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一同はそれぞれ作戦のための行動を開始した。趙雲もまた、自分の部隊に作戦を伝えるために移動しようとしたが、ふと気づいて、孔明を振り返った。「軍師、おれはしばらくお前を離れることになる。そのあいだ、守ってやれなくなりそうだが、大丈夫か」孔明は、しばらく言葉の意味がつかめなかったような顔をした。それから、急に意味が心にしみ込んだようで、破顔《はがん》して答えた。「なにを言い出すかと思えば。大丈夫だよ。みながわたしを守ってくれる。そうでしょう」と、孔明が趙雲のいる方向とは別のところへ顔を向ける。ほかにも広間に人が残っていたのかと思いつつそちらを向けば、立っていたのは、意外にも、劉封《りゅうほう》だった。急に水を向けられて、劉封は、顔を赤くして、「あ、うう、うむ」と、不明瞭に答えた。劉封は劉備の養子としての矜持《き...地這う龍一章その18和解?
※「さて、軍師、どうしたものかな」さきほど怒りを爆発させていた人物と同じとはおもえないほど、劉備は冷静に孔明にたずねた。やはり、劉備は修羅場慣れしているのである。ここで自分が慌《あわ》てれば、みなが恐慌状態に陥るだろうことをわかっているのだ。孔明もまた、冷静に答えた。「結論から申し上げますと、いますぐに、空き城となっている樊城《はんじょう》へ移動すべきと存じます」「なぜ」「新野は城の防備が弱いからです。ここで籠城するのは下策中の下策です」「そうか……しかし民はどうしたらよいであろう」「いますぐ高札《こうさつ》を立てて、民に曹操の来寇《らいこう》を伝えましょう。それから、われらで時間を稼いで、みなで樊城へ向かうべきです」「われらで時間を稼ぐというと、どのように」「わたしに策がございます。諸将をお集めください...地這う龍一章その17孔明、策を立てる
※関羽は、甲冑姿のままだった。全身が砂埃《すなぼこり》を浴びたままである。よほど急いで馬を走らせたらしかった。いつも血色の良いその顔は、そのときこそは火にくべた炭のように真っ赤になっている。片手には漆《うるし》の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっていた。関羽に首根っこをつかまれて引きずられている旅装の男の顔を見て、趙雲はあっとなった。その男に見覚えがあったのだ。襄陽《じょうよう》の実質上のあるじとして威張《いば》り散している蔡瑁《さいぼう》のとなりで、いつもお追従《ついしょう》を言っては喜ばせていた男が、その旅装の男だった。名を宋忠《そうちゅう》といって、いかにも小賢しそうで、人を馬鹿にした目をした男である。劉備のことも、表立ってはほめあげていたが、裏では用心棒とさげすんでいたことを、趙雲は知っている...地這う龍一章その16襄陽城からの使者
趙雲も蔡瑁《さいぼう》の動きを予想していた。蔡瑁自身が荊州の州牧《しゅうぼく》になる可能性もあるかもしれないと思っていたほどだ。図々しい蔡瑁でも、さすがに劉表《りゅうひょう》と劉琮《りゅうそう》が一度に死んだとは表ざたにできなかったようだ。苦々しい思いが込み上げてきて、趙雲はうなるように言った。「あの男に恥という概念はないのか。その『劉琮どの』は本物じゃない」「そうさ。しかし、こちらにそれを明かす手立てもない。たしかに『劉琮どの』はわれらの目の前で倒された。だが、証拠を見せろと言われたなら、こちらにはなにもない。残念ながら、ね」「夏侯蘭《かこうらん》が持ち帰った首が手元にあれば」言いかけた趙雲に、孔明は首を振った。「意味ないさ。仮に首があったとしても、蔡瑁は、われらが捏造したと言い張っただろう。襄陽《じょ...地這う龍一章その15波乱の幕開け
※劉備の居室へ行くと、まず劉備そのひとが、難しい顔をして腕を組んでいるのが目に入った。つづいて、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっているのがわかった。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関しては、ただ酒の力ばかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、これが許都《きょと》からもどってきたという細作《さいさく》の長の成延年《せいえいねん》だろう。劉備は几帳面なので、いつも部屋は片付いている。しかし今朝に限っては徹夜したあいだに散らかしたらしく、地図や文書、酒瓶や盃などがあちこちに散らばっていた。酒の甘いにおいがあたりにまだ残っている。空になった酒瓶の量は、ふだんの三人分より、さらに多い。益徳《えき...地這う龍一章その14劉備の逡巡
※軟児《なんじ》は甘夫人にうながされて、朝餉《あさげ》をとりに去って行った。趙雲も立ち去ろうとしたが、麋夫人《びふじん》のほうが、自分になにか言いたそうな顔をしているのに気づいた。夫に似て豪胆な甘夫人《かんふじん》と、線が細くはかなげな少女のような麋夫人は、気質も見た目も対照的だったが、それがかえっていいらしく、二人はたいへん仲が良い。麋夫人と甘夫人は、阿吽《あうん》の呼吸でおたがいにうなずき合う。それから、麋夫人が切り出した。「子龍どの、くりかえしになりますけれど、軟児の世話をお願いしますね。あんなにあなたになついているのですもの。きっと、あなたのことをお兄様かお父様のように思っているのよ」「男の子はいいなあ、張著《ちょうちょ》みたいにずっとそばにいられる、なんていって、しきりにうらやましがっていました...地這う龍一章その13軟児の事情
孫軟児《そんなんじ》たちをはじめ、張著など、身内のすぐに見つからない少年少女、あるいは身内を失くした者は、壺中《こちゅう》から救い出されたのち、孔明の采配で、少年は趙雲のところ、少女は甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》のところで匿《かくま》ってもらうことになっていた。孫軟児は、阿斗の世話係というところに落ち着いているようである。しかし軟児の赤子の抱き方は、あまりよいとはいえない。赤ん坊の世話をあまりしたことのない者の抱き方だというのは、子育ての経験のない趙雲でもわかった。そのため阿斗は軟児の腕の中で、ぴちぴちと跳ねるとれたての魚のような姿勢で、ずっと泣きっぱなしだった。早く孔明たちの顔を見たかったが、仕方ない。趙雲は中庭に降りると、軟児に言った。「阿斗さまをこちらへ貸してみるがいい」軟児は目をぱちく...地這う龍一章その12子守りの趙雲
※趙雲と張著《ちょうちょ》はつれだって、食堂に向かい、ほかの兵卒たちとともに朝食を食べ始めた。孔明の尽力《じんりょく》もあり、さいきんは兵卒たちへの食事の内容が良い。鼻孔をくすぐる肉入りの羹《あつもの》の香りと、炊き立ての粟飯、それから野菜の漬物がいくつか。趙雲の隣に座った張著は、言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べはじめた。素直な子供である。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、趙雲はすこし心配になる。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしい。張著はいまだに、気を張り詰めていて、大人の顔色をうかがう癖が抜けないでいるのだ。こいつを子供らしく過ごさせてやるのも、おれの責任だろうなと考えていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将たちが...地這う龍一章その11大門での騒動
※新野城《しんやじょう》の兵たちの朝は早い。まだ日も暗いうちから食事のよいにおいが兵舎にたちこめる。それにつられるように兵士たちは起きだし、仲の良い者同士、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていく。かれらの楽し気な声と、足音、物音につられ、趙雲もまた、目を覚ました。明け方に夢を見ていたようだ。例の老将がいかめしい顔をして、「おい子龍よ、孔明さまのこと、くれぐれも頼んだぞ。わしは子供らを長沙《ちょうさ》に連れて行かねばならぬ。留守のあいだ、きっと孔明さまをお守りしてくれ」と頼み込んできた。わかったと答えたような気がする。夢のなかでは、老将は目にいっぱい涙をたたえて、しおしおと子供らとともに長沙へ旅立っていった。よほど軍師と別れるのがつらいのだなと同情していたところへ、目が覚めたのだ。やけに鮮明な夢だった。...地這う龍一章その10新野城のいつもの朝
みんな曹操の大軍に呑み込まれてしまうのか?趙雲の性格からして、曹操に降伏する真似はすまい。とすると、待ち受けるのは死か。生き延びたとして、荊州からどこへ落ち延びるというのだ。江東か、あるいは士燮《ししょう》の統《す》べる交州《こうしゅう》、そこから抜けて益州へ行くか。どちらにしろ、苦難の連続となるだろう。「天下は統一されねばならぬ。それは民族の悲願だ」狼心《ろうしん》青年の、どこかのんびりとしたことばに、夏侯蘭《かこうらん》は現実に引き戻された。「だが天下をふたたび一つにするのは、劉氏でなくともかまわんと、わたしは思っている。曹氏でもかまわん、それで民が安んじるならばな。だが、ふたたび君臨するであろう者が単なる覇者であるならば、天下の頭となるべきものは、べつに曹公でなくともいいわけだ」夏侯蘭は、目をぱちく...地這う龍一章その9ふたたびの旅立ち
※自宅につれていくと、狼心《ろうしん》青年は、物珍しそうに好奇心に目を輝かせて、中に入った。子供たちが机をならべて座っても窮屈さを感じないほどに広いその家は、いまは窓が閉まっているので薄暗く、しかもところどころには、子供たちが置いていったであろう教材や、竹簡《ちくかん》などが乱雑にならべられている。さらには、夏侯蘭《かこうらん》はそこで寝起きもしているので、生活のにおいもしているだろう。だが、狼心青年がまったく頓着《とんちゃく》せず、「ほう」とか、「面白い」と言いつつ、あたりを見回していた。「子供たちに勉強を教えているようだな」「ああ。このあたりの子供たちはなかなか吞み込みが早くて、教える甲斐があるのだ」「あたらしい生き甲斐ができた、というわけか」狼心青年は言いつつ、どっかりと、ためらいもなく上座《かみざ...地這う龍一章その8曹操の進撃
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢《たぜい》で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、旅装束の狼心《ろうしん》青年は、襲撃者たちに言う。「それに、そいつはおれの朋友《とも》だ。殺さないでもらおうか」「知ったことかっ」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。すると、狼心青年は驚く様子もなく、静かに、手にしていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は、狼心青年と同様にまったく動じなかった。腰を落として力を入れると、「ふんっ!」と気合を入れざま、手に...地這う龍一章その7無名の女
女は、ぜえはあと荒く息をしながら、けんめいに刀を持ち替え、こちらに突撃しようと身を低くする。夏侯蘭《かこうらん》は、そのあいだ、女を冷静に観察する。手を泥だらけにして、髪を振り乱し、血の涙を流している女。年齢は三十路前後といったところか。血の涙を流しているところは異様だが、顔立ちはととのっていた。「おまえは、何者だ」野犬が威嚇するように、低く夏侯蘭が誰何《すいか》すると、女はあらい息をしたまま、短く答えた。「貴様には教えない」「おまえにおれは倒せぬ。その短刀をよこせ」夏侯蘭は、じり、と前進して、女に、自分の手のひらを見せた。「さあ、よこせ。こんなことをして、なんになる」すると、女はうう、と獣じみた声をあげた。ぶるぶる震えているのは、恐怖のためではなく、怒りのためであろう。「こんなやつに、こんな小物に、ぼう...地這う龍一章その6狼の介入、ふたたび
墓の前にいたのは、小柄な女だった。背中をちいさく丸めて前のめりに屈《かが》みこみ、なにやら熱心に手を動かしている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しい音がした。どうやら、地面を掘り返しているようだ。ぞくっと背筋がふるえた。墓の前で地面を掘り返している……妻の縁故《えんこ》の者が、櫛《くし》を取り返しに来た?いや、おかしい。妻の櫛は、たしかに高級品ではあったが、しかし奪い合いになるほどの価値はなかった。そもそも、なんの便《たよ》りもなく妻の墓にやってくる親族に心当たりはない。そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》は気づいた。墓の下には、櫛の他に、なにがある。塩漬けにした『狗屠《くと》』の首だ。この女、『狗屠』の首をとり返しに来たのか。女の顔は見えない。ただ、腰まで届く長い髪をしており、それが屈んでいるせい...地這う龍一章その5墓標の前の女
※いつもは熱心に話を聞いてくれる子供たちが、そわそわして落ち着きがなくなってきた。子供たちは、たがいに、晴れ着を着れるよろこびや、おいしい食事にありつける楽しさなどを話している。そうか、秋祭りがちかいのだなと、夏侯蘭《かこうらん》は自分の幼いころを思い出して気づいた。かつての幼かった自分も、秋の実りを祝っての祭りがたのしみで、槍の稽古ばかりしている趙雲を無理に誘って、集落の広場に出かけたものである。しぶっていた趙雲も、芸達者な里の者がかなでる笛や太鼓の音に、しだいに笑顔になったものだった。なつかしいなと、夏侯蘭は思わず自分の禿頭《とくとう》を撫《な》でた。いまごろ、趙雲も荊州で秋祭りをたのしんでいるだろうか。いや、それどころではないかもしれない。劉備の主騎にくわえて、孔明の主騎もしていると聞いた。さぞかし...地這う龍一章その4秋祭りがはじまる
※苛烈な夏をすごしたのち、夏侯蘭《かこうらん》は、ふるさとに戻ってきていた。さいわいにもふるさとは温かく、ひとびとは傷ついた夏侯蘭を歓迎してくれた。さらに運のよいことに、集落の外れに住んでいた変わり者の叔父の家を継いで、子供たちのための私塾をひらいて暮らすこともできた。教え方がうまい、子供たちがよくなつくというので、瞬《またた》く間に塾は大盛況である。事実、夏侯蘭にとって、子供たちの相手をするのは楽しかった。自分の冒険譚を語ることで、頭の整理もできる。それに、子供たちの素直な反応で、かえって自分を客観視できた。そもそも人に教えるということは、自分がその事物について深く理解していないとできない。夏侯蘭は、自分はつまらない武辺者だと思い込んでいた。だが、子供たちに学問をおしえてみると、意外にも自分は学があるよ...地這う龍一章その3温かなふるさと
その禿頭《とくとう》の男、夏侯蘭《かこうらん》は、十五のときに義勇軍に応募して常山真定《じょうざんしんてい》を出た男だ。いっしょだった幼馴染みの趙家の末っ子である趙雲、あざなを子龍とともに、袁紹軍に参加したり、公孫瓚《こうそんさん》軍に仕えたりした。事情があって趙雲と別れ、ひとりぼっちで各地を放浪したのち、夏侯蘭は曹操軍に加入し、そこでそこそこの手柄をたてたという。そこそこの手柄、と当の本人は謙遜しているものの、その当時の活躍の話が、たいへんに面白い。夏侯蘭の語りはたくみだった。子供たちもかれのことばの導くままに、想像のなかで、氷柱《つらら》のできた氷の道を、つるつる滑らないように気を付けながら行軍し、あるいは、戦場での多彩な仲間たちとともにかまどを囲んで笑い踊り、ときには、猛暑のなかで甲冑の重さに苦しみ...地這う龍一章その2夏侯蘭先生
冀州《きしゅう》、常山真定《じょうざんしんてい》。集落のはずれめざして、童子が息を切らせて走っていた。家で幼い妹のおしめの世話をしていたら、いつのまにか太陽がすっかり昇り切ってしまっていたので、焦っている。背中には妹、片手には野菜のたくさん詰まった籠《かご》を持って、童子はけんめいに走った。集落のはずれには、さいきん開かれた私塾があって、童子はそこで読み書きを教わっているのだ。背中の妹はぐっすり眠っていて、グラグラ揺らされているにもかかわらず、起きる気配もない。童子は器用に籠から野菜がこぼれないよう、うまくからだの均衡をとりながら体を上下に揺らしている。それでもときどき、籠から野菜がごろりと地面に落ちてしまう。つやつやに光る、とれたてで、まだしずくがついた野菜たちに悪態をつきながら、童子は立ち止まって拾う...地這う龍一章その1そのころの、常山真定
※朝議《ちょうぎ》が散会になったあとでも、孔明はその場にとどまっていた。なにやら思案顔《しあんがお》なので、趙雲はたずねる。「浮かない顔をしているな、気にかかることでもあるのか」とたん、孔明はわずかに首をかしげて、答えた。「あなたの視線は感じていたが、やはり見られていたか。じつは気にかかることがあってね。曹操が来ないというのは、ほんとうだろうか」「なぜ」「曹操のもとへいった徐兄《じょけい》からの手紙が、かえってこないのだ」徐兄とは、孔明の前任の軍師の徐庶《じょしょ》、あざなを元直《げんちょく》のことである。前身は潁川《えいせん》のやくざ者だったが、改心して学問にはげみ、立派に軍師となって、短期間だが劉備に仕えた人物だ。孔明の同門の兄弟子でもあり、かつ、大親友でもある。いまは事情があって曹操に仕えざるをえな...地這う龍序章その3朝議のあとの、ふたり
劉備は密書を受け取り、それから、ざっと書面に目を走らせ、すぐさま愁眉《しゅうび》をひらいた。その表情に、場の緊張の糸がほどけていくのを、趙雲も感じた。「曹操は、今秋《こんしゅう》は動く気配がないようだ」劉備のことばに、あらためて、おおっ、と安堵の声がひろがった。曹操は来ない。つまり、一息つけるということだ。趙雲もほかの者たちと同様に、ほっとしたひとりだ。喜びを分かち合おうと、孔明のほうを見れば、かれは裏切られでもしたかのような、意外そうな顔をしている。曹操が来ないというのは朗報だというのに、気にかかることでもあるのだろうか。「仮にやつが侵攻してくるとなれば、春になろう。つまりわれらには、半年も余裕があるということだ。それだけあれば、できることも増えるな」ホッとした顔を見せる劉備に、関羽が大きくうなずいた。...地這う龍序章その2春までは
首《こうべ》を垂れてみのる稲穂《いなほ》の香ばしいにおいにつられて漂ってきたわけでもなかろうが、新野城の外から、大きなとんぼが広間にまぎれこんできた。これがふだんなら、だれか気の利いた者がとんぼを外へ追い出すのだが、今日ばかりはだれもが緊張していることもあり、知らん顔をしている。とんぼはゆうゆうと劉備の近くまで飛んでいったが、その途中で、止まり木にいるはやぶさに気づいたようで、あわてた様子で引き返していった。その姿を視界の横におさめつつ、趙雲は、広間の中央で、止まり木のはやぶさとともにいる陳到《ちんとう》に目をやる。陳到は、めずらしく神妙な顔をしてはやぶさの運んできた密書をていねいにひろげていた。密書には鄴都《ぎょうと》と許都《きょと》のそれぞれの細作を束ねる男からの情報が書かれている。内容は、ずばり、曹...地這う龍序章その1返って来た密書
「奇想三国志英華伝《えいかでん》」は、趙雲と孔明を主役にした三国志シリーズ。そもそも、どうして趙雲と孔明のコンビの話を作ろうと思ったのかというと。まず孔明の話を書きたかったことから、すべては始まった。基本は柴田錬三郎の「英雄ここにあり」の清雅の極みといった孔明像。吉川英治版三国志の孔明とも、三国志演義の孔明ともちがう、存在していそうで、絶対に存在しえない唯一無二のキャラクターにあこがれ、自分も書いてみたいなあと思ったため。「英雄ここにあり」は、女性たちがだいたい不憫《ふびん》だが、そのぶん、孔明の潔《いさぎよ》さが際立っていた。孔明ひとりが主人公というのは、ちょっと寂しい。相棒がいたら面白いなと思った。相棒にふさわしいキャラクターってどんなキャラクターだろうと想像を働かせ、行きついたのが、やっぱり趙雲だっ...「奇想三国志英華伝」のなりたち
※曹操が南陽の 宛《えん》まで来ている、という衝撃的な知らせは、あっという間に諸将にひろがった。孔明のまわりに集まった将たちの顔は、一様にこわばっている。それはそうだと、趙雲は思う。これまで何度か曹操と対決してきたが、今度の曹操は大軍を引き連れている。国境を巡る小競り合いではない、大津波が襲ってくるのも同然だ。だれもが、勝ち目はあるのかと疑い、動揺している。そんななかでも、孔明だけは落ち着き払っていた。「みなにそれぞれ策を与える。今回はわれらが樊城に移動するまでのあいだ、曹操軍を足止めするのが目的だ」孔明に反論する者はだれもいない。みな粛然としてその声を聴いている。「麋子方どのと劉封どのには、それぞれ赤い旗と青い旗を持って、山頂にて振っていただく役目をお願いする」「振るだけでよいのか」劉封の問いに、孔明は...地這う龍その13作戦をたてる
※あらわれた関羽は、甲冑姿のままで、砂埃を払うこともしなかった。その血相はいままで戦場でのみ見た鬼神を思わせるもので、その片手には漆の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっている。引きずられている旅装の男の顔を見て、ますます不吉な思いが増した。男には見覚えがあった。劉備が襄陽に行くたびに趙雲も主騎として随行していたのだが、その襄陽で、蔡瑁のとなりにいた男が、その鼠を思わせる顔をした男…宋忠《そうちゅう》だった。宋忠は、歯をカチカチと鳴らして怯え切っている。「何があったのだ、雲長」「何があったもなにも」劉備の問いに答えつつ、関羽は手にしていた漆《うるし》の箱を劉備のかたわらにいた孔明に向かって放り投げた。孔明はそれを受け取ると、すぐさま封を切り、開く。中には書簡が入っていた。書簡を読む孔明の顔色もまた、桃色...地這う龍その12最悪の知らせ
え、誰?というツッコミが来そうな御仁。趙雲ファンならば、正史三国志の蜀書にある「季漢輔賛臣伝」において、趙雲とならべて語られていることをたいがい知っている。wikiなどを見ると、陳到は豫洲に劉備がいる時代から、劉備に付きしたがって、白耳兵なる精鋭部隊を率いて前線で戦っていたようだ。くわしくは、そちらを検索していただきたい。武勇において、趙雲と並ぶと称賛されている。武勇に優れていただけではなく、史実では永安都督までになっているので、統率力もかなりのものだったよう。某SLGの三國志では、だんだん陳到の顔グラフィックが格好良くなってきているように見えるので、趙雲ファン、蜀漢ファンにだけではなく、広く三国志ファンにも認知されてきているのかもしれない。当作品では、勝手に陳到を趙雲の副将ということにしているが、これは...陳到(叔至)
※劉備の私室へ行くと、劉備そのひとと、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっていた。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関してはそればかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、許都からもどってきたという細作の成延年《せいえんねん》だろう。いつもは片付いている部屋が、今朝に限っては徹夜明けのためか、散らかっていた。書簡、地図、徳利、杯、そういったものが、ばらばらにあちこち置かれている。さらには、部屋にはぷんと酒の匂いが充満していた。空になった徳利の量が三人分よりさらに多い。益徳め、呑みすぎだぞ、と張飛は心のうちで舌打ちをした。その張飛は、虎になって、劉備にからんでいる。「なーにが『お気の毒』だよ。孔...地這う龍その11細作の正体
「阿斗さまは子龍さまがお好きなのね」阿斗を上手にあやす趙雲い、感心しきりといったふうに軟児が言う。阿斗は劉備によく似た福耳の、まるまるとした赤ん坊だった。泣くときは、身が爆発するのではと周囲が臆するほどに大声で泣く。「奥方様がたは朝の支度をされているのかな」趙雲が問うと、少女たちはいっせいに、うんと答えた。「奥方様がたがお忙しそうだったので、あたしたちが子守りを買って出たんです」と、リスのような少女が言った。「でもあまりお役に立てなかったみたい。阿斗さまは、むずかしいわ」その口調が、まるで大人の口調をそっくりまねたようだったので、趙雲は思わず声を立てて笑った。趙雲がそんなふうに、楽し気に声を立てて笑うことは珍しかったのだが、もちろん、新参の少女たちはそれを知らない。知らないが、なんだか愉快になったらしく、...地這う龍その10こころの傷
食堂でほかの兵卒たちとともに食事をともにする。張著《ちょうちょ》は趙雲に言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べていた。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、となりで趙雲はおもう。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしいから、張著は大人の言動に過敏になっているのだ。そして、食事をしていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将がやってきた。「どうした、朝っぱらから疲れた顔をしているな」趙雲が声をかけると、部将たちは困り顔のまま答えた。「それが、大門のところで、ちょっとした騒ぎがあったのです。どう処理してよいか、困ってしまいました」「どんな騒ぎだ」「鶏の鳴く声と同時に門をひらくのは子龍さまもご存じでしょうが、今朝はまっさきに門をくぐろうとした...地這う龍その9趙雲と子供たち
劉備に続いては、このお二方。もう千八百年は語り継がれている人たちだけあって、キャラクターががっちり固まっているところが、じつに書きづらい。とくに関羽は神さまになっているので、とても気を遣う。張飛がボケて、関羽がツッコむ、という図式を崩せないかと頭の中でシミュレートしてみたけれど、どうしても崩せない。しかし、劉備・関羽・張飛のトリオをテンプレ通りに書かないと、もうそれは三国志ではないような気もする…以上の理由から、オリジナル要素は少ない二人である。当作品内でも、関羽は義を重んじる性格で、誇り高く、思慮深い。水魚の交わりのエピソードを持ち出すまでもなく、当初は孔明のことを受け入れていなかったようだが、いったん認めると、とても親身になる。おそらく荊州で娶ったと思われる妻とのあいだに、のちに頼もしい武将に成長する...関羽(雲長)&張飛(益徳)
※朝の早い兵舎では、すでに起きだした兵卒たちが、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていた。その楽し気な声と、足音、物音で、趙雲は目を覚ました。夢を見ていたような感じがするが、目をひらいたとたんに忘れてしまった。どうせ夢だし、たいした内容でもなかろうと思いつつ、寝台から起き上がる。兵舎の一角にしつらえた粗末な部屋が、趙雲の寝起きする場所である。もっとよい部屋で、劉備や孔明のそばの場所もあるのだが、趙雲が希望してここにしてもらっていた。ここにいると、兵卒たちの把握がしやすいうえに、奥向きのことに気を取られなくてすむので、かえってのんびりできるのだ。女が苦手というほどではなかったが、生来、あまりがつがつと異性に食らいつくほうではない趙雲としては、気を使わない男どものそばにいたほうが気安い。本来なら起き抜けにす...地這う龍その8新野城の朝
しばし、狼心青年のことばを呑み込むことができなかった。曹操が物見遊山《ものみゆさん》に許都をでたわけではない。いよいよ野望をむき出しにし、荊州を併呑《へいどん》せんと動き出したのだ。「し、しかし、いまはもう秋だぞ。すぐに冬になってしまう。兵法に通じている曹公が、まさかこんな時期に軍を動かすとは」おどろきうろたえる夏侯蘭《かこうらん》だが、狼心《ろうしん》青年は頓着しないというふうに、白湯《さゆ》をすすりつづけている。「裏をかいたか、それとも絶対の自信があるのか…どちらにしろ、曹公は自分がまけることなどつゆほどかんがえていない。まあ、負けることは万が一にもなかろうが。なにせ、百万の兵を動かしているのだからな」「百万…」そのあまりの膨大な数を想像しようとした夏侯蘭だが、すぐに想像が追い付かなくなり、やめた。「...地這う龍その7ふたたび荊州へ
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、狼心《ろうしん》青年は襲撃者たちに言う。「そいつはおれの朋友だ。殺さないでもらおうか」「知ったことか」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。狼心青年は驚く様子もない。静かにたずさえていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣《なら》う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は狼心青年と同様にまったく動じず、腰に力を入れると、手にした槍でもって、黒装束の者のうち、ひとりを薙ぎ払った。すさまじい力であった。そいつは...地這う龍その6あらわれた助け手
コネらしいコネもないままに、乱世を腕一本でのし上がった英雄。そのわりに、なぜかふしぎと、強引さや、残虐さといった、自己中心的な面が前面に印象としてないのが、得なところ。前半生は苦労の連続であったのは、ご存じのとおり。ただ、苦労したおかげで、逆にあまたの英雄から「良い面」「悪い面」を学べたのかもしれない。「三国志演義」では、後半生はとくに泣いてばかりの印象が強く、「泣いて蜀をとった」とまで揶揄されがち。包容力のある人物で、あまり多くを語らないところ、感情をあらわにして周りに無駄な気を遣わせないところなどがある。髭は薄く、あるのかないのか、というほど(ちょっとコンプレックス)。みごとな福耳で、手足が細長いため、ふつうのひとより長く見える。音楽が好きで、派手なもの、楽しいものが好き。手先が器用で、牛のしっぽの飾...劉備(玄徳)
墓の前にいたのは、小柄な女だった。女が墓の前の地面に屈みこんで、なにやら熱心にやっている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しく音がする。どうやら、地面を掘り返しているようだ。犬のような女だな、どこかおかしいのかもしれぬ。と、そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》はとつぜん、ひやっとした。おかしい、だと。おかしいのも当たり前ではないか。この女の掘り返している地面の下にはなにがある?狗屠《くと》の首ではないか。夏侯蘭は思わず腰に手をあてていた。そして、おのれのうかつさを呪った。ここ数か月、あまりに平和に過ごしていたので、近所に出かけるときは、剣を佩《お》びないようになっていたのだ。女の白く細い手が、土にまみれている。女はそれでもかまわず、熱心に土を掘り返そうとしていた。背後に夏侯蘭がいるのにも気づかない様子...地這う龍その5血の涙の女
※夏侯蘭《かこうらん》は、集落の外れに住んでいた変わり者の叔父の家を継いで、子供たちのための私塾をひらいて暮らしていた。教え方がうまいというので、瞬く間に子供たちが集まり、塾は大盛況である。子供たちの相手をするのは楽しかった。自分の冒険譚を語ることで、頭の整理もできる。それに、子供たちの素直な反応で、かえって自分を客観視できた。そもそも人に教えるということは、自分がその事物について深く理解していないとできない。夏侯蘭は、自分が武辺者だと思い込んでいたが、あんがい、自分は学があるなと自分でおどろいていた。子供たちは毎日、うれしそうに自分の話を聞いてくれる。周りの反応がよいため、夏侯蘭もうれしくなり、常山真定に帰ってからのほうが、よく勉強するようになっていた。勉強は、真面目に取り組んでみると、とても面白い。世...地這う龍その4秋祭りの日に
冀州《きしゅう》、 常山真定《じょうざんしんてい》。集落のはずれめざして、童子が走っている。幼い妹のおしめの世話をしていたら、いつのまにか太陽がすっかり昇り切ってしまっていたので、焦っている。あわてて支度をして、母親から渡された野菜のいっぱいはいった籠をかかえて、いま走っているのだが、さて、あたらしい私塾の先生は授業を待ってくれているだろうか。籠のなかの泥付きの野菜を落とさないように、気を付けながら走らねばならないので、なかなかコツがいる。ときどき、籠から野菜がごろりと地面に落ちるので、そのたびに立ち止まって拾わねばならなかった。童子はぼやきながらそれをひろい、授業がはじまっていないといいな、先生の面白いはなしを聞き逃していないといいなと願う。やがて、集落のはずれにある、古い大きな家の入口が見えた。入口...地這う龍その3常山真定の夏侯蘭先生
名前が『雲』で、あざなが子『龍』。まさに雲を得て天に昇る龍をあらわした、そうとうに気合の入った名前である。名とあざなの意味が対応できている名前なので、学のあるきちんとした人物にあざなをもらったのだとわかる。趙雲はそれなりの家柄の子息だったのだろう。「奇想三国志英華伝」では、認知症がすすんでいる老いた父の代わりに、次兄が字を授けた、という設定にした。(くわしくは「臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻」でどうぞ)。趙国の王族の末裔かもしれない、というのは、柴錬三国志の影響を引き継いだ。趙雲が現在でもこれほど人気を誇っているのは、正史三国志の注釈にある「趙雲別伝」によるところが大きい、というのは異論がないと思う。文章に堪能な子孫が残したと思われるこの「別伝」。そこに描かれる趙雲は、ともかくかっこいい。身の丈八尺、容姿...趙雲(子龍)
※朝議が散会になったあと、趙雲は孔明のそばに向かった。孔明は趙雲の顔を見るなり、不機嫌そうに小声で言う。「曹操が来ないというのは、ほんとうだろうか」「なぜそうおもう」「根拠らしい根拠はない。勘だ。根拠と言えば、ひとつだけ。徐兄からの手紙がかえってこないのだ」徐兄とは、孔明の前任の軍師の徐庶、あざなを元直のことである。前身は潁川《えいせん》のやくざ者だったが、改心して学問にはげみ、立派に軍師となって、短期間だが劉備に仕えた人物だ。孔明の兄弟子でもあり、親友でもある。いまは事情があって曹操に仕えているが、それでも孔明はせっせと徐庶とその身辺に向けて、無事かどうかを確かめる手紙を送り続けていた。「手紙がこないとは、無視されているということか?」徐庶は義理堅い男だった。その徐庶が、かわいがっていた弟弟子《おとうと...地這う龍その2孔明の疑問
「曹操は来ないんじゃないかな、秋だし」張飛は自分にだけ聞こえるようにつぶやいたつもりらしい。だが、もともとの地声がおおきいこともあり、静まり返った広間に、かえって響いてしまった。となりにいる関羽が、ぽかりと張飛の頭を小突いて、たしなめる。「ばかもの、安易に憶測を言うな」「でもよ、兵法では、秋になったら兵を動かさないものなのだろう?自分は兵法の大家だって自慢している曹操の野郎が、あえて秋に兵をうごかすかなあ?」張飛の言うことはもっともだ。張飛と関羽のやり取りを聞いていた趙雲は、張飛もすこしずつ進化しているなと素直に感心した。ほかの者もおなじようで、張飛のことばに目をみはっている。朝議の中の発言である。しかも、今朝は勝手がちがう。許都からの情報をもったはやぶさが、飼い主たる陳到のもとへ戻って来たのだ。その細作...地這う龍その1許都からの密書
趙雲(子龍)→劉備の主騎。劉備の命令で孔明の主騎もかねる。槍の名手。ただし、その名はまだ天下に轟いてはいない。武人ながらも思いやりのある性格で、気配りの人。冷静沈着に事態に対処できる。諸葛亮(孔明)→劉備の軍師。号は臥龍。軍師ではあるが、策謀にはあまり長けていない。むしろ人を励まし鼓舞することのほうが得意。リアリストだが、人を慮ることができ、苦難に対しても精一杯努力できる美点がある。劉備(玄徳)→趙雲、孔明らの主君。感情の振れ幅が大きい。普段はおだやかだが、ことあると激情家の面も見せる。おおいに笑い、おおいに泣くことのできる、人間くさい主君。残酷なところが少ないのも、人をほっとさせるところ。手先がとても器用。関羽(雲長)→劉備の義兄弟。曹操とその家臣たちについては、だれより詳しい。当初は孔明に反発していた...地這う龍登場人物紹介
※梅がほころぶ美しい道を、しずしずと、雲を載せた車は移動する。やわらかい風に、芽吹いたばかりの木々が揺れている。耕されたばかりの畑からは、土の香りが立ちのぼっていた。あらたな道へ入っていくというのに、心はすこしもときめかず、未来への夢も希望も、なにも思い浮かぶことはなかった。行く手に待ち受けるものの、だいたいの予想がついているからであろう。車が進み、袁家がそろそろ見えてくるというとき、遠くから、おおい、おおいと、声をかけてくるものがある。車から身を乗り出して見ると、奇妙にちぐはぐな武具を身にまとった、幼馴染たちだった。先頭には、一番の仲良しである夏侯蘭がいる。彼らは駆けてくると、ゆっくりと進む車に近づいて、乗り込んでいる雲に顔を見せた。「よかった、追いついた。おまえに」夏侯蘭が言うと、別の車に乗っていた長...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その14
※翌朝には、もう屋敷に次兄の姿はなかった。湿っぽいのを嫌って出て行ったのだと誰かが言ったが、それに反論を加える者はいなかった。おそらく、そのとおりなのだろう。それから日数が経ち。袁家の婿取りの話しは、やはり雲に白羽の矢が立った。長兄の後押しもあり、話は戸惑うくらいに、とんとん拍子に進んだ。一度もまともに言葉を交わしたことのない花嫁のための贈り物がそろえられ、袁家からは、身を飾る、腕輪や指輪、婚約を祝う衣などが送られた。長兄以外の兄弟たちは、雲の幸運をねたんで、あれこれと嫌がらせをしてきた。だが、縁談がどんどん具体的になるにつれ、未来の袁家の若旦那を怒らせたらまずいとわかってきたようだ。次第にみな、大人しくなっていった。力を得るということの意味を、雲は、このことによりあらためて実感した。次兄のことで心を痛め...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その13
「末っ子、もうひとつ、言っておかねばならぬことがある」雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。「おまえだけには話しておこう。じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。決まりがわるくて姿を出せなくてね。でも姿を見せることができて、すっきりした。顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。ついでに、おもしろいことをしてやろう。わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」占いなんて、ぞっとしない。断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。雲は思った。自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、か...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その12
母はここで、一生を過ごす覚悟を決めているのだなと、その姿を見て、雲は思った。母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。母の視野のほとんどを第一夫人が占めいている。夫人もまた、雲の母を頼りにしているようだ。その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、第一夫人と、奇妙な友情を育んでいるのだ。「そのとなり」言われるまま、雲が視線を移すと、そこでは義姉が、自分の姪にあたる赤子を、やさしくあやしている姿があった。昼間は姑にいびられている兄嫁だが、夜は、こうして娘たちと、おだやかな時間をすごすことができる。灯火のもと、ささやかな幸福をこころから味わっているようだ。や...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その11