話は「逆襲の三成」 隠居していた三成が不穏な動きを見せます。 この記事では ・41話を見逃した。・41話の動画を視聴したい。「どうする家康」の見逃しをイッキ見したい。・41話「逆襲の三成」のあらすじ
NHK【歴史探偵】どうする家康コラボSPはどこで見れる? 11月1日放送の内容は?出演者ぞくぞく登場!
2023年11月1日に放送された「歴史探偵#85 どうする家康コラボ~天下分け目の特別調査」スペシャルについて オンエアが見れなかった 録画するのを忘れた 番組の内容を知りたい というあなたに、お届けします。 放送後7日以上経過した「歴史探
大河ドラマ【武蔵 MUSASHI】11月5日(日)から配信スタート!どこで見れる?動画配信スケジュールは?
2003年に放送された市川新之助(現・團十郎)さん主演の大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」が、2023年11月5日(日)から配信されます! 「武蔵 MUSASHI」を視聴するならでNHKオンデマンドがおススメです。 この記事でわかること 1
数年前、秋の大原を訪ねました。紅葉の参道を抜けて、三千院の参道の奥にある宝泉院へ向かいました。宝泉院も、実光院とともに大原寺勝林院の僧坊の一つです。山号は魚山、本尊を阿弥陀如来。声明の大家・宗快法印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建され、当初は了性坊と呼ばれていました。正徳6年5月に宝泉院と改められ、現在に至ぃています。宝泉院には、盤桓園(ばんかんえん)、鶴亀庭園、宝楽園(ほうらくえん)という3つの...
【どうする家康】#41 逆襲のシャアならぬ三成、家康との最後の戦い前夜
最後に向けて盛りだくさん NHK大河ドラマ「どうする家康」第41回「逆襲の三成」が先週10/29に放送された。石田三成は、秀吉死後の五大老五奉行の政を進めたが、朝鮮戦役から戻った加藤清正らの処遇に失敗して混乱を抑えられず、失脚した。 この「逆襲の三成」というサブタイトルを聞いた時、世代的にどうしても機動戦士ガンダムの映画「逆襲のシャア」を思い浮かべてしまったが(それにしてはすっかり中身を忘れている)、確かあの映画もアムロとシャアの「最後の戦い」を描いたんじゃなかったっけ・・・(気になる人は調べて)。「どう家」の三成と家康も、いよいよ決着が付く「関が原」前夜と言ったところに物語は差し掛かっている…
京都市東山区の養源院は、三十三間堂の東向かいにあります。以前行った春の養源院の特別公開では、俵屋宗達筆の襖絵「松図」、杉戸絵「白象図」「唐獅子図」、狩野山楽筆の襖絵、豊臣秀吉公木像、伏見城遺構「血天井」、淀殿・江・豊臣秀頼の肖像画などの寺宝が公開されました。養源院は、豊臣秀吉の側室となった淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の文禄三年(1594年)に創建した寺。一度は落雷により焼失しました...
のことですが、伏見の武家屋敷の古地図を買いに伏見区桃山まで行ってきました。伏見城を中心に全国各地の武将の屋敷や街道、河川を描いた伏見町誌付図「豊公伏見城ノ圖」です。この地図は、文禄3年(1594年)の伏見城が完成した当時に作られた地図なのだそうです。これは、桃山時代、大名屋敷が立ち並んだ伏見城城下町の地図を、京都市伏見区の郷土史家の藤林武さんが伏見町誌付図「豊公伏見城ノ圖(ず)」を基に作り上げた地図で...
もう10年以上前のことになりますが、京都市北区鷹峯を訪ねました。北大路バスターミナルからバスで源光庵へ。源光庵は、貞和2年(1346年)に臨済宗の大徳寺2世・徹翁義亨国師により隠居所として創建され、元禄7年(1694年)臨済宗から曹洞宗に改められました。夕方近くでしたが、女性同士の参拝客が多かったです。障子の向こう側に見える庭園が美しい源光庵といえば「窓「が有名ですね。一つは四角い方の迷いの窓円迷いの窓の⾓型...
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝の征伐のため出兵(会津征伐)、6月16日、家康は伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし、伏見城を預けました。家康の出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵。伏見城で、鳥居元忠らが1,800人の兵力で立て籠もる伏見城の戦いが勃発しました。元忠は、三成が派遣した降伏勧告を拒否して戦い続け、13日間の攻防戦の末、討ち死。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されましたが、...
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ) は、全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社で、「天野大社」「天野四所明神」とも呼ばれています。境内入口にある太鼓橋は、淀殿の寄進と伝わり、舞楽曼荼羅供の装束にも描かれているそうです。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されています。空海が金剛峯寺を建立する際、丹生都比売神社が神領を寄進...
徳川家臣団の屋敷跡巡りの続きです。尾張町公会堂付近には松下之綱の屋敷跡松下之綱天文6年生まれ。松下長則(ながのり)の子。今川氏に属し遠江(静岡県)頭陀寺(ずだじ)城主。このころ日吉丸(のちの豊臣秀吉)が3年間之綱につかえている。のち徳川家康,秀吉につかえ,天正18年遠江久野(くの)1万6000石の城主となる。慶長3年2月29日死去。62歳。三河(愛知県)出身。通称は嘉(加)兵衛。(コトバンクより)「おんな城主直虎」では、悪役に...
狸は辛い・・・この期に及んでこっそり弱音を吐くところが,ポンコツ神君のポンコツたるところ。でも,それが板についた蒲鉾だもんねえ。寄り添うペテン師,違った正信サンとの柔らか主従関係が,よき。 で,お友達を失った寂しさも,よく出てますな。この終盤に入って,演技に磨きがかかっております。よきよき。 刑部ーーーーーっ,ここで干柿を土産にするかーーーーーっ(笑) 茶々サンに続いて,二代目四郎次郎も「復活」。「十...
徳川家康在城期の徳川家臣団居住区は、浜松城を取り囲むように設定されていました。鴨江観音堂の北築地跡、現在の浜松西小学校付近には、鵜殿兵庫頭の屋敷跡の標柱が立っています。鵜殿兵庫頭鵜殿氏長(うどの うじなが)天文18年生まれ。鵜殿長照の子。今川氏真の家臣。父とともに三河(愛知県)上之郷(かみのごう)城をまもる。永禄5年徳川家康の家臣,松平清善に攻められ捕虜となる。今川方と徳川方の人質交換で氏真のもとにもどり,...
【どうする家康】#40 念入りに老けた「狸」家康、満を持して天下様へ
「狸」の域に達した家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」第40回「天下人家康」が10/22に放送された。前回、秀吉がおどろおどろしく死んじゃったので今回はちょっと気が抜けてしまったが、残り8回しかない家康はそうも言っていられないだろう。あらすじを公式サイトから引用する。 秀吉(ムロツヨシ)が死去し、国内に動揺が走る。家康(松本潤)は三成(中村七之助)と朝鮮出兵の後始末に追われる。秀吉の遺言に従い、家康は五大老たちと政治を行おうとするものの、毛利輝元(吹越満)や上杉景勝(津田寛治)は自国に引き上げ、前田利家(宅麻伸)は病に倒れる。家康は加藤清正(淵上泰史)ら諸国大名たちから頼られる中、やがて政治…
豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣家を擁護する石田三成が対立。家康が上杉征伐(会津征伐)を企てると、石田三成は、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名を大坂城に集結させました。家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。三成は家康が会津攻めに赴いた隙に、大谷吉継や毛利輝元らを集めて挙兵。伏見城を落とし...
岡崎の伊賀八幡宮は、松平家の4代親忠が、文明2年(1470)に松平家(徳川家の祖)の子孫繁栄・武運長久の守護神、氏神として創建しました。5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。天下人となった家康により社殿の改築が行われ、家康も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれています。のちに3代将軍・家光が社殿を拡張し、家康(東照大権現)を祀りました。江戸時...
豊田市の隣松寺の裏手には、鴛鴨(おしかも)松平氏墓所があります。この地もかつては隣松寺の敷地内だったそうです。榊原康政の祖父・榊原清長・父・榊原長政の墓や、松平忠久の娘である於美津(おみつ)(東条松平家忠の妻で、松平忠吉の養母になった)の墓があります。鴛鴨松平氏は、松平家三代当主・信光の子である親光を初代とし、鴛鴨城を拠点としました。親光の後は、親康、親久、忠久と続きました。永禄6年(1563)上野城(豊田...
岡崎城のすぐ近く、康生町新田に鎮座する新田白山神社は、1566年に、徳川家康が厄除け開運祈願のため、源氏の一族新田氏のゆかりの地「上州新田」から勧請したものであると伝えられています。もとは岡崎城内にあって、城主の産土神として崇敬されていました。境内には、天然記念物に指定された大楠があります。樹高が10mを超えるクスノキの老樹で、根本から1.5mのところで二つに分かれています。樹齢は600年以上と言われ、家康の...
隣松寺は、鴛鴨松平家(寺から北に約1㎞に居城・鴛鴨城跡)の菩提寺であり、隣松寺の墓地には、鴛鴨松平家の墓、家康の四男・松平忠吉の墓、内藤家の祖先・内藤清長の墓、室町時代の細川家三代の墓などが並んでいます。細川家三代墓所細川家三代とは、初代の細川義季とその弟の戸賀崎義宗、2代細川俊氏、3代の細川公頼のことをいいます。内藤清長の墓内藤清長は、家康の祖父・松平清康、家康の父・松平広忠に仕えた上野上村城主です...
豊田市の隣松寺もまた徳川家ゆかりの寺として知られています。仁王門仁王像山門稲荷社境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。家康は三河一向一揆の際、一向一揆の際に、酒井忠尚の居城・上野城めの本陣とし、稲荷社に戦勝祈願しました。勝利した後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進したといい...
・・・やっぱ狸,になるの? いや,それはともかく,いい面構えになりましたな,ポンコツ神君。メイクの効果もあるけど・・・ドラマ開始前に危惧してたのを裏切るくらいイメージを変えてきたのは,さすがです(微笑) 今回,回想で出てくる人が多いな(苦笑) 忠勝クンは,相変わらず暑苦しいくらいにまっすぐですね〜。 で,治部クンは人扱いが下手くそで,更にまっすぐ。自分で地雷を撒いて踏んづけてる www。この人扱いが下手って...
天正18年(1590年)佐和山城主となった石田三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行い、山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、人をして「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめました。三成は伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であったといいます。慶長4年(1599年)大老・前田利家が病死すると、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福...
※本日の紀行で紹介されましたので、再掲します。まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている米原市の観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂...
※本日の紀行で、石田三成の生誕地・長浜の石田会館が紹介されましたので、まとめ直しました。長浜駅から、湖国バスで約20分、石田で下車。石田三成生誕の地・石田町を歩いてみました。バスを降りたところで、「三献の茶」の三成さまを発見!ここから南へ50mほど行くと、右手に石田三成出生地があります。三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルが展示されています。「石田治部少輔出生地」と刻まれ...
【どうする家康】#38 傾城の女狐・茶々は意志を秘めて悪女全振り、家康の防波堤は阿茶局
なんかちょっとマンガチック NHK大河ドラマ「どうする家康」第38回「唐入り」が先週10/8に放送された。あと10回かと思うと感慨深い。残り10回で、女狐お茶々を打ち破って天下泰平の世を築けるのかタヌキ家康!狐と狸の化かし合い!みたいな流れになってきた。 何とも善悪がはっきりし過ぎ、茶々が全部悪を被る方向(でも麗しい悲劇のヒロインなのよ)なのがどうもマンガチックだ。ジャニーズ崩壊といえど、松潤を悪者には「絶対」しないんだろうね。既定路線、当たり前か。そう考えると、岡田准一は爽やかとは縁遠い、思い切った信長を演じたものだ。 公式サイトからあらすじを引用する。 天下統一を果たした秀吉(ムロツヨシ)…
【どうする家康】#39 徳川の大番頭・酒井忠次にお別れ、秀吉最期はホラー
秀頼誕生から秀吉の死へ、話が一気に進んだ NHK大河ドラマ「どうする家康」第39回「太閤、くたばる」が先週10/15に放送された。早速あらすじを公式サイトから引用しておこう。 茶々(北川景子)に拾(ひろい、後の秀頼)が生まれた。家康(松本潤)の説得により、明との和睦を決めた秀吉(ムロツヨシ)。しかし、石田三成(中村七之助)たちが結んだ和議が嘘とわかると、朝鮮へ兵を差し向けると宣言、秀吉の暴走が再び始まった。都が重い空気に包まれる中、家康は息子の秀忠(森崎ウィン)を連れて、京に隠居していた忠次(大森南朋)を訪ねた。忠次から最後の願いを託され悩む家康に、秀吉が倒れたとの知らせが届く。(これまでのあ…
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。指...
上野城跡から南に300mほど行った天道院の前にも榊原康政生誕の碑があります。この石碑は大正6年(1917)に建てられたもので、もとは上郷町会下山にあったそうです。会下山には、上野下村城がありました。康政の祖父・榊原清長が城主だったとも内藤清長が築城したとの説もあります。榊原清長は、伊勢国一志郡榊原より三河に移り、酒井忠尚に仕えました。一方、内藤氏代々代々松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄です。清長は、...
豊田市上郷町は徳川四天王の一人である榊原康政生誕の地とされます。上郷町には、2つの榊原康政生誕地の石碑が存在し、そのひとつが上野城跡にあります。愛知環状線「三河上之郷」から550mのところにある上野城跡は、現在は上野護国神社と城山稲荷となっています。城山稲荷社上野城の遺構は、社がある高台のみです。 1400年代半ばごろ、戸田宗光が築城したと言われています。宗光が渥美半島に移った後は、阿部氏が治めていまし...
豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として、畿内を中心に寺社の修復・造営を行いました。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼったといいます。今まで撮影した画像をまとめてみました。東寺南大門東寺金堂醍醐寺金堂熱田神宮石清水八幡宮北野天満宮等持院鞍馬寺由岐神社の本殿と拝殿金戒光明寺の阿弥陀堂真如堂の本堂相国寺の法堂寂光院の本...
大河ドラマ「どうする家康」に登場する阿茶局とは?才色兼備の側室で家康の信頼も厚い
今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。家康の側室としては、すでに於愛の方(西郷局)・お葉(西郡局)・お万が登場していますが、10月から突然側近のような形で登場し
1160年(永暦元年)、後白河法皇が院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、もとは智積院南側に創建したのが始まりです。その後社地は転々としており、江戸時代になって豊国廟社が壊されたのと同時期に旧廟前に移り、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された1897年(明治30年)になってからです。1958年(昭和33年)後白河天皇を増祀し、1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改めました。楼門江戸時代には、豊臣家や豊臣...