メインカテゴリーを選択しなおす
それを聞いて、趙雲は急に理解した。孔明は新野《しんや》に招聘《しょうへい》されて、すぐに実務を片付け始めた。優秀だから、天才だから、などと周囲は評したし、本人もそうだというふうに振舞っていた。趙雲も、孔明が飛びぬけて優秀だから、どんな仕事もこなせるのかなと思っていた、どうやらちがうようだ。孔明は、世間のもめ事を解決するさいに、じっさいに実務にたずさわっていたのである。つまり、劉備の軍師になる以前から、すでに経験豊富だった。だからこそ、新野での仕事に迷いがなかったのだ。「それと、豪族たちがわたしに協力的なのは、わたし個人の力ではないよ」「どういうことだ」意外に思って孔明のほうに目を向けると、孔明は肩をすくめた。「わたしに『臥龍』という号を授けた、龐徳公《ほうとくこう》の影響がものをいっているのだ。つくづく、...地這う龍三章その19臥龍の来歴
※関羽が江夏《こうか》へむかってから十日ほどたつが、かれが船を連れてくる気配はまったくなかった。当初は楽観的だった人々も、だんだんじりじりしてきているのが、趙雲にもわかる。難民たちのなかで、いさかいが増えているのだ。食糧や水をめぐるものだったり、歩き方が悪いだのと言ったくだらない原因のもの、赤ん坊がうるさいといったことまで、喧嘩の原因はさまざまだった。それらをこまごまと仲裁しつつ、一方で、難民たちに先行して、行く先の土地の豪族と交渉し、休む場所と水を提供してもらうための交渉をした。孔明がこまかく記載していた、井戸と水脈のありかの地図が、たいへんものを言った。おかげで、時間をあまりかけずに、難民たちは水を得ることができたのである。もちろん、交渉が平易に進まないときもあった。だが、それでも孔明が出てくると、豪...地這う龍三章その18臥龍先生の評判
荀攸《じゅんゆう》はすぐに夏侯蘭《かこうらん》の前にあらわれた。本人がすぐにあらわれるとはおもっていなかった夏侯蘭は、司馬仲達の人脈にあらためて感心した。荀攸からすれば、早く読みたい手紙らしい。人払いをしたのち、荀攸は夏侯蘭から受け取った手紙を読む。荀攸は体つきのすらりとした、いかにも上品で清潔な印象の男だった。文官をあらわす冠に、趣味の良い飾りをつけている。身にまとう黒い絹の衣裳は、かれの体つきをよけいに細くみせていた。手紙を読むその目は、あまり明るいものではなかった。「そうか、劉表の死の真相が、これでわかった」荀攸はため息とともにそういうと、やっと真正面から夏侯蘭を見た。その目には同情の色が浮かぶ。司馬仲達は、おれのことまで手紙に書いたのかな?不思議に思いつつ、荀攸のことばを待つ。「夏侯蘭どのといった...地這う龍三章その17夏侯蘭、巻き込まれる
※街道にそって、ひたすら南へ向かっていた夏侯蘭《かこうらん》は、いよいよ荊州の境に入ったところで、宿のあるじから、おどろくべき情報を手に入れた。「新野城《しんやじょう》はすっかり廃墟のようになっていますよ。劉備さまが、撤退される際に、火をかけたものですから」「なんだと!戦場になったのか」「手前どもも詳しくはわかりませんが、劉備さまと新野の住民が樊城《はんじょう》へ逃げたあと、火の手があがったようです」「そ、そうか」では、曹操軍による新野城の住民の虐殺はなかった。藍玉《らんぎょく》は、阿瑯《あろう》は無事なのだなとおもって、夏侯蘭はホッとした。恩人たちが炎にまかれて死んだかもしれないなどとなったら、今度こそ立ち直れない。宿を早朝に引き払い、さらに南へ向かう途中で、すでに劉備軍が民をひきいて、樊城を出たという...地這う龍三章その16夏侯蘭、ふたたび荊州に
外に厠《かわや》があるので、そちらに足を向ける。とはいえ、尿意があったわけではない、気分を変えたかったのだ。夜の涼しい風が、ほてったほほに当たって、心地よい。曹操は末端の兵にまで、襄陽《じょうよう》での略奪を禁じていた。そのかわり、今日に限っては、襄陽城の酒蔵を開け、みなに酒をふるまうことを許していた。あちこちから、兵士たちの楽しんでいる声が聞こえてくる。焚《た》かれた篝火のなかで、深呼吸をくりかえし、さて、そろそろ席に帰らないと罰杯を飲まされることになるなと踵《きびす》を返そうとしたときだった。篝火と襄陽城の柱の間の陰にかくれるように、女がいた。こちらに背を向けて、しょんぼりうなだれている。舞姫のひとりだろうか。派手な衣装と、その流行に合わせて複雑に編み込まれた髪で、玄人女だと知れた。さて、だれかに意地...地這う龍三章その15張郃と舞姫
※張郃《ちょうこう》は満足した。曹操が、いよいよ本腰を入れて劉備の追討にうごいたことが、うれしいのである。『こんどこそ、劉備の首をとって見せる。趙子龍ごときに邪魔をされてなるものか』聞いた話では、劉備たち一行は、民を連れているため、いまだ江陵《こうりょう》にたどり着いていないと聞く。追えば、三日もしないうちに追いつくだろうとのことだった。おそらく、劉備たちは水と食料の確保にも汲々《きゅうきゅう》としていて、心身ともにボロボロになっているだろうが……かまうものかと張郃は思う。ついていった民についても同情はまったくしない。判断をまちがえるから、死ぬ運命になるのだ。本気でそう思っている。出発の前日、壮行会がひらかれた。かつては劉表らが使っていた襄陽城《じょうようじょう》の大広間に、いまは曹操とその腹心たちがずら...地這う龍三章その14壮行の宴
趙雲がいま、めったにやらない事務仕事をやっているのは、圧倒的人手不足ゆえにほかならない。それが証拠に、すでに交代の太鼓がドンと鳴ったのに、陳到が席を立たないでいる。あの、家族の元へ帰ることだけが至上命題となっているような男が、それを忘れているほど大量の事務仕事があるのだ。まず、文官をたばねている麋竺が風邪をひいたのが原因だった。それがどんどん移っていき、孫乾、簡雍とひろがって、最終的には関羽にまでたどり着いた。関羽が抜けたことで、荊州の州境の見張りが張飛と劉封だけ、というのが心もとないという劉備のひとことにより、孔明が視察もかねて州境に派遣されたことが決定打。たまりにたまった事務仕事を手の空いているすべての読み書きのできる者がやることになり、趙雲と陳到も動員されている、というわけだ。「軍師はいつもほとんど...ブログ開設6000日記念作品筆の神は見ている
※襄陽城《じょうようじょう》に入るには新野《しんや》と樊城《はんじょう》を経過せねばならない。もはや廃墟と化した新野城を横目に、無人の樊城を過ぎ、ようやく曹操軍は襄陽城へ入った。それまでの道中は、張郃《ちょうこう》にとっては苦々しいものだった。曹操は劉備と諸葛亮とやらの手際をほめていたが、こてんぱんにやられたほうとしては、笑ってなどいられない。とくに張郃は、悔しさがまったく晴れず、朝はだれよりも早く起きては、ひとり槍の鍛錬に励むようになっていた。だれに命じられたわけでもない。ただ、無性に、そうしなければと思ってしまうのだ。燃え盛る新野城で見た、趙子龍のぞっとするような凄惨な笑み。あいつを二度と笑わせない。今度はほえ面をかかせてやる!そんな張郃に付き合う副将の劉青《りゅうせい》は毎朝眠そうで、「ほどほどにし...地這う龍三章その13燃える張郃
※数日後。孔明は江夏《こうか》から戻ってこない使者に見切りをつけ、劉備とともに今後のことを相談し始めた。だれを使者に送るのかで迷っているようすで、夜のたき火のそばで行われたその話し合いは、なかなか終わらない。劉備と孔明のふたりは、ああでもない、こうでもないと意見を戦わせている。そのかたわらで、甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》が、やつれた顔をして座っていた。敷物の上にぺたんと座ったその姿は、髪もほつれ、衣も汚れ、血色もわるい。趙雲は夫人たちの守りとしてかたわらにいたが、やがて、阿斗をあやしていた甘夫人が顔を上げた。「お疲れですか。水でも持って参りましょうか」趙雲は心配になって声をかける。朝から晩まで、ゆっくりした行軍とはいえ、馬車での移動。揺れっぱなしのなかにいては、両夫人ともに、いつ具合が悪くなっ...地這う龍三章その12江夏への使者
※「よくありませぬなあ」趙雲の副将・陳到は趙雲のとなりで轡《くつわ》をならべていたが、後方をみやって、ぼやきはじめた。「民の数が増えたように感じます。わが君が劉表の墓参りをしているのを見て、襄陽《じょうよう》の民もいくらかついてきたようですな。それに、思った以上にみなの足が遅い。これでは曹操がその気になれば、あっという間に追いつかれてしまいますぞ」陳到は愚か者ではないので、まわりに民の耳がないことをたしかめてから、ぼやいている。民の行列は、地平の向こうまでつづくように見えた。たしかに、数が増えてしまったようだ。しかも、新野《しんや》から樊城《はんじょう》へ移動したときの元気はなく、みな口数が少ない。襄陽で追い立てられたことで、冷酷な現実が見えてきたのだろう。「たしかに、昨日より民が増えているな」「わが君の...地這う龍三章その11苦難の蜜月
張允《ちょういん》の甲高いわめき声を合図に、雨あられと矢が降りかかってきた。「いかん!」趙雲は、とっさに劉備の前に立ち、飛んできた矢を盾でかばった。飛んできた矢の何本かが、だん、だんっ、と盾に突き刺さる。一瞬、間が空いた。おそらく張允の兵が矢をつがえなおしているのだろう。兵を立て直さねばとまわりを見れば、将兵たちは手にした盾などで矢を防ぐことができたようすだ。たが、無防備な民は悲惨であった。かれらは大きく悲鳴をあげながら、城門の前から逃げようとしている。荷物は崩れて踏まれ、牛や馬は混乱し、暴れた。親の亡骸をまえに泣く子や、怪我をした家族をけんめいに抱えて逃げようとする者などもあって、冷静な者が落ち着くよう言っても、もはや誰も耳を貸さない。「おのれっ、おなじ荊州の民をなぜ殺すっ!」劉備は、顔を朱にして大音声...地這う龍三章その10無情の矢の雨
※襄陽《じょうよう》には、普通の旅程の倍の日数をかけて、やっとたどり着いた。民は元気いっぱいだった。守る兵たちも、おなじく士気が高く、馬も飼い葉をたっぷり与えられており、威勢が良い。だが、それでも人数が多すぎた。だれもがけんめいに足を運んだのだが、騎馬なら半分の日数で済む日程が、ほぼ倍になってしまったのだ。しかも大所帯ならではの小さなもめ事も頻発した。趙雲も、その仲裁などに回って神経をとがらせていたため、ふだんの旅よりもずいぶん疲れた。襄陽城が見えてくると、ホッとした。一か月ほどまえに、あの城市を舞台に大立ち回りをした。そのことすらが、夢のように思える。しかし、こてんぱんにされたほうの蔡瑁《さいぼう》からすれば、昨日の悪夢のように感じられる出来事だったろう。大けがを負ってもいるはずで、かれが正常な判断がで...地這う龍三章その9襄陽城の門前にて
※その夜、孔明は大量の紙束をかかえて、劉備の部屋へとやってきた。あいかわらず、その紙束の内容は、趙雲には知らされていない。紙束を孔明は劉備の居室で広げ、熱心に話をはじめた。趙雲は、ふたりが話しこんでいる部屋の外で、じっと話し合いが終わるのを待つ。怪しい奴があたりをうろついている気配もない。夜が更けるにつれ、あたりにどんどん虫の音の大合唱が響くようになってきた。それに紛れて、樊城《はんじょう》城内に寝泊まりする者たちの、いびきが聞こえてくる。趙雲もつられてあくびをしたとき、ようやく両者の話し合いがおわった。「子龍、遅くまですまないな。いま話がおわったよ」孔明に声をかけられ、趙雲は部屋を覗き見る。部屋には、孔明の書いたとおぼしき紙の絵図がひろがっていて、さらに、紙燭《ししょく》のまえに、劉備が満足そうな顔をし...地這う龍三章その8あらたな指針
※孔明の秘密の作業は、まだつづいていた。邪魔してはいけないので、趙雲は孔明のいる部屋を退出し、劉備の元へ行く。劉備は忙しく立ち働いていた。張飛や関羽といっしょになって、新野《しんや》と樊城《はんじょう》の民のため、炊き出しを手伝ったり、草鞋《わらじ》を編んだり、収穫物を管理するための帳簿を書いたりしている。草鞋を編むことにかけては、劉備の手先の器用さがいかんなく発揮されていた。張飛や関羽のつくる不格好な草鞋を直してやることまでやっているのだ。かれらは楽し気に作業していて、目の下にクマを作りながら一室に籠って懸命に作業している孔明とは対照的だった。趙雲は複雑な思いで、劉備たちをすこしはなれたところから見守っていた。すると、当の劉備が気づいて、たずねてきた。「子龍、軍師はどうしている」「部屋で書き物をつづけて...地這う龍三章その7三兄弟と草鞋
※その日のうちに、軟児《なんじ》は孫子礼《そんしれい》と紫紅《しこう》に連れられて樊城《はんじょう》を離れた。軟児は、最初のうちは、父親に会えたとはしゃいでいた。だが、すぐに、大恩人の趙雲と離れなければならない事実に気づいたのだろう。次第にその顔から笑みが消え、口数が少なくなり、涙がちになってきた。趙雲は、なるべく用意できる旅の道具を一式持たせて、軟児とその父母に渡した。両親は恐縮してぺこぺこと頭をさげつづけている。それを見て、軟児は泣きながら、言った。「どうしても長沙《ちょうさ》に行かなくてはいけないの?ここにいてはいけないの?」それは、と趙雲が答えるより先に、孔明がなだめるように言った。「軟児や、子龍はかならずおまえを迎えに行くであろう。それまで良い子にして待っているがいい」「ほんとうですか?」軟児は...地這う龍三章その6離別
事件は、紫紅《しこう》が父のお供で襄陽《じょうよう》の市場へ馬を売りにいったときに起こった。彼女が留守をしているあいだに、子礼《しれい》が軟児《なんじ》を壺中《こちゅう》という、貧しい子供に礼儀作法や学問を教えてくれるという塾に預けてしまったのだ。「壺中なんてもの、聴いたことありませんでしたから、びっくりしてしまって。このひとに言って、軟児ちゃんを取り戻すように言ったんです」紫紅のことばを引き継いで、子礼も深いため息をともに言った。「あのときは、ほんとうにどうかしておりました。あの子を手放そうとするなんて……しかし、貧しい暮らしをさせて世に埋もれさせるには惜しい器量の子ですし、毎日きちんと食べられるところで、きちんとした教育を受けられるというのなら、それがいちばん幸せだろうと思ってしまったのです」かれらは...地這う龍三章その5父娘の再会
「まずは、わたくしの身の上話からさせていただきます」そう言って、軟児の父は、とつとつと語り始めた。もともと荊州の人間ではなく、洛陽《らくよう》の商家の三男坊として生まれた。家は羽振《はぶ》りが良く、黄巾の乱が起こった後も、うまく立ち回って、物資や武器や馬を政府に調達し、大金を稼いだ。「そのころはまだわたくしも、世間知らずの幸せな若者のひとりでした」しょんぼりと子礼が言う。未来のことなどまともに考える必要がないほどに、幸せな青春時代を過ごした。ぼんやりと、家業を継ぐか、兄の手伝いをして各地の商談をまとめる仕事に就くのだろうと思っていた程度。ほどなく、苦労の連続をすることになるだろうとは夢にも思っていなかったという。運命が暗転したのが、かわいがってくれていた父が急死してからだ。老いた父はまだまだ元気であったが...地這う龍三章その4軟児の父の事情
※晩飯をいっしょにどうかと誘おうと思って、趙雲は、まだ机のまえにかじりついているらしい孔明のもとへ向かう。新野《しんや》の民のことについては、話題にすまいということは、あらかじめ決めていた。じつのところ、新野の民をどうするかの問題については、趙雲自身は、答えをだしかねていた。たしかに、孔明の言うとおりだ。劉備と孔明の主騎である立場からすれば、劉備たち以外にも民を守らなければならないのは困難をきわめる。第一、軍に機動力があったほうがいいに決まっている。だが、一方で、劉備の民への思い入れも知っている。八年ちかく世話をしてきたのだ。深い思い入れができて当然だ。もちろん、それを知っているのは趙雲ばかりではなく、張飛や劉封《りゅうほう》も知っている。だからこそ、新参者である孔明は浮いてしまったのだ。それに、趙雲には...地這う龍三章その3軟児の父、あらわる
一方、あの徐州の大虐殺の経験者である孔明のほうは、意外に淡白なところを見せた。「曹操は荊州を手中にいれたのち、江東へも遠征するつもりです。そのため、よほどの抵抗をしないかぎり、いちいち荊州の民を殺して回る手間はしないでしょう。恨みを買えば、それだけ江東に軍を進めた場合、北西から狙われる危険が出てくるのですから。しかし、苛烈なかれの性格からして、抵抗すれば、容赦はしないでしょう。いま、新野《しんや》の民がわれらと別れたほうが、曹操の心証はよい。かれらのためにもなるのです、どうぞご決断を」孔明が迫るのに対し、やり取りを聞いていた張飛と劉封《りゅうほう》が、「兄者は民を守り切るとおっしゃっているのだ、民と兄者のきずなを断ち切ろうとする軍師は冷たい」「そうだ、父上のお気持ちを軍師はわかっておらぬ」と言い出した。劉...地這う龍三章その2孔明の立場
※樊城《はんじょう》の周辺の土地の田畑で、いっせいに収穫作業がおこなわれた。新野《しんや》の民も総出で樊城の民を手伝い、みなでけんめいに汗をかいている。それというのも、曹操軍がやってきた場合、食料を求めて、あたりの田畑から収奪が行われる危険があったためである。それよりは、なじみのある殿様である劉備のため、食料を先に収穫してしまったほうがよい、というのが、みなの一致した意見であった。もちろん、樊城の民からの抵抗がなかったわけではない。かれらからすれば、新野の民が軍勢とともに押し寄せてきたのだ。しかもほとんどが着の身着のままで新野城から出てきたものだったから、樊城の民の世話にならねばだれもが生活が立ち行かない。樊城の民をうまく説得したのが孔明で、民はしぶしぶではあったが、「孔明さまがそうおっしゃるなら」と、新...地這う龍三章その1樊城に到着したものの
※張郃《ちょうこう》は場が解散すると、すぐさま立ち上がり、徐庶を探した。曹仁の周りには人の輪が出来ていて、それぞれねぎらいの言葉をかけあっている。張遼は、そこからすこし離れたところで、やれやれといったふうに、息をついていた。一方で、荀攸《じゅんゆう》をはじめとする文官たちは、襄陽《じょうよう》へ入るまでの段取りを決めるために忙しくうごきだしている。だが、程昱《ていいく》と徐庶だけは、城の柱のかげで、なにやら話し込んでいた。いや、話し込んでいるというような対等なものではない。程昱は、徐庶にむかって、なにやら小言と嫌みを言っているようだった。そこに割り込むのはさすがに気が引けたので、しばらく、張郃は、自身も陰にかくれて、程昱が行ってしまうのを待っていた。ほどなく、程昱が、「まったく、いつまでも困ったものだ」と...地這う龍二章その14徐庶と劉巴
程昱《ていいく》は厳しい顔をして曹操を見つめていたが、当の曹操は、ゆったりと座にかまえたまま、答えた。「たしかに子孝《しこう》(曹仁)らは、玄徳の策にうまうまと引っかかった。とはいえ、策があるやもしれぬと警告をしなかったわしにもいくらか非があろう。わしも油断をしておったのだ。それゆえ、このたびは処罰はせぬ」「しかし」言いつのろうとする程昱のことばを遮《さえぎ》るように、曹操はくりかえした。「処罰はせぬ」「丞相のご寛大なおことば、痛み入りまする」曹仁が言うのにあわせて、張郃《ちょうこう》らも同じことばを唱和した。従兄の心変わりを恐れて、というよりも、早くこの場をおさめて、みなを救いたいと、曹仁が思っているのが、その大きな丸い背中から、ひしひしと感じ取れた。大将というのも、大変な立場だなと張郃は同情しつつ、曹...地這う龍二章その13臥龍を知る
※曹操軍に占拠された南陽《なんよう》の宛《えん》は、表面上では落ち着いていた。曹操軍の規律は厳しく、民に乱暴狼藉をはたらこうとするもの、略奪をしようとするものはすぐさま処罰された。そのため、民はいまのところ安心して過ごすことが出来ている。反乱の兆しもなく、きびしい監視下にあるとはいえ、民はふだんどおりの暮らしを取り戻しつつあった。とはいえ、民たちは知り合いと道ですれちがうと、意味ありげに目配せして、互いにかかえている恐怖や不安を無言のまま交わすのが常になっている。たしかに、民の生活だけをみていると、そこには変わらぬ日常がある。だが、曹操軍の兵があちこちを闊歩《かっぽ》している状況にあることに、変わりはない。市場や城市のはずれなどに目を向けると、曹操軍に抵抗したあわれな荊州の土豪たちの首が、異臭をはなちなが...地這う龍二章その12南陽における覇王・曹操
「わが君は、みなをどうされるおつもりかな」思わず趙雲がつぶやくと、孔明は樹に背を預けつつ、答えた。「迷わず、民をともに連れて行くとおっしゃるだろう」そんなことをしたら、みんな死ぬぞ、と言いかけて、口をつぐんだ。あまりに突き放した言葉を言いかけたと、すぐに反省する。だいたい、それを口にすることは、劉備に反抗することになりかねない。そこで、あえて民のことを後回しにした表現で孔明に問う。「仮に南へ逃げる……あるいは、要衝(ようしょう)の江陵(こうりょう)を目指すとして、おまえに曹操軍をしのぐ策はあるのか」だが、孔明はすぐには答えなかった。その気持ちは、趙雲には、痛いほどよくわかった。民のことを思えば、どうしても気が重くなる。仮に民を樊城(はんじょう)まで届け、そしてかれらを置いていったとしても、曹操がかれらを虐...地這う龍二章その11趙雲の憂慮
孔明は皆の輪から少し離れたところにいて、平素のとおり、民や劉備とその家族の様子に気を配っている。劉備の家族にしても、孔明の策のおかげで樊城《はんじょう》へ逃げ込める目途がたったということで、夫人たちを中心に、明るい顔をして木陰で憩《いこ》っていた。阿斗は生母の甘夫人《かんふじん》の胸の中で、すやすやと眠っている。見張りも万全に配置しているし、曹操の兵が追撃してくることはなかろうと思い、趙雲は自分もまた、手近なところにあった 木陰《こかげ》にぺたりと座り込んだ。さすがに疲れが出始めている。徹夜をしたうえに、激しい戦闘を行ったのだ。まだ頭が興奮しているから、倒れ込むようなことはないが、いま休んでおかないと、劉備たちを守れない。頭上を行くそよ風が木々を揺らす。元気な子供たちが、草むらのバッタを追いかけて遊んでい...地這う龍二章その10ひとときの休息
趙雲の槍が、ツバメのような速さでひゅんっ、と空を裂き、張郃《ちょうこう》の胴をえぐろうとしてきた。張郃は思い切りのけぞって、刃《やいば》をかわした。馬から転げ落ちそうになるが、なんとか内ももに力を込めて、こらえる。態勢を整えようとした刹那、その視界に、趙雲の胴体が見えた。趙雲は大胆な攻撃をしたがゆえに、胴体ががら空きになったのだ。いまだ!張郃は、すでに激しい打ち合いで痺れがきている手を励ましつつ、趙雲の胴めがけて槍を突き立てた。だが、その渾身の一撃は、がん、という無情な金属音とともに跳ね返された。趙雲は、攻撃を見切っていたようだ。一瞬、間近に見える趙雲の端正な顔が、歪んだように見えた。いや、歪んだのではない。趙雲の表情の正体を知り、張郃はぞくっと背筋をふるわせた。かれは笑っていた。虐殺の喜びに笑っているの...地這う龍二章その8初対戦のゆくえ
たしかに、北の門は火の手が回っていなかった。だからこそ、さぞかし兵が殺到しているかと思いきや、奇妙に静かであった。『なんだ?』前方に、一騎の武者がいる。ただならぬものを感じ、張郃《ちょうこう》は馬を止めた。それに合わせて、兵卒たち、部将たちも足を止めて、その武者を見る。赤毛の馬に乗ったその男は、ちょうど張郃らに背を向けて立っていた。「何をしている!邪魔だっ!」短気な劉青《りゅうせい》が叫んで、男に突っかかろうとしたが、張郃は手ぶりで制止した。おれは、まだ夢をみているのだろうか。背中を向けているその男に、ひどい既視感があった。しなやかそうな体躯の、広い背中の男。官渡の戦いから八年の歳月が過ぎたが、ほとんどかわっていないその背中は、鬼火のような炎のなか、ぼおっと浮かび上がっていた。男の手には槍。穂先は血にまみ...地這う龍二章その7趙雲対張郃、初対戦
※夜更けすぎ、だれもが寝静まったころだった。焦げ臭さがあたりに充満し始めてから、張郃《ちょうこう》は目を覚ました。悪態をつきつつ上半身を起こすと、張郃の寝台のそばで休んでいた劉青《りゅうせい》が、あるじが起きたのに気づいて、言った。「小火《ぼや》ではありませぬか。誰かが竈《かまど》の始末をまちがえたのでしょう」「困ったやつらだな」昼間の行軍の疲れもあって、そのまま眠ってしまおうかとも思った張郃だが、そうして迷っているあいだにも、きな臭さは増してくる。だれが小火を起こしたにしろ、叱りつけてやれねばならぬと、張郃は寝台から抜け出した。小火だったらそれでいい。ついでに厠《かわや》にでも行っておけば、朝にすっきり目覚められるだろうと思ったのだ。まさに寝所を出ようとしたとき、劉白《りゅうはく》が飛び込んできた。「儁...地這う龍二章その6不吉な目覚め
※許褚《きょちょ》が劉備の策にかかって、けがを負ったという話を聞いて、曹仁は、先へ進むか、あるいは戻るかと悩みはじめた。そこへ新野城《しんやじょう》へ派遣していた斥候兵《せっこうへい》が戻ってきた。新野が、もぬけの殻になっているというのだ。「逃げられたか」悔しそうに曹仁がうめく。だが、さすがに優秀な曹仁だけあり、切り替えも早かった。張郃《ちょうこう》ら諸将の顔を見回すと、はっきりした声で言った。「いまのありさまで劉備から攻撃されたらかなわぬ。ともかく今日は、新野を押さえることにしよう」「劉備を追撃せずともよいのですか」気の逸《はや》る張郃がたずねると、曹仁は首を横に振った。「まずは負傷兵を手当てするのが先だ。それにわれらには土地勘がない。真っ暗闇のなか劉備を追撃するのは不利だ。これ以上、どんな罠があるかわ...地這う龍二章その5張郃の想い
張郃《ちょうこう》も焦《じ》れてきていた。夕刻には新野城《しんやじょう》に雪崩《なだれ》れ込み、劉備を討ち取ってくれようと意気込んでいたのに、やる気を削《そ》がれたかたちである。おのれのからだを見下ろし、指先を見る。指先の線がはっきり見えなくなるほどに、日が落ちてきた。「おい、そろそろ松明の用意をさせろ」張郃が命じると、劉白《りゅうはく》と劉青《りゅうせい》が、それぞれの部隊長に命令をするため、下がっていった。前方を行く部隊も明かりをともし始めた。と、そのときである。わあっと鬨《とき》の声が上がったかと思うと、地鳴りがはじまった。『なんだ?』仰天していると、つづいて、大きな雷が落ちたようなすさまじい轟音が、あたりに響き渡った。地面が揺れ、前方から砂嵐が押し寄せてくる。「地震か!」馬が高くいななき、たたらを...地這う龍二章その4崖の上の策士
※新野《しんや》への進軍は、しばらくは問題なくおこなわれた。だが、昼をだいぶ過ぎ、先頭をゆく許褚《きょちょ》の軍が、問題の崖下に差し掛かろうとしたとき、ぴたりと行軍が止まってしまった。張郃《ちょうこう》は馬を止めて、両隣に控える副将の劉白《りゅうはく》と劉青《りゅうせい》にたずねる。「なにかあったのだろうか」ちらりと、張遼のことばが頭をよぎる。崖の下の隘路《あいろ》で待ち伏せされていたら……しかし、前方で合戦がおこなわれている気配はない。後続の兵卒たちも、とつぜんに足を止められて、ざわめている。「前方を見てまいりましょうか」と、劉青が言った。劉白と劉青は年子の兄弟である。劉白のほうが兄、劉青のほうが弟で、まちがいなく兄弟だろうとすぐわかるほどに、よく似ていた。よくしたもので、劉白のほうが白皙《はくせき》の...地這う龍二章その3紅い旗、青い旗
※張郃《ちょうこう》と張遼が曹仁の幕舎《ばくしゃ》に入ってくるなり、曹仁は目をまん丸にし、となりに立っていた曹洪は、苦い薬をかみつぶしたような顔になった。曹仁は呆気にとられた顔をしていたが、すぐに破顔《はがん》して、張郃に言った。「これはいい。ずいぶん気合が入っておるな、儁乂《しゅんがい》よ」「おそれいります。気に入っていただけたでしょうか」すまして答える張郃に、曹洪は、憮然《ぶぜん》と言い放つ。「儁乂どの、まさかとは思うが、そのままで戦場に出るつもりか」「もちろん。このあいだの戦でもこれで出ましたゆえ」「あきれたものだ」曹洪があきれるのも、もっともだった。端正な顔は化粧でさらにあでやかに、結ったつややかな黒髪からは花の良い香りがぷんとしている。その黒髪は単純に結われたものだが、目立つように鼈甲《べっこう...地這う龍二章その2新野侵攻の軍議
澄み切った青空のはるか上から、その平野を見下ろすことができたなら、そこに多くの兵馬と、竈《かまど》のあとと、いろとりどりの幕舎《ばくしゃ》を見つけられたことだろう。幕舎のそばには『曹』と姓の染め上げられた錦の旗が、悠然と風におよいでいる。曹操軍が新野城《しんやじょう》の目と鼻の先に迫ってきているのだ。街道を抜けて一気に南下すれば、もう新野城である。連れてきた馬のいななきがあちこちに聞こえ、飼い葉を運ぶ兵卒や、朝を迎えてたがいに挨拶をする兵卒や、朝餉《あさげ》のしたくをおえて、竈の火の始末をしている兵卒などの姿が点在している。その数、おおよそ五万。劉備せん滅の軍を任せられているのは曹操の従弟である曹仁《そうじん》で、それに同族の曹洪《そうこう》がついている。幕舎のひとつから、三十路手前の青年武将があらわれた...地這う龍二章その1その男、張郃
※昼過ぎになり、とつぜんに新野《しんや》の城市の東西南北すべての門に、おおきな高札《こうさつ》が立てられた。高札を立てた者の急いた様子からして、どうやらなにごとか起こったらしいというのは、すでに人々も気づいていた。さらには、城勤めの人間から、曹操がどうした、ということは漏れ聞いていたので、だれもが不安そうな顔で、高札のまえに集まって来た。新野の民とて愚か者のあつまりではない。自分たちの住まう町が荊州の最前線にいることは理解していたし、曹操の動き如何《いかん》によって、自分たちの運命が変わってしまうことも理解していた。いよいよか、という覚悟の気持ちが、ゆっくりとの中で頭をもたげてくる。とはいえ、かれらのほとんどが文字を読めない。わかるのは、ところどころにある『新野』とか『曹操』という文字くらいなものであった...地這う龍一章その19高札の前のひとびと
一同はそれぞれ作戦のための行動を開始した。趙雲もまた、自分の部隊に作戦を伝えるために移動しようとしたが、ふと気づいて、孔明を振り返った。「軍師、おれはしばらくお前を離れることになる。そのあいだ、守ってやれなくなりそうだが、大丈夫か」孔明は、しばらく言葉の意味がつかめなかったような顔をした。それから、急に意味が心にしみ込んだようで、破顔《はがん》して答えた。「なにを言い出すかと思えば。大丈夫だよ。みながわたしを守ってくれる。そうでしょう」と、孔明が趙雲のいる方向とは別のところへ顔を向ける。ほかにも広間に人が残っていたのかと思いつつそちらを向けば、立っていたのは、意外にも、劉封《りゅうほう》だった。急に水を向けられて、劉封は、顔を赤くして、「あ、うう、うむ」と、不明瞭に答えた。劉封は劉備の養子としての矜持《き...地這う龍一章その18和解?
※「さて、軍師、どうしたものかな」さきほど怒りを爆発させていた人物と同じとはおもえないほど、劉備は冷静に孔明にたずねた。やはり、劉備は修羅場慣れしているのである。ここで自分が慌《あわ》てれば、みなが恐慌状態に陥るだろうことをわかっているのだ。孔明もまた、冷静に答えた。「結論から申し上げますと、いますぐに、空き城となっている樊城《はんじょう》へ移動すべきと存じます」「なぜ」「新野は城の防備が弱いからです。ここで籠城するのは下策中の下策です」「そうか……しかし民はどうしたらよいであろう」「いますぐ高札《こうさつ》を立てて、民に曹操の来寇《らいこう》を伝えましょう。それから、われらで時間を稼いで、みなで樊城へ向かうべきです」「われらで時間を稼ぐというと、どのように」「わたしに策がございます。諸将をお集めください...地這う龍一章その17孔明、策を立てる
※関羽は、甲冑姿のままだった。全身が砂埃《すなぼこり》を浴びたままである。よほど急いで馬を走らせたらしかった。いつも血色の良いその顔は、そのときこそは火にくべた炭のように真っ赤になっている。片手には漆《うるし》の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっていた。関羽に首根っこをつかまれて引きずられている旅装の男の顔を見て、趙雲はあっとなった。その男に見覚えがあったのだ。襄陽《じょうよう》の実質上のあるじとして威張《いば》り散している蔡瑁《さいぼう》のとなりで、いつもお追従《ついしょう》を言っては喜ばせていた男が、その旅装の男だった。名を宋忠《そうちゅう》といって、いかにも小賢しそうで、人を馬鹿にした目をした男である。劉備のことも、表立ってはほめあげていたが、裏では用心棒とさげすんでいたことを、趙雲は知っている...地這う龍一章その16襄陽城からの使者
趙雲も蔡瑁《さいぼう》の動きを予想していた。蔡瑁自身が荊州の州牧《しゅうぼく》になる可能性もあるかもしれないと思っていたほどだ。図々しい蔡瑁でも、さすがに劉表《りゅうひょう》と劉琮《りゅうそう》が一度に死んだとは表ざたにできなかったようだ。苦々しい思いが込み上げてきて、趙雲はうなるように言った。「あの男に恥という概念はないのか。その『劉琮どの』は本物じゃない」「そうさ。しかし、こちらにそれを明かす手立てもない。たしかに『劉琮どの』はわれらの目の前で倒された。だが、証拠を見せろと言われたなら、こちらにはなにもない。残念ながら、ね」「夏侯蘭《かこうらん》が持ち帰った首が手元にあれば」言いかけた趙雲に、孔明は首を振った。「意味ないさ。仮に首があったとしても、蔡瑁は、われらが捏造したと言い張っただろう。襄陽《じょ...地這う龍一章その15波乱の幕開け
※劉備の居室へ行くと、まず劉備そのひとが、難しい顔をして腕を組んでいるのが目に入った。つづいて、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっているのがわかった。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関しては、ただ酒の力ばかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、これが許都《きょと》からもどってきたという細作《さいさく》の長の成延年《せいえいねん》だろう。劉備は几帳面なので、いつも部屋は片付いている。しかし今朝に限っては徹夜したあいだに散らかしたらしく、地図や文書、酒瓶や盃などがあちこちに散らばっていた。酒の甘いにおいがあたりにまだ残っている。空になった酒瓶の量は、ふだんの三人分より、さらに多い。益徳《えき...地這う龍一章その14劉備の逡巡
※軟児《なんじ》は甘夫人にうながされて、朝餉《あさげ》をとりに去って行った。趙雲も立ち去ろうとしたが、麋夫人《びふじん》のほうが、自分になにか言いたそうな顔をしているのに気づいた。夫に似て豪胆な甘夫人《かんふじん》と、線が細くはかなげな少女のような麋夫人は、気質も見た目も対照的だったが、それがかえっていいらしく、二人はたいへん仲が良い。麋夫人と甘夫人は、阿吽《あうん》の呼吸でおたがいにうなずき合う。それから、麋夫人が切り出した。「子龍どの、くりかえしになりますけれど、軟児の世話をお願いしますね。あんなにあなたになついているのですもの。きっと、あなたのことをお兄様かお父様のように思っているのよ」「男の子はいいなあ、張著《ちょうちょ》みたいにずっとそばにいられる、なんていって、しきりにうらやましがっていました...地這う龍一章その13軟児の事情
孫軟児《そんなんじ》たちをはじめ、張著など、身内のすぐに見つからない少年少女、あるいは身内を失くした者は、壺中《こちゅう》から救い出されたのち、孔明の采配で、少年は趙雲のところ、少女は甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》のところで匿《かくま》ってもらうことになっていた。孫軟児は、阿斗の世話係というところに落ち着いているようである。しかし軟児の赤子の抱き方は、あまりよいとはいえない。赤ん坊の世話をあまりしたことのない者の抱き方だというのは、子育ての経験のない趙雲でもわかった。そのため阿斗は軟児の腕の中で、ぴちぴちと跳ねるとれたての魚のような姿勢で、ずっと泣きっぱなしだった。早く孔明たちの顔を見たかったが、仕方ない。趙雲は中庭に降りると、軟児に言った。「阿斗さまをこちらへ貸してみるがいい」軟児は目をぱちく...地這う龍一章その12子守りの趙雲
※趙雲と張著《ちょうちょ》はつれだって、食堂に向かい、ほかの兵卒たちとともに朝食を食べ始めた。孔明の尽力《じんりょく》もあり、さいきんは兵卒たちへの食事の内容が良い。鼻孔をくすぐる肉入りの羹《あつもの》の香りと、炊き立ての粟飯、それから野菜の漬物がいくつか。趙雲の隣に座った張著は、言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べはじめた。素直な子供である。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、趙雲はすこし心配になる。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしい。張著はいまだに、気を張り詰めていて、大人の顔色をうかがう癖が抜けないでいるのだ。こいつを子供らしく過ごさせてやるのも、おれの責任だろうなと考えていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将たちが...地這う龍一章その11大門での騒動
※新野城《しんやじょう》の兵たちの朝は早い。まだ日も暗いうちから食事のよいにおいが兵舎にたちこめる。それにつられるように兵士たちは起きだし、仲の良い者同士、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていく。かれらの楽し気な声と、足音、物音につられ、趙雲もまた、目を覚ました。明け方に夢を見ていたようだ。例の老将がいかめしい顔をして、「おい子龍よ、孔明さまのこと、くれぐれも頼んだぞ。わしは子供らを長沙《ちょうさ》に連れて行かねばならぬ。留守のあいだ、きっと孔明さまをお守りしてくれ」と頼み込んできた。わかったと答えたような気がする。夢のなかでは、老将は目にいっぱい涙をたたえて、しおしおと子供らとともに長沙へ旅立っていった。よほど軍師と別れるのがつらいのだなと同情していたところへ、目が覚めたのだ。やけに鮮明な夢だった。...地這う龍一章その10新野城のいつもの朝
みんな曹操の大軍に呑み込まれてしまうのか?趙雲の性格からして、曹操に降伏する真似はすまい。とすると、待ち受けるのは死か。生き延びたとして、荊州からどこへ落ち延びるというのだ。江東か、あるいは士燮《ししょう》の統《す》べる交州《こうしゅう》、そこから抜けて益州へ行くか。どちらにしろ、苦難の連続となるだろう。「天下は統一されねばならぬ。それは民族の悲願だ」狼心《ろうしん》青年の、どこかのんびりとしたことばに、夏侯蘭《かこうらん》は現実に引き戻された。「だが天下をふたたび一つにするのは、劉氏でなくともかまわんと、わたしは思っている。曹氏でもかまわん、それで民が安んじるならばな。だが、ふたたび君臨するであろう者が単なる覇者であるならば、天下の頭となるべきものは、べつに曹公でなくともいいわけだ」夏侯蘭は、目をぱちく...地這う龍一章その9ふたたびの旅立ち
※自宅につれていくと、狼心《ろうしん》青年は、物珍しそうに好奇心に目を輝かせて、中に入った。子供たちが机をならべて座っても窮屈さを感じないほどに広いその家は、いまは窓が閉まっているので薄暗く、しかもところどころには、子供たちが置いていったであろう教材や、竹簡《ちくかん》などが乱雑にならべられている。さらには、夏侯蘭《かこうらん》はそこで寝起きもしているので、生活のにおいもしているだろう。だが、狼心青年がまったく頓着《とんちゃく》せず、「ほう」とか、「面白い」と言いつつ、あたりを見回していた。「子供たちに勉強を教えているようだな」「ああ。このあたりの子供たちはなかなか吞み込みが早くて、教える甲斐があるのだ」「あたらしい生き甲斐ができた、というわけか」狼心青年は言いつつ、どっかりと、ためらいもなく上座《かみざ...地這う龍一章その8曹操の進撃
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢《たぜい》で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、旅装束の狼心《ろうしん》青年は、襲撃者たちに言う。「それに、そいつはおれの朋友《とも》だ。殺さないでもらおうか」「知ったことかっ」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。すると、狼心青年は驚く様子もなく、静かに、手にしていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は、狼心青年と同様にまったく動じなかった。腰を落として力を入れると、「ふんっ!」と気合を入れざま、手に...地這う龍一章その7無名の女
女は、ぜえはあと荒く息をしながら、けんめいに刀を持ち替え、こちらに突撃しようと身を低くする。夏侯蘭《かこうらん》は、そのあいだ、女を冷静に観察する。手を泥だらけにして、髪を振り乱し、血の涙を流している女。年齢は三十路前後といったところか。血の涙を流しているところは異様だが、顔立ちはととのっていた。「おまえは、何者だ」野犬が威嚇するように、低く夏侯蘭が誰何《すいか》すると、女はあらい息をしたまま、短く答えた。「貴様には教えない」「おまえにおれは倒せぬ。その短刀をよこせ」夏侯蘭は、じり、と前進して、女に、自分の手のひらを見せた。「さあ、よこせ。こんなことをして、なんになる」すると、女はうう、と獣じみた声をあげた。ぶるぶる震えているのは、恐怖のためではなく、怒りのためであろう。「こんなやつに、こんな小物に、ぼう...地這う龍一章その6狼の介入、ふたたび
墓の前にいたのは、小柄な女だった。背中をちいさく丸めて前のめりに屈《かが》みこみ、なにやら熱心に手を動かしている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しい音がした。どうやら、地面を掘り返しているようだ。ぞくっと背筋がふるえた。墓の前で地面を掘り返している……妻の縁故《えんこ》の者が、櫛《くし》を取り返しに来た?いや、おかしい。妻の櫛は、たしかに高級品ではあったが、しかし奪い合いになるほどの価値はなかった。そもそも、なんの便《たよ》りもなく妻の墓にやってくる親族に心当たりはない。そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》は気づいた。墓の下には、櫛の他に、なにがある。塩漬けにした『狗屠《くと》』の首だ。この女、『狗屠』の首をとり返しに来たのか。女の顔は見えない。ただ、腰まで届く長い髪をしており、それが屈んでいるせい...地這う龍一章その5墓標の前の女
※いつもは熱心に話を聞いてくれる子供たちが、そわそわして落ち着きがなくなってきた。子供たちは、たがいに、晴れ着を着れるよろこびや、おいしい食事にありつける楽しさなどを話している。そうか、秋祭りがちかいのだなと、夏侯蘭《かこうらん》は自分の幼いころを思い出して気づいた。かつての幼かった自分も、秋の実りを祝っての祭りがたのしみで、槍の稽古ばかりしている趙雲を無理に誘って、集落の広場に出かけたものである。しぶっていた趙雲も、芸達者な里の者がかなでる笛や太鼓の音に、しだいに笑顔になったものだった。なつかしいなと、夏侯蘭は思わず自分の禿頭《とくとう》を撫《な》でた。いまごろ、趙雲も荊州で秋祭りをたのしんでいるだろうか。いや、それどころではないかもしれない。劉備の主騎にくわえて、孔明の主騎もしていると聞いた。さぞかし...地這う龍一章その4秋祭りがはじまる
※苛烈な夏をすごしたのち、夏侯蘭《かこうらん》は、ふるさとに戻ってきていた。さいわいにもふるさとは温かく、ひとびとは傷ついた夏侯蘭を歓迎してくれた。さらに運のよいことに、集落の外れに住んでいた変わり者の叔父の家を継いで、子供たちのための私塾をひらいて暮らすこともできた。教え方がうまい、子供たちがよくなつくというので、瞬《またた》く間に塾は大盛況である。事実、夏侯蘭にとって、子供たちの相手をするのは楽しかった。自分の冒険譚を語ることで、頭の整理もできる。それに、子供たちの素直な反応で、かえって自分を客観視できた。そもそも人に教えるということは、自分がその事物について深く理解していないとできない。夏侯蘭は、自分はつまらない武辺者だと思い込んでいた。だが、子供たちに学問をおしえてみると、意外にも自分は学があるよ...地這う龍一章その3温かなふるさと