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※欲望のために生れ落ち、欲望のために育てられ、そして欲望のために人生を消耗させられた。文武両道の、高貴な少年。将来を約束された、策士の傀儡。これほど息苦しい人生であることを、だれも理解してはくれないと思っていた。父と呼んでいた肉塊が、酒と五石散の中毒により襲い掛かってきたときの絶望。その直後に、実父かもしれない男は、泣く自分に、「未遂であったのだから、ましであろうが」と吐き捨てた。母も見て見ぬふり。だれもわかってくれない、助けてくれない。義理の兄であるという花安英とて、誇り高い劉琮の絶望をいやす存在にはならなかった。たしかに同情し、なにかと面倒をみてくれた。だが、劉琮からすれば、それはあたりまえなのだ。自分は皇室の血を引いている人間なのだし、だれもがみな、自分に 傅《かしづ》いてあたりまえ。むしろ、劉琮自...臥龍的陣太陽の章106回想その1
子供たちはというと、陳到をはじめとする子供好きの部将たちにそれぞれ抱えられ、安全な村の中に運ばれていった。村の外にいた壷中も同様で、たいがいは武器を捨て、大人しく降伏した。おそらく襄陽城のことがあり、すでに戦意は喪失していたのだろう。それでも往生際がわるく、山へ入って逃げようとする者もいたが、結局は捕まって引き据えられ、これには見せしめとして、のちに鞭打ちの刑罰が処せられた。「ずいぶん殴られたのであろうな。顔色が変わってしまっている。それに、ちゃんと目は見えているのか。腫れあがっているぞ。どこか、おかしなところはないか。耳は両方とも、ちゃんと聞こえているのだろうな。歩けるか?手は動くか?本当は、もう立てないくらいなのに、むりして立っているのではないだろうな。いますぐ寝台を用意させる。もちろん、清潔なものを...臥龍的陣太陽の章105再会…しかし
「俺を殺したら、おまえはここにいる全員に殺される」「莫迦なっ、おまえたちっ、わしが助けなければ、おまえたちはとうに飢え死にしていたのだぞ、それなのにおわしを憎むか、恩知らずめがっ!」「状況をよく見ろ。村の壷中は、なぜおまえを助けるために軍師に弓を射掛けない?そして、お前の周りの壷中たちは、なぜ俺を追いつめるために、子供たちを奪わない?おまえの味方はどこにいる?どこにもいやしない」「潘季鵬よ」孔明の、高らかな声が、張り詰めた空気のなか、響く。「いますぐ、子龍を解放せよ。さもなくば、そなたをこの場で殺す。潘季鵬のそばにいる子供たちよ。もはや我らに刃向かう気がないのであれば、いますぐその場から離れるがいい」「莫迦な、子龍もいるのだぞ!子龍も殺すつもりか!」潘季鵬の声に、孔明は眉根ひとつ動かさず、趙雲を見つめる。...臥龍的陣太陽の章その104終焉が近づく
「その男の言葉に騙されるな!」孔明の声にも匹敵する大音声で、ひときわ大きな馬車から、男が姿を現した。潘季鵬だ。潘季鵬は、輜重の荷車の上に毅然と立つ孔明を、はげしい憎悪をもってにらみつけた。村の中央の荷車の上で、堂々と胸を張っている孔明を見て、趙雲は思わず笑ってしまう。「あきれるほどに派手なやつだな」そして、なんと颯爽としていることか。これほどまでに美しく、毅然としている者を、趙雲は知らない。あれこそが、俺の守った者なのだ。それに対する潘季鵬は、立派な甲冑に身を包み、悠然と龍髯を風になぶらせ、万軍の大将もかくや、といった出で立ちなのに、まるで精彩がない。胸に軟児を抱き、そして、張著、治平、子玲ら少年たちを背後に従え、馬車からゆっくりと、趙雲は外に出る。もはや、捕虜である趙雲を止めるものすらいない。動くものは...臥龍的陣太陽の章その103あがき
「ほら、ちゃんと顔を上げていろよ」趙雲の前髪を掴み上げ、乱暴に上を向かせる。毎日のように殴られていた顔は腫れあがり、変色していたが、そこに浮かぶ表情は、まぎれもなく笑みであった。「なんだい、この野郎、気味の悪い」そういいつつ、青年は、前髪を掴んだまま、趙雲がしっかりと蛮行を見届けられるように、壁にもたれさせる。趙雲は笑みを浮かべたまま、しばらく大人しくされるがままになっていたが、やがて上半身がしっかり起き上がると、青年に言った。「わざわざありがとうよ」「うん?」趙雲は、倒れた衝撃で、すっかりほどけた縄をぱっと振り払った。そうして、あわてる男に重い縄を投げつけると、うろたえて尻もちをついている青年の腰から剣を奪い取り、すぐさま袈裟懸けに青年を切り伏せた。鼻の大きいほうは、軟児を押さえつけていたが、相棒が切り...臥龍的陣太陽の章その102龍の始末
※軟児は健気に、懸命に男たちの手から逃れようとしていた。それでも、まだ九つの娘である。小さな四肢をバタバタと暴れさせ、ときにはツメを立て、噛み付こうとするのであるが、二人はむしろ、それを楽しんでいるかのような素振りで持って、軟児を追いつめていく。趙雲は、力の限り叫んだ。「やめろ、この外道めが!」「怒鳴るだけ怒鳴っとけよ。見ているだけじゃ、つまらないだろうけれど」大きな鼻をもつ巨漢のほうが、にたにたと笑いながら言った。この世には、正義とか、倫理とか、そういったものを理解できずに生きてしまえる人種が確かにいる。趙雲は、懸命に壁際に這いずり、そうして、後ろ手にされている縄を、壁に何度も打ちつけた。衝撃で、縄が外れることを期待したのである。「おまえたち!」趙雲は、少年たちに呼びかけるのであるが、少年たちは、すっか...臥龍的陣太陽の章101もう一方の龍
「軍師!的にされてしまいます!」陳到があわてて止めようとするのであるが、孔明は構わず、さらに目立つように大きく手を広げると、村の内外に響くように叫んだ。「みな、鎮まれ!我が名は諸葛孔明!新野を預かりし劉豫州の軍師である!」村の外から射掛けられた矢が、孔明の頬をかすめ、軽い傷を作って、過ぎ去っていった。山風がそれをさらになぶる。そうして、ふたたび大量の矢が、村の外から雨のように飛んでくる。これは避けられない。孔明はひやりとしたものの、孔明の身に突き刺さる前に、矢は、あらわれた関羽の槍がすべてを打ち折ってくれた。矢は力なく、地面にぼとぼとと落ちて行った。関羽が、にやりと、珍しく悪戯小僧のように笑う。「軍師、ご無事でなにより。さて、貴殿のお得意の舌を、存分に揮《ふる》われよ」「ありがとう」孔明は言い、ふたたび周...臥龍的陣太陽の章その100太陽の下の龍
※最初に、孔明の姿に気づいたのは、やはり、いかなるときでも冷静さを失わない陳到であった。関羽はというと、その名望が高すぎるあまり、有象無象がその首を狙って押し寄せてくるため、とてもではないが、黒装束に身を固めた孔明の姿を見分けることができなかったのである。目の前にいる男を鮮やかな手並みで切り伏せると、陳到は、ほとんど返り血の浴びていない姿で、孔明に近寄ってきた。「軍師!おお、ご無事でございましたか!よろしゅうございました、わが君もきっと喜ばれましょう!詳しく話することはできかねますが、いま、わが君は張飛さまと襄陽へ向かっております。代わりにわれらが軍師と子龍どのをお助けするために此方へ参ったのです。して、子龍どのは、いずこに?」「叔至、こちらも詳しく話している暇がない。実はわたしは、一度は劉表の虜になった...臥龍的陣太陽の章その99矢面に立つ
嫦娥はすっくと立つと、まなざしをつよくして、言う。「郎君、最後のお願いでございます。ほかならぬ、貴方様の手で、壷中を潰してくださいまし」「わたしが」嫦娥は、大きくうなずいた。「わたくしには、どうしても兄弟姉妹を殺すことはできない。どんなに壺中に怨みがあろうと、やはりわたくしは医者なのです。たとえ正義のためとはいえ、人を殺してしまったなら、自分がわからなくなってしまう。明日から、わたしはどうやって生きて行けばよいでしょう。ひどいわがままを口にしていることはわかっておりますわ。わたくしたちは、あまりに多くの年月を壷中に奪われてしまった。過去を人質に取られているようなもの。わたしたちだけではない、ここにいる、花安英も…死んでしまった程子文も、それに狗屠も、蔡瑁も、蔡夫人、斐仁…潘季鵬も、大きな悪意に絡めとられた...臥龍的陣太陽の章その98まことの龍として
なんということか。この人までもが。怒りと悲しみが、足元を揺さぶっていく。劉表は、壺中の秘密を豪族と共有するため、かれらから人質をとっていたという。蔡瑁と深くかかわりのある黄承元も、おなじことをしていてもおかしくはない。妻を愛していなければ、黄承元の娘、そして自分の妻である月英も、壺中となんらかの関わりがあるのではという推理が、もっと早くに出ていることが自然だった。だが、まさか、と思っていたのだ。いや、考えたくなかった。数年にわたり毎日ひとつ屋根のしたに暮らし、ときには苦しみも分かち合い、共に笑いもした相手である。よき妻であり、よき親友であり、よき戦友。彼女の知恵は尽きることがない。まるで、それこそ世のすべてを静かに照らす月のようにすべてを見ているように、なんでも知っている。孔明のもつ知識の大半は、彼女に拠...臥龍的陣太陽の章その97夫妻の嘆き
※目の前にいる女を見間違えるなどということは、ありえない。孔明は、ありとあらゆる感覚を動員して、さらには素早く頭を働かせた。だがしかし、どうしても、謎を解決することができなかった。なぜ、ここに黄月英がいるのか?劉備の軍師になると決めたとたんに、だまって隆中の家から去ってしまった妻女。うろたえる孔明に、まるで慈母のようにやさしく微笑んで、月英は言った。「月英という名前は、もうやめましたの」「やめた?」月英は、底の高い靴を履けば、ほとんど孔明にならぶほどの高さになる。かといって、孔明はそれを気にしたことはない。世間は月英を醜いというが、それは男のように背が高く、そして男のように並外れて知恵を持っているせいだと見抜いていた。妻としての月英は、賢くて頼りになる、一緒にいて居心地の良い女だった。孔明が知る限り、彼女...臥龍的陣太陽の章その96沈黙の中の答え
※「潘季鵬だ!」物陰にひそみ、孔明の首尾を待っていた崔州平は、山道を登ってくる潘季鵬の車列を見て、大きく舌打ちをした。崔州平は、孔明には、村をいつでも焼く準備がある、と言い切っていたが、それでも、ためらいがあった。まだ、孔明に期待をかけていた部分があったのである。だが、思った以上に潘季鵬の動きが早すぎた。そして、水や食料などの物資をめぐる、このあきれたお祭り騒ぎ。この状態で潘季鵬があらわれたなら、やつは、すぐさま容赦せず、輜重隊に群がる豪族たちを切り伏せにかかるであろう。そのほうが、食糧も物資も無駄にならぬと計算するであろうから。部下たちは、どうするべきかと、崔州平に視線をあつめてくる。落ち着け。いまが考え時だ。ここで、運命の舵を手放してはならぬ。そのとき、村の中心、ちょうど輜重隊の集っていたところで、ひ...臥龍的陣太陽の章その95州平の決意
偉度はというと、倉庫の大きな蓋のしてある甕の上に座ってしまった。もはや手を動かそうともせず、孔明のすることだけをじっと見つめている。「おまえは、義陽の胡家に残っている、自分の家族を助けたいとは思わないのか?」「べつに…胡家で、わたしだけが苦労するのもおかしな話ではありませんか。第一、弟たちは、わたしの素性を知らないし、どこでなにをしているのかも知らないのです。たぶん、あなたが江東の兄上に抱いてらっしゃるのと同じ感覚ですよ」「おまえはその話に持っていくのが好きだな。なにか誤解があるようだが、兄上はわたしたちになにかあったら、きっと嘆いてくださる」偉度は、声を立てて笑った。「嘆くだけでしょう」「それで十分だ。仇をとってくれなどとは思わないよ。兄には兄の人生があるのだから」「わたしはね、あなたのタテマエだけじゃ...臥龍的陣太陽の章その94現れたのは…
※倉庫に首尾よく潜入した孔明と 胡偉度《こいど》であるが、整然と並べられた壷、そして 甕《かめ》を前に、すっかりことばをなくしていた。「…どれがどれだ?」胡偉度は、以前にこの樊城の隠し村に訪れたとき、ここに何度か入ったことがあるという。そして、役に立ちそうな薬(主に媚薬や眠り薬であったが)をくすねて、襄陽城に持ち帰っていた。だからこそ、薬の配置、なにがあるかはわかっていると、思い込んでいたというのだが…「漢語ではありませんね。だれかが、わたしが忍び込んだあとから、ここの整理をしたらしい。蛮族を雇ったのか?」壷や甕には、それぞれ紙が貼り付けられてあった。そこには孔明や胡偉度が馴染んでいる漢語の類いは一切なく、子供が戯れに書いたような絵がそこにあるばかりである。「壷中の子供が悪戯をしたのだろうか」苛立つ偉度に...臥龍的陣太陽の章その93薬棚を前に
※不測の事態であった。「不測の事態だな」ことばにしても変わらない。やはり不測の事態である。陳到は、嫦娥の案内で、胡家から奪った兵糧を運ぶ兵卒になりすまし、まんまと樊城の隠し村に入り込んだ。そこまではよかった。だが、まさか隠し村に集められた豪族たちの有り様が、ほとんど難民と呼んでもいいほど無残なものだとは、予想していなかった。これで豪族たちをよけつつ、壺中の兵だけと戦えるかと問われれば、武芸達者な陳到ですら、否、と答えるほかない。非戦闘員が多すぎる。ここで壷中とぶつかって、戦って勝利したとしても、巻き込まれて死ぬ民間人が多いだろう。しかも、死ぬであろう者たちは、みな、ただ者ではない。荊州の名だたる豪族たちばかりだろう。あとあと面倒になる可能性が高い。なにより、新野の劉備の名に傷がつく。陳到と関羽が、たんに武...臥龍的陣太陽の章その92到着
「おい、そいつは気絶させていちゃだめだ」呑気な様子で、背の高いほうが、丸い鼻をたしなめる。「潘季鵬さまが言っていたじゃないか。あの男の世話をどうして同じ娘にさせるのか。理由は簡単、あいつに情を移させるためだって」潘季鵬に口調が似ているといって、下卑た笑いをして、丸い鼻は、同じように丸い腹を震わせる。「情が移ったところで、あいつの目の前で、娘を汚してしまえ。自分が心をかけた者がどうなるか、その結果をとっくりみせてやれ。そう言った」「そうか。それじゃあ、気絶させちゃあ、だめなのか」予感していたとはいえ、趙雲は、潘季鵬のもつ底知れぬ邪悪さに、全身が震えるほどの怒りをおぼえた。趙雲が打たれ強いことを潘季鵬はよく知っている。自身が引き裂かれるよりも、他者が引き裂かれることに痛みをおぼえる性格だということも。だから、...臥龍的陣太陽の章その91眼前の危機
※馬車にやってきた男は二人。趙雲よりも、ひと回り若い二人組であった。てっきり目隠しを外すようにという指示を与えるためか、あるいはそして子供たちと交代するためにやってきたのかと趙雲は予想した。しかし、かれらが入ってくるなり、趙雲の目かくしを外し、いやらしい目つきでにやりと笑ったのを見て、暗い予感が胸をよぎった。馬車の扉が開く前に、子供たちは趙雲から離れた。それぞれ緊張した面持ちで、青年たちを迎え入れる。潘季鵬の姿がないのを見て、子供たちは安心しているようだ。だが、趙雲は、最悪の、そして想像していなかった事態を青年たちの邪悪な表情のなかに見つけた。こいつら。立ち上がり、青年らを追い返せたら。趙雲は、片方の足で床をけり、なんとか立ち上がろうとした。が、できなかった。もどかしさで苛立ちが増す。開かれた扉の向こうに...臥龍的陣太陽の章その90やってきた男たち
花安英の名の響きはたしかに典雅で、いかにも美々しさを好む程子文が喜びそうな名であった。しかし、孔明は、この少年の内側にある強さを知っている。花安英。華やかで賢い、というだけではこの少年にふさわしくない。「なんです」「わたしは名づけるのが下手だが、『偉度《いど》』というのはどうであろう」しかし、花安英は、孔明の意に反し、鼻を鳴らすと、よたよたと、倉のほうへと歩いて行ってしまう。「だめか。『並外れた才覚・器』という意味をこめたのだが。そなたの優れているのは、なにも美貌だけではない。武芸も達者だし、画才もあるというし、それに、わたしを緊張させるほどに弁舌の才もあるのだ」「緊張?へぇ?わたしに緊張などなさっていたのですか」「していたとも。いままでも、おまえにはだいぶことばを選んでいたのだぞ。『偉度』は気に入らぬか...臥龍的陣太陽の章その89字をさずける
「この機を逃してはなりませぬ。あちらに」花安英がすばやく孔明に言う。花安英の指す方角には、小さな高床式の倉があった。倉の入口には歩哨がいたのだが、輜重隊のまわりの騒ぎをおさめるために、持ち場をちょうど、離れた。負ぶっていくとかえって目立つというので、孔明は花安英を下ろす。そして、倉に向かうべく走りだそうとしたところへ、崔州平がことばをかけてきた。「孔明、おれはおまえの作戦に乗ったわけじゃない。水や食糧にうまくしびれ薬を入れたとしても、なお戦意を失わぬのが壷中の兵だ。おまえも花安英も甘い。おまえたちに、すこしでもしくじりが会ったときは、外に待機させているおれの部下は、容赦なくここに火矢を射かけるだろう。そうなったら、おれたちはここにいる壷中の兵の殲滅にかかる。それを忘れるな」「わかっている」孔明は肯くと、崔...臥龍的陣太陽の章その88字(あざな)をめぐり
※隠し村は、想像以上に疲弊していた。それは、初めてこの場所にやってきた崔州平、そして孔明の第一印象であった。なにより、村は狭かった。四方にせり出す望楼ばかりが目立ち、その周囲に植えられた若木が、いかにも出来立ての場所だと示している。隠し村の中央に大きな広場があり、その広場を中心に、家財道具一式を牛車や馬車に積んだままの豪族とおぼしき人々が、つかれきった様子で地べたに座り込んでいた。水はあっても、十分な食料がないのだろう。しかも村が狭いため、つぎつぎとやってくる豪族たちを受け入れられる施設がないのだ。嫌でも徐州から逃げだしたときのことを思い出し、孔明はぞっとした。自分もああやって、食べ物のこと、明日のことをぐるぐる考えながら、疲れた顔をしていた。昨日より暑さが増したため、水がどうしても欲しくなる。日差しをよ...臥龍的陣太陽の章その87樊城の隠し村
「そうだ、笑うと力が湧いてくるからな。俺のよく知っているやつも、なにがおかしいのやら、よく笑っているぞ。誰からも無視されても、いつも笑っていた。そうだ、さっきの食糧のたとえに話をもどすか。手元に食糧はない。家族はみな飢えている。隣の村には食糧があるが、頼んでもどうしても分けてもらえなかった。そのようなとき、その男は変わっている。ありとあらゆる方法をつかって、食糧を分けてもらう方法を考えるのだ。凡人ならば、十の方法を試して諦めて武器を取る。賢人ならば、百の方法を試して諦める。だが、そいつは千も万も、だれもが納得するまで、とことん考えて、だれもできやしないとおもっていたことを実行してしまうのだ。それでいてあまりに当たりまえの顔をしているので、最初は、あいつでなくっても、自然とこうなったのさと、だれもが思う。だ...臥龍的陣太陽の章その86子供たちとの対話その3
かつての趙雲もそうであった。公孫瓚のもとにいたとき、言われつづけたのである。ただひたすら、上長の命令を聞け、他の言葉に耳をかたむけるな、それこそがわが君に対する忠義の証しであると。しかし趙雲は、公孫瓚の見かけよりもずっと柔弱な性質や、潘季鵬の妄執的な性格が見えた。そして、かれらの掘った落とし穴に気づけたから、まだよかったのだ。嘘も技術なのである。公孫瓚時代の潘季鵬は、少年であった趙雲に見抜ける程度の『嘘』しかつけないでいた…自分ではもとより嘘などとは信じていないのだが。だが、嘘を重ねているうちに、その技術が磨かれて、もっともらしい『真実』に聞こえるように説得できるようになってしまった。相手が子供ならば、騙すのはたやすかろう。これまで、どれだけ多くの子供たちが、その嘘をよすがに、死んでいったのだろう。連日の...臥龍的陣太陽の章その85子供たちとの対話その2
「首をはねられた人は、みんな、悪い人だったの?」軟児の問いに、趙雲は正直に首を振った。「わからないな。ただ、俺たちの邪魔をしたから、斬るのだ」趙雲の言葉に、子供たちは、理解しかねているのか、沈黙する。「相手が善い人か、悪い人かもわからないのに、斬ってしまうの?」「物事に、善悪だけで処理できることはじつは少ないのだ。残念だが。世の中がもっとわかりやすければ、だれも悩んだり苦しんだりしない。いま、この世の中の皆が…おまえやおまえの家族たちも含めて苦しんでいるのは、世の中がわかりにくいからだ。では、ここで質問をしようか。おまえたち、お腹が空いてどうしようもなくなった、畑はみな焼かれたか、掠奪されたかして、雑草しか生えておらぬ。だが、武器になりそうな鍬《くわ》だけがあり、どうやら隣の村には食糧があるようだ。さて、...臥龍的陣太陽の章その84子供たちとの対話
※趙雲は馬車に乗せられたあと、道を覚えないようにと目隠しをさせられた。馬車には、見張りの子供たちも一緒に乗せられている。子供たちは、大人たちの目を盗んでは、交替で懸命に、盗んできたちいさな鏃で、趙雲の縄を削りつづけた。だんだん削れていく縄のくずは、道中、こっそり捨てた。趙雲は、細心の注意を払い、人前では子供たちに興味がないそぶりをしなければならなかった。そうしなければ、潘季鵬《はんきほう》の注意が、子供たちに向いてしまうのは明らかだ。趙雲の心にかけたものすべてを破壊しつくさなければ気がすまない。それほどに、潘季鵬の心はどす黒く染まっていた。潘季鵬に気分のまま殴られつづけ、顔が青黒く変色し、まるで幽鬼のようだと歩哨に笑われながらも、趙雲は沈黙をつづけた。たとえ腐ったものが食事に出されても、肉体を衰えさせない...臥龍的陣太陽の章その83壺中の子供たちと、ともに
孔明の背のうしろで、花安英が声をたてて笑ったのがわかった。「とても軍師たる方のお言葉ではありませんね」「そうかね。人から守られた者は、守ってくれた者の遺志を継ぎ、最善を尽くすべきだと思う。わたしの場合は、叔父の意思を継ぎ、壷中を潰すことがそれだ。おまえの引き継いだ遺志はなんだ?それは、おまえがいちばんよく知っていることではないか」「わたしにふたたび血にまみえよと」「そうだ。這い蹲《つくば》り、泥をすすり、血にまみれて生きよ。不様でもかまわぬ。それが生き残りし者の責務であり、贖罪なのだ。嘆くヒマはないぞ。わたしは亡き者たちの遺志を守るためならば、いかなる者の血も浴びる覚悟だ。善悪、正邪も関係ない。もはや振り返りはせぬ。立ち止まりもせぬ。おまえはどうだ」「ともに戦えと、そうおっしゃるのか。だからわたしを背負っ...臥龍的陣太陽の章その82生きるための約束
狗屠《くと》は趙雲によって倒されたけれども、花安英の憎しみと悲しみは、果たしてそこで割り切れたものであろうか。実の父母によって、修羅に突き落とされた、あわれな少年。いままでの人生の清算をするために、妙な計算を働かせていなければよいのだが…おのれの咽喉下に巻かれた、両の手の色が白い。ときたま、担《かつ》ぎなおすと、ぐっと力が込められる。背中に接する胸の熱さが、愛情にも似た思いをさらに強くする。もし孔明に子がいたら、それが父性愛と同質のものであるとわかったことだろう。洞穴は、いくつか分かれ道になっていたが、花安英の案内を待つまでもなく、点在する蝋燭の存在で、入り口がすぐに知れた。蝋燭の残りがあるほうが、人の通ったほうである。壷中の、慎重なようでいて、どこか抜けている体質というのは、ここにも見え隠れしていた。ふ...臥龍的陣太陽の章その81背負う子の重み
※樊城の隠し村の間道は、途中より道が狭くなっていった。道は茂みに覆い隠すようにしてあり、やがて小さな洞穴の入り口にぶつかる。それが熊の巣穴の類いではないことは、入り口に積み重なった土塁の形ですぐにわかった。近在の猟師たちに気づかれぬよう、たくみに草を茂らせ、葉をかぶせているのである。花安英《かあんえい》の案内がなければ、存在を見つけることはかなわなかったにちがいない。「この間道を、川からやってくる潘季鵬たちが使う可能性はないだろうか」崔州平の問いに、花安英はきっぱりと答えた。「ないでしょう。潘季鵬が水路を選んだのは、襄陽城の金目のものを、すべて村に運び入れるため。この間道を大荷物が通り抜けることができませぬ。おそらくは、川から上陸したあとは正規の街道を通って、正面からやってくることでしょう」「間道内に、哨...臥龍的陣太陽の章その80潜入
※ほどなく、胡家には、死屍累々が折り重なっていった。生きているのは、わずかに生き残った胡家の人間と、関羽と陳到の率いる兵士たち、それから、降伏した壷中の者たちだけとなった。嫦娥は、実際に関羽や陳到の動きのすさまじい戦いぶりを見て、言葉をなくしたようであった。ふらふらと門をくぐると、屋敷の前にて、前のめりになって倒れている胡叔世の体に触れる。陳到は、血糊で汚れたおのれの槍を、丁寧に拭きながら、嫦娥に尋ねた。「それが、胡家の主か」「そうです。死んでいる…最初から、潘季鵬はこの男をも始末するつもりだったのか。蔡瑁に近すぎるから…」「輜重隊を用意させ、さらに殺して財貨をも奪おうとする、鬼卒も怖気をふるう振舞いぞ。おい、おまえたち、まだ奥に婦女子が生き残っているようだ。助けてやれ。ああ、その前にその井戸で顔を洗って...臥龍的陣太陽の章その79同道するか否か
※老師たちが叔世を剣で刺し貫いたのと同時に、輜重隊の周囲に配置されていた壷中の若者たちは一斉に動いた。豪奢なつくりの屋敷に、我先にとなだれ込む。そして、まるでいままでの復讐をするかのように、家人たちを引きずりだしては無慈悲に殺した。さらには、めぼしいものは奪い、家畜は解放して奪い、屋敷に火をかけた。みな、その権利があると信じていた。すこしの容赦もない。自分たちと、そして兄弟たちの、屈辱と死の蓄積が、ここにある富なのである。「子供は殺すな」かつて、自分が、荒野の果てで聞いたものと同じ言葉を、男も兄弟たちに伝えていた。「村へ連れて行く」同じ目に遭わせるのだ。どんなに謝ろうと許してはやらぬ。自分たちも、同じように許してなどもらえなかったのだから。そのときである。どおん、どおんと大音声とともに、閉ざしてあったはず...臥龍的陣太陽の章その78突入
※日に日に暑さが増す。かんかんに大地を照らす太陽を憎らしく思いながら、叔世は、樊城の隠し村に送る兵糧や衣服、武器をつめた輜重隊の牛車の首尾をたしかめた。たしかめるといっても、無能な叔世にできることといえば、牛車のまわりをぐるりと回って、異常がないかどうかを見るだけである。すでに手筈は有能な壺中の老師たちが整えている。その老師たちは、奥向きで、もてなされているはずである。十四年前の貧苦がうそのように、どこもかしこもきらびやかに整えらえた樊の別荘は叔世の自慢で、隠し村の老師たちが休憩にやってくるのも、また誇りを抱く一因だった。井戸は屋敷内に三つもあり、門は四方に四つ。私兵がいつも周囲を見張り、家人の数は百人ちかい。どこもかしこも手入れが行き届いていて、荊州でもこれほどの別荘を所有できる豪族は少ないだろう。やが...臥龍的陣太陽の章その77無残な最期
徐々に胡家はかつての繁栄を取り戻した。胡叔世に才覚があったのではない。運がよかっただけなのだ。叔世も、そのことを自覚していた。自覚していたがために、大望を抱かなかった。それが、後ろ暗い大きな秘密をかかえてもなお、長生きができた理由である。しかし、やがて問題が生じた。蔡瑁に奪われた妾の子である済が成長してから、じつの母親に関心を抱くようになってしまったのである。最初は誤魔化していたが、この息子は、父親よりもずっと聡明であった。父の語る嘘の矛盾点をつき、当時の事情を知る家人たちをひとりひとり締め上げて、やがて母が生きており、蔡瑁に連れ去られたことを知ってしまった。息子は、是非に母を助けたいと叔世に言い張った。面倒なことになってしまった。叔世は息子を疎ましく思うようになった。このままでは、蔡瑁と胡家の真の関係が...臥龍的陣太陽の章その76胡家のものがたりその2
※胡家のあるじは、あざなを叔世といい、ごく平凡な男であった。しかし、なぜかとても立派な鼻を持っていた。額から高い鼻の先まで、すっと抜けるようなきれいな鼻である。この相を見た観相家に、将来は、思いもかけぬところから財産を得るであろうと予言されたこともある。そのときは半信半疑であったが、没落寸前の貴族の家より若く美しい娘を妾にもらってから、かれの運命は大きくかわった。最初こそ、その若い妾のからだに夢中になったものの、ものの考えのはっきりしない女で、付き合っていても退屈なばかりになっていった。なにをどう質問しても、「あなた様の良いように」としか答えない。そういうしつけをされて育てられたのか、あるいは諦観のすえにおぼえた処世術だったのか、それはわからないが、叔世には、面白くなかった。そういう、なんでも言いなりにな...臥龍的陣太陽の章その75胡家のものがたりその1
「おまえの妻は、巻き添えを食っただけだ。壺中はいま、二つの組織に分かれつつある。劉表の壺中と、潘季鵬《はんきほう》の壺中だ。潘季鵬は、曹操のもとに行こうとしているようだ。もちろん、子供たちを連れてな」「子供らは可哀そうだと思うが、それをおまえたちは助けに行くのだろう。それが俺の妻の話とどうかかわりがある」「潘季鵬は、袁紹軍から逃れたあと、許都に入ったのだよ。そして、そこで曹操を守る組織に入って力をふるった。そこを見込んだ劉表が、使者を許都に派遣して、潘季鵬を壺中の幹部に引き抜いたのだ。そのときに使者となったのが劉琮だ」「劉表の子が、どうして使者なんぞに」「長い話になるので簡単に言うが、ある事情から、蔡瑁は劉琮を劉表から引き離す必要があった。そこで劉琮の影武者をたてて襄陽城におらせ、劉琮本人は許都に向かわせ...臥龍的陣太陽の章その74真相のかけら
「おそらく、このまま足を早めれば、じきに樊城の隠し村の手前にある胡家の別荘にたどり着くことができます。そこが兵糧を運ぶ拠点となっておりますので、隠し村につく前に、兵糧を奪ってしまえばよい。そして、輜重《しちょう》の列のフリをして、壷中の村に侵入する。壷中の隠し村には、外敵にそなえ四方の望楼に兵が配置されております。ですが、内側に入り込んでしまえば、あとは脆いもの。中には子供しかおりませぬ。叔至さまより関将軍へ、この作戦をお伝えいただけませぬか」「なぜ貴女がじかに関将軍につたえぬ」嫦娥《じょうが》は、諦めきったような、どこか見るものを落ち着かせなくする笑みを浮かべた。この女は、あまりに聡すぎて、人の三つくらい先を読んでしまう、損な性質らしい。「女のわたしがたてた作戦を関将軍は喜ばれますまい。いいえ、たとえ関...臥龍的陣太陽の章その73陳到と嫦娥その3
「豪族の私財を掠め取るのが潘季鵬《はんきほう》の目的でしょう。そして役立たずの豪族は殺し、自分たちは曹操のいる許都へ向かうつもりなのです。だからこそ、潘季鵬は自分に心服している者だけを隠し村に残し、襄陽城には劉表に忠誠を誓う者だけを集めたのです」「いや、しかし、豪族たちとて、愚か者ばかりではなかろう。私兵を取り上げられて、不審に思わぬのか」「そこはそれ、十年間の壷中の実績をなによりも知っているのがかれらですし。それに、隠し村は小さいので、私兵たちまで連れていったら、たちまち兵糧が絶えてしまうこともわかっています。壺中は豪族たちにこう説明しているのです…村の入口の砦にて私兵を集めて守らせ、曹操が攻めてきたら、村に籠城すればよい、と。すこし知恵をはたらかせれば、本当に曹操があらわれた場合、あっというまに兵糧攻...臥龍的陣太陽の章その72陳到と嫦娥その2
※沈黙の多い行軍であった。陳到と関羽は、たがいに交替して、嫦娥《じょうが》の見張りについていた。これは、嫦娥が逃げ出す恐れがあったからではない。嫦娥を狙う壷中がいるかもしれないことを警戒したのである。壺中のほかに、何者かが、ついてきているようだ。陳到にはそれはわかっていたけれども捨て置いている。そちらの正体は判っているからだ。熟練の兵士でも音をあげるような強行軍であったが、嫦娥は愚痴ひとつ言わなかった。それどころか、馬に揺られ続けて具合の悪くなった兵士たちの様子を、休みの合間に見てやったりしている。新野城から出て行く際には、新野じゅうの娼妓、そして麋竺たちが嫦娥を見送った。そのなかには藍玉《らんぎょく》もいた。藍玉は、嫦娥の手をとり、何度も何度も、励ましのことばを口にしていた。ほんとうは、自分も同行したい...臥龍的陣太陽の章その71陳到と嫦娥
※二日くらい経ったころ、船の揺れが収まった。外からもれ聞こえる水夫たちの掛け声や、波音から察するに、接岸作業に入っているようだ。これから陸路で樊城の隠し村に向かうらしい。船倉の扉が開き、趙雲の世話係の少女がやってきた。少女は緊張した面持ちで、腫れあがっている趙雲の顔を見つめていたが、やがて、遠慮がちにそばによってきて、趙雲の横にぺたりと座った。少女は、それまで、なかなか口を開こうとしなかった。口を開いたとしても、信号のように短いことばで。ぽつり、ぽつりと答えるばかりである。その少女が、消え入るような、ちいさな声で言った。「わたし、九つになります」「そうか」まだそんなに幼かったのかと、趙雲は暗然とした。「みんなで、貴方のお話を考えました。いっしょうけんめい、考えました」少女は、暗い瞳をして趙雲を見ている。「...臥龍的陣太陽の章その70少女と趙子龍
※趙雲はいまだ船底にとじこめられていた。船の板の隙間から漏れる光の加減から、おおよそ二日は経ったであろうことがしれる。そろそろ樊城の隠し村に着く頃合だ。身柄を拘束された状態から抜け出すべく、趙雲はもがいていみたが、潘季鵬《はんきほう》に抜かりはなかった。そこで、途中から体を自由にすることはあきらめて、時機を待つことにした。隠し村とやらについたところで、いきなり殺されまい。殺すのなら、とっくのむかしに殺されているはずである。そうしないのは、潘季鵬に思惑があるからだ。どんな思惑かはわからないが、向こうの異常な執着心にこそ、隙を見出せる好機があるかもしれない。大丈夫だ、おのれの勘を信じろ。おのれに必死に言い聞かせつつ、趙雲は、自分の世話係となっている子供達に、おのれの経験したさまざまなことがらを教えながら、なん...臥龍的陣太陽の章その69囚われの身
「安英、おおよそでかまわぬ。村に集っている者の数は、どれほどになるであろう」「隠し村には子供らが百人ほど集められて訓練を受けています。老師たちを含めて、おとなの壷中は二十人ほど。ですから、総勢で百二十人ほどです」「百二十人か。それだけの人数の食糧をどうしている」「用意しているのは、樊城の胡家でございましょう。わたしの親戚です」そうか、と孔明は答えて、それからまた沈黙した。花安英にとっては残酷な作戦が浮かんだのであるが、とてもではないが口にできない。甘いとはわかっているが…さて、どうしたものか。さらに考えていると、花安英が孔明に言った。「胡家から村へ運ばれる輜重《しちょう》を襲いなさい。兵糧を絶ち、飢えて弱った壷中を攻撃すれば、あるいは降伏させることが可能かもしれない」「下策だな。時間がかかりすぎる」「しか...臥龍的陣太陽の章その68安英の申し出
※崔州平と交替に火の番がやってきたため、孔明はおのれにあてがわれた馬車の中へと戻ることにした。幌を掻き分けると同時に、中で横になっていた花安英《かあんえい》が声をかけてくる。「なにかありましたか」なぜわかると問うのは愚問のようであった。花安英は、他者の、ありとあらゆる挙動に敏感だ。おそろしく勘が良い。他者の声の調子、足音、ちょっとした動作のちがいで、その本心をするどく見抜く。「薬が切れたか。痛みはあるか」「おかげさまで熱も下がりましたし、傷についても、たいして痛みはございませぬ。それよりも、わたしの質問にお応え下さい」やれやれ、と孔明は一息つき、花安英の隣に座った。孔明は、この苦手だった煌びやかな少年に、いまは弟に対する感情のようなもの…いや、これまでの日々のなかで、知らずに切り離されていたおのれと再会し...臥龍的陣太陽の章その67車中の花安英
「ともかく孔明、樊城で潘季鵬を食い止めるのだ。そうすれば、おれも面目を保てるし、おまえもおまえの主騎を助けることができて、いいことづくめだ」「君は、ほんとうに曹操の前に膝を折ったのだな」「おまえは劉備を信じろ。おれの目から見ても、劉備はなかなか魅力的な人物だ。おれも弟のことがなければ、おまえに付いていってもよかったのだが」「君の弟を痛めつけた連中は曹操の部下なのだろう。憎くないのか」「もちろん憎いさ。だが、やつらとて、仕事であったのだ。いやな話だがな」「その『やつら』と会ったのか?」「女が束ねている組織だということだけは知っている。やつらには名前がない。だから、曹公はやつらを『無名』と呼んでいる」「無名、か」ぱちぱちと小さな音をたてて燃え続ける炎越しに、孔明の暗いまなざしが向けられる。「ほんとうに、わたし...臥龍的陣太陽の章その66無名
孔明は、しばし考えるそぶりをし、それから、さあっと青ざめた。「まさか、劉表がそうしたように、豪族たちを抹殺し、その金品を奪おうとしているのか」「おそらくな。壷中はそういった蛮行を繰り返して続いてきた組織だ。いまさら潘季鵬《はんきほう》が豪族と話し合って、曹公と対抗しましょう、などと言い出すとは思えない」「潘季鵬は劉表を裏切って、曹操の元へ行こうとしているのではないのか」「あいつは狂っていると言っただろう。自分の狂気のまま、自由に振舞わせてくれる者がいるなら、その者に靡《なび》いていく、そういう、常人では理解しがたい感覚を持つ男なのだ。潘季鵬は豪族どもをみな殺しにしたあと、壺中の残党をつれて、荊州を目指す曹公とすれちがいに許都へ向かうのだろう」「なんだって」「壺中の子供たちは何も知らされていなかろう。許都に...臥龍的陣太陽の章その65それぞれの真意
「誉めすぎだぞ、州平」「率直な意見なんだがな」「待て。わたしを認めてくれているのはうれしい。しかし、だから曹操の元へ行くというのは、おかしくないか?」「わたしのなかではつながっているのだがな。わたしは、あくせくと組織の天辺にのぼるより、安穏と人の指図を受けて暮らしたほうが似合っているのだ。おまえのように、理想のために責任という重荷を背負って、仲間たちと苦労をしながら前に突き進むような生き方はできない。ましてや、明日ほろびるかもしれない弱小勢力の家臣になるような危険な賭けはできない…怒るなよ」「怒りはしない」「おまえは、おれとはまったくちがう生き方をしていくだろう。おまえは孔明というそのあざなのとおり、明るく輝くもの。唯一無二の太陽なのだ。太陽が大地から隠れていてはならない。おまえは与えられた運命を行け。お...臥龍的陣太陽の章その64あらたな思惑
孔明は唇をかむ。もともと白い孔明の顔が、ますます白く見える。もともと体が丈夫ではない。貧血を起こしているのではないか。配給した食べ物はきちんと食べたのだろうか。孔明はなにかひとつの気にかかることがあると、食欲がまったくなくなってしまう性質であることを州平は知っていた。孔明は、おのれを抱えるようにして組んでいる腕に力を込めて、尋ねてくる。「嫌なことを質問させてもらう。君は、わたしを憎いと思ったことはないか」「ない」即答した。これは自信をもって答えられる事柄であったからだ。「わたしは、君のきょうだいを苦境に追い込んだ組織を作った男の身内だ。それなのにわたしだけは、ずっと安全なところにいて、みなに守られてこの年まで生きてきた。わたしが本来味あわなければならなかった痛みを、まるで君たちが代わりに受けてくれたように...臥龍的陣太陽の章その63静かな告白
※花安英《かあんえい》のことばに偽りはなかった。樊城の隠し村へつづく壷中の間道はすぐに見つかった。案内人の花安英が優秀なのもあり、これまでさしたる混乱もなく、旅路はつづいている。二日後には樊の隠し村に到着するであろう。崔州平《さいしゅうへい》の胸に、さまざまな想いが去来する。見上げると、夜空には、煌々とかがやく白い月が、地上の寝静まるありとあらゆるものを監視するかのように、冷たく君臨していた。月があまりに大きく明るいために、ほかの星たちは闇にかすんでいるようにすら見える。火の番を自ら買って出ていた崔州平は、みなの寝静まった陣のなか、ひとりでいた。二日後は、ふたたび修羅の中に身を置くことになるであろう。だが、いまは台風の中心に飛び込んだように、静かで穏やかな時間が流れている。壷中は倒されなければならぬ。壷中...臥龍的陣太陽の章その62胸のうちに去来するもの
陳到も関羽も、温和な印象がつよい麋竺の意外なことばに、思わず顔を見合わせる。だが、劉備は、だいたいの予想をつけていたようで、顔にあらわさず、さらに尋ねた。「それだけではないな。あなたは、なんだって孔明に意味ありげに壷中の名だけを教えたのだ。もし自分が失敗して、帰らないようなことがあったら、壷中という言葉を手繰《たぐ》って、孔明に壷中を潰してもらおうという魂胆があったのではないか」麋竺は、悲痛な面持ちでうつむき、搾り出すように言った。「まさにそのとおりでございます」さらに劉備が口を開こうとしたとき、横からするどく嫦娥《じょうが》が割って入ってきた。「ご無礼をお許しください、劉豫洲。この計画は、子仲さまだけが練ったものではございませぬ。わたくしと、襄陽の崔州平と、ほかの壷中に恨みのある者たちが集って、はじめた...臥龍的陣太陽の章その61やっと太陽に
「劉表は、表向きの『清流派』の顔を、崩したくなかった。ほんとうは、ただそれだけだったのだ。諸葛孔明の叔父の玄は、あまりに直情的で、劉表に遠慮がなさすぎた。あれは劉表に鏡を突きつけた。突きつけられた鏡に映るおのれの醜い姿を真正面から見ることに我慢がならなかったので、劉表は諸葛玄を殺した。甥の孔明に目をつけていたから、どうしても欲しいと思った。けれど、諸葛玄は、孔明を守るための策を残していたのです。それを利用して、諸葛家の人間は、なんとか劉表の手から孔明を守った。けれど、諸葛玄の印象というのは、劉表と壷中にとっては強烈だった。いつか、成長した孔明が、叔父の死の真実を知って自分たちに刃向かってくるかもしれない。根拠もなく、それを恐れた。かれらは、ずっと孔明を見張ることにした…」「見張りをつけたことで、壷中は安心...臥龍的陣太陽の章その60失踪の裏で
ぴりぴりした空気に耐えかねたのか、麋竺がうめくように言った。「仕方なかったのだ」だれかが責める言葉を口にしたのではない。だが、重くつづく沈黙にとうとうしゃべらざるをえなくなったのだろう。「劉表が、わが君に新野をまかす条件がこれであった。わたしが壷中に入ること。そして、わが君たちの子供たちを人質に差し出さなくてよい代わりに、荊州からあつめられてくる難民の子供たちの親兄弟の屍を始末することが条件だったのだ。劉表は、つぎつぎと北から押し寄せる武装した難民たちには、ほとほと悩んでおった。そこで、あまりにおぞましい解決策を考え付いたのだ。子供たちだけ残し、大人たちを皆殺しにするという。そして、残った子供たちは壺中に入れられた。劉表は自らの野望を果たすため、子供らを刺客に育てていったのだ。殺された大人たちの屍は東の蔵...臥龍的陣太陽の章その59麋竺の告白、嫦娥の孤独