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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

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2016/04/03

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  • 今日の歌(2024.10.12)

     弧をなせしひづちの垂穂惜しまずや たおやかに暑さと寒さ行き来するコスモス挟み隣人を得ぬ今日の歌(2024.10.12)

  • わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)

     「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。(1~2) 羊に例えられるキリスト者は神の牧場で養われ、キリストと共によみがえらされたいのちは永遠を生きる。神の牧場の門はイエス・キリストだけであり、キリストの十字架の血潮に拠って罪をあがなわれ、神との平和をたまわった者だけが通る門である。 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。(3) 羊は、牧者であるイエスが語るみことばを聞き分けるとあり、それこそ羊のいのちの言葉である。羊はその声を良く知っていなければいのちを失う。羊は牧場に閉じ込められているのではなく、彼らは囲...わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)

  • 目が不自由な人の癒やし③(ヨハネの福音書9章)

     神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」(29) イエスを知らずに神を知ることはない。天地創造の神はご自身を知らせるために、ひとり子イエスを地に遣わされた。ひとり子のいのちを与えることに拠って神の愛を知るようになり、罪が贖われたことを知った者はキリストへの感謝に溢れて、「アバ父」と呼ぶ神の家族とされるのである。 神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4~5) イエスを通らずに神を知る者はおらず、イエスに拠らずに神に受け入れられる者もいない。イエスを否定する者に在るのは永遠の滅びである。御子をたまわるほ...目が不自由な人の癒やし③(ヨハネの福音書9章)

  • 今日の歌(2024.10.07)

     ひこばえの穂の整然を惜しみけり ウオーキング見渡す限りただひとりひづちの緑飽かず眺めつ今日の歌(2024.10.07)

  • 目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)

     人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。(13~14) イエスによる、神の大きな祝福のわざを見た人々がしたことは、律法を用いてイエスを裁くことであった。神の憐み深い御わざを目にした時に、その救いを素直に喜んで、神をほめたたえることが出来ない理由が律法に拠ることなら、その律法の用い方は的を外している。どこから間違ってしまったのか、神がどのようなお方であるかを、みことばに静まって聴くべきである。 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(15) 彼の言葉は、誰に対しても真実を語ってぶれるこ...目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)

  • 目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)

     さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(1~2) イエスはその人を見て足を止められた。大きな祝福が彼の前に来たとき、彼は何時も投げつけられる言葉を聞いた。体の不自由さに加えて、自分と親を疑わせる呪いの言葉である。このような考えは日本にもあり、因果応報の考えはそれが他人事である人の、汚れた良心が神に成り代わって下す判決である。  イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(3) 障害を持って生まれて来た人とその両親にとって、何と慰めと希望に満ちた言葉であろう。神の愛に満ちたこの言葉によって、...目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)

  • 今日の歌(2024.09.30)

     刈り取らる畦の無粋に曼殊沙華 待つ人の無きつゆ草はただ群れてうるうる仰ぐ鈍色の空今日の歌(2024.09.30)

  • わたしは世の光です⑤(ヨハネの福音書8章)

     ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48) 悪魔はイエスの聖なる神と知っており、自分の口では言えない言葉を神に反抗する者に言わせる。神が御子をたまわるほどに愛している者の口から、イエスを貶め罵る言葉を語らせるのである。彼らにイエスがわからないのは、神に反抗する罪を慕って悪魔の言葉に聞き入っているからである。 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49) イエスを知るのは幼子の心である。造り主である神の言葉を喜ぶことが出来るのは、真理を慕う心から出たことである。賢い宗教家や学者たちが、自分の欲望に合わせた理屈に拠って失ってしまった創造主...わたしは世の光です⑤(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です④(ヨハネの福音書8章)

      あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」(41) 彼らは「淫らな行いによって生まれた」と、処女マリアが結婚前に聖霊によってイエスを身籠った事実を、卑しい自分たちの想像によってイエスの出自を貶めているのである。彼らのひとりの父は、この言葉によって悪魔であることを現わしている。 彼らはこの時まで陰でコソコソと噂していたのであろうが、この時彼らの救い主イエス・キリストに向かって「淫らな罪の子」と言ったのである。人は自分の中に在るものを持って他を量る。罪を持っている者は相手にも同じ種類の罪の秤で量り、キリストに拠って聖くされた者は、きよさの秤で自他を量ることが出来る。 イエスは言...わたしは世の光です④(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ③(ヨハネの福音書8章)

     イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31) 何を持って信じたとするのか・・、イエスは心をご存じであり、守るべき者を守っていてくださる。ペテロはイエスを信じていたが、追い詰められた時に3度も関係を否定した。しかし、イエスは彼の弱さをご存じであり、信仰が無くならないように祈られて、ペテロは平安のうちにイエスに留まっていたのである。 信じるとは関係であり、長い信仰生活の中で主に信頼していても、弱さのゆえに危うい時があるが、主は人の弱さには同情してくださる方であり、砦となって守っていてくださる。ただユダの二心をもご存じである。二心の者はみことばを心に受け入れてはおらず、それゆえみことばの真実を経験することは無いので、時が来たらイ...わたしは世の光です③(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ②(ヨハネの福音書8章)

     イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21) 彼らが自分の罪の中で死ぬのは、イエスをキリストと信じないからであり、彼らを選びみことばと力あるわざによって、神を証した方を殺すからである。賢さによって自分たちの救い主を葬るのだ。 神が遣わせてくださったイエスを救い主キリストと信じた者は、天に永遠の住まいをたまわり、天地創造の神と御子イエスと共に神の子として、永遠を生きるのである。 御わざを見ても、みことばを直接聞いても悟らず、この世に執着して永遠を求めない者は、肉の命が尽きる時に、恵みと憐みによって備えられた救いのための猶予は終了する。 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあ...わたしは世の光です②(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ①(ヨハネの福音書8章)

     イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12) 此処に姦淫の女もいただろう。イエスに赦された者は闇を嫌って光りを求めるようになる。神の愛が溢れる望みのみことばを聴き続けていたいから。人々に混じって耳を傾けていたであろう。闇から光りの中に移さ、みことばを生きるために。 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13) 宗教家たちはイエスによって語られる神のことばを否み、イエス・キリストに権威を返すことを拒んで、律法からイエスを否定する材料を捜している。しかし、律法を成し遂げるのはイエスである。 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思...わたしは世の光です①(ヨハネの福音書8章)

  • 今日の歌(2024.09.16)

     オリオン座夜半に目覚めて星の名を記憶探りてリゲル..シリウス.. さんざめく星の光に誘われて窓を開けたり秋風涼し今日の歌(2024.09.16)

  • 罪を訴えさせるもの (ヨハネの福音書8章)

      イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、(1~3) 人々がみことばに耳を傾けているイエスの教えの中に、割り込んで来たのは姦淫を犯した女を引き連れた一団であった。彼らは女の救いを求めて来たのではなく、神の義を求めて来たのでもなかった。 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(4~5) 得意満面の彼らの顔が浮かんでくる。彼らには女はイエスを追い込むための材料であった。愛を説くイエスには律法によって...罪を訴えさせるもの(ヨハネの福音書8章)

  • イエスの時 ⑤(ヨハネの福音書7章)

     さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(45~46) 彼らはイエスのみことばに心を動かされたのである。それは、かって一度も聞いたことの無い神のことば「人があのように話せるだろうか」と気圧されたのであろう。イエスは、天地をも創造することばなる方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもなかった。(ヨハネ1:3) そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」...イエスの時⑤(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ④(ヨハネの福音書7章)

     そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ③(ヨハネの福音書7章)

     さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(25~26) イエスのわざを見てメッセージを聞いた人たちから、イエスが命を狙われている意味が分かって来たのであろう。イエスの話されることは、宗教家たちとはまったく違っていたからである。その人たちはみことばからキリストに気付き始めたのである。 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27) ナザレの大工の子であることを知っている。イエスの出自を知っていることで彼らは躓いた。私たちの知って...イエスの時③(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ②(ヨハネの福音書7章)

     ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。(11~13) 神を恐れる者は人を恐れないが、人を恐れて群衆に紛れている者が、天地創造の神を告白することはない。彼らは奇跡を見ても、イエスのパンを味わっても、イエスをキリストと証することはない。彼らは小声でひそひそとイエスを探し、遠くから見物するだけである。しかし、彼らはイエスに在るキリストのわざを見たのであり、その事実を認めずに、神が遣わされたイエスを礼拝しないことは、神に反抗する罪なのである。 祭りも...イエスの時②(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ①(ヨハネの福音書7章)

     その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。(1) イエスは、十字架で死ぬことに拠って御父のご計画を全うするために地に下って来られた神の子であり、死を恐れてのことではなく時が満ちていなかった。父なる神のみこころを成し遂げるための時が必要なのである。神の愛をご自身によって知らせ、福音を伝え続ける弟子を育てなければならない。イエスの時は神の緻密なご計画に在るのである。 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。この...イエスの時①(ヨハネの福音書7章)

  • 今日の歌(台風一過)

     初秋の朝日を浴び、夏休みを終えて登校する子供たちの姿を窓辺に見た。台風が去って本当に良かったと、やはり新しいスタートはこうでなければと思いつつ・・。 台風10号は初めに伊勢湾台風級という言葉を聞いて、その台風の惨たらしさは幾らか知っていたので、本当に恐ろしくて「酷いことになりませんよう。台風を消してください。」とイエスさまにお祈りをした。 木曜日には列車の運航停止で、遅くになって息子はタクシーで帰って来た。金曜日は有休を取ってあるとのことで私も気楽だった。雨は断続的に降ってはいたが、伊勢湾台風級というようなものではないと知ったこともあった。 土曜日になって雨は強まり時々窓の外を注意していた。ラジオで線状降水帯と聞いていたが、昼近くに何気なく二階の窓から道路を見て驚いた。側溝から水が溢れており、見る見る道...今日の歌(台風一過)

  • イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)

     これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60) イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。 真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62) イエ...イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)

  • イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)

     ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(41~42) 彼らがその疑問を大きな声で言えないのはイエスに神のわざを見たからである。目にしたこととイエスが話された言葉が合致していたのである。しかしその事実を認めたくない故に、仲間同士でイエスを否定する言葉を見つけて文句を言っていたのである。 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。(43) 小声の非難は良心に疚しさがあるからで、イエスは仲間の間でのそのような行為を「止めなさい」と言われる。それは神の真実から目...イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌 (6,600日)

     16日にブログの編集作業をしていて隅っこに「ブログ開設から6600日」とある数字に気付いた。ちょっと切りのよい数字に年数を計算してみると、書き始めて18年であった。確かに65歳から初めていた。 何度かこれで終わりにすると思ったこともあったが、意地も根性も無いままに淡々と続いているのは、みことばを通して主を味わい、聖霊の助けの中で日々新しく教わるとき、もう死に行くだけの者に教え続けてくださることが勿体なくて、書かずには居られないのである。 ぶっきらぼうな書き方であることはわかっている。「・・ではないでしょうか」とも「・・と思うのです」とも書くことが出来ないのは、私から出たことではなく私の考えでもないから・・ただ、教えられたことをそのまま知らせたい。仮に間違っていても、勘違いをしていても私にはどうすることも...今日の歌(6,600日)

  • イエスは来る者を決して追い出さない ①(ヨハネの福音書6章)

    しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(36~37) 「父がわたしに与えてくださる者」とあり、初めに救われるべき者を選んだ神が、イエスに渡されたのである。人が神を見い出したのではなく、人の熱心が神の救いに至らせたのでもない。選ばれていた人は、神の良い計画に応答して救われるのである。 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ1...イエスは来る者を決して追い出さない①(ヨハネの福音書6章)

  • 記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)

     群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌(2024.08.19)

     連休疲れ?頭が痛くて・・ちょっとしんどくて何もしたくなかったので、スコップでカリカリと庭を均して、コスモスの苗を植えた。伸びていた雑草を抜いていると、ものすごく久しぶりの雨がぽつりぽつり・・大歓迎!草は伸びるだろうけれど・・雨も見たい。水やりに追い回されて、花は全部終わってしまった。トマトも終わって、プランターの後始末に埃が舞い上がる。あれ?雨はぽつりぽつりで終わり?こう言うとき主人は「天気堅いな」と言っていた。シャワーを浴びたら頭痛を忘れた。今日の歌(2024.08.19)

  • 霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)

     夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。(16~17) マタイではイエスが彼らを舟に乗り込ませたとあり、このことは主から出たことであるとわかる。しかしヨハネの書き方には彼らの心細さが現れている。 強風が吹いて湖は荒れ始めた。(18) 暗い湖で風と波が出て来ても漁師であった彼らには経験があったろう。落ち着いて操作出来たと思うが、彼らはもう漁師の経験によって生きる者ではなく、イエスに依存する弟子であったのだ。 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(19) 水の上を歩くイエスを彼らは未だ経験して...霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌(2024.08.15)

     秋色のグランデ―ション垂り穂の香 朝露に光る田の面の清しさと秋の気配に心躍りぬ今日の歌(2024.08.15)

  • 試される時②(ヨハネの福音書6章)

     「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。(9~10) 「何になるでしょう」という問いに対して、イエスはその場の全員を座らせるように命じた。主の御前に静まって座ることこそ、恵みを受けるために覚えておくことであり、事の重大さや数が問題ではなく、それは主を経験する舞台装置のようなものに過ぎない。キリスト者は卑近な事柄にも、御前に静まって主に聴かなければみこころを知ることはなく、御名をほめたたえるまでに至らない。その不自由さに聖霊の助けをたまわっているのだ。 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、...試される時②(ヨハネの福音書6章)

  • 試されるとき①(ヨハネの福音書6章)

     その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。(1~2) 恵みに与りたくて付いて来た人々に、イエスは御わざを味合わせ、彼らの必要を満たして命を養われた。今もみことばを通して神を知ることを求め、みことばに従い行く者にいのちの言葉を解き明かし、日々を養って永遠へと導いていてくださる。 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。(3~4) 過ぎ越しの祭りは主を喜ぶときである。イエスは彼らに喜びを準備してくださった。信じる者を生かす神がどれほど豊かに施すことが出来るお方であるかを経験させ、弟子には豊かに施す神に拠って働くことを経験させられる。 イ...試されるとき①(ヨハネの福音書6章)

  • 神を恐れない宗教家 ②(ヨハネの福音書5章)

     もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32) イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。 そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16) あなたがたはヨハネの...神を恐れない宗教家②(ヨハネの福音書5章)

  • キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)

     イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(19) 「すべてのものはこの方によって造られ」(1:3)とあり、すべてはイエスによって造られた。今も、父なる神から発したことを一つになって、この地に行なわれている。人を愛する御父のみこころを行うために、イエスは栄光の御座を離れて、死ぬべき命の弱さを纏って人となり、罪に滅びゆく人類を惜しんで救い出し、ご自身を信じる者と、創造主なる神の御許で永遠を共にするためである。 イエスは、「父がしておられることを見て行う以外には、何も行うことができません」とある。「何もしません」ではなく「何も出来ません」とあり、御子で...キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)

  • 今日の歌(戦争とオリンッピク)

     オリンピックは「平和の祭典」だそうだが、その平和とは何を指すのだろう。競い合うことは戦いではないのか?自国の国歌が流れると誇らしい気持ちになるのは自然な人情であり、近隣国と比べてメダルが多いと誇らしく思うことに、平和と何の関係があるだろう。 今は戦争の最中であり、人が死に、父も母も子供たちも戦火の中を逃げ惑っている。同時進行で世界規模の「平和の祭典」が催されるとは・・何という神経であろう。 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」(ルカ21:9) 世の終わりが近づいていることを知る戦争の多発も、ただちに終わりのしるしではないとみことばにある。しかし、 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、...今日の歌(戦争とオリンッピク)

  • 今日の歌(2024.08.04)

     午後三時トンボ羽伏す日陰かな コスモスの双葉芽生えて炎天下創造のわざ讃える1センチ今日の歌(2024.08.04)

  • 神を恐れぬ宗教家 ①(ヨハネの福音書5章)

     その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6) 死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。 彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入...神を恐れぬ宗教家①(ヨハネの福音書5章)

  • 今日の歌(2024.08.01)

     露光る田の面に流る稲穂の香 汗をして古土弄り種を蒔く双葉待つ間も花の楽しみ今日の歌(2024.08.01)

  • 見えるしるし見えないしるし(ヨハネの福音書4章)

     さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。(43~44) 故郷の人々は誰よりもイエスを良く知っていた。大工の子だけれど、実は結婚前に宿していた子。有名になっても御わざを目にしても、私たちの方が本当のことを知っている。サタンは刷り込まれた肉の記憶をフルに利用して御わざを攪乱するから、新しく生まれなければキリストに留まることない。 たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38) 御わざを信じるには霊の目が開かれることが必要であり、それは聖霊の働きに拠ることである。その時すべての良きことは...見えるしるし見えないしるし(ヨハネの福音書4章)

  • 今日の歌(2024.07.29)

     朝日受け稲穂豊かに弧を描き蜻蛉飛び交う地の健やかさ 限りある命を刻む音聞きつみことば追いてキーを打ちたり今日の歌(2024.07.29)

  • 自分でみことばに聴いてキリストを知る(ヨハネの福音書4章)

     そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。(27) 弟子たちがイエスが語る奥義を聞き逃したのは、肉の糧に心を奪われていたからである。彼らがあえて質問しなかったのは、何となく自分たちの間違いを察して聞くことを恐れた。 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。(28~30) 彼女は町の人にもっとも触れられたくないことを持ち出して、キリストを告げ知らせた。それはイエスが満たしてくださったいのちの充満によって喜...自分でみことばに聴いてキリストを知る(ヨハネの福音書4章)

  • サマリヤの女(ヨハネの福音書14章)

     パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、(1)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4) イエスは宗教家の議論を避けて、一人の女が飢え渇きの中で待つサマリヤに行かれる。彼女をいのちの水に満たしてみこころを歩ませ、ご自分の食べ物となさるためであった。 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。(5~6) イエスは神であり完全な人であられ、荒れる湖の小舟の中で熟睡するほどに疲れ、50歳近くに見えるほどに体は酷...サマリヤの女(ヨハネの福音書14章)

  • 今日の歌(2024.17.23)

    満月や風は死にたり熱帯夜 満月もトリプル窓は三重(みえ)に見え 月光に目覚めし夢に悩みたり今日の歌(2024.17.23)

  • 今日の歌(2024.07.22)

     細々と家事をこなして梅雨明けぬ(細々ほそぼそ) タチアオイ色様々に強かに灼熱に勝つ我が応援団 ひまわりは首うな垂れて並び立つはしゃぎし日々の種々の後悔今日の歌(2024.07.22)

  • 主の御許で生きる永遠(ヨハネの福音書3章)

     その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。(3:22) 豊かにいのちの水をたまわるイエスに、また豊な流れのほとりのヨハネに集まって来て、キリストを求めてバプテスマを受けている人々。この人々の素直な応答はみこころに叶って素晴らしい光景であり、これこそヨハネの役割が進んでいる証である。 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があ...主の御許で生きる永遠(ヨハネの福音書3章)

  • 完全に開放されるいのちの心配

     「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)完全に開放されるいのちの心配

  • ニコデモの選択 ②(ヨハネの福音書3章)

     ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。(9~10) 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」イエスのお言葉を、生まれながらに理解出来る人は居ないと思うが、あえてニコデモにレベルの高い答え方をされたのは、彼が「先生」と呼ばれていたからである。 あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8) 兄弟なら教え合う関係であり、ひとりの悟りを皆で分かち合うことが出来る。しかし弟子が先生に教えることは出来ない。誰からも教えられる必要のない先生は、イエスおひとりである。 イエスは一人の女の疑問に答えるために、わざわ...ニコデモの選択②(ヨハネの福音書3章)

  • ニコデモの選択 ①(ヨハネの福音書3章)

     さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(1~2) ニコデモはユダヤ人の指導者であったが、イエスのなさっていたわざを見てとても素直な反応をしたのだ。これが幼子の心である。しかし、議員であり教師であるという立場に立ち返ったとき、人目を避けてひとりイエスを尋ねた。彼は、イエスのわざがキリストのわざなのか確かめたかったのだ。彼がわざを無視しなかったのはキリストを待ち望んでいたからである。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生ま...ニコデモの選択①(ヨハネの福音書3章)

  • イエスの怒り(ヨハネの福音書2章)

     その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(12) イエスは肉の家族、霊の家族と共に一時の安らぎを味っておられたのであろう。肉の家族を軽んじておられたのではなく、マリヤを愛して十字架でその身を案じヨハネに託されたほどであり、厳しい言葉は十字架に向かう公生涯に備えてのことである。今から始まる、神から発したものとは似ても似つかぬ宗教との戦いに備えて・・。 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持...イエスの怒り(ヨハネの福音書2章)

  • 今日の歌(2024.07.10)

     衝動買いした南瓜苗をプランターに植えたのは4月の初め。小さな苗を二つと、大き目のプランターを買った。息子に「庭で南瓜を育てるのか」と呆れられた。確かに戦争中じゃあるまいし、あまりしないことだろうけれど「許せ」 小さな小さな苗だったので、大きなプランターに一緒に植えると良いと思っていたけれど、思い出したのは畑の南瓜がゆったりとした広さに植えられていたことだった。絶対二本一緒は駄目だと、急遽ありあわせのプランターに「ちょっと狭いけれどガンバレ」と分けた。プランターを並べると庭の防草シートの上を、大きな葉っぱがどんどん元気に伸びて行った。そこまでは良かったのだけれど、あっという間にウリハムシの攻撃を受けてボロボロ・・。一応消毒もしはしたが繰り返したくはなく、木酢液や石灰を使って悪戦苦闘・・。息子がニームでも消...今日の歌(2024.07.10)

  • カナの婚礼(ヨハネの福音2章)

     それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。(1~2) キリストを知らないままにイエスを招くことが出来るのは、初めに神が選んいてくださったからである。キリストの初めての御わざの場となるとは、どれほどに祝福された婚礼であろう。私たちの救いもイエスを知らないままに御名を呼んで、一つひとつのみことばのご真実を経験して来た。神が初めに選んでいてくださったからである。このことは本当に一方的な神の恵みである。しかし主が招いていてくださるのに、キリストに頼らずに済む方策を持っていることで、選ばれている祝福を無にしてしまう。 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわ...カナの婚礼(ヨハネの福音2章)

  • 今日の歌(2024.07.06)

     タチアオイ種より育て咲き初みて灼熱の下ふわりと開く もぎ取りて熱きトマトに驚きぬ主の備えたもう命強か強か(したたか)今日の歌(2024.07.06)

  • 何を求めているのですか ②(ヨハネの福音書Ⅰ章)

     その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。(43~44) 旧約聖書に書かれてあるイエスに出会ったピリポはどれほど感動したことだろう。大切な人に救い主の到来を伝えに走るピリポの様子が目に浮かぶ。 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」(45~46) キリスト者は目で見ていなくても、霊のうちに共におれるキリストを知って居り、聖霊はみことばを解き明かしてくださっている。また、...何を求めているのですか②(ヨハネの福音書Ⅰ章)

  • 何を求めているのですか ①(ヨハネの福音書Ⅰ章)

     その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35~37) ヨハネの言葉を信じた弟子が、イエスについて行くのは健全な反応である。彼らは師であるヨハネから、イエスがどなたであるかをしっかり聴いていたのだ。ヨハネはイエスに導く忠実な働きをしている。イエスの福音を聞きながら人の教えに留まり続けることは、その教師の無能を現わす。いのちは生きている限り成長を求めるものであり、それもキリストを求めることは、神に造られた者の健やかないのちの活動である。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、ど...何を求めているのですか①(ヨハネの福音書Ⅰ章)

  • キリストご自身のバプテスマ ②(ヨハネの福音書1章)

      さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:21~22) キリストはすべてのことに置いて罪人の真ん中に来て、罪に悩む病人の隣で生きてくださった。罪を犯されることはなかったが・・。聖いキリストが罪人に混じってバプテスマを受けられた。神のみこころを完成する栄光の十字架も、罪人の真ん中で受けられた。それはキリストが罪に染まることは無く、触れる者をきよめる方だからである。 イエスを神のキリストと証するものは、キリストご自身ではなく神のことばであり神のみわざであった。「わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」御...キリストご自身のバプテスマ②(ヨハネの福音書1章)

  • キリストご自身のバプテスマ ①(ヨハネの福音書1章)

     さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。(19~20) ヨハネがキリストについて明言出来るのは、彼自身が自分の役割を知って居り、母の胎に在るうちから彼の霊はイエスが神のキリストであると知っていたからである。 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤ...キリストご自身のバプテスマ①(ヨハネの福音書1章)

  • 今日の歌(2024.06.29)

     花陰のバッタやカエル顔を出し少し遊びぬ梅雨の晴れ間に 移り来てまだ海見ぬと気付きしは友の電話の海辺のニュース今日の歌(2024.06.29)

  • 私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)

     ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14) キリストは永遠のいのちに在る神の栄光から、罪によって死ぬべき人の体を纏い、人によって育てられて生きることの苦しみや痛みを知っていてくださる。高い所から見下ろして裁く神ではなく、救いのために十字架にまで下ってくださって、今も私たちの弱さの真ん中に居て同情してくださるお方である。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15) ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先に...私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)

  • 今日の歌(2024.06.25)

     鈍色の空に向かって青々と田の面広がり吹く風優し 向日葵の花はいつでも遠き日のあっけらかんを思い出させる今日の歌(2024.06.25)

  • 生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)

     神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(6~8) バプテスマのヨハネは母エリサベツの胎にいるとき、マリヤの胎に居られるイエスを喜んで踊った。彼は生まれる前から、キリストを知らせる使者の光栄を大いに喜んでいた。 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。(ルカ1:41) バプテスマのヨハネの生涯はイエスをキリストを証して、世の闇を照らす救い主を待ち望む人々に、キリストが来られたことを知らせ礼拝する道を備えた。 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから...生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)

  • 天地創造の愛の神 イエス・キリスト (ヨハネの福音書 1章)

     初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1~3) イエスは神とともに永遠の始まりであり天地宇宙を、神のみこころに拠って創造された方である。それもことばに拠って造られ、イエスのことばには無から有を創造する力があった。 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:1~3) ヨハネ書の書き出しは人の思考を破壊する。人はせいぜい処女マリヤから生まれたイエスを受け入れるだけで精一杯なのだ。しかし人は神に造られたものであり、被造物の...天地創造の愛の神イエス・キリスト(ヨハネの福音書1章)

  • ヨシュアが受けた主の祝福(ヨシュア記24章)

     見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。(23:14) これらのことを率いた民と共に目で見て、主を経験したヨシュアの人生は非常に幸せであった。「心を尽くし精神を尽くして主を知る」人生だったからである。それも主のたまものであるから・・。 みこころを成し遂げて穏やかに召される日は、主の祝福の時である。「主が御約束を一つもたがわず実現してくださった」ことを経験し、主をほめたたえる言葉を遺して召されることほどの幸いなことはない。 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主は...ヨシュアが受けた主の祝福(ヨシュア記24章)

  • 今日の歌(詩篇23篇)

     主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。まことに 私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが 私を追ってくるでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいましょう。「アーメン」今日の歌(詩篇23篇)

  • 主にすがりなさい(ヨシュア記23章)

     モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。(6~7) モーセの律法を断固として守るということは、彼らが主に留まろうとする意志に拠ることであり、そのとき、イスラエルの目は主に釘付けられて、その純潔は異邦人もその神々も知ることはない。律法に集中しているからである。 異邦の民との交わりを禁じるのは、主から目を離して異邦人に向くとき、彼らが珍しいものに引き寄せられて、いのちの主を忘れるからである。人は視線の先に向かって生きるのであり、今何を見て...主にすがりなさい(ヨシュア記23章)

  • 今日の歌(2024.06.12)

     此処しばらく歩いていない。暇な時刻には暑くなっていて躊躇してしまうのだった。昨夜、「歩きたいなあ・・でも暑すぎる」なんて・・「公園に行きたいな・・」けれど最近の体調では無理だ・・とネガティブ思考に陥っていた。 今朝息子を送り出し外の涼しい空気に触れて、「そうだ、何もすべてを終えてから歩かなくてもいい。こんなに気持ちいいから今行こう!」と、飛び出すと本当に風がひんやりと肌に心地よかった。 何処までなんて考えずに、心のおもむくままに歩いていたら、公園まで来ていた。途中で畑をしておられる方とちょっとお話をして、以前から「何だろう」と思っていた作物の名前を教えてもらった。 この道を歩くと色々な疑問が湧いて来る。「これは麦。でも何か植え方が変・・」、「普通の稲と少し違うような気がする・・」とか、「これはひょっとし...今日の歌(2024.06.12)

  • 霊のからだと肉の体

     キリストの贖いを経て、永遠に生きるために与えられる復活のからだは、卑しい肉の体とはまったく違う霊のからだである。肉の体の一部を取って霊のからだとなることなどありえない。 アダムとエバが罪を犯して園を追われた時に、神は肉の体に皮の衣を準備してくださったように、天に召されると霊に着せる衣も備えてくださるのである。 肉の体の再生によって霊のからだが造られるなどということは、罪を知っている体は滅びるものであり、役割を終えて地の塵に返るものである。 たとえミイラにして保存してもそれは死んでおり、罪のゆえに土に返るべき骨から霊のからだが造られると考えるのは、あまりにも霊と肉の違いを知らなさすぎて、それは、猿から人間が出来る以上に滑稽な話である。  肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハ...霊のからだと肉の体

  • 戦いの中に在るキリストの平安(ヨシュア記23章)

     主が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。(1) 主はヨシュアの働きに満足されて、老年期の後半には平和を与えられた。民はリーダー次第で何もかも変わる。主に従順なリーダーに恵まれて、良く聞き従い彼らは主の祝福の中に住んでいた。ヨシュアは全イスラエルの指導者を呼び寄せて言った。 あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。(3) 今の平和は主が与えたものであると、ヨシュアはその事実を、あなたがたは見て来たのだと、改めて確認させている。それはやがてくるヨシュアの終わりの日のために、イスラエルが覚えて置くべきことなのである。良...戦いの中に在るキリストの平安(ヨシュア記23章)

  • 今日の歌(2024.06.07)

     空っぽの土の器のひび割れにいのちの血沁むイエスの愛なれ今日の歌(2024.06.07)

  • 炎のバプテスマによる復活のいのち

     救われた者は失敗を悔いるために吐いたものを覗きに戻ることはなく、何処から救われたかは決して忘れることはない。しかし、ペテロは二度と主を否むことはなく、また事実を悔やむこともしない。 人は、創造主なる神を蔑ろにした罪は何一つ覚えてはおらず、すべての罪を悔い改めることは不可能である。神と断絶させるその罪は、キリストが十字架の上で御父に見捨てられて、人知れずに贖ってくださったことである。それゆえ今「アバ父」と御名を呼び、罪を未だ知らない幼子のように御許に安らぐことを得たのである。 主の憐みにあって赦され、キリストの復活と言う神の備えによって新しくされ、今や神の子の光栄を抱いて生きており、罪の記憶は神が忘れてくださったと同時に遠いものとなったのである。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者...炎のバプテスマによる復活のいのち

  • 誤解② (ヨシュア記22章)

     ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主よ、神の神、主はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、主に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。(21~22) 彼らは思わぬ疑いを掛けられたときに「神の神、主よ。」「神の神、主よ」二重に二度も主の御名を呼んで助けを求め叫んだ。「反逆なら救わないで」と、真実を知っていてくださる主に命を捧げての祈りでもある。 キリスト者も時に攻撃されたり脅されることもあるが、その時の身の避け方は唯一「神の神、主の主よ」と御名を呼ぶことだけである。向き合って語る人もなければ、唯一の弁護者であるキリストを求めて叫ぶのである。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の...誤解②(ヨシュア記22章)

  • 誤解① (ヨシュア記22章)

     ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。(10) その大きさは主への感謝と思いを現わしているようである。しかし、その律法に拠らない祭壇は命を脅かすほどの誤解を生むことになった。 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。(11) 神より発したものでない祭壇は偶像礼拝となり、それらはイスラエルに多くの死をもたらせて来た歴史があり、彼らはイスラエルの中に偶像礼拝が入り込むことを防ごうと直ぐに動いたのだ。 ...誤解①(ヨシュア記22章)

  • 小さな傷の大きな障壁(2024.06.02)

     修理はpcに問題がないことを確認して、システムの問題でもないことも分かり、結局家の中のにある、一つの機器が傷を受けたことを発見して回復させることが出来た。それが微妙な傷であったので一部が働いていたのだとのことであった。そういうことでpcが復活した昨夜、31日に準備していた記事を取り合えずUPした。息子は考え方を変えてみるということ経験したと言い、私は自分の言動を振り返って、具体的な愛の欠けや怠慢の指摘を受ける時となった。 回復が与えられたことを感謝しつつ、たまわっている時間を大切に用いたいと改めて思わされた。私の中にある多くの傷は、何かを切り捨てて逃げ腰になったり、いつの間にか思い上がったりさせるものだけれど、イエスさまが共にいてくださることには大きな望みがあるから。小さな傷の大きな障壁(2024.06.02)

  • 瞬停でも痛手は続くPCダウン(2024.05.31)

     台風で強い風と雨が降った28日。午後になって突然電気が消えPCがダウンした。その日にUPしようとしていたものは推敲も未完であったが、このままが良いとOKが出たような気がして手放すようにUPした後で良かったのだが・・。 それは停電とは言わぬほどの間であり、瞬停と呼ぶらしいが使用中であったPCは大きな被害を受けていた。インターネットは繋がっており、ただ、一部が繋がらないと言う嫌がらせのような故障であった。私はPCでないとブログの編集画面に入れず、スマホで画面を眺めることは出来ても、何もできないという状態になった。その時は、何時ものように息子が帰って来たら修理してくれるだろう・・という甘い考えでいた。息子は帰宅すると連日格闘してくれていたが、遠距離通勤であり疲労がたまることを恐れて、「急がないから今日は寝て」...瞬停でも痛手は続くPCダウン(2024.05.31)

  • 約束を守らせてくださる主(ヨシュア記22章)

     そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。(1~2) 彼らはヨルダン川を渡る前に、この地に残ることをモーセに願っていた。モーセは彼らが先立ってヨルダン川を渡り、すべての戦いが終わったら帰って来て所有することを許した。また、彼らはヨルダン川を前にした時に、ヨシュアに改めて命じられたことにも従順を約束した。 あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。主があなたがたの兄弟たちにも、あなたがたと同様に安息を与え、彼らもあなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有し...約束を守らせてくださる主(ヨシュア記22章)

  • 今日の歌(2024.05.25)

     銀色のコントレール一本五月晴れ 薫風ふわりうたた寝の午後静か今日の歌(2024.05.25)

  • 一つも違わず実現するのを見る(ヨシュア記21章)

     レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、カナンの地のシロで彼らに告げた。「主は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」イスラエルの子らは主の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。(1~3) レビ人に与えられた地は、彼らが管理し放牧地として用いても、それは彼らの家系に引き継がれるものではなく、初めの約束の通りに彼らがたまわっているのは主ご自身である。何処に住んでも、何を管理していてもその約束は変わらないのだ。 キリスト者もこの世で諸々の財産を得て管理して、それらを大いに用いることがあるが世は一瞬に変わるもので、何時までも残り御国にまで持って行くもの...一つも違わず実現するのを見る(ヨシュア記21章)

  • 今日の歌(2024.05.23)

     風なぶる早苗の先は麦の秋遠き日の庭麦扱きの塵麦扱き(むぎこき、脱穀) トンネルを抜ければ早苗広がりて風穏やかに畦に舞う蝶今日の歌(2024.05.23)

  • 逃れの町(ヨシュア記20章)

     主はヨシュアに告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。』(1~3) 今、キリスト信仰に拠って生きる者の逃れの町はキリストである。人は無垢な赤子として生まれたようであっても、誰に習わなくても妬んたり、苛立ったり、他を押しのける我が儘を覚えて行き、ついには滅びの死に至らせるのである。それは神に背いたアダムの血にあって、人が日々に意図せぬ罪によることであり、パウロは善を望みながら犯してしまう罪の存在は、人の力では制御出来ないものであること告白している。 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、...逃れの町(ヨシュア記20章)

  • 自分のことを心配しないヨシュア (ヨシュア記19章)

     地を地域ごとに相続地として割り当て終えたとき、イスラエルの子らは、自分たちの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。(49) ヨシュアはみなに割り当て地を与えたが、自分の地は求めていなかったのである。割り当て地が1つでは足りないとヨセフ族は苦情を言ったときも、ヨシュアはその一つも得ていなかった。 主の命により、ヨシュアが求めた町、すなわち、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼は町を建てて、そこに住んだ。(50) 民がヨシュアに与えた地は、ヨシュアが求めたのではなく主の命によって受けたのであった。ヨシュアは与えられるままに受けてそこに住んだ。ヨシュアは主にたまわった役割によって、民に割り当て地を与えることに専念して、自分の分を心配することはなかった。これこそ民と、主に立てられたリー...自分のことを心配しないヨシュア(ヨシュア記19章)

  • 今日の唄(2024.05.14)

     未だ薄墨流れるような窓の外大きなかぼちゃの花が、ぽっかりと開いていた。真っ黄色な花と目が合って「おはよう早起きね」「お前もな」今日一番の挨拶はかぼちゃ・・ふふゆっくりと、朝焼けが広がって来た。今日の唄(2024.05.14)

  • 祝福による民が多くて狭い(ヨシュア記17章)

     ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」(14) 主が祝福してくださったなら祝福に応えるべきであり、祝福によって増えた民の数によって狭くなったと不満を言い立てるのは、数が増しただけの無力で中身の無い姿を現している。祝福を受けて増えた民はその祝福に相応しい実を結ぶべきである。 良きものをたまわっても用いることをしないで、ただ数を数えて満足しているだけならアッと言う間に貧しくなる。用いない賜物が持っている財を食い尽くし、用いないたまものは高ぶりをもたらして災いとなる。 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。(Ⅱテサロニ...祝福による民が多くて狭い(ヨシュア記17章)

  • 今も私は壮健です(ヨシュア記13~14章)

     ヨシュア達イスラエルの子らが打ち占領した地の王は31人であった。12章ではその王の名が列挙されている。カナンの地は創造主の支配に置かれて、主に聴き従って仕えるイスラエルに任されたのである。 ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。(13:1) 神のすべてのご計画は人の力に依存するものではないので、主に頼らずに何でもできる若さが必要ではなく、歳を取って自分が弱くなった時を待って用いられることが多くある。それゆえ主の御用に用いられている者には定年退職はないだろう。神の子とされた者が主に近しく聴き従っている場の外に、安息があるとは思えないからである。主に油を注がれ続けないと働けない高齢者は、神には働き盛りなのだ...今も私は壮健です(ヨシュア記13~14章)

  • 「懇願」(マタイ8章)

     息子の通読箇所を交読していて、此処にある三通りの「懇願」に気付かされた。 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。(5~8) 百人隊長はイエスさまに、しもべを癒やすおことばをくださいと懇願した。彼は自分の役職によって発せられた言葉にある権威を知っており、猶更みことばの権威が如何に価値あるものであるかは、信仰によって確信していたのである。イエスは彼の信仰をほめられ、みことばをたまわったしもべは直ちに癒...「懇願」(マタイ8章)

  • 今日の歌(2024.05.05)

     ゴールデンウイーク家族が元気に集まった。嫁さんが「おかあちゃん」と呼んだだけで、女の子を持たない私は嬉しくなる。二人の孫が年頃の女性になっていて、一つひとつの仕草や笑顔が眩しい。大学生に「勉強楽しい?」なんて、小学生か!というようなことを聞いても「楽しいよ。」と笑顔が返って来て、私はとても幸せになった。 長男は夜遅くまで側にいて、私のダラダラと続くどうでも良いような話の相手をしてくれる。本当にどうしてもっと大切なことを話さないのかと思うけれど・・何時でもこうなってしまう。 孫とはふざけてしまうし、嫁さんには甘えてしまう。「人材が揃っているのだから何でも言うといいよ」と嫁さんは子供たちを招集して命じろという。でも考えるのが面倒で「適当にしておいて」なんて言うと、乱雑だった押し入れに、使った布団なども圧縮袋...今日の歌(2024.05.05)

  • 愛と聖絶 ②(申命記11章)

     こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。(22~23) 今聖絶の神は平和の神として、キリストの救いを信じる者うちに住んでいてくださる。聖であり義であり、また完全な愛である神が、未だ肉を纏っている者のうちに住んでいてくださるとは、なんと驚くべき奇跡であろう。 それはキリストの十字架のあがないが、神の御前に完璧な執り成しであり、神の聖と義を完全に満たしたからであって、一ミリも人の行いに拠ることではなく、キリストに対する信頼に拠ることである。 これ...愛と聖絶②(申命記11章)

  • 愛と聖絶①(申命記11章)

     ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。(16~17) 彼らは天地創造の神の地に住みながら神に逆らって地を汚した。ヨシュアはそれらを神の御支配に取り返し、その地の汚れをきよめたのである。 今主は信じる者のうちを、キリストの十字架の血潮できよめて住んでいてくださる。新しくされたキリスト者は、魂のうちに古くから住みついている諸々の誘惑や、苛立つよこしまな思いを、聖霊の導きの中で排除して、主のものである自身を、魂を霊に従わせる戦いのうちに明け渡して行くのである。...愛と聖絶①(申命記11章)

  • 今日の歌(2024.04.24)

     友よりラインあり「在宅を確かめて、お電話しようと思って・・」分かる分かる。私はやっとスマホの電話を、失敗なく受けられるようになったの。 昔メールをするたびに「届いた?」と電話をしたものだった。そのような年代を生きて来た仲間、何時までも元気でいてね。お互いに夫に先立たれて、命の脆さを経験しているから・・ 雨の中でどんどん大きくなるかぼちゃの葉っぱにビビッている。初めてかぼちゃ苗を植えて、ぐんぐん大きくなるのを楽しんでいたが、今はちょっと怖気づいている私。 初めてのことは何時でもワクワクとドキドキ・・沢山の楽しさと恐ろしさを味わって来た。まだまだ知らないことばかりで、生きている限り続くワクワクとドキドキ今日の歌(2024.04.24)

  • 今日の唄(2024.04.23)

     かぼちゃ苗めきめきと音聞ゆごと葉を増してゆき我驚かす 土いじり砂場遊びの心して思いつくまま花も野菜も今日の唄(2024.04.23)

  • 恐れてはならない(ヨシュア記11章)

     ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。(10:41~43) イスラエルのために戦われる神と共にいて、勝利をたまわったときヨシュアの兵はみな無事であった。彼らは五人の王とその民を聖絶して神に逆らう罪をきよめた。 ハツォルの王ヤビンはこのことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また、北方の山地、キネレテの南のアラバ、シェフェラ、西方のドルの高地の王たち、すなわち、東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもと、ミツパの地のヒビ...恐れてはならない(ヨシュア記11章)

  • 勇者の選択② (ヨシュア記10章)

     ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。(6~7) ヨシュアは躊躇せずに助けに出て行った。神がギブオンの味方となられたからである。神が味方か、逆らって神を敵とするかは、人が選択したことであった。ヨシュアの厳しい聖絶戦の前に、ギブオンが出て来ることは非常に大切な教えである。  主の御わざを聞いていながら、神の民に立ち向かって来ることは、ギブオンの真逆の行為であり、その傲慢によって自ら聖絶の者となったのである。ラハブも家族ともども主...勇者の選択②(ヨシュア記10章)

  • 勇者の選択①(ヨシュア記10章)

     エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。(1~2) 此処でギブオンが、何処よりも弱くて戦いを避けたのではないことがわかる。彼らはイスラエルの神を悟り、自分たちの力を正しく計算をしたのである。勇者は自分の力を知る者であり、自身の弱さを弁える者が全能の神を頼っていのちを救うのである。 神は、自分自身を救うことが出来ない弱さのうちに、御子キリストをおくってくださった。キリストが罪に病む者に来てくださったのは、神の愛に...勇者の選択①(ヨシュア記10章)

  • 今日の歌(2024.04.10)

     麦の風穂先さわさわ平和なり 幼き日駆けし畦道麦畑今のんびりと思い出歩む今日の歌(2024.04.10)

  • 神の懐に入れ(ヨシュア記9章)

     ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。(15~16) ヨシュアは見たから誓ったのである。その結果が良かろうと悪かろうと、目で見たことはその場の事であり、誓うことは何時までも続くことなので釣り合わないことをしたのだ。でも、なぜか人は「この目で見たのだから、これほど確かなことは無い」と言うのである。真実はたった三日後に判明する。肉の耳が「聞く」と言うことも、どこまで真実であるか不確かなものであるが、この時は事実を暴露した。それは、初めにヨシュアたちが予想したことであった。 キリスト者には聖霊なる神が霊のうちに居てくださる。しかし、聖霊によ...神の懐に入れ(ヨシュア記9章)

  • 見える罠(ヨシュア記9章)

     ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」(3~4.6) ギブオンの策略は聖絶から生きのびるための唯一の策であり、イスラエルの神を恐れてのことであった。 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」(7) イスラエルの子らはヒビ人の策略に気づかないわけではなかった。そのことは充分に考えられることであったから。 ...見える罠(ヨシュア記9章)

  • 燃えさし(ゼカリヤ書3章)

     主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。(1) 神の使いの前に引き出されて立っている大祭司ヨシュア。ゼカリヤが見せられた場面は、サタンがヨシュアを裁く裁判であった。 主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」(2) 神はエルサレムを選ばれたように、ヨシュアもリーダーとして選ばれた。此処に神の権威が存在しており、サタンはヨシュアを選んだ神を訴えているのだ。ヨシュアはきよめの火の中にある者であって、そこから取り出して訴えるのかと、神はサタンの行いを裁かれる。 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前...燃えさし(ゼカリヤ書3章)

  • 今日の歌(2024.04.08)

     ポチポチと芽吹く双葉に花を見る日の近き未来よ 花洗う雨に煙りて静かなりこれも桜よ我も安らう今日の歌(2024.04.08)

  • 恐れてはならない ①(ヨシュア記8章)

     主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。(1) 失敗の後悔の中に閉じこもり、恐れていては従順することは出来ない。主は「恐れてはならない」と言われた。立ち上がる勇気はみことばに信頼するときにたまわる。主はヨシュアにアイを与えたと言われた。それがすべてであり人がどのように変わったかではない。弱さのすべてをご存じの主の備えによって、神の栄光があらわれるのである。 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36) あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけ...恐れてはならない①(ヨシュア記8章)

  • 家族の救いと家族の滅び(ヨシュア記7章)

     だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。(12) 主はヨシュアに、今イスラエルがどのような立場にあるかを知らされる。アイの戦いには主は居られず、イスラエルが「聖絶のものとなっていた」ことをヨシュアは知った。 世はキリスト者に相応しい所ではなく、サタンが支配を横取りしている世界であって、キリスト者には敵地である。その世に生きる時にキリスト者が最も注意を払うことは、日毎に確認することであって、神が共にいてくださるかということである。 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31) 立て。民を聖別せよ。...家族の救いと家族の滅び(ヨシュア記7章)

  • 今日の歌(2024.04.03)

     タンポポ一輪取り残す雑草引き ラインにて友より届く写真には春を分かちて親しみし花今日の歌(2024.04.03)

  • なぜひれ伏しているのか ②(ヨシュア記7章)

     主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。(10) 主はヨシュアに何ゆえにひれ伏しているのかと問われる。それは天地創造の神を恐れる者の絶えざる礼拝なのか、失敗の罰を恐れてなのか、何を得ようとしてなのか・・。ヨシュアは今、訳も分からないままにひれ伏している時ではなく、早急にみこころを行わなければならない。 イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。(11) アカンの罪は、今やイスラエル全体を汚し主に受け容れられないものとした。イスラエルは神にとって一つの愛の対象であり、リーダーを通しての交わりの対象である。 それゆえ主の命令に背く一人の罪は、全体を汚すパン種の侵入であり、神...なぜひれ伏しているのか②(ヨシュア記7章)

  • なぜひれ伏しているのか ①(ヨシュア記7章)

     主がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。(6:27)しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。(1) アカンの盗みは主を烈しく怒らせた。主の聖絶を汚したからである。多くの命を奪わなければならないほどの神の聖さを侮ったのである。聖なる神のうちに在るには、完全な従順拠らなければ身を守るものはない。アカンの裏切りは、イスラエル全体を汚して主の怒りをかってしまった。 キリストを信じている者には、過去、現在、未来すべての失敗や罪を、御子キリストが十字架で贖ってくださった故に、信頼する者に神との平和と永遠のいのちを頂いているの...なぜひれ伏しているのか①(ヨシュア記7章)

  • みことばの愚かさに在る祝福 ④(ヨシュア記6章)

     七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。遊女ラハブと、その家にともにいる者たちだけは、みな生かしておけ。彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。」(16~17) 町が、主に従うイスラエルのときの声を聞いたとき、彼らの命は終わった。この町が謙って命を乞うための六日間は終わった。彼らはみな角笛の音を聞いていたのに、命を守るために何もしなかった。聖絶は突然の不幸ではない。 子供は親が守らなければ生きられない。親には家族を守る責任があり、ラハブはその熱心によって家族の命を守った。この世でどんなに良い生き方をしていても、命の主に対して傲慢になり、刻々と失わ...みことばの愚かさに在る祝福④(ヨシュア記6章)

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