chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

ムベ
フォロー
住所
奈良県
出身
京都府
ブログ村参加

2016/04/03

arrow_drop_down
  • イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)

     ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31) イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。 神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10) 主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは...イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)

  • 今日の歌(2024.11.28)

     曙のコーヒーの香の平和あり八十路を越えて静寂を知る 先駆ける赤き一輪山茶花の孤独を守る葉は青々と今日の歌(2024.11.28)

  • サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)

     イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(21) イエスは今まさに、一粒の麦となって死んでいのちを与えようとしておられる。しかし、ユダがサタンに従い悪名を残して滅びゆくことに心を痛められ、平気おられたわけではないのだ。主はいけにえを喜ばれないからである。 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。(22~23) 此処にユダとヨハネの違いが明確に現れている。ヨハネが「イエスが愛された弟子」と称して恐れることがないのは、自分を見ることなくイエスに信頼してのことである。主であ...サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)

  • 互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)

     イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。(12~13) イエスは唯一世の初めから終わりまでを知る先生であり、すべての造り主である。主は、裏切るユダの足さえ洗って仕える者の愛の姿を示された。ただ、裏切る者を排除するなら、誰の足も洗うことが出来ないのだが・・。 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。(14~15) 互いの足を洗い合う必要は、世を生きて行く弟...互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)

  • イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)

     さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1) イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。 弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2) イエスに満ち足...イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)

  • 今日の歌(2024.11.20)

     鈍色のうすら寒きにドア閉じて出したばかりの炬燵に戻り アスパラ菜姫の如くに守り来て黄金の蕾今朝見つけたる 鈍色の空に群れるはヒヨドリか百舌は今年も早贄残す今日の歌(2024.11.20)

  • 闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)

     イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)

  • 光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)

     さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21) それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ま...光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)

  • 今日の歌(2024.11.12)

     来年の歯医者の予約印せしは真っ新な日記そは生きんとす 人知れぬひづちの垂り穂さはあれど雀群れたりテンも駆け行く (ひづち稲の刈り株から伸びた穂)今日の歌(2024.11.12)

  • しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)

     大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。(9) 群衆はイエスをキリストとして礼拝に来たのではなく、御わざに惹かれてやって来てラザロを見物するのである。御わざが大きければ大きいほど人はわざに心を奪われて、主を礼拝すること、みことばに従順することを蔑ろにするのは、主ご自身を求めない的はずれである。 今も神の御わざはみこころのままに成されるが、主はラザロの穏やかな日常を奪うような位置には置かれなかった。平凡な日々の中で無数に発生している癌を癒やし、トラブルをそっと執り成し、災いから守り導いて生かし、関係をも執り成して平和を備えていてくださる主。 それがあまりにもさりげない方法なので絶え間ない...しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)

  • ユダの言葉(ヨハネの福音書12章)

     さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。(1~2) よみがえりという大きな祝福を受けたラザロは、人々の中にごく普通のありふれた様子で混じっていた。キリストの証人の荷は軽く負いやすい。彼はイエスの友として今まで通りの平安に居た。 イエス・キリストを信じて罪の赦しをたまわった時、その喜びと感謝のゆえに「さあ、何をするべきか」と落ち着かなくなる。それまでは頂き物をして受けたままに喜んで居ると非難され、必ずお返しすることを求められて来たから、何かをしなければならないと思うのである。 「イエスさまの十字架のお苦しみを私はまった...ユダの言葉(ヨハネの福音書12章)

  • 今日の歌(2024.11.07)

     干し柿に触れて過ぎ行く風小僧 はやにえのトカゲの命受けて飛べ百舌は鳴きたり風強き日も今日の歌(2024.11.07)

  • カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)

     すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。(44~45) イエスは神のわざによってラザロをよみがえらせ、創造主なる神の愛を不信仰な者に見せてご自身を証された。 たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38) 今、イエスの御わざを直接見ることが出来ない者に聖霊が遣わされて、みことばを信じる信仰を助けていてくださる。イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見な...カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ムベさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ムベさん
ブログタイトル
石ころ
フォロー
石ころ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用