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長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは永遠に変わることは無く、真理の中にあると励ましている。 聖書に婦人が語ることを禁じている箇所があるが、神は婦人と共...婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)
見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見られることで、頭にも心にも納得できる言葉は人の肉に寄り添って惑わす。 「命よりも大切なもの」という本を頂いた。それ...みことばの飢饉
ファンの皆様、読者の皆様、慈恩保を愛して下さる皆様、ブログ「神様より」を愛して下さる皆様。 おかげさまでベストセラー神様よりシリーズ第八弾、「新・神様より3」…
聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪しい宗教を持ち込む」と言われる思ったからである。 ただ、教会に連れて行ってくださった姉妹にだけ、そっと話した時「そ...呼ぶのはいつもイエスの御名
この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さのうちに御霊が臨まれたのである。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩...永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ...世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)
私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って偽りの霊を見分ける。 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神か...神から出た者(1ヨハネの手紙4章)
どうやって餌を見付けるんだろーねー下辺で見付けて捕獲し上辺へ移動して召し上がるみたいねいつでも感動するよ心から にほんブログ村人気ブログランキング...
愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(1) 聖霊がおられるように悪霊も存在する。悪霊から守ってみことばに導くのは聖霊である。聖霊なる神はイエスのことばを解き明かして、聴いたことばに従順して生きる力を与え、生ける神のことばを経験させて主への信頼を育ててくださる。 悪霊は、キリストにたまわった永遠のいのちから目を反らさせて、感情に働いて肉を掻き立て世に釘づける。善悪知識の木の実由来の賢さは、神から独立した善悪によって、救いのための時間を浪費して、悪霊の働きによる目に好もしいものを仕立て、世の成功に惑わして滅びの道連れにするのである。 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は...霊を知る(1ヨハネの手紙4章)
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1) 平安の中で主イエスの御救いを思い返し、救われた身の幸いに感動して、御前にひれ伏す。苦難の中ではたまわっているみことばを読み返し、御約束にある深みに導かれて安らぐ。迷いの中にある思いのすべて主に打ち開けて、みことばに委ねて従順する。そのすべては「アバ、父」と呼ぶ関係に在ってのことである。 神の子らはすべての日々に御父の愛を味わい、御子イエスのことばを経験をして、神より生まれた子であることを、聖霊の導きの中で確信するのである。それは養子とか接ぎ木という薄紙一枚の隔ても無い、真実な神が生んでくださった子であり、聖霊とみことばに...事実、私たちは神の子どもです(1ヨハネの手紙3章)
ふと気が付けばハオルチアの花茎が伸びているこれは一番短いやつで他2本はもっと長い(👆上下に薄っすら写っている)例によって全く手を掛けていないこの過酷な状況が合っているのか・・・おっとっとーそろそろ水遣りだけはしなくちゃ😅にほんブログ村人気ブログランキング...
私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(26~27) 神は三位一体の神である聖霊を、キリスト者のうちに住まわせてくださり、守りとし、導きとして、みことばを生きて神の計画を行なわせてくださる。その方は「真理であって偽りではありません」とわざわざ書いてある。 イエスの御わざを、ベルゼブルのわざと言わせるような、サタンや悪霊の偽りの世に在って、聖霊はキリスト者の砦であり、身の避け所であり、平安をたまわるお方である。聖...真理であって偽りではありません(1ヨハネの手紙2章)
辛かったよね。 恐かったよね。 信じられないくらい嫌だったよね。 でも、もう終わったことかな? だったらもう、忘れて欲しいよ。 過去なんてものは、ゴミ箱に…
私は未経験です。私は絶対落とす・失くすと思うんですよね😅イヤホン・ヘッドホン苦手なんですけどね。多分感覚過敏に因ると思います。でもその昔移動の時にはウォークマンに助けられましたよ。わざわざ重いカセットテープを何本も持ち歩いていたなんて・・・懐かしい思い出でございます😆 にほんブログ村人気ブログランキングへ...
幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。(18) 今と書かれたのは1900年以上も昔のことであるが、神に在っては千年は一日のようであって、反キリストがそれ以来現れ続けている。それゆえ常に今が終わりの時なのである。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(Ⅱペテロ3:8) 肉の体にある命は何時取り去られるか誰も知らず、すべての人にとって今が終わりの時である。神が猶予を与えておられる命の間に、イエスを神の救い主と信じて受け入れ、自分の救いを完成するのは今この瞬間である。イエス・キリストを信じる信仰によって、永遠の住まいである天の国籍手続きは、神の御子イエスに罪をあがな...永遠のいのちを生きている(1ヨハネの手紙2章)
子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(12) 教会に通うようになって、みことばにイエスの御救いを見出し、神の一方的な赦しをたまわった。負いきれなくなっていた重荷を御前に下ろした時、聖霊に触れられて「見よ。すべてが新しくなりました」と、主の焼き印が押された。もう自他のどのような責め言葉も、神のものであることを否定することは無い印である。 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。(13) 家長がイエスの御前にひれ伏すとき、家には喜びと希望がいっぱいに満たされる。イエスを主として迎え、恵みに拠って家族が生きる...福音の喜び(1ヨハネの手紙2章)
愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。(7) 神の民が初めに神からたまわった律法は、イエスによる罪のあがないによって廃棄されたものではなく、イエスを信じることによって、それまでの不可能が可能になったのである。 律法はイエスによって成し遂げられて福音となり、イエスのうちに在る者に完成された。彼らはいのちの望みに満たされ、聖霊による交わりの中で神の子どもの喜びを生きている。しかしイエスを主と認めない不信仰は、自ら律法のさばきのもとに留まり続けるのである。また、聞いたみことばを心に留めることなく、故意に胡麻化してやり過ごして来た者に、改めて命じられるのは主の忍耐と憐みに拠ることで...光と闇、霊と肉(1ヨハネの手紙2章)
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(1) 世ではあらゆる形の罪を纏った狼が、肉を纏っている羊を虎視眈々と狙っている。しかし、神の守りにある羊は世で活動している間も、聖霊によってイエスとの絶えざる交わりがある。目にする世のあれこれに支配される必要は無く、それらの善悪を選り分ける役割を負っているわけでもなく、みことばに聴き入って心に留めなければ良いのである。目が汚されたと思えばすぐに主の血潮に洗って頂き、砦に逃げ込んで聖さに身を避けることが出来る。キリスト者はすでに世の者ではないからである。 ですから私たちにはいつでもイエスの希望がある...うちに神がおられる(1ヨハネの手紙2章)
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。(1) すべてはイエスによって造られた。ヨハネの確信はイエスを体験していること、いのちのことばの復活を直接見ており、御からだに触れた感覚を持っているのである。みことばに従順して、生ける主を近しく体験することがある。そのようなみことばの経験は、誰に否定されても動じることのない主への信頼として、命に刻みこまれている。 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(2) 聖書にあるヨハネの証を私たちも受け取っている。彼が経験したイエス・キリストを信じることによる救いは、罪の結果である永遠の裁きに代えて...ヨハネの見たこと聴いたこと(1ヨハネの手紙1章)
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12) 人は九十九匹の方が大切なので、迷い出てしまった一匹を諦めることが出来るが、神には一匹一匹が神の完全な愛の対象であって、見捨てることが出来る命など一つも無いのである。 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。(13) 神には迷わない九十九匹以上に見つけ出した一匹が神の喜びとあり、それは元通りに百匹揃って良かったということではない。 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。(14) 神のみこころは人...探し出された一匹の幸い
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昨夜「SWITCHインタビュー」を観たから。本放送も観ていたのだが楳図さんとあれば勿論再度視聴する。25年くらい前にEテレの料理番組だっけ?楳図さんとルー大柴さんが共演されていておお?お二人、息が合ってるなぁ~と思った。と、以前書いたと思うけれども。『漂流教室』『わたしは慎吾』『神の左で悪魔の右手』『14歳(フォーティーン)』を読み返したいのだが所有しているのが文庫版なので視力問題が…にほんブログ村人気...
現在生きているすべての人は2つのいのちを持っている。1つは母の胎で形作られた体に在る命であり、もう1つはイエス・キリストの命と引き換えに与えられた永遠のいのちである。 イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して創造主なる神を礼拝した人の死は、イエスの復活のいのちを頂いて、父なる神の御許で永遠に生きることになる。彼らはイエスによって罪をあがなわれてきよくされ、神と和解して神の子という関係をたまわったからである。 しかし、死に至るまで創造主を認めず、御子の死を通して与えられている、永遠のいのちを受け取らなかった死は、罪のあがないを受けていないために、その罪に拠る永遠の刑罰に至る。 地に在る命はすべては、創造主によって与えられている今を生きている命であり、それゆえイエスは「絶えず祈りなさい」と命じておられ...二つのいのち
神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。夕があり、朝があった。第五日。(20~23) 神はすべての生き物をそれぞれの形に創造された。発達途上のものではなく、無数とも思える生き物のすべては、みこころのままに完成されていたので祝福された。創造主の全能の力に拠るよることである。 そのような神の知恵と力は人には思いもよらないことなので、己の能力をもって神を計ることにより神がわからず、被造物を拝んで神に敵対するのである。人は神の作品である天地を見ても神の完全...天地創造5日目
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笑ってくれる事で救われていた。誰か一人でも。何処か一ヶ所でも。それが無かったら生きていられなかっただろう。ここしばらく無いのよね~だから不味いのよ~でもこういうのってさぁ必死で相手や場を求めても好い方には行かないんだよね🙄にほんブログ村人気ブログランキングへ...
いえ、未だ開催中ですけれど😅坂本龍一 音を視る 時を聴く坂本さんって云うと別人みたいだな10代~20代は「教授」と呼びその後は「龍一さん」と呼んでいました。生坂本さんを観たのはYMOで3回(散開と👆変換される私のPC流石!)ソロで1回テレビ番組の収録で1回。客席からでもお会いできて音を聞けて本当によかったと今再び思います。にほんブログ村人気ブログランキングへ...
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17) 人は創造主なる神の愛に留まらないことで、永遠のいのちを失って自ら滅びることになる。神は愛
私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は決して揺るがされない。(1~2) 私のたましいよ黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。私の救いと栄光はただ神にある。わたしの力の岩と避け所は神のうちにある。民よどんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(5~8)詩篇62篇
マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。(18) マリヤはイエスが生きておられることと「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と言われた言葉を弟子たちに伝えた。 福音を伝えるには技術も能力も要らない。自分が見たこと聞いたことをそのままに伝えるだけ。今は、聖霊がすべてを備えていてくださる。救いの喜びに溢れて、出会ったイエスのみことばを語るだけである。そう、幼子のように・・。 人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。(ルカ12:11) 公にお偉い人の前に引き出されて、証言するときでさえ心配がい...聖霊を受けなさい(ヨハネの福音書20章)
ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。(16) イエスを十字架に付けたのは兵士であったが、此処でピラトがイエスを「彼らに引き渡した」とあり兵士にとは書かれていない。ピラトはそれまで話していた彼らユダヤ人にイエスを引き渡し、彼らはイエスを好きにしたのである。 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。(17~18) 人がどのようにイエスを扱おうとも、すべては神の初めの計画の通りであり、イエスは御父のみこころを行って十字架を負われたのだ。世に居られる間すべてに御...ユダヤ人の王ナザレ人イエス(ヨハネの福音書19章)
午前中はずっとマタイ受難曲を聞いていた。耳を傾けつつ静かに大根を切り面取りをして、出汁に放り込んで沸々と煮ている。柔らかな大根は茹でる手間も要らず夕食の一品の出来あがり。 昼食の準備も食事中も後片付けをしているときも、ずっと歌声に聞き入りながら手を動かし、口を動かしている間も慕わしい主を感じていた。私には外国語はわからないので、どれほど繰り返し聴いていても言葉の一つひとつは異言のよう・・。 でも何を歌っているのか、どなたに捧げて歌われているのかは知っている。歌声も旋律も覚えていて、親しい心地よさにリラックスして命が養われて行くよう・・。バッハを知らなくても、外国語が分からなくても、この歌声に何時間も浸って喜んでおり、キリストの打ち傷によって癒やされた者の幸いを味わっている。 異言は理性的でないと拒絶さ...私と異言
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20) 使徒をはじめ、弟子たちのためのイエスの祈りは、彼らによって救われた異邦人の私たちに対する祈りでもあった。イエスはこのとき世界中の、すべての時の中で救われて行く神の子どもたちのために祈られた。聖霊が教えることは今生きる一人ひとりの「私」のためにも祈ってくださったことである。イエスの祈りのゆえに、主に信頼するキリスト者の永遠のいのちは神に守られている。この平安のうちにキリスト者は生きている。 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるた...イエスに在って一つ(ヨハネの福音書17章)
イエスを殺すほどに憎んだイスラエルの宗教者たちは、イエスから何の被害も受けてはいない。イエスはキリストの愛によって、彼らの救いを妨げるものを指摘しただけである。 人の憎しみは必ずしも被害を受けたからではなく、冷静に振り返ってみれば憎んだきっかけが愛から始まっていることがある。妬みもそのように、愛している人から攻撃を受けることがある。 戦う必要の無い相手を非難したり、攻撃し憎むようになるのは、心に巣くっている罪によることである。それらの罪からすでに解放されていることを悟らなければ、本当はしたくもないことをし続けて、罪に支配される不幸せを自他にまき散らし続ける人生となる。 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるた...今天国行きの列車に乗る時
The truth is the truth whether you agree with it or not. あなたがそれに同意しようがしまいが、真理は真理のままだ。The truth is not subject to your interpretation.真理はあなたの解釈に左右されることはないのだ。Gary R. Renard, The Disappearance of the Universe: Straight Talk about Illusionsゲイリー・R.レナード(「神の使者」)救いのための赦しは誰がするもの?本節では、救いのための赦しは、私たちエゴでは...
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20) キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。 ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続...初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)
2020年11月 コロナが世界中で蔓延した頃に書いた詩をリメイクしました。 あの頃の思いを改めて考えてみた。 『希望のかけら』 胸を締め付ける 凍てついた 冷たい壁 寒さに震え 身を屈めて 通り過ぎていくのを待っている 希望のかけらを 少しだけ燃やして 凍えた両手を温めよう...
「風の電話」 三陸海岸の海を見下ろす丘 誰がそこに電話ボックスを置いたのかは知らない 見かけない黒電話 そして電話線のない電話 誰と話すために置かれたのかは 知らない 耳をすますと風の音、波の音 語りかける声が聞こえる 言葉を絶たれた思い 家族への思い 恋人への思い 命の叫...
こんにちは。ライフオーガナイザー®生前整理アドバイザー の手嶋 峰子 です。 好きなモノ・コトはありますか? インドア・アウトドア・推し活 etc. 自分の「…
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31) イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。 神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10) 主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは...イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19) イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。 イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶...わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ人への手紙 10:9 口語訳) 上はNIV版ローマ人への手紙10章9節の御言葉です。今日の聖書アプリの御言葉でもあるのですが、今日10月14日は私の洗礼記念日です。毎年洗礼式の写真を挙げていたようなのですが、しつこいと思われるかも知れないので今日は止めました。(笑) 夕方買い物の行き帰り、いつも歩きながらイエス様にお話をしています。1年数ヶ月の癌治療や3回の手術・入院の間ずっと心が平安だったなぁ、多くの人達のお祈りのおかげだなぁとしみじみ思い感謝していまし…
なんて敢えて書いてみる。『雨滴は続く』を少しずつ読み返している中『伝染るんです。(1)』 と『深い河』を読み返した。根&PTSDで集中力が無く読むのが遅いし眼が悪くなっているので尚更読み辛い。もっと早く読みたい読みたいものが山積みなんだよしばしの間でも生活を忘れたいんだよ等ともどかしさが募る。昨日のTシャツ3枚にプラスして薄~いシャツまで重ね薄いズボンを2枚重ね着した今日は久し振りにテディ・ペンダーグ...
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)
よかったよ~(1973年特集)一番好きな音楽の時代録画しておいたオリンピック放送を消音で観戦しつつ聴いていたまだ一週間聴ける👇ので宜しければウィークエンドサンシャイン サマースペシャル2024今さ~どんどん再発売されているしアナログ盤、ボックスセット、未発表音源なんかも出るでしょう~当然買い切れはしないけれど誘惑に次ぐ誘惑だわよね~全部欲しいもんな~にほんブログ村人気ブログランキングへ...
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6) 死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。 彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入...神を恐れぬ宗教家①(ヨハネの福音書5章)
パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、(1)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4) イエスは宗教家の議論を避けて、一人の女が飢え渇きの中で待つサマリヤに行かれる。彼女をいのちの水に満たしてみこころを歩ませ、ご自分の食べ物となさるためであった。 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。(5~6) イエスは神であり完全な人であられ、荒れる湖の小舟の中で熟睡するほどに疲れ、50歳近くに見えるほどに体は酷...サマリヤの女(ヨハネの福音書14章)