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壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、その武勇により歴史に名を刻んだが、その後の運命は複雑なものとなった。義経と兄・源頼朝との関係は、義経が後白河法皇から検非違使に任命されたことをきっかけに悪化したとされている。吾妻鏡によれば、この任命は頼朝の承諾を得ずに行われ、義経は鎌倉に入ることを許されず、腰越に留め置かれた。この時、義経は自身の弁明として腰越状を書いたとされるが、それでも許されることはなく、最終的に京に引き返すこととなった。 しかし、この一連の出来事については、異なる見方も存在する。実際には義経が検非違使に任官された際、頼朝の承諾を得ていたという説もある。さらに、京都大学名誉教授の元木泰…
平泉の藤原泰衡から鎌倉へ届けられた義経公と武蔵坊弁慶公の首は、腰越で梶原平三景時と和田小太郎義盛による検分後に浜に投げ捨てられ、潮の流れに乗って藤沢へ流れ着いた・・・その首を拾った里人が↑写真の井戸で洗い清めたという伝承が残る、神奈川県藤沢市の史跡「伝 義経首洗井戸」を2023年1月3日に訪問しました。↑最寄駅は、小田急江ノ島線の「藤沢本町(ふじさわほんまち)駅」となります。駅から史蹟まで徒歩3分かからない...