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その禿頭《とくとう》の男、夏侯蘭《かこうらん》は、十五のときに義勇軍に応募して常山真定《じょうざんしんてい》を出た男だ。いっしょだった幼馴染みの趙家の末っ子である趙雲、あざなを子龍とともに、袁紹軍に参加したり、公孫瓚《こうそんさん》軍に仕えたりした。事情があって趙雲と別れ、ひとりぼっちで各地を放浪したのち、夏侯蘭は曹操軍に加入し、そこでそこそこの手柄をたてたという。そこそこの手柄、と当の本人は謙遜しているものの、その当時の活躍の話が、たいへんに面白い。夏侯蘭の語りはたくみだった。子供たちもかれのことばの導くままに、想像のなかで、氷柱《つらら》のできた氷の道を、つるつる滑らないように気を付けながら行軍し、あるいは、戦場での多彩な仲間たちとともにかまどを囲んで笑い踊り、ときには、猛暑のなかで甲冑の重さに苦しみ...地這う龍一章その2夏侯蘭先生
冀州《きしゅう》、常山真定《じょうざんしんてい》。集落のはずれめざして、童子が息を切らせて走っていた。家で幼い妹のおしめの世話をしていたら、いつのまにか太陽がすっかり昇り切ってしまっていたので、焦っている。背中には妹、片手には野菜のたくさん詰まった籠《かご》を持って、童子はけんめいに走った。集落のはずれには、さいきん開かれた私塾があって、童子はそこで読み書きを教わっているのだ。背中の妹はぐっすり眠っていて、グラグラ揺らされているにもかかわらず、起きる気配もない。童子は器用に籠から野菜がこぼれないよう、うまくからだの均衡をとりながら体を上下に揺らしている。それでもときどき、籠から野菜がごろりと地面に落ちてしまう。つやつやに光る、とれたてで、まだしずくがついた野菜たちに悪態をつきながら、童子は立ち止まって拾う...地這う龍一章その1そのころの、常山真定
※朝議《ちょうぎ》が散会になったあとでも、孔明はその場にとどまっていた。なにやら思案顔《しあんがお》なので、趙雲はたずねる。「浮かない顔をしているな、気にかかることでもあるのか」とたん、孔明はわずかに首をかしげて、答えた。「あなたの視線は感じていたが、やはり見られていたか。じつは気にかかることがあってね。曹操が来ないというのは、ほんとうだろうか」「なぜ」「曹操のもとへいった徐兄《じょけい》からの手紙が、かえってこないのだ」徐兄とは、孔明の前任の軍師の徐庶《じょしょ》、あざなを元直《げんちょく》のことである。前身は潁川《えいせん》のやくざ者だったが、改心して学問にはげみ、立派に軍師となって、短期間だが劉備に仕えた人物だ。孔明の同門の兄弟子でもあり、かつ、大親友でもある。いまは事情があって曹操に仕えざるをえな...地這う龍序章その3朝議のあとの、ふたり
劉備は密書を受け取り、それから、ざっと書面に目を走らせ、すぐさま愁眉《しゅうび》をひらいた。その表情に、場の緊張の糸がほどけていくのを、趙雲も感じた。「曹操は、今秋《こんしゅう》は動く気配がないようだ」劉備のことばに、あらためて、おおっ、と安堵の声がひろがった。曹操は来ない。つまり、一息つけるということだ。趙雲もほかの者たちと同様に、ほっとしたひとりだ。喜びを分かち合おうと、孔明のほうを見れば、かれは裏切られでもしたかのような、意外そうな顔をしている。曹操が来ないというのは朗報だというのに、気にかかることでもあるのだろうか。「仮にやつが侵攻してくるとなれば、春になろう。つまりわれらには、半年も余裕があるということだ。それだけあれば、できることも増えるな」ホッとした顔を見せる劉備に、関羽が大きくうなずいた。...地這う龍序章その2春までは
首《こうべ》を垂れてみのる稲穂《いなほ》の香ばしいにおいにつられて漂ってきたわけでもなかろうが、新野城の外から、大きなとんぼが広間にまぎれこんできた。これがふだんなら、だれか気の利いた者がとんぼを外へ追い出すのだが、今日ばかりはだれもが緊張していることもあり、知らん顔をしている。とんぼはゆうゆうと劉備の近くまで飛んでいったが、その途中で、止まり木にいるはやぶさに気づいたようで、あわてた様子で引き返していった。その姿を視界の横におさめつつ、趙雲は、広間の中央で、止まり木のはやぶさとともにいる陳到《ちんとう》に目をやる。陳到は、めずらしく神妙な顔をしてはやぶさの運んできた密書をていねいにひろげていた。密書には鄴都《ぎょうと》と許都《きょと》のそれぞれの細作を束ねる男からの情報が書かれている。内容は、ずばり、曹...地這う龍序章その1返って来た密書
「奇想三国志英華伝《えいかでん》」は、趙雲と孔明を主役にした三国志シリーズ。そもそも、どうして趙雲と孔明のコンビの話を作ろうと思ったのかというと。まず孔明の話を書きたかったことから、すべては始まった。基本は柴田錬三郎の「英雄ここにあり」の清雅の極みといった孔明像。吉川英治版三国志の孔明とも、三国志演義の孔明ともちがう、存在していそうで、絶対に存在しえない唯一無二のキャラクターにあこがれ、自分も書いてみたいなあと思ったため。「英雄ここにあり」は、女性たちがだいたい不憫《ふびん》だが、そのぶん、孔明の潔《いさぎよ》さが際立っていた。孔明ひとりが主人公というのは、ちょっと寂しい。相棒がいたら面白いなと思った。相棒にふさわしいキャラクターってどんなキャラクターだろうと想像を働かせ、行きついたのが、やっぱり趙雲だっ...「奇想三国志英華伝」のなりたち
※曹操が南陽の 宛《えん》まで来ている、という衝撃的な知らせは、あっという間に諸将にひろがった。孔明のまわりに集まった将たちの顔は、一様にこわばっている。それはそうだと、趙雲は思う。これまで何度か曹操と対決してきたが、今度の曹操は大軍を引き連れている。国境を巡る小競り合いではない、大津波が襲ってくるのも同然だ。だれもが、勝ち目はあるのかと疑い、動揺している。そんななかでも、孔明だけは落ち着き払っていた。「みなにそれぞれ策を与える。今回はわれらが樊城に移動するまでのあいだ、曹操軍を足止めするのが目的だ」孔明に反論する者はだれもいない。みな粛然としてその声を聴いている。「麋子方どのと劉封どのには、それぞれ赤い旗と青い旗を持って、山頂にて振っていただく役目をお願いする」「振るだけでよいのか」劉封の問いに、孔明は...地這う龍その13作戦をたてる
※あらわれた関羽は、甲冑姿のままで、砂埃を払うこともしなかった。その血相はいままで戦場でのみ見た鬼神を思わせるもので、その片手には漆の箱を、もう片手には、旅装の男を引きずっている。引きずられている旅装の男の顔を見て、ますます不吉な思いが増した。男には見覚えがあった。劉備が襄陽に行くたびに趙雲も主騎として随行していたのだが、その襄陽で、蔡瑁のとなりにいた男が、その鼠を思わせる顔をした男…宋忠《そうちゅう》だった。宋忠は、歯をカチカチと鳴らして怯え切っている。「何があったのだ、雲長」「何があったもなにも」劉備の問いに答えつつ、関羽は手にしていた漆《うるし》の箱を劉備のかたわらにいた孔明に向かって放り投げた。孔明はそれを受け取ると、すぐさま封を切り、開く。中には書簡が入っていた。書簡を読む孔明の顔色もまた、桃色...地這う龍その12最悪の知らせ
え、誰?というツッコミが来そうな御仁。趙雲ファンならば、正史三国志の蜀書にある「季漢輔賛臣伝」において、趙雲とならべて語られていることをたいがい知っている。wikiなどを見ると、陳到は豫洲に劉備がいる時代から、劉備に付きしたがって、白耳兵なる精鋭部隊を率いて前線で戦っていたようだ。くわしくは、そちらを検索していただきたい。武勇において、趙雲と並ぶと称賛されている。武勇に優れていただけではなく、史実では永安都督までになっているので、統率力もかなりのものだったよう。某SLGの三國志では、だんだん陳到の顔グラフィックが格好良くなってきているように見えるので、趙雲ファン、蜀漢ファンにだけではなく、広く三国志ファンにも認知されてきているのかもしれない。当作品では、勝手に陳到を趙雲の副将ということにしているが、これは...陳到(叔至)
※劉備の私室へ行くと、劉備そのひとと、張飛、孔明がそれぞれ赤い顔をしてそろっていた。劉備と孔明の顔がほんのり赤いのは、酒の力によるものだろうが、張飛に関してはそればかりではなさそうだ。部屋にはもうひとり、目の細くてすらっと背の高い男がいて、趙雲を見るなり、深々と頭を下げた。おそらくは、許都からもどってきたという細作の成延年《せいえんねん》だろう。いつもは片付いている部屋が、今朝に限っては徹夜明けのためか、散らかっていた。書簡、地図、徳利、杯、そういったものが、ばらばらにあちこち置かれている。さらには、部屋にはぷんと酒の匂いが充満していた。空になった徳利の量が三人分よりさらに多い。益徳め、呑みすぎだぞ、と張飛は心のうちで舌打ちをした。その張飛は、虎になって、劉備にからんでいる。「なーにが『お気の毒』だよ。孔...地這う龍その11細作の正体
「阿斗さまは子龍さまがお好きなのね」阿斗を上手にあやす趙雲い、感心しきりといったふうに軟児が言う。阿斗は劉備によく似た福耳の、まるまるとした赤ん坊だった。泣くときは、身が爆発するのではと周囲が臆するほどに大声で泣く。「奥方様がたは朝の支度をされているのかな」趙雲が問うと、少女たちはいっせいに、うんと答えた。「奥方様がたがお忙しそうだったので、あたしたちが子守りを買って出たんです」と、リスのような少女が言った。「でもあまりお役に立てなかったみたい。阿斗さまは、むずかしいわ」その口調が、まるで大人の口調をそっくりまねたようだったので、趙雲は思わず声を立てて笑った。趙雲がそんなふうに、楽し気に声を立てて笑うことは珍しかったのだが、もちろん、新参の少女たちはそれを知らない。知らないが、なんだか愉快になったらしく、...地這う龍その10こころの傷
食堂でほかの兵卒たちとともに食事をともにする。張著《ちょうちょ》は趙雲に言われたことを忠実に守って、朝食を猛然と食べていた。もうすこし、自分の感性や感情を優先できるようになるといいなと、となりで趙雲はおもう。壺中《こちゅう》というのは、大人に従順でないと生きていけない場所だったらしいから、張著は大人の言動に過敏になっているのだ。そして、食事をしていると、やれやれというふうに、趙雲の部隊の部将がやってきた。「どうした、朝っぱらから疲れた顔をしているな」趙雲が声をかけると、部将たちは困り顔のまま答えた。「それが、大門のところで、ちょっとした騒ぎがあったのです。どう処理してよいか、困ってしまいました」「どんな騒ぎだ」「鶏の鳴く声と同時に門をひらくのは子龍さまもご存じでしょうが、今朝はまっさきに門をくぐろうとした...地這う龍その9趙雲と子供たち
劉備に続いては、このお二方。もう千八百年は語り継がれている人たちだけあって、キャラクターががっちり固まっているところが、じつに書きづらい。とくに関羽は神さまになっているので、とても気を遣う。張飛がボケて、関羽がツッコむ、という図式を崩せないかと頭の中でシミュレートしてみたけれど、どうしても崩せない。しかし、劉備・関羽・張飛のトリオをテンプレ通りに書かないと、もうそれは三国志ではないような気もする…以上の理由から、オリジナル要素は少ない二人である。当作品内でも、関羽は義を重んじる性格で、誇り高く、思慮深い。水魚の交わりのエピソードを持ち出すまでもなく、当初は孔明のことを受け入れていなかったようだが、いったん認めると、とても親身になる。おそらく荊州で娶ったと思われる妻とのあいだに、のちに頼もしい武将に成長する...関羽(雲長)&張飛(益徳)
※朝の早い兵舎では、すでに起きだした兵卒たちが、がやがやとにぎわいながら食堂へ向かっていた。その楽し気な声と、足音、物音で、趙雲は目を覚ました。夢を見ていたような感じがするが、目をひらいたとたんに忘れてしまった。どうせ夢だし、たいした内容でもなかろうと思いつつ、寝台から起き上がる。兵舎の一角にしつらえた粗末な部屋が、趙雲の寝起きする場所である。もっとよい部屋で、劉備や孔明のそばの場所もあるのだが、趙雲が希望してここにしてもらっていた。ここにいると、兵卒たちの把握がしやすいうえに、奥向きのことに気を取られなくてすむので、かえってのんびりできるのだ。女が苦手というほどではなかったが、生来、あまりがつがつと異性に食らいつくほうではない趙雲としては、気を使わない男どものそばにいたほうが気安い。本来なら起き抜けにす...地這う龍その8新野城の朝
しばし、狼心青年のことばを呑み込むことができなかった。曹操が物見遊山《ものみゆさん》に許都をでたわけではない。いよいよ野望をむき出しにし、荊州を併呑《へいどん》せんと動き出したのだ。「し、しかし、いまはもう秋だぞ。すぐに冬になってしまう。兵法に通じている曹公が、まさかこんな時期に軍を動かすとは」おどろきうろたえる夏侯蘭《かこうらん》だが、狼心《ろうしん》青年は頓着しないというふうに、白湯《さゆ》をすすりつづけている。「裏をかいたか、それとも絶対の自信があるのか…どちらにしろ、曹公は自分がまけることなどつゆほどかんがえていない。まあ、負けることは万が一にもなかろうが。なにせ、百万の兵を動かしているのだからな」「百万…」そのあまりの膨大な数を想像しようとした夏侯蘭だが、すぐに想像が追い付かなくなり、やめた。「...地這う龍その7ふたたび荊州へ
「おいおい、たったひとりの丸腰の男相手に、多勢で向かうは卑怯であろう」どこか呑気に、狼心《ろうしん》青年は襲撃者たちに言う。「そいつはおれの朋友だ。殺さないでもらおうか」「知ったことか」吐き捨てるように言ったのは、例の小柄な血の涙の女だった。「おまえたち、先にこいつらを始末しておしまい!」黒装束の者たちは、返事をするまでもなく、こんどは狼心青年たちに向かっていく。狼心青年は驚く様子もない。静かにたずさえていた槍の穂先をあらわにした。となりの巨漢もまた、それに倣《なら》う。黒装束の者たちは、鳥のように高く飛び上がり、狼心青年たちに斬りかかる。その数、五人。だが、巨漢の男は狼心青年と同様にまったく動じず、腰に力を入れると、手にした槍でもって、黒装束の者のうち、ひとりを薙ぎ払った。すさまじい力であった。そいつは...地這う龍その6あらわれた助け手
コネらしいコネもないままに、乱世を腕一本でのし上がった英雄。そのわりに、なぜかふしぎと、強引さや、残虐さといった、自己中心的な面が前面に印象としてないのが、得なところ。前半生は苦労の連続であったのは、ご存じのとおり。ただ、苦労したおかげで、逆にあまたの英雄から「良い面」「悪い面」を学べたのかもしれない。「三国志演義」では、後半生はとくに泣いてばかりの印象が強く、「泣いて蜀をとった」とまで揶揄されがち。包容力のある人物で、あまり多くを語らないところ、感情をあらわにして周りに無駄な気を遣わせないところなどがある。髭は薄く、あるのかないのか、というほど(ちょっとコンプレックス)。みごとな福耳で、手足が細長いため、ふつうのひとより長く見える。音楽が好きで、派手なもの、楽しいものが好き。手先が器用で、牛のしっぽの飾...劉備(玄徳)
墓の前にいたのは、小柄な女だった。女が墓の前の地面に屈みこんで、なにやら熱心にやっている。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…規則正しく音がする。どうやら、地面を掘り返しているようだ。犬のような女だな、どこかおかしいのかもしれぬ。と、そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》はとつぜん、ひやっとした。おかしい、だと。おかしいのも当たり前ではないか。この女の掘り返している地面の下にはなにがある?狗屠《くと》の首ではないか。夏侯蘭は思わず腰に手をあてていた。そして、おのれのうかつさを呪った。ここ数か月、あまりに平和に過ごしていたので、近所に出かけるときは、剣を佩《お》びないようになっていたのだ。女の白く細い手が、土にまみれている。女はそれでもかまわず、熱心に土を掘り返そうとしていた。背後に夏侯蘭がいるのにも気づかない様子...地這う龍その5血の涙の女
※夏侯蘭《かこうらん》は、集落の外れに住んでいた変わり者の叔父の家を継いで、子供たちのための私塾をひらいて暮らしていた。教え方がうまいというので、瞬く間に子供たちが集まり、塾は大盛況である。子供たちの相手をするのは楽しかった。自分の冒険譚を語ることで、頭の整理もできる。それに、子供たちの素直な反応で、かえって自分を客観視できた。そもそも人に教えるということは、自分がその事物について深く理解していないとできない。夏侯蘭は、自分が武辺者だと思い込んでいたが、あんがい、自分は学があるなと自分でおどろいていた。子供たちは毎日、うれしそうに自分の話を聞いてくれる。周りの反応がよいため、夏侯蘭もうれしくなり、常山真定に帰ってからのほうが、よく勉強するようになっていた。勉強は、真面目に取り組んでみると、とても面白い。世...地這う龍その4秋祭りの日に
冀州《きしゅう》、 常山真定《じょうざんしんてい》。集落のはずれめざして、童子が走っている。幼い妹のおしめの世話をしていたら、いつのまにか太陽がすっかり昇り切ってしまっていたので、焦っている。あわてて支度をして、母親から渡された野菜のいっぱいはいった籠をかかえて、いま走っているのだが、さて、あたらしい私塾の先生は授業を待ってくれているだろうか。籠のなかの泥付きの野菜を落とさないように、気を付けながら走らねばならないので、なかなかコツがいる。ときどき、籠から野菜がごろりと地面に落ちるので、そのたびに立ち止まって拾わねばならなかった。童子はぼやきながらそれをひろい、授業がはじまっていないといいな、先生の面白いはなしを聞き逃していないといいなと願う。やがて、集落のはずれにある、古い大きな家の入口が見えた。入口...地這う龍その3常山真定の夏侯蘭先生
名前が『雲』で、あざなが子『龍』。まさに雲を得て天に昇る龍をあらわした、そうとうに気合の入った名前である。名とあざなの意味が対応できている名前なので、学のあるきちんとした人物にあざなをもらったのだとわかる。趙雲はそれなりの家柄の子息だったのだろう。「奇想三国志英華伝」では、認知症がすすんでいる老いた父の代わりに、次兄が字を授けた、という設定にした。(くわしくは「臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻」でどうぞ)。趙国の王族の末裔かもしれない、というのは、柴錬三国志の影響を引き継いだ。趙雲が現在でもこれほど人気を誇っているのは、正史三国志の注釈にある「趙雲別伝」によるところが大きい、というのは異論がないと思う。文章に堪能な子孫が残したと思われるこの「別伝」。そこに描かれる趙雲は、ともかくかっこいい。身の丈八尺、容姿...趙雲(子龍)
※朝議が散会になったあと、趙雲は孔明のそばに向かった。孔明は趙雲の顔を見るなり、不機嫌そうに小声で言う。「曹操が来ないというのは、ほんとうだろうか」「なぜそうおもう」「根拠らしい根拠はない。勘だ。根拠と言えば、ひとつだけ。徐兄からの手紙がかえってこないのだ」徐兄とは、孔明の前任の軍師の徐庶、あざなを元直のことである。前身は潁川《えいせん》のやくざ者だったが、改心して学問にはげみ、立派に軍師となって、短期間だが劉備に仕えた人物だ。孔明の兄弟子でもあり、親友でもある。いまは事情があって曹操に仕えているが、それでも孔明はせっせと徐庶とその身辺に向けて、無事かどうかを確かめる手紙を送り続けていた。「手紙がこないとは、無視されているということか?」徐庶は義理堅い男だった。その徐庶が、かわいがっていた弟弟子《おとうと...地這う龍その2孔明の疑問
「曹操は来ないんじゃないかな、秋だし」張飛は自分にだけ聞こえるようにつぶやいたつもりらしい。だが、もともとの地声がおおきいこともあり、静まり返った広間に、かえって響いてしまった。となりにいる関羽が、ぽかりと張飛の頭を小突いて、たしなめる。「ばかもの、安易に憶測を言うな」「でもよ、兵法では、秋になったら兵を動かさないものなのだろう?自分は兵法の大家だって自慢している曹操の野郎が、あえて秋に兵をうごかすかなあ?」張飛の言うことはもっともだ。張飛と関羽のやり取りを聞いていた趙雲は、張飛もすこしずつ進化しているなと素直に感心した。ほかの者もおなじようで、張飛のことばに目をみはっている。朝議の中の発言である。しかも、今朝は勝手がちがう。許都からの情報をもったはやぶさが、飼い主たる陳到のもとへ戻って来たのだ。その細作...地這う龍その1許都からの密書
趙雲(子龍)→劉備の主騎。劉備の命令で孔明の主騎もかねる。槍の名手。ただし、その名はまだ天下に轟いてはいない。武人ながらも思いやりのある性格で、気配りの人。冷静沈着に事態に対処できる。諸葛亮(孔明)→劉備の軍師。号は臥龍。軍師ではあるが、策謀にはあまり長けていない。むしろ人を励まし鼓舞することのほうが得意。リアリストだが、人を慮ることができ、苦難に対しても精一杯努力できる美点がある。劉備(玄徳)→趙雲、孔明らの主君。感情の振れ幅が大きい。普段はおだやかだが、ことあると激情家の面も見せる。おおいに笑い、おおいに泣くことのできる、人間くさい主君。残酷なところが少ないのも、人をほっとさせるところ。手先がとても器用。関羽(雲長)→劉備の義兄弟。曹操とその家臣たちについては、だれより詳しい。当初は孔明に反発していた...地這う龍登場人物紹介
※梅がほころぶ美しい道を、しずしずと、雲を載せた車は移動する。やわらかい風に、芽吹いたばかりの木々が揺れている。耕されたばかりの畑からは、土の香りが立ちのぼっていた。あらたな道へ入っていくというのに、心はすこしもときめかず、未来への夢も希望も、なにも思い浮かぶことはなかった。行く手に待ち受けるものの、だいたいの予想がついているからであろう。車が進み、袁家がそろそろ見えてくるというとき、遠くから、おおい、おおいと、声をかけてくるものがある。車から身を乗り出して見ると、奇妙にちぐはぐな武具を身にまとった、幼馴染たちだった。先頭には、一番の仲良しである夏侯蘭がいる。彼らは駆けてくると、ゆっくりと進む車に近づいて、乗り込んでいる雲に顔を見せた。「よかった、追いついた。おまえに」夏侯蘭が言うと、別の車に乗っていた長...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その14
※翌朝には、もう屋敷に次兄の姿はなかった。湿っぽいのを嫌って出て行ったのだと誰かが言ったが、それに反論を加える者はいなかった。おそらく、そのとおりなのだろう。それから日数が経ち。袁家の婿取りの話しは、やはり雲に白羽の矢が立った。長兄の後押しもあり、話は戸惑うくらいに、とんとん拍子に進んだ。一度もまともに言葉を交わしたことのない花嫁のための贈り物がそろえられ、袁家からは、身を飾る、腕輪や指輪、婚約を祝う衣などが送られた。長兄以外の兄弟たちは、雲の幸運をねたんで、あれこれと嫌がらせをしてきた。だが、縁談がどんどん具体的になるにつれ、未来の袁家の若旦那を怒らせたらまずいとわかってきたようだ。次第にみな、大人しくなっていった。力を得るということの意味を、雲は、このことによりあらためて実感した。次兄のことで心を痛め...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その13
「末っ子、もうひとつ、言っておかねばならぬことがある」雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。「おまえだけには話しておこう。じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。決まりがわるくて姿を出せなくてね。でも姿を見せることができて、すっきりした。顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。ついでに、おもしろいことをしてやろう。わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」占いなんて、ぞっとしない。断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。雲は思った。自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、か...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その12
母はここで、一生を過ごす覚悟を決めているのだなと、その姿を見て、雲は思った。母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。母の視野のほとんどを第一夫人が占めいている。夫人もまた、雲の母を頼りにしているようだ。その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、第一夫人と、奇妙な友情を育んでいるのだ。「そのとなり」言われるまま、雲が視線を移すと、そこでは義姉が、自分の姪にあたる赤子を、やさしくあやしている姿があった。昼間は姑にいびられている兄嫁だが、夜は、こうして娘たちと、おだやかな時間をすごすことができる。灯火のもと、ささやかな幸福をこころから味わっているようだ。や...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その11
「さて、ついでに、なぜ夜中に呼び出したかを教えてやろうか。もちろん、おまえの縁談に関しての祝辞を述べるためさ。おまえが祝言を挙げるころ、わたしは戦場にいるだろうからな。おめでとう、末っ子。おまえの未来は約束されたようなものだ。大手を振って、幸運に向かって歩いていくことができる。わたしのように、遊学を理由に、この家から逃げなくて済むのだ」逃げる、の言葉に雲はどきりとした。この次兄は侮れない。「わたしは逃げたのさ。父上がああなる以前から、この家は埃っぽい、退屈な家だった」突然に話が切り替わり、雲は兄のほうを見ると、さきほどまでの笑みは消え、まじめな顔をしていた。そうして、体をかかえるような姿勢で、雲と、しゃれこうべのとなりにならび、闇のなかの故郷を、何物も見逃すまいといったふうに見つめていた。「とはいえ、母上...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その10
袁家のあるじは、嫌いではない。跡取り娘のほうは、顔を見たことはないが、夫人のほうはよく知っている。美人というわけではないが、陽だまりのような、ほっとする雰囲気のある、品のよい女性であった。袁家のあるじは、雲の父親とちがって、妾をもたずに、この妻にのみ尽くしているという。長兄のお使いで屋敷に行ったことがあるが、感じの良い、明るい空気につつまれた家だった。婿養子にいったら、その家族の一員として迎えられるのだ。「天下は乱れに乱れまくっておるぞ。常山真定に閉じこもっている分は、まださほど感じないでいるだろうが、やがて、戦火は全土に飛び火しよう。下手をすれば劉氏は斃れるやもしれぬ。そうなれば、もっとも皇位に近いのは、劉氏の一族ではなく、袁一族のだれかであろうな。いまのうちに、袁一族と縁を結んでおくことは、けして損で...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その9
※宴のあと、雲は敬に呼び出された。趙家の屋敷を一望できる、土塁のうえに来いという。土塁は、このところ力をつけている黒山賊の襲撃を避けるため、村のひとびとが総出でつくったものだ。厚い雲に覆われて、星空は見えない。ひゅう、と寂しげな風が、土塁のうえに生え始めている雑草をさわさわと揺らした。家は目の前にあるというのに、なぜか、この世に自分だけ取り残されてしまったような、さびしい気持ちになる。雲はおのれの体を抱えるようにして、寒風をやりすごした。土塁のうえに腰かける。いつだったか、長兄が機嫌のよい時に話をしてくれたが、この土塁をつくろうと言い出したのは父であったそうだ。「父上がまだ若くて、天下無双の槍の名手として鳴らしていたころは、襲ってくる賊を、ほとんどひとりで蹴散らしていたのだがな。事故を予見していたのか、あ...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その8
意味ありげなことばに、その場の全員の目線が、敬にあつまった。敬は、全員の視線を浴びていることを楽しんでいるかのように、一同をじっくり見まわしつつ、ゆっくりと言った。「このたび、義勇軍に入ることと相成った。それがしは、そこで大いに軍功をたてて名を成し、身を立てる。二度とここには戻らぬつもりだ」「なんだと、おまえのような優男に、義勇兵なんぞできるものか」袁家のあるじの悲鳴にも似た声に、敬はにやり、と不敵な笑みを浮かべた。「それがしが、だれの子か忘れてもらっては困る。常山真定の趙家のあるじといえば、この近在の悪人どもが震えあがるほどの槍の名手であった。その父の血を引き継ぐおれさ。出世はまちがいないであろう」「む、たしかにおまえの父君は、この近辺で知らぬものがないほどの剛力であったが」「そうだとも。父上、お国を荒...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その7
夜の宴は盛大なものとなった。なるほど、幼馴染たちが羨ましがるのも当然である。いったいどこから集めたのだろうと不思議におもうほど、近隣の珍味をかきあつめた贅沢なものだ。このところの凶作で食料がとぼしいなか、よくこれだけの料理ができたものである。雲が、しまりやの長兄にしてはめずらしいな、と思ってその顔をみると、あきらかに不機嫌そうだ。長兄のとなりでは、第一夫人…つまりはこの宴の主役たる敬の母…が上機嫌でいるところを見ると、押し切られて、贅沢な出費をせざるをえなかったのだろう。一室に閉じこもりの父も、穴倉から担ぎ出されるようにして、年若い妾とともに姿をあらわした。普段はそれぞれ別棟で、まったく別の家族のように過ごしている兄弟たちも、それぞれの母親をともなって、母屋にあつまってくる。いつもであれば、顔をあわせると...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その6
※長く家を空けていた次兄の敬が戻ってきた。いつもは時が止まったような趙家が、めずらしく華やかに動きだした。雲から見れば、これまでは、どいつもこいつも、蜘蛛の巣がかかっていてもおかしくない、というくらいに生気がなかったのに、いまは楽し気に宴の準備などをしている。たったひとりの出現で、変わるものである。「今夜は宴だそうじゃないか。親父から聞いたよ。上等の豚を屠るんだろう?」槍の練習にやってきた幼馴染みの夏侯蘭が、雲に言った。上等の豚、という言葉が出たとたん、ほかの仲間の少年たちも、槍をふるう手を止め、雲のほうを見た。少年たちはみな、あまり裕福でない家の息子たちだ。熱いまなざしを向けてくるかれらに、雲が、そうらしい、と答えると、少年たちはみな、羨望と、あきらめのため息をついた。どうあれ、かれらがその『上等の豚』...番外編しゃれこうべの辻その5
「おまえは、たぶん近在の子供のなかでも、いちばん賢い子だろう。それなのに、賊を相手に暴れるのが好きときている。ほれ、なんだっていつまでも、そんなしゃれこうべを持ち歩いているのだ。気味が悪いとは思わないのか」雲が持っているしゃれこうべは、ひとりで村はずれを探索していたときに見つけたものだ。裏街道からちょっとそれた小道の茂みに落ちていたのである。おそらく行き倒れの旅人の物だろう。そのもの言いたげなしゃれこうべの様子が気に入って、雲は、きれいに洗って、家にもって帰って、そばに置いている。古来、しゃれこうべは力の象徴でもある。頭骨は人間の英気の中心と信じられていたので、そこに故人の力が残っていると思われていた。それを信じたわけではないが、雲は、なんとなく自分を、この見知らぬ人のしゃれこうべが理解してくれているよう...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その4
※長兄という人は、母親に似た。いちばん父親に似たのは、末子の雲だという。それゆえ、父親は、雲に格別な思いを持っていたらしい。らしい、というのは、父がすでに右も左もわからなくなっている状態だから。雲からすれば、父親に、なにか特別なことをしてもらった記憶はない。雲にとって、物心ついたときから、父親は屋敷の奥で、若い妾に面倒をみてもらっている半病人。残酷なことではあるが、雲から見れば、父というよりは、棺桶に入りかけている老人にしか見えなかった。そんな雲の父親がわりは、長兄である。この長兄は、あまり愛想がない人であった。すでに結婚しており、子供もいたが、その生まれた子どもがどれも女の子ばかりだったので、末っ子の雲を自分の跡取りのようにして、面倒を見ていた。とはいえ、雲にはちゃんと母親がいるので、あくまで教育面では...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その3
少年が迷惑そうにしているのを、むしろおもしろそうに見ながら、男は言った。「さてはて、しかし寂しいぞ、観客がこいつだけとはな。ぼうず、こいつはどうした」男はふざけた調子で、柵にかけてあったしゃれこうべの頭をぺちぺちと叩いた。ますます少年は、きれいに整った眉をひそめる。男はそれを見ると、してやったり、というふうに、またも声をたてて笑った。「すまぬ、そう怒るな。変わった友達がいる奴だと思ったのだ。ぼうず、名前は?」「趙だ」「そうではない。名だ。それを言うならば、俺も趙だぞ」少年は、はじめて、しかめた眉を解いて、真正面から男を見た。いや、観察した。そういえば、この男の顔、眉のあたりが父に似ている。男は、村の少年たちが踏み荒らした地面を見て、「ふん、人望がないわけではないのだな。ひとりぼっちというわけではないらしい...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その2
少年が槍をふるって、たったひとりで練習を重ねている。それはもはや、村の風景のひとつになっていたので、いまさらめずらしがってかれに声をかけるものはない。通りすがりの村人たちは、倦むこともなく、汗を散らしながら槍をふるう少年を見て、あきれたような、感心したような目をむけていた。さっきまで、おなじ年頃の少年たちも、一緒に稽古にはげんでいたのだが、いまはいない。少年以外の子供たちとっては、槍の稽古は楽しい遊戯のひとつにすぎないのだ。かれらは、村の鐘楼が夕暮れをしらせるころには、家の手伝いをしなければならなくなるので、片付けもそこそこに帰ってしまう。寒風に乗って、集落たちのささやきが聞こえてくる。趙家の末の子は、父親に似ず、まじめで熱心だ…あるいは。だんだん、父親の若いころに似てきた…似るだけならよいがなあ。あれも...臥龍的陣番外編しゃれこうべの辻その1
新野にいたであろう壺中の目をくらますため、劉備と張飛は、劉封と麋竺に新野をまかせ、自分たちは一路、南の襄陽城へと向かっていた。相手を刺激しないように、供の兵の数も最小限にとどめた。そも、新野をあまり留守にはできない。この状態で曹操が南下してきてしまったら、目も当てられないことになるからだ。そろそろ襄陽城が見えてくるころあいで、おかしなことが起こった。先導していた供の者が、街道の先で、劉豫洲を待っているという人物に遭ったというのである。「どんな男だ」「それが、身なりの良い、いかにも士人といったふうの人物です」言いつつ、伴の者は、その士人が示したという名刺を劉備に示す。そこには、流麗な文字で、『零陵の劉子初』とあった。その名に心当たりのあった劉備は、おもわず、ほお、と声を上げていた。劉備の感嘆の声をきき、興味...臥龍的陣終章
※胡偉度は、義陽の実家になんぞ帰りたくないと、ぎりぎりまでごねた。だが、嫦娥に、母も父も殺されてしまった幼い弟たちを、いったいどうするのだと説得され、結局、しぶしぶながら、養生をかねて帰ることになった。しかし、偉度の様子からして、大人しく義陽に留まっているとは思えなかった。「別れの言葉を告げねばならぬのに、これほど意味がないように思えるのも珍しいぞ。偉度、なんだかお前とは、まだまだ縁があるような気がする」孔明が言うと、偉度も相変わらずの憎まれ口を叩いた。「それはそうでしょう。襄陽城で、かならずおまえを更正させてやると大口を叩いていたではありませんか。あいにくと、この性分は、ちょっと休んだだけでは治りませんので、あしからず」要するに、怪我さえなければ、おまえにひっついていたいのだろうと趙雲が解説してくれたが...臥龍的陣太陽の章その111再び会う日まで
※夏侯蘭は、趙雲が再三、引き留めたにもかかわらず、けっきょく首を縦に振らずに北へ去っていった。「妻の墓に良い報告をしたいのだ。それに、おれを助けてくれたやつに、報告をせねばならぬからな」夏侯蘭の目には、新野で再会した時のようなすさんだ光は、もうない。その代わりに、夏侯蘭は、穏やかな顔をしている一方で、どこか虚脱したような、疲れた雰囲気もただよわせていた。背には、塩漬けになった劉琮の首がある。襄陽城にいまも存命である劉表や蔡瑁への取引材料になるであろう劉琮の首を、夏侯蘭に持たせてもよいのか、趙雲は孔明にたしかめたが、孔明はあっさりとこう言った。「たとえわれらが首を示して、劉琮は『狗屠』として討ち取られたと言っても、向こうはすでに影武者を用意して、われらの主張をはねのけることだろう。劉表は人事不省の状態だから...臥龍的陣太陽の章その110友の再出発
※趙雲は、今度こそ命の絶えた劉琮を見下ろした。さらには、その劉琮のかたわらで、滂沱と涙をながし、男泣きに泣いている夏侯蘭の背中をさすってやった。夏侯蘭は、子供のようにしゃくりあげながら、言った。「やっと、やっと妻の仇を討てた。おれは、でも、悔しいっ!」なぜ悔しいのか,問うのは野暮というべきだろう。たとえ憎い相手を殺したとしても、もう愛する女は戻ってこないのだから。夏侯蘭は、その事実の残酷さと、現実のむなしさに、泣いていた。趙雲は、しばらく無言のまま、幼馴染のそばに居続けた。夏侯蘭は、ほどなく落ち着いたようである。事情を尋ねるべく、口を開きかけた趙雲を、夏侯蘭は、やんわりと手で制する。「待ってくれ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、いまは喋りたい気分ではない。すまないな。なぜおれがここにいるか知りたいのであ...臥龍的陣太陽の章その109それぞれの別れ
趙雲の背中がどんどん近づいてくる。あとすこし。地面に転がる砂利のせいで、なかなか足を踏ん張って進めない。さらには、劉琮自身、二階から落ちた怪我で、思うようにからだ動かせないでいた。趙雲は、まだ気づいていない。その切っ先が、無防備な背中を突き刺そうとした、まさにそのときであった。がちゃん、と耳元で大きな金属音がしたと思ったと同時に、喉元を中心に、はげしく後ろに引っ張られた。喉ぼとけがつぶされて、すぐに息が苦しくなる。劉琮は思わず空いた手喉元にあてていた。金属のひもが、自分の首にまとわりついている。なんだ、これは!声に出そうとしたが、声が出せない。驚愕とともに、おのれを牛のように引っ張りつづける何者かのいるほうを見る。知らない禿頭の男が、鉄鎖で自分の首をぐいぐい締め上げている。目が合ったとき、劉琮はぞくっと身...臥龍的陣太陽の章その108最期
夜の女たちはみな無防備で、外見こそ少女のようで美しい「客」によろこんでついてきた。そして、あっさりとその手にかかり、あきれるほどあっさりと切り裂かれた。劉琮も最初のうちは、おぞましさと罪悪感に震えたが、三人を切り裂いたあたりから、それすらもあまり感じなくなっていった。それよりも、伯姫が喜んでくれることがうれしかった。「ぼうや、えらいわね、わたしのぼうや。わたしが見込んだだけのことはある」なにをどう見込まれたのか、それを深く考える暇もなかった。だんだん劉琮は伯姫のためだけではなく、自分のために、女たちを切り裂くようになっていた。女たちを狩る。その狂った楽しみは、やがて夜の女だけではなく、夕暮れにひとりでいた市井の女たちにも含まれるようになった。その女たちに、道を聞くふりなどをして近づいて、刃で脅して路地に連...臥龍的陣太陽の章その107回想その2