メインカテゴリーを選択しなおす
「わが君は、おぼえておいでか」ざっ、ざっ、と土の掘り返される活気のある音をよそに、麋竺は遠い目をして、つぶやく。「わたくしがあなたさまに付いていく決意をしたのは、陶謙のやりように、どうしても我慢ができなかったためです。あの男は臆病で、保身のことばかりを考えていた。時局をわきまえず、あろうことか、曹操の父親を誤って死なせてしまい、多くの無辜の領民を虐殺させる事態を招いた」「覚えているとも。あのときのことは、忘れたくとも、忘れられるものではない。陶謙が悲鳴をあげたので徐州に行ってみたら、目の前にひろがっていたのは地獄だった。そこいらじゅう、見回すかぎり死体だらけ、食べ物はぜんぶ腐っちまって、水も汚臭がして飲めたものではない。死体に群がる蠅の羽音だの、死肉をあさるカラスや野犬の姿だけが生きている者の姿、という状...臥龍的陣太陽の章その58土の下から
※新野城の住民たちは、その朝、何度もおどろくことになった。劉備が、朝餉もとらずに正門へ飛び出していったかと思えば、出奔したはずの麋竺をともなって戻ってきた。そればかりではない。麋竺は新野城の住民が見たことのない男装の女をともなっていた。さらには、それを守るようにしておおぜいの新野の娼妓たちが、ふだんは出入りの許されない城内へ入っていく。娼妓たちは、ほとんどしゃべらず、息をつめて、なにかを待っている様子である。娼妓たちだけではなく、劉備や関羽をはじめ、趙雲の副将・陳到、麋竺、そして男装の女もまた、押し黙っていた。かれらの表情は、みなどれもひどく緊張している。それをみた新野の住民のだれもが、何事かあったらしいと感づき、また自身も沈黙をした。劉備は城に戻るなり、手の空いている男たちをあつめると、めいめいに工具を...臥龍的陣太陽の章その57東の蔵
陳到は、斐仁《ひじん》の言葉に、すばやく頭をはたらかせた。公孫瓚、袁紹、そして劉表。趙雲の移動とほぼ同じくして移動し、形成された組織が壷中。壷中はいま、荊州の豪族たちを樊城に集めている。その壺中は、なぜか孔明を人質にとった。その理由が、趙雲を捕えるためだという。罠としりながら、趙雲は孔明を助けるため、襄陽城に戻った。壷中の要は、潘季鵬《はんきほう》という男。だめだ、さっぱりわからん。首を振り、ふと麋竺と嫦娥《じょうが》のほうを見ると、意外なことに、両者とも顔を蒼くして、どころか小刻みに震えている。嫦娥と目が合うと、意外なことに、涙目になっていた。そして、陳到の目線からのがれるように、ふいっと目を逸らすのであった。あきらかに、なにかある。陳到は、嫦娥に詰め寄る。「嫦娥どの、貴女には、まだ我らに話をしていない...臥龍的陣太陽の章その56つながっていく手がかり
※陳到は、劉備がやってくるまえに、いろいろわからないことを尋ねていたのだが、麋竺は、「なにもかも明らかにするが、それはわが君が来てからだ」と、なかなか口を開かなかった。しかも、嫦娥《じょうが》が一緒にいてくれなくては困るという。その口ぶりから、麋竺が新野から出た際に、いっしょに襄陽城に連れて行った「若い女」こそ、この嫦娥だったのだろうと、陳到は見当をつけた。麋竺が嫦娥の身を案じているのはあきらかであった。関羽は、ふたりを劉備のところへ連れて行こうとした。しかし、今度は嫦娥が、瀕死の怪我人を置いて、屯所から出ることはできないと頑張ったのだ。斐仁の命はあきらかに消えかけていた。もはやうめくことすらできない。次第に、その顔色が、土気色に変わっていくのがわかる。麋竺の斐仁を見る目に、憐憫はない。かといって冷酷に見...臥龍的陣太陽の章その55最期のことば
※まだ朝の支度をしていた最中だった劉備は、麋芳《びほう》の怒りの訴えによって起こされた。なんでも、趙雲の副将にすぎない陳到が、勝手に、鶏の鳴かないうちから、城市の正門を開けさせたというのだ。罰してくれと訴える麋芳の話をよく聞くと、仰天したことに、襄陽城から斐仁《ひじん》がもどってきたというのである。その時点で、劉備の目は完全に醒めた。つづいて、関羽からの使者がやってきた。麋芳のために、せっかく情報を持ってきただろう斐仁が矢を射かけられ、虫の息だというのである。それを聞いて、劉備は麋芳について思った。『どうもこの御仁は、暴走しがちな面があるな。子仲《しちゅう》さん(麋竺)には悪いが、要職からはずすことも考えたほうがいいかもしれん』正門に行くべく身支度を整えていると、さらにまた関羽からの伝令が来た。麋竺が無事...臥龍的陣太陽の章その54劉備の到着
おそらく、程子文《ていしぶん》の手紙にもあったように、壷中の村でうっかり故郷のことに触れると、年長者に折檻をされるのだろう。不安そうな子供に、安心させるように笑みを見せて、趙雲は、こんどは、だめだとたしなめた少年のほうを見て、尋ねた。「なぜ駄目なのだ?故郷を大切にすることは、よいことだ。おまえたちは、郷里をなつかしく思うことはないのか?なぜ駄目だと言われる」「故郷を思い出すような者は、臆病者だからでございます」「なぜ。俺は故郷をたまに思い出すが、やはり懐かしいと思う。だが、自分が臆病者だとは思わない。俺は一人で襄陽城の、大勢いるおまえたちの仲間と戦ったが、臆病者にそんな真似が出来ると思うか?」子供たちは、またまた顔をしかめて、互いに顔を見合わせた。そうして、最初に問いに答えた少年は、理解を得られたのがうれ...臥龍的陣太陽の章その53壺中の子らその2
ごき、と鈍い音が、船倉に響く。「忘れていたぞ、城門で、わしに向けて矢を放ったのはおまえだろう。いまのはその分だ」口の中に、血の味が広がる。どこかを切ったらしい。額に床をつけて、起点にして起き上がろうとする趙雲の腹を、潘季鵬《はんきほう》は容赦なく蹴りつけた。「そうして、これは、襄陽城の我が部下たちを殺めた礼ぞ。裏切り者めが!」腹の痛みをこらえつつ、うめき声をあげないように注意しながら、趙雲は、『裏切り者』のことばに、思わず笑った。何に対しての裏切りというのだろう。「あとの分は、樊城についたなら、返してくれよう。楽しみにしているがいい」そう言って、潘季鵬は、船倉から去った。報復か。冗談ではない、と思っていると、体を両脇から押さえられ、起き上がらせられる。見ると、さきほどまでじっとしていた壷中の子供たちが、趙...臥龍的陣太陽の章その52壺中の子ら
※「おまえとこうして対面するのは何年ぶりであろうかな」趙雲は答えず、ただ潘季鵬《はんきほう》をきびしく睨みつけた。孔明の言ったとおり、薬でくらまされた視力は、時間がかかったが、なんとか回復した。しかしその代わり、固い縄で後ろ手をぐるぐるに縛られ、まったく身動きのできない状態となってしまっている。そんななか、見上げる潘季鵬の顔は、薄気味わるいほど、優しい顔をしていた。この男は、袁紹の軍に最初に入って、古参兵から与える凄惨なしごきに、心身ともに磨耗していた俺のところへ、同じ顔をしてやってきた。俺だけではない、ほかの子供たちも、みんなみんな、この笑顔に光明を見て、その背後に崇高なあるものがあると信じ、ついていったのだ。その果てに、奈落があると知ったなら、だれも足を前へ進めなかっただろう。「いくつになった、子龍。...臥龍的陣太陽の章その51船倉の趙子龍
「む、たしかにな。非はわれらにあったかもしれぬ、罠にかけるような真似をしたのは悪かった、許せ」あっさり陳到が頭を下げたので、嫦娥《じょうが》をはじめ、女たちは目を丸くしている。役人というのはふつうは威張り腐ったもので、けっしておのれのあやまちは認めない。だが、陳到はちがうのだ。ことを順当に進ませるためならば、相手が夜の女だろうと頭を下げることに抵抗はない。そのほうが、早くもめ事が収まって、早く家に帰れる確率が高まるからである。「そこまでおっしゃるなら」嫦娥はそういうが、まだ女たちは興奮しているらしく、「でも」とか、「罠かも」と、疑っている。それを嫦娥のとなりにいた藍玉《らんぎょく》がとりなした。「みんな、静かになさい。嫦娥先生は、けが人を診るとおっしゃっているのよ」とたん、雀の大群のように大騒ぎしていた女...臥龍的陣太陽の章その49好々爺の帰還
陳到が答えると、麋竺の眼差しが、いまだかつて見たことがないほど暗いものに転じた。「わたしが『壷中』の仲間であることはまちがいない。それなのに、新野に残ったわが一族を牢に繋がなかったこと、感謝する」陳到は、さらに混乱し、『壷中』の仲間だと自ら語る麋竺と、『壷中』に敵対している様子の藍玉《らんぎょく》や嫦娥《じょうが》を見比べた。まったく立場がちがうはずの人間が、なぜ連帯しているのか?「子仲《しちゅう》殿は、壷中を裏切ったのですか?」「もとより、心は一片も壷中にない。わがこころは劉玄徳にあり。わたしはわが君が荊州に入った際、劉表と取引をし、新野の秘密を守る斐仁を、さらに監視する役目を与えられた。拒むことはできなかったのだ。『壷中』という組織がどれほどに濃い闇を引きずっているか、知れば知るほどに、脱け出せなくな...臥龍的陣太陽の章その50新野に眠るひみつ