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見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見られることで、頭にも心にも納得できる言葉は人の肉に寄り添って惑わす。 「命よりも大切なもの」という本を頂いた。それ...みことばの飢饉
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(14) キリスト・イエスを知ることこそみこころに叶うことである。「なぜ私が愛されたのか、神の御子が、なぜこのような者のために十字架にかかって死なれたのか。」という疑問は、聖霊に拠って神は愛であることを経験するときに、深い平安となる。 一方的な恵みによる救いの他には、救われるべき道はないことを悟るからである。聖霊は神が愛であることを確信させ、神が良い方であることを信仰生活において繰り返し経験させて、命の作者の愛に安息jさせてくださった。 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(15) 神の愛に信頼してすべての...わたしにとどまりなさい(Ⅰヨハネの手紙5章)
この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さのうちに御霊が臨まれたのである。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩...永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ...世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)
愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(1) 聖霊がおられるように悪霊も存在する。悪霊から守ってみことばに導くのは聖霊である。聖霊なる神はイエスのことばを解き明かして、聴いたことばに従順して生きる力を与え、生ける神のことばを経験させて主への信頼を育ててくださる。 悪霊は、キリストにたまわった永遠のいのちから目を反らさせて、感情に働いて肉を掻き立て世に釘づける。善悪知識の木の実由来の賢さは、神から独立した善悪によって、救いのための時間を浪費して、悪霊の働きによる目に好もしいものを仕立て、世の成功に惑わして滅びの道連れにするのである。 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は...霊を知る(1ヨハネの手紙4章)
互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(11~12) 妬みは自分と相手に死をもたらせ、キリストから出た愛はいのちをもたらせる。神の愛は御子の命を支払って人を生かしてくださった。肉を持って生きている心の王座は、自分を生かすための自己愛が占めていて、誰よりも愛されることを求めている。その欲求が満たされないことは妬みとなり、宗教家がイエスを殺したように、邪魔者を故無く殺すのである。アベルの正しさは誰よりも主を愛したことにある。 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移っ...神のうちにとどまって溢れ出る愛(1ヨハネの手紙3章)
幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。(7) 誰が神に受け入れられる義を行うことが出来るだろう。義を行うとはキリストの義に留まることである。誰であってもキリストのうちに在ることで、完全であり正しいのである。神に生み出された幼子たちは、まず自分が何者であるかを悟るために、キリストにたまわっている御救いに安息することである。世では、見たことも聞いたこともない神の愛を味わうために・・ 十字架の完全なあがないによって義とされ、キリストの復活と共に生み出された神の子は、責められることのない神の平和に安息し、感謝と交わりの中で聖霊に育てられ、キリストの救いに留まることの正しさを聴き続けている。 未だ肉を纏っている身に、罪は犬がワンと鳴くように身近なもの...神の子は悪魔のわざを打つ破る(1ヨハネの手紙3章)
私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(26~27) 神は三位一体の神である聖霊を、キリスト者のうちに住まわせてくださり、守りとし、導きとして、みことばを生きて神の計画を行なわせてくださる。その方は「真理であって偽りではありません」とわざわざ書いてある。 イエスの御わざを、ベルゼブルのわざと言わせるような、サタンや悪霊の偽りの世に在って、聖霊はキリスト者の砦であり、身の避け所であり、平安をたまわるお方である。聖...真理であって偽りではありません(1ヨハネの手紙2章)
幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。(18) 今と書かれたのは1900年以上も昔のことであるが、神に在っては千年は一日のようであって、反キリストがそれ以来現れ続けている。それゆえ常に今が終わりの時なのである。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(Ⅱペテロ3:8) 肉の体にある命は何時取り去られるか誰も知らず、すべての人にとって今が終わりの時である。神が猶予を与えておられる命の間に、イエスを神の救い主と信じて受け入れ、自分の救いを完成するのは今この瞬間である。イエス・キリストを信じる信仰によって、永遠の住まいである天の国籍手続きは、神の御子イエスに罪をあがな...永遠のいのちを生きている(1ヨハネの手紙2章)
愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。(7) 神の民が初めに神からたまわった律法は、イエスによる罪のあがないによって廃棄されたものではなく、イエスを信じることによって、それまでの不可能が可能になったのである。 律法はイエスによって成し遂げられて福音となり、イエスのうちに在る者に完成された。彼らはいのちの望みに満たされ、聖霊による交わりの中で神の子どもの喜びを生きている。しかしイエスを主と認めない不信仰は、自ら律法のさばきのもとに留まり続けるのである。また、聞いたみことばを心に留めることなく、故意に胡麻化してやり過ごして来た者に、改めて命じられるのは主の忍耐と憐みに拠ることで...光と闇、霊と肉(1ヨハネの手紙2章)
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。(1) すべてはイエスによって造られた。ヨハネの確信はイエスを体験していること、いのちのことばの復活を直接見ており、御からだに触れた感覚を持っているのである。みことばに従順して、生ける主を近しく体験することがある。そのようなみことばの経験は、誰に否定されても動じることのない主への信頼として、命に刻みこまれている。 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(2) 聖書にあるヨハネの証を私たちも受け取っている。彼が経験したイエス・キリストを信じることによる救いは、罪の結果である永遠の裁きに代えて...ヨハネの見たこと聴いたこと(1ヨハネの手紙1章)
こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(2:1~3) 人のすべての必要は全能の神によって六日間で備えられた。主の創造の御わざによって賜った命の喜びにあふれ、命を満たす備えに安らぎ、創造主をほめたたえる日である。天地宇宙の創造主を神と告白するとき、人はたまわっているその祝福の偉大さを悟り、この神に目的を持って造られた命は、作品を知り尽くす神に在る平安と望みに満たされる。 自分自身を守る言葉を何も持っていない幼子の心で、神の第一声「初めに神が天と地を創造された」このみことばを「アーメン」と受け取るのは、神に選...天地創造7日目
現在生きているすべての人は2つのいのちを持っている。1つは母の胎で形作られた体に在る命であり、もう1つはイエス・キリストの命と引き換えに与えられた永遠のいのちである。 イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して創造主なる神を礼拝した人の死は、イエスの復活のいのちを頂いて、父なる神の御許で永遠に生きることになる。彼らはイエスによって罪をあがなわれてきよくされ、神と和解して神の子という関係をたまわったからである。 しかし、死に至るまで創造主を認めず、御子の死を通して与えられている、永遠のいのちを受け取らなかった死は、罪のあがないを受けていないために、その罪に拠る永遠の刑罰に至る。 地に在る命はすべては、創造主によって与えられている今を生きている命であり、それゆえイエスは「絶えず祈りなさい」と命じておられ...二つのいのち
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(26) 人の尊厳は神の似姿に造られていることにある。人を殺してはならないのもこの事実に拠るのである。神は人にご自分の作品の管理を委ねられた。忠実に感謝をもって、たまわったすべてを支配する時、それらは豊かに人を養い育てる神の祝福となる。 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(27) 神に創造されたものであることをわきまえる所に、神の平和が存在する。それぞれが違った個性を持って造られ、違う価値観を持つ人々に対しても、創造主のご計画を思い、神を恐れて受け入れるからである。...天地創造6日目
神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。夕があり、朝があった。第四日。(14~19) 光りを備える神は闇も備えられた。それらによって時を備え、いのちを刻むためである。闇夜のような時がある。アブラハムにもモーセにもペテロにもパウロにも、そうして私たちにも。自分の力ではどうにもならない時があり、キリスト者にも神を忘れ...天地創造4日目
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17) 人は創造主なる神の愛に留まらないことで、永遠のいのちを失って自ら滅びることになる。神は愛
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。(14~15) 三位一体の神は、創造主なる神に反抗して罪の中に留まっている者を、死という永遠の滅びから救って新しいいのちを与えるために、御子イエスの命を身代わりとして罪を清算して神の義を行い、罪人に永遠の愛を示してくださった。人にとって、この事実以上に重要な知識があるだろうか。御霊はこの神の愛を私たちの霊に来て知らせ、イエスを信じる勇気を与えてくださる。 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」そこで、弟子たちのうちのある者たちは互...イエスが備える交わりのとき(ヨハネの福音書16章)
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 人は良い事にも悪い事にも心騒いでその事柄に釘付けになることがある。主から目を離して見える所には、光りの御使いに変装したサタンが、いよいよ惑わして滅びに引き込もうと待っている。 十字架のキリストは人には嫌悪したくなる御姿である。それゆえ人は十字架を語ることを避けたいのだ。目の前の出来事によってイエス・キリストへの信頼が揺るぐことがある。そのときは聴き続けたみことばを反芻し、十字架で完成してくださった御わざに留まるなら、そう、イエスの完全な赦しの中に留まるときに、たとえ自分の姿がどのようであろうとも、御わざに安息することが出来るのである。 神が備えてくださった救いの十字架の下で、感謝にあふれ喜びの礼拝を捧げ、みこころを行う力を...イエスによって神を見る(ヨハネの福音書14章)
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21) それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ま...光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)
さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。(1~2) マリヤはイエスが来られると、お側に座ってみことばに聞き入る人であった。彼女はイエスの葬りを察して高価な香油を捧げるほどにイエスを愛していた。 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(3~4) マリヤたちはイエスに知らせることで、すぐにラザロは癒やされると信じていたことであろう。...ラザロのよみがえり①(ヨハネの福音書11章)
永遠のいのちはイエスを信じた者が、十字架のあがないによりすべての罪をきよめられて神の子とされ、肉体の死を経て、あるいは携挙により、神に召されて新天新地で生きるいのちである。新天新地に死や病はなく、完全な霊のからだは永遠を生きる。 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44) これらを教える聖霊に拠って今神と平和を経験しなければ、隠れるべき夜も影もない、光りの中の永遠を待ち望むことは出来ない。神が待っていてくださるゴールの、永遠のいのちを目指すのでなければ、どんなに働いてもその信仰生活は迷走しているのである。 見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神...永遠のいのち
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19) イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。 イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶...わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(11) 良い牧者であるイエスは、神の最上の計画を持って地に来てくださった。罪の報いである滅びの死から贖い出し、神の子として生かすために、すべての人の罪を負って十字架に死に、三日目に墓からよみがえり、神の計画を成し遂げて御父の許に昇られた。イエス・キリストのこの御わざを信じる者を、神の家族として迎え入れ永遠を共にしてくださるためである。 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。(12~13) 自分のものではない羊のために狼と戦って命を危険にさらす者は無く、雇い人は羊を支配して危険...わたしは門です②(ヨハネの福音書10章)
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)
もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32) イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。 そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16) あなたがたはヨハネの...神を恐れない宗教家②(ヨハネの福音書5章)
その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。(3:22) 豊かにいのちの水をたまわるイエスに、また豊な流れのほとりのヨハネに集まって来て、キリストを求めてバプテスマを受けている人々。この人々の素直な応答はみこころに叶って素晴らしい光景であり、これこそヨハネの役割が進んでいる証である。 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があ...主の御許で生きる永遠(ヨハネの福音書3章)
エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。(1) エリコは、イスラエルを恐れて門を堅く閉ざしていた。彼らの恐れはイスラエルの神の御わざを聞いていたからである。門を打ち壊して入って来る敵に向かって一斉に迎え撃つことは、それほど困難とは思えなかったのだろう。 彼らが本当に神を恐れることを知っていたなら、門を開けて降伏し命を求めただろう。神に勝利する戦略ではなく、創造主を悟り、命を願い求める謙遜があれば滅びなかったであろう。ラハブはそのようにして家族ぐるみで命を得たのだ。 それゆえ先に救われた者は、世に向かって神が愛であることを知らせ、一人でも多くの人が聖霊の助けの中で謙遜にされて、天地の創造主である神を悟り、永遠のいのちの救いに与られますようにと祈るのである。 主はヨシュア...みことばの愚かさに在る祝福①(ヨシュア記6章)
神の御子であるイエス・キリストによって、罪の結果である死から救われた者は、約束のみことばに留まる信仰によって永遠に生きるいのちとされた。キリストの御救いに与ることなく永遠に生き続けるとしたら、それは終わりのない刑罰である。罪から発するあらゆる問題の中で、最後の逃げ道を閉ざされるのだから。 それゆえ神は罪を知ったアダムたちが、「いのちの木の実」を食べることがないように、園から追い出された。キリストの十字架によって罪をあがなわれ神の子とされた者が、世の働きを全うして肉体の死を通過すると、まったく新しい霊のからだを着せられて、主の御許で永遠のいのちを生きるようになる。 彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。(ルカ20:36) 死を経ずに携挙の恵みに与...「永遠のいのち」を求めて
主はあなたがたを取って、鉄の炉から、すなわちエジプトから導き出し、今日のようにゆずりの民とされたのである。(20) 主は、イスラエルを選びの民とされ、モーセを備えてエジプトの奴隷状態から救い出された。それは彼らが、契約を守ってくださる神の偉大さ、大いなる御わざを経験するためである。 気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないように、またあなたの神、主の命令に背いて、いかなる形の彫像も造ることがないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。(23~24) 神は彼らの何を妬むほどに愛されたのか。万物を創造し支配できる神が人に人格を与えて、交わりによる関係を求められたのである。神は人の自由意思による、親しい交わりを楽しもうとされたのだ。私たちが、御使いを妬...妬む神(申命記4章)
主はモーセにこう告げられた。「アロンと、彼とともにいるその子らを連れ、装束、注ぎの油、罪のきよめのささげ物の雄牛、二匹の雄羊、種なしパンのかごを取り、全会衆を会見の天幕の入り口に集めよ。」(1~3) 任職式は、集められた民の前で犠牲の動物を捧げられ行われた。すべての人にアロンとその子らが、神に選ばれた祭司であることを知らせた。それは神に逆らってアロンを非難することがないようにするためである。それはイスラエルの守りのためである。 キリストの十字架の死と復活によって、うちに臨在してくださる聖霊の助けにより、キリスト者は祭司として主のみこころを行う者である。不完全な自分を恐れて、会衆の前に立たされることから尻込みしてはならないのだ。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、...祭司は恐れず(レビ記8章)